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機関拠点型基幹研究プロジェクト「「国際日本研究」コンソーシアムのグローバルな新展開−「国際日本研究」の先導と開拓−」キックオフシンポジウム「日本文明の再構築―岩倉使節団150周年に寄せて―」を開催しました(2023年2月17日-19日)

2023.03.24

 国際日本文化研究センターの第4期機関拠点型基幹研究プロジェクト「「国際日本研究」コンソーシアムのグローバルな新展開−「国際日本研究」の先導と開拓−」の幕開けとなるキックオフシンポジウム「日本文明の再構築―岩倉使節団150周年に寄せて―」が、「「国際日本研究」コンソーシアム」共催、「米欧亜回覧の会」協力のもとに、2月17日(金)~2月19日(日)にかけて開催されました。


■ 2月17日(金)

 初日は井上章一所長(日文研)の挨拶に続いて「岩倉使節団研究の今」と銘打ち、いま岩倉使節団から何を学ぶことができるのかについての報告と討論が交わされました。基調講演として、ピーター・コーニツキー氏(ケンブリッジ大学名誉教授)の「丁抹国撫蘭仙―明治初期の日本と小国デンマーク―」のご講演がありました。

 覇権国家ではなかったデンマークと日本の明治初期における関わりは、現代においてあまり注目されていません。しかし、同講演では、岩倉使節団によって深まった同国との関係を取り上げ、とくにデンマークの大手通信会社である大北電信会社の電信士として来日し夭折したウィリアム・ブランセン(撫蘭仙)に注目します。彼はアジアに対する関心から日本を訪れ、日本人の研究者と協力しながら、『和洋対暦表』を作成したり、古銭について調査したりする一方で、自分の英語の著述には日本人の貢献を載せないという帝国主義的な態度をとるオリエンタリストの一面もあったことを指摘しました。

 午後には、瀧井一博教授(日文研)から、「ハンチントン『文明の衝突』再読-岩倉使節団150年と日本文明の行方を考えるよすがに―」と題して、本シンポジウムの企画の趣旨と展望を示すための発題となる基調報告がありました。国際政治学の泰斗サミュエル・ハンチントンは、その主著『文明の衝突』において、文明圏同士の対立が深まっていけば、単一的、均一的な日本文明は、このダイナミズムに取り残され、自閉的な、孤立したものとなっていくという悲観的な診断を下しています。瀧井教授は、これに対抗するためには、日本を自明で均質的な存在と捉える考え方を脱却し、多様で多元的な日本の姿を再発見すべきだと主張し、そのためには、岩倉使節団の柔軟な西洋文明の受容とそれを活かした発信に学ぶことが重要であると述べました。さらに、150年前のこの使節団の姿勢には、学術機関として「「国際日本研究」コンソーシアムのグローバルな新展開」を掲げて第4期中期目標期間に船出した日文研にとって学ぶべきものが多々あろうと主張することで、本シンポジウムの企図を明確に示しました。

 本シンポジウムの特色の一つは、民間において四半世紀以上にわたり岩倉使節団の研究や紹介をしてきた「米欧亜回覧の会」の協力を得られたということです。同会代表の泉三郎氏(米欧亜回覧の会理事長)は、昭和の頃より『米欧回覧実記』を手掛かりにして使節団の行路を実際に辿るというフィールドワークを重ねてこられた方です。今回、同会からは泉氏に加えて小野博正氏(米欧亜回覧の会理事)のお二人の報告、そして次のセッションでの司会(塚本弘氏(米欧亜回覧の会副理事長))やコメンテーター(芳野健二氏(米欧亜回覧の会会員))のためにさらにお二人のご助力を得ました。小野氏からは、「岩倉使節団の意味を問う――日本文明の再構築――岩倉使節団150周年に寄せて」と題した報告がありました。久米邦武の『米欧回覧実記』の講読や、資料集及び現代語訳の刊行、歴史文化ツアーの実施、明治神宮との共催シンポや25周年シンポの開催など、四半世紀以上に及ぶ、米欧亜回覧の会の非常に充実した沿革の紹介、さらには岩倉使節団の精神を未来に生かすための利他の精神の強調がなされました。続いて泉氏のご報告「モアモア文明から適適文明へ」がありました。泉氏は、岩倉使節団に随行し、『米欧回覧実記』を執筆した久米邦武が、自然超克的な西洋文明は、いずれ限度に達するのではないかと述べた点に注目されました。日本はこの150年、西洋に倣い、追いつき追い越せの「モアモア文明」で成功したが、その結果、大切な心の豊かさを見失ってしまったのではないだろうか、久米の予言通りではないかと指摘しました。そのうえで、今こそ、徳川日本の足るを知る生き方、「適適文明」に回帰するべきではないかとの意見を提起されました。

