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日文研の話題

国際研究集会「帝国のはざまを生きる-交錯する国境、人の移動、アイデンティティ」を開催しました(2020年11月13~15日)

2020.11.24

 11月13~15日の3日間、蘭信三