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[木曜セミナー・リポート]第279回日文研木曜セミナー「桐野夏生の文学作品をめぐる「越境」を考える」(2024年5月23日)

2024.07.02

 2024年5月23日(木)、「桐野夏生の文学作品をめぐる「越境」を考える」と題し、第279回日文研木曜セミナーを開催しました。発表者は駒居幸特任助教/人文知コミュニケーター(日文研)、コメンテーターは片岡真伊准教授(日文研)、田村美由紀氏(神戸女学院大学専任講師)でした。

 本セミナーで駒居特任助教は、日本を代表する現代作家の一人である桐野夏生について、代表作『OUT』(1997)に着目し、『OUT』に関する国内外の研究動向を踏まえた検討を通じて、言語や分野を越えて注目を集める桐野作品の越境的性質を考察しました。

 『OUT』は、弁当工場でパートとして働く主婦が、同じく主婦の同僚が犯した殺人の隠蔽に手を貸したことをきっかけに、アンダー・グラウンドの住人と結びつきを持ち、死体解体業に走るという小説です。2003年に英訳され、人気を博しました。

 英語圏に限っても『OUT』に関する研究は盛んで、既に10人以上の研究者が日本研究や犯罪小説研究の分野で論文を執筆しています。これらの研究や日本における研究動向をまとめるにあたってキーワードとなるのが、主人公たちが工場で作るコンビニ弁当です。

 弁当や工場をキーワードに先行研究の論点を整理すれば、家庭で作られる弁当が手作りや「家庭の愛」、また無報酬労働の象徴であるのに対して、工場で作られる弁当は大量生産・大量廃棄、また非正規・低賃金労働を象徴し、個食や家庭内不和とも結びつきます。また主人公たちは、パート労働をしていたとしても、家族をケアする家庭内での責任からも逃れられず、故に壊れ、死体解体ビジネスに走ります。主人公の犯罪は、女性の仕事としてジェンダー化され当たり前のものとされていたものを可視化したとも評されます。また主人公が、料理や掃除などの家事のスキルを使って、風呂場で死体を解体し、家事やパート労働では決して得られない額の報酬を得ることから、女性の自由や自律性の獲得の観点からも議論が行われています。この他にも、工場が位置する郊外を描いた郊外文学として、安価な「雇用の調整弁」であるパート主婦のような労働者を描いたことからプレカリアート文学の先駆けとして、そしてポストフォーディズムや、ポストバブル、グローバル資本主義、新自由主義の観点からも『OUT』は議論されてきました。

 そのうえで駒居特任助教は、『OUT』そのものがコンビニ弁当とアイロニカルに重なると指摘します。『OUT』は、ミステリー作家としてデビューした桐野が、このジャンルからの越境を試みた作品ですが、英訳された際には、日本で「犯罪小説」ジャンルの賞を獲得した作家の小説として売り出されることになりました。グローバル市場においては、「犯罪小説」という、既知の人気ジャンルの作品として売り出されることが重要となるためです。極東から来た売れる商品としてグローバル市場に『OUT』が輸出されたことは、労働が周縁化された人々にアウトソーシングされ、弁当が大量生産されることと重なります。しかし、このことは、『OUT』が持つ批評性や越境の試みが「売れる商品」として解体されていったことを意味するのでしょうか。グローバル市場において『OUT』がコンビニ弁当と重なる一方で、英語圏においては、むしろ、「犯罪小説」として受容された本作が持つ、「犯罪小説」の境界を問う性質こそが議論を活発にした側面があります。

 以上の議論から駒居特任助教は、『OUT』に関する分野や言語を越えた流通や議論からは、犯罪小説という枠組みを介してグローバル市場に流通しながらも、その枠組み自体の解体を論じることを可能にする、その高い「批評性」と「越境性」が浮かび上がると結論付けました。

 コメンテーターの片岡准教授は、日本の小説の英訳・編集・出版現場の研究を行ってきた立場からコメントしました。片岡准教授は、『OUT』が英語圏で様々な文脈で再販されてきたことから、『OUT』にはそれまでに英訳されてきた日本文学にはなかった、ジャンルの横断性があると指摘しました。一方でジャンルを横断することは、『OUT』がジャンルに縛られ、グローバル市場における市場原理を再生産することでもあり、アイロニカルな状況が立ち現れてくるとも指摘しました。また、翻訳における改変について、グローバル資本主義との関連からコメントしました。

 コメンテーターの田村氏は、近現代文学研究の立場からコメントしました。『OUT』における「越境」には、小説のモチーフとしての越境と、翻訳を介した小説の受容としての越境という多層性があり、この多層性を明確に示した発表であったと評しました。そして、『OUT』の翻訳と「弁当」のアレゴリーについて、「弁当」というモチーフの複雑さや階層性などの観点から、またグローバル資本主義時代における桐野作品の「越境」の位置づけなどの観点からコメントしました。

 その後の質疑応答でも、『OUT』を研究する学術分野の越境性や、翻訳による改変が作者の意図を超えてミスリードとなる危険性はないかといった質問もあり、活発な議論が行われました。


(文・春藤献一 プロジェクト研究員(第279回日文研木曜セミナー司会))

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