 最後にパネルセッション「岩倉使節団再考」にて3つの報告がありました。1番目に、柏原宏紀氏(関西大学教授)の「工部省と岩倉使節団」の報告があり、工部官僚の技術習得という観点から、岩倉使節団の意義を検討しました。2番目の牛村圭教授(日文研)の「「文明の落差」克服ののちに――岩倉使節団以後を顧みる――」と題する報告では、日本は明治初年以来西洋文明を目指すべき「文明」として掲げてきたが、やがてその文明は「物質文明」さらには「機械」と同一視されるに至り、文明が内包していた精神の側面は「文化」の語によって表象されるようになった。ところが、敗戦直後の極東国際軍事裁判(東京裁判)にて他ならぬその「文明」の名のもとに裁かれた歴史に触れ、法廷で示された「文明」への竹山道雄とラダビノード・パルの解釈、さらにその二つに言及した竹内好の見解を紹介しました。3番目に古田島洋介氏(明星大学教授)が「記録の文体―選び取られた漢文訓読体―」と題する報告を行い、江戸時代以前の日本には多様な文体の可能性があり、その中から久米邦武は、『米欧回覧実記』を執筆するにあたって、漢文訓読体を選択した。しかし、現代では漢文教育の軽視の結果、漢字仮名交じり文だけになり、江戸以前の多様な文体を喪失してしまったと指摘しました。

 最後の総合討論では、牛村教授が、現在欧米では批判されている「日本文明」という言葉を、今あえてシンポジウムのテーマとして用いる理由は何かについて、議論を提起されました。また、五十嵐惠邦外国人研究員(日文研/バンダービルト大学教授)も、「日本文明」という言葉は、日本の存在を自己完結的な「もともと」のものとして自明視する発想にもとづいており、問題を含む概念とみなされている。「日本文明」の再構築を唱えるまえに、「脱構築」は十分済んだのか、交流のなかで「たまたま」近代化に成功したのではないか、そうした視点を踏まえることが、より重要ではないかと指摘されました。これに対して瀧井教授は、ここでいう「日本文明」とは、日本の独自性をいたずらに誇ることを意図したものではなく、世界の中において日本に何が求められているのか、様々な社会の現場で活躍してきた方々とのかかわりのなかで、日本という存在をカッコにいれて、脱皮させていかなければならないという問題意識に基づいている。「日本文明」の再構築を掲げたのは、そのためであると答えました。

 初日とは思えないほど活発な議論が百出し、翌日以降につながることを予見させるシンポジウムの船出となりました。

(文・西田彰一 プロジェクト研究員)


■ 2月18日(土)

 日目は最初に、「異文化接触と文化創造―古今東西からの岩倉使節団―」というテーマのもと3名の方が発表し、異文化が交錯する世界の中で「文化」とは何かについて意見を述べました。越智郁乃氏(東北大学准教授)は、「琉球/沖縄における死の文化の創造」と題して、沖縄の墓が、琉球王国時代から明治を経て米国占領下、戦後にかけて、伝統的な墓から、様式や場所、材料など多様な点で変遷したことを紹介しました。そして文化の「衰退・消滅」だけでなく、日々の「生成」にも着目する必要があると指摘しました。榎本渉准教授(日文研)は、「明治留学生の史的先例―遣唐使と留学僧―」という題名で報告し、留学生の先例として、遣唐使よりも、宋や明などへ渡った留学僧のほうが大規模だったと強調したうえで、遣唐使が重視され留学僧が見落とされてきたのは、幕末以来の国家を中心とする歴史認識に原因があると述べました。太田昭子氏(慶應義塾大学名誉教授)は、「幕末維新期の異文化接触と岩倉使節団-イギリス訪問と教育視察を中心に―」というタイトルのもと、岩倉使節団の本隊とは別日程で動いていた別働隊(新島襄・田中不二麿たち)のイギリス訪問と教育関連の視察を取り上げて、異文化接触について話しました。彼らの「視察」は受動的で一方向の文化の受容ではなく、日本側、イギリス側それぞれが意図をもって情報取集や宣伝をしていた、双方の思惑と交渉を伴う異文化接触でした。

