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日文研の話題

[人コミュ通信vol.12]戦後75年、東京裁判をどう考えるか――牛村教授インタビュー

2020.08.07

人文知コミュニケーターの光平〔 光)〕が、日文研の活動や所蔵資料をご紹介する人コミュ通信。12回目となる今回は、東京裁判の研究者として知られる牛村圭教授〔 牛)〕に終戦から75年が経ったいま、改めて東京裁判をどのように考えたらよいのか、牛村教授が東京裁判研究に着手するまでの経緯や、研究との向き合い方も併せ、たっぷりとお話をうかがってきました。


光)

牛村先生は東京裁判の研究者として知られていますが、まず先生が主に寄せていらっしゃる研究のご関心からお聞かせいただけますでしょうか。

牛)

近現代日本の文明論、具体的にはディスクール(discours[仏]言説)としての文明の変遷を追うことです。これは、研究者人生を重ねるうちにまとまってきたテーマ・構想で、東京裁判研究はその一環です。日文研へ誘ってもらったのも東京裁判にかかわる本を何冊か書いているからだったと思っています。実は今年2020年は、東京裁判50周年なんですよ。

光)

えっ、50周年?開廷が1946年で閉廷したのが1948年のはずですけど…。

牛)

おっ、ちゃんと史実を押さえていらっしゃる!とってもうれしいです。50周年というのは、ぼくが関心をもってからちょうど50年ということで、個人的アニバーサリーです。戸惑わせてごめんなさい。日本の歴史が大好きな小学生だったので、3年生のころには三つの幕府の将軍、歴代天皇、こういう史実をすっかり暗記するくらいのめり込んでいました。どれほど日本史好きだったか分かってもらえますよね?でも基本はチャンバラだったので関心は幕末まででしたけど、5年生の秋、たまたま歴史図鑑で東京裁判という史実を知り日本の指導者が戦争に負けたがゆえに裁判にかけられ処刑さえされたと知り、大きな衝撃を受けたのです。

光)

なぜ大きな衝撃を受けたのですか?

牛)

いい質問です。関ヶ原の合戦後の敗軍の将石田三成や安国寺恵瓊たちの斬首を想起し、20世紀半ばに中世の再来を感じたからです。その後、ドイツではニュルンベルク裁判があったと知り、この二つの裁判を比較して紹介する発表を6年生の秋に、担任の先生に頼み込んでさせてもらいました。ませた子どもだったと思うでしょ?でも、歴史に関してだけですから。ちなみにそのころは、100mは16秒5でした。

光)

えっ、なぜ突然100m? (気を取り直して)えーっと…それで、その後、東京裁判への関心は続いたのでしょうか?

牛)

中学校では陸上競技部に入り、ほとんど慢性疲労になるくらい練習三昧の日々でしたから、東京裁判からは距離が生まれました。でも、大きくなったらいつか本格的に調べてみたいという気持ちはいつも持っていたので、中学でも高校でも学校図書館で東京裁判関係のことは調べましたが、単行図書などは置いてはなく事典の類の項目を読む程度でしたね。入学した東京大学は3年進学時に学科を決めればいいので、国史に進んで東京裁判か西洋史に進んでニュルンベルク裁判か、と迷いました。でも結局は学期末試験勉強をしているときにフランス語の明晰さの虜になり、仏文科へ進んでしまいました。『なんとなくクリスタル』ならぬ「なんとなく仏文科」です。けれどもふり返ってみてこの経験がとってもよかったと思います。様々な文学テクストを専門家の指導のもとに読むという体験を通して、史料をも文学テクストとして読む、というぼくの基本姿勢の基点となったからです。

光)

あれ?でも、大学院ではフランス文学ではありませんよね?

牛)

フランス語は得意ではないし、文学もそして歴史も両方学びたいと思い、比較文学比較文化の大学院へ進みました。授業ではラフカディオ・ハーン、ボードレール、森鷗外や『今昔物語』などのテクストを読み、一方修士論文では東京裁判を扱うことに決めました。でも、自分は国際法や現代史の専攻ではない、ほかに何か視角がないものかと考えたとき、東京裁判が「文明の裁き」と形容されたことに着目し、異文化接触の場としての国際軍事裁判を読みなおす、というアプローチで向きあうことにしたのです。

光)

とうとう「文明」の語が登場しました!

牛)

ずいぶんお待たせしましたね。でもそのころはまだ、ディスクールとしての文明の変遷にまで考えは及んでいません。着想を得たのは、昭和の終わりから平成初めのシカゴ大大学院への留学時です。日本で日本史に向かうとき、現代思想や文学の理論を応用するというアプローチは、当時ほとんどありませんでしたが、アメリカへ行けば日本史は国史ではなくJapanese history、つまり各国史のひとつとなり、そこに思想史の理論を適応するのは自然なことでした。東京裁判だけでなく日本の近現代史の諸相にフーコーやサイードがいうディスクールを援用して文明を検討してみたいと考えたのです。

光)

その後の展開についてもお聞かせください。

牛)

