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日文研の話題

令和7(2025)年度 日文研学術奨励賞報告会を開催しました(受賞者 隋 泽宇 氏)(2025年7月23日)

2025.09.26

 7月23日、令和7(2025)年度 日文研学術奨励賞報告会を開催しました。

 本奨励賞は、次世代の日本研究者の育成を目的として、2023年に創設されました。受賞者は、日文研と学術交流協定を締結している海外の機関、又は、「国際日本研究」コンソーシアム海外会員機関(正会員)が推薦する博士後期課程の学生から選ばれるものです。(日文研学術奨励賞についてはこちらをご覧ください。)

 日文研は受賞者に対して、専任教員などからの研究支援や、日文研図書館・研究施設の利用など、90日を上限とする研究滞在の支援を行います。

 報告会では、6月から日文研に研究滞在していた受賞者隋泽宇氏より、滞在期間中における研究成果に関する報告がありました。また、隋氏の発表を受け、日文研専任教員や研究員から、質問やコメントなどが多く寄せられ、活発な議論が交わされました。

 また、今回の日文研での研究滞在を終えるにあたり、隋氏からは、以下のとおり研究報告をいただきました。

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「日本児童文学における旧植民地「満洲」の鉄道表象――文学空間における「あじあ号」の創出と変容」

 旧植民地「満洲」では、かつて「陸上の王者」と呼ばれた豪華特急列車「あじあ号」が走っていた。「あじあ号」は、国策会社「満鉄」によって運行され、1934年から1943年まで大連とハルビンの間を走っていた。満鉄独自の開発であり、その時速、デザイン、内部施設、サービスなど、すべて当時の世界最先端であった。満鉄は、その運行の初期から、国内外の記者や有名な作家などを乗車体験に招待し、「あじあ号」の宣伝に力を入れていた。そのため、「あじあ号」に関する記事や紀行文、歌謡、映画などが次々と発表された。そして、「あじあ号」は各種の児童向けの読み物にも登場し、子どもたちの中でも大人気となり、夢や憧れの対象となっていった。また、その子どもたちが成長するにつれて、「あじあ号」は戦後の児童文学にも姿を現し、その影響は、戦後まで及んだと言える。しかし、旧植民地「満洲」という背景を踏まえると、満鉄一番自慢の「あじあ号」は、先端技術と先進文明の象徴だけではなく、鉄道権益から始まった軍国日本による植民支配の象徴でもあり、植民支配の侵略性を示す指標の一つともなっていた。

 そのような「あじあ号」は、いかに子どもたちの憧れのイメージとして作りあげられたのか。また、終戦を経て、そのイメージはどのような影響を残し、どのように変容したか。この二つの問題を探求するため、本研究では、戦時下及び戦後の児童文学から、「満州」鉄道のシンボルである「あじあ号」が登場する作品を選び、研究対象として分析する。研究の便利上、その間の事象を「創出」と「変容」という二段階に分けて行う。具体的には、「あじあ号」を一つの文学的空間において、外部から描写された「あじあ号」、「あじあ号」の内部(車室)、「あじあ号」の外部への眼指し(沿線の風景)という三つの視点から、それぞれのテキスト分析を通じて、その創出と変容について分析を行っていく。第一段階の研究成果はすでに学術誌で発表されたため、今回の日文研滞在中は、第一段階の研究をさらに深化させるとともに、第二段階の研究に向けて研究資料の収集と初期的な分析を行った。

 現段階の研究から明らかになったのは、まず、戦時下の児童文学作品は、「あじあ号」の外観描写について、しばしば戦争のイメージと関連させることで、その格好よさを強調する傾向があるが、戦後の作品では、よく「あじあ号」の「巨大さ」を強調し、「怪物」という恐怖を引き起こすイメージと結びつけていた。そして、この巨大物として表象される「あじあ号」は、日本が「満洲」における巨大な支配体制と植民地への搾取によってもたらされた莫大な利益を想起させる装置として機能していたと考えられる。一方、車内空間(車室)においては、「あじあ号」の豪華な車室装飾は、実は植民地支配の上位者たちの「特権空間」を形成していた。また、戦時下の作品では、その閉鎖的な「特権空間」において、子どもたちの「満州体験」が観念的に「植民地支配者の特権体験」とすり替えられていた。いわば、乗客同士の「自己」と「他者」との関係性を通じて、子どもに自分が「満州」の支配側であるという認識を植え付け、「特権者」への自己認識を再構成させた。これに対し、戦後の作品では、豪華な車室内には、なぜか恐怖の雰囲気が漂う描写がよく見られた。これは、「あじあ号」の華麗な表象の裏に潜む一種の闇が暗示されているように見受けられた。そして、車窓風景については、戦時下の作品は肥沃な土地や作物、農夫、家畜といった資源・労働力を重点的に描いたのに対し、戦後の作品は、草原や空、太陽など、子どもたちの目に映る純粋な自然風景への描写に重きが置かれるようになっていた。この他、戦後の児童文学における「あじあ号」関連の作品には、もう一つ戦前と相違する特徴があった。それは、「あじあ号」のイメージがしばしば「死」と結びつけられることである。これらの作品は、直接的あるいは間接的に「あじあ号」を「死」のイメージと結びつけることで、「満州国」という偽りの国の滅亡と軍国日本の終焉に対する深い象徴性を示しているのではないかと考えている。

 今回、日文研における三か月間の滞在中、劉建輝先生をはじめ、多くの先生方より貴重なご指導、ご助言を賜り、今後の研究の深化と発展において大変重要な参考となった。また、この期間中に、多くの一次資料を収集することができ、それらは本研究の充実に資するだけでなく、今後の研究発展に非常に重要な価値を持つものだろうと期待している。

(文:隋 泽宇 日文研外来研究員(学術奨励賞))

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