 午後からは、若手研究者によるセッション「国際日本研究の課題と方法」が行われ、国際日本研究を促進するために必要なものは何かについて提案が行われました。フェレイロ・ポッセ、ダマソ氏(広島大学助教)は、「日本文学を題材とするアクティブ・ラーニング:インターネットを活用した国際的な学術コミュニケーション」と題して、留学生を含め国内外の学生に向けた日本文学の授業の新しい取り組みを紹介しました。受動的な講義形式の授業ではなく、ICTを活用し、学生が協力して問題発見・解決を図る授業方法を説明し、多様な文化背景を持つ学生に対する授業の工夫の必要性を指摘しました。次に、ニコラス・ランブレクト氏(大阪大学助教)は、「使節団の多角化:現代の国際日本研究の新たな流れ」というタイトルのもと、戦後日本への引揚者による「引揚げ文学」を取り上げ、その研究には、「日本文学」という学問分野の殻に閉じこもるのではなく、韓国・朝鮮人の引揚げ者、日本と世界の戦後の海外移住、旧植民地間の移住などといった国際的な学術的文脈を意識する必要があると述べました。したがって「国際日本研究」発展のためには、それ自体を目的化するのではなく、グローバルな理論的枠組み形成への寄与を目指すべきであり、さらに英語だけでなく、複数言語の習得が大事だと訴えました。坂知尋プロジェクト研究員(日文研)は、「奪衣婆信仰の展開:境界と衣服」と題して、ご自身の研究と英語著作出版の経験を通して得た、国際研究によって得られる利点を紹介しました。例えば、英語によって日本語話者以外の人々と一緒に仕事ができることや、日本語・英語を往復することで、より深く資料を理解し、文章表現を学ぶことができると述べました。

 日目最後の基調講演では、田中明彦氏(国際協力機構(JICA)理事長)が、「新たな国際秩序と日本の役割」というテーマのもとに、現代国際政治の現状と課題、日本の役割について、JICAでの実務経験を交えながら明快に説明しました。現代は、気候変動、それによる自然災害や食糧危機、ウクライナ戦争や米中対立などの「世界複合危機」の状況にあると規定し、過去一世紀ほどの世界GDPの成長率の変遷や、民主主義と経済成長の関係などを参照しながら、危機の背景、米国を中心とする民主的な国際的秩序の特徴を明らかにしました。そして、国際平和の構築と維持のために、日本の近年の貢献を紹介した上で、政治経済的内容だけでなく、さらに文化を通して「共感」の基礎を人々の間に作っていくことも日本の役割の一つだと指摘しました。

 このように日目の諸発表を通して、文化とは何か、国際日本研究の方法、国際社会における日本の役割について、有意義で豊かな知見が共有・発見されました。また、コメンテーターや現地参加者による質疑を通して活発な議論も行われ、時折、笑いも起きる場面もあり、真剣さとともに和やかさのある一日でした。

(文・藤本憲正 プロジェクト研究員)


■ 2月19日(日)

 シンポジウム最終日となる三日目は、「日本文明の再構築―文明多極化時代の国際日本研究/国際日本学―」というテーマのもと基調講演とパネル座談会が行われました。

 基調講演「グローバル関係学から見た「国際日本学」の役割」では、酒井啓子氏(千葉大学教授)から、「グローバル関係学」という新しい研究分野、それを創出するに至った背景にある国際関係論や地域研究の問題点、国際日本研究の可能性などについてお話しいただきました。

 グローバル関係学は、既存の学問分野では十分に解明できない現代のグローバルな危機を分析するために打ち出されました。例えば、国際関係論の問題点として、欧米先進国中心で、非欧米研究者はインフォーマントとして扱われる傾向にあるということが挙げられます。また、「国家」や「国際NGO」など主体が明確なものごとを対象とするため、地域社会の複雑な関係が削ぎ落され固定化・単純化されてしまいます。さらに、感情や主観的な記憶といった統計によって把握できないものはとりこぼされています。そのため、欧米先進国の視点で構築される国際関係論は、それ以外の地域を理解することが難しく、固定観念とも言えるような過度に単純化された概念を作り出してしまうこともあります。同じようなことは地域研究にも言えます。地域研究は敵国研究から始まり、植民地支配を効果的に行うツールとして発展したという背景を持っているため、地域の特性を固定的に論じる一面があります。ここにとどまる限りは、その実態を深く理解することはできません。