対日戦犯裁判読解試論、というサブタイトルを付けて博士論文(「『文明の裁き』をこえて」)を仕上げたのは、40を過ぎてからのことです。生来仕事が遅いうえに、法廷速記録を読んでいると文学テクストを思わせる箇所に出会ってついつい鑑賞し感動さえしてしまう、そういうことを繰り返していたからでしょうね。東京裁判の英文速記録には英訳聖書のマタイ伝の修辞を思わせるような見事な一節もあるのですよ。文学テクストという観点からお話しするならば、『世紀の遺書』という戦争犯罪人とされ刑死あるいは獄死した日本人の遺書を編んだアンソロジーがあります。『世紀の遺書』を読みなおすという作業にもその後取り組みました。

光)

お話をうかがっていると歴史学徒というより文学徒という印象を強く持ちます。やはり学部時代の感化は大きいのですね。ところで、最近研究のテーマとされている陸上競技は、ご自身の研究者としての歩みの中でどのように位置づければいいのでしょうか?中学時代に陸上部だったとはうかがいましたが、東京裁判の研究者がなぜ陸上競技?と普通は思うのではないでしょうか…。

牛)

2月の木曜セミナーの報告ではお世話になりました。 聴いてくださったからお分かりのように、明治日本への陸上競技の導入もまたディスクールとしての文明の一事象として検討できるんです。不平等条約を改正したから一等国の仲間入りを果たしたと思った明治日本はナイーブでした。宗教が違う、人種が違う、として西洋列強には日本を突き放す術(すべ)はいくらもあったのです。でもルールがひとつしかないスポーツの場では、こういう「差」は生じ得ない。スポーツの場の頂点に位置していたのが近代オリンピック、そのオリンピック初参加への道程を辿ることで、当時のディスクールとしての文明が分かってくると考えました。

光)

ご自身のアスリートとしての関わりはあるのでしょうか?

牛)

懲りもせず大学時代も陸上部の部員でした。当時健在だった19世紀生まれの大先輩はことあるごとに「君たちの先輩はオリンピックに出たのだ、それを忘れるな」とぼくたちを叱咤されました。日本が初めて参加した第5回オリンピックである1912年のストックホルム大会に出た三島彌彦さんは、陸上部の大先輩です。今日自分が健康であるのは陸上競技に鍛えてもらったおかげという思いも強いので、大先輩への敬意とともに、陸上競技へのお礼の気持ちをも込めて一書をまとめているところです。19世紀に英米で刊行された陸上競技の指導書を、文学テクストとして精読しています。

光)

なるほど、法廷速記録も陸上競技の指導書も文学テクストになり得るんですね!ところで、8月には終戦記念日もあり、さきの大戦を想起させる季節です。東京裁判の研究者として少々お話しいただけますか?

牛)

歴史を語るときは、基本語の定義を押さえることが肝要です。たとえば「A級戦犯」。「私は、日本を戦争に導いた最高の責任を持った指導者たちの意味で「A級戦犯」の語を使っている」と発言した思想史家がいましたが、これはよろしくない。基本的な語彙を恣意的に定義しては実りある議論にはつながりません。「戦後開廷された東京裁判に訴追された戦前戦中の日本の国家指導者や高位の軍人のこと」というのが「A級戦犯」の正しい理解です。基本語として、もう一例挙げましょう。東京裁判のコンテクストで頻繁に出てくる「戦争責任」という語です。たとえば、「昭和天皇には軍部同様に戦争責任がある」と主張する人と「昭和天皇は本土決戦を回避させ無血終戦に持ち込むことで戦争責任を全うされた」と言う論者との間の議論は成り立たないのですけど、なぜだと思いますか?

光)

「戦争責任」の語の解釈が違うとか…。

牛)

その通り!「戦争責任」の語に含まれる「責任」の語が内包する二つの別の意味にそれぞれが依拠しているからなんです。「責任」の語には、「(1)人が引き受けてなすべき任務(2)政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)」の2種類があり、「戦争責任」を追及する側は、後者の「責任」を、「戦争責任を全うした」と主張する人たちは、前者の「責任」のことを念頭においているのです。基準が異なれば、議論は水掛け論になりがちです。

光)

なるほど!東京裁判を知ろうとすれば、「責任」という日本語の多義性をも学べるということなのですね。では、まとめにもう一言おねがいします。

牛)

「東京裁判は「勝者の裁き」だったゆえに裁判と認められない」という主張もよく見かけますね。戦勝国のみが判事席に座り敗戦国日本はもとより中立国も除外されたという史実を踏まえると、「勝者の裁き」は紛れもない事実です。でも、だから認められない、というのではなく、まず史実をしっかり把握することに向かってほしい。「勝者の裁き」以外にどういう選択肢があったのか、というふうに関心を展開させていってほしいのです。歴史、とりわけ現代史に向きあうさいは、倫理で裁断するのではなく、論理で考えることから始めてもらいたい、こう願っています。

☆牛村教授が登壇された木曜セミナー「文明としての Athletics: 『文明と身体』の一事例」のレポート(2月20日開催)」はこちらからご覧いただけます。

https://www.nichibun.ac.jp/ja/topics/news/2020/04/01/s002/

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