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[木曜セミナー・リポート]第275回日文研木曜セミナー「大村西崖の美術史研究を支えた中国人コレクター、廉泉」(2023年5月25日)

2023.06.06

 「大村西崖の美術史研究を支えた中国人コレクター、廉泉」と題する本年度第1回目の木曜セミナーは、発表者である日文研の戦暁梅教授が日中の美術交流史を中心とした研究成果を報告し、続いて、日文研の伊東貴之教授からコメントを得て進行しました。

 近代日本を代表する美術史家・美術評論家で、『支那絵画小史』『支那美術史彫塑編』『文人画の復興』『東洋美術史』などの著作で知られる大村西崖(1868−1927)は、その著作の一部が中国語に訳され、中華民国時代の中国でも紹介されています。その著作出版のきっかけを作ったのが、清末民国期の書画コレクター、詩人であり、上海で出版社「文明書局」の経営に携わった廉泉(1868−1931)です。戦教授の報告は、東京藝術大学美術学部近現代美術史・大学史研究センター所蔵の「大村西崖宛 廉泉書簡」と、廉泉が初めて来日し、大村と出会った当時に書かれた日記『南湖東遊日記』を使用し、実証的に大村と廉泉の交流を追うというものでした。

 大正3年(1914年)に廉泉は、東京大正博覧会に参加するために、「小萬柳堂書画コレクション」の名で知られるそのコレクションの一部を携えて初めて来日し、会場となった日華貿易参考館で大村と出会いました。廉泉のコレクションに感銘を受けた大村は、廉泉と親交を結ぶようになりました。廉泉もまた、大村の著作である『支那絵画小史』の論説が非常に洗練されていると高く評価し、その翻訳刊行を駐日全権公使の陸宗輿に働きかけ、1916年前後に当時の駐日中国公使館員張一鈞による中国語訳が上海で出版されることになりました。また、その後大村が中国で美術品の調査を行った際にも、廉泉は協力を行っています。さらに廉泉は、大村西崖の『文人画の復興』の中国語訳の出版にもかかわり、訳者の陳師曽の一文「文人画之価値」と合わせて『中国文人画之研究』として出版する際の後押しをしました。こうした大村と廉泉の交流から、戦教授は、初期中国絵画史の日本人の著作からの翻訳紹介は、日中双方のより複雑な交流を背景にしている一面があるとの見解を示しました。

 この戦教授の報告を受けて、伊東教授は、日本の明治時代は欧化主義の時代と言われ、中国の影響は取り払われたようにも見える時代だが、実際にはそうではないということを強調しました。例えば、漢文のリテラシーが最も高まったのは明治時代になってからであり、新聞には漢詩の投稿欄があり、その選評で生計を立てることができた職業的な漢詩人もいたほどであったとのことです。また、森鷗外や夏目漱石、永井荷風ら明治時代の小説家は大抵漢詩を書くことができたし、陽明学も明治以降に評価されるようになり、支那通と呼ばれる中国文化に精通した人たちも数多く存在していました。近代日本と中国との文化的交流は、少なくとも明治から大正にかけては非常に活発に行われており、戦教授の報告は、その一端を示すものであるとコメントしました。

 本セミナーは原則オンラインで開催されましたが、会場には日文研関係者が30名近く詰めかけ、大変熱気に満ちていました。またオンラインでの参加者は日本からだけではなく、中国からも非常に多くの参加申し込みがありました。近代日中の文化交流の歴史にお互いが関心を寄せ合い、共にオンラインでの講演会に参加する、ここに新しい時代の日中文化交流の形が示されているのかもしれません。

(文・西田彰一 プロジェクト研究員(第275回日文研木曜セミナー司会))

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