 これに対し、グローバル関係学では、主体よりも関係性に焦点があてられます。非欧米世界を含めた国家に加え地域社会や家といった様々なレベルの関係性の交錯に注目することにより、これまで不可視であった事象や主体を浮き彫りにすることが目指されています。このようなグローバル関係学の姿勢は、本シンポジウムで掲げられた「接合域と多面性」というキーワードや、日文研は「葛藤と交流を経て文化が形成されるダイナミズムを考察する」という宣言に共通するところがあると述べられました。

 酒井氏によれば、日本を研究し国際発信する日本研究には新しい可能性があるといいます。敗戦経験を持つ日本は、強者の世界戦略の手段としてではない地域研究を提示できるのではないか、他国支配のために対象を単純化する地域研究とは別の形の地域研究の模索となるのではないか、支配と被支配の両方を経験した国として何らかの普遍的視点を非欧米諸国に打ち出していけるのではないか、などの可能性が挙げられました。

 コメンテーターの松田利彦副所長(日文研)からは、酒井氏の思想的遍歴、そして国際日本研究という枠組みの持続可能性という二つの質問が投げかけられました。酒井氏は、前者の質問に対し、物事を固定化・単純化した議論を避けるようになっていったと応答し、後者については日本研究を外国に向けて積極的に発信してほしいとの期待を述べられました。

 次に、「日文研が語ってきた文明/語っていくべき文明」と題し、4名の日文研所属の研究者がパネル座談会を行いました。

 まず、井上章一所長は、日文研でとりわけ文明に焦点が当たった出来事についてお話になりました。例えば、ある日文研のプロジェクトにおいて、日本と黄河文明との距離感、そして長江文明との繋がりという新しい見方が示されたことがあります。また、国立民族学博物館元館長の故梅棹忠夫氏が、文明と文化を分けて考え、日本の文明と文化はそれぞれ別の系統の影響を受けているとしたことについても触れられました。

 タイモン・スクリーチ教授(日文研)は、外国人による日本研究はおのずから国際的となるとしました。そして、外国の日本研究者の多くは、日本語と日本の手法を学び、日本で調査を行うことを指摘し、西洋の理論や視点との組み合わせが国際日本研究の一つの定義となるのではないかと述べました。また、外国人が考える国際日本研究は、日本人が考えるものとは異なるのではないかと述べ、これらの仲介も考えていかなければならないとしました。国際日本研究という言葉自体が新しいため、定義をすることが難しく、外部と話し合いを進める中で理解が進むのではないかとの見解が示されました。

 安井眞奈美教授(日文研)は、これからの日本研究は事例を提供するだけでなく、グローバルな視点で日本から発信していく理論の構築が必要であると述べました。そして、自身そうした観点を意識しつつ、出産や子育てといった時代や地域を超えた普遍的なテーマに取り組んでいると語られました。また、安井教授も携わった日文研の妖怪研究プロジェクトの成果として公開されたデータベースが他文化圏の人々に使われ、自分の属する文化にもある超自然的な存在や事象に気付くなど新たな国際的視点の芽生えに貢献する可能性についても言及されました。

 戦暁梅教授(日文研)は、90年代に中国で出版された日中比較研究の学術書籍の編者が全員日文研関係者であったことを紹介し、日文研が日本研究のプラットフォームとして当初から機能していたことを指摘しました。また、以前と比べ日本についての情報を手に入れやすい環境で育った中国の若い世代の興味関心が多様化・専門化していることに触れ、この変化に目を配る必要があると述べました。また、他分野の研究においても、日本とのかかわりという点から日本研究の果たす役割があると述べられました。

 会場も交えた意見交換では、中国で日本の方法論が普及していることや、中国における妖怪研究の人気の高まり、外国のことを知ったうえで行う日本研究、日本文明についての考えなどについて話し合われました。

 最後に総括として、フレデリック・クレインス副所長(日文研)が3日間にわたる濃密な議論を締めくくりました。

(文・坂知尋 プロジェクト研究員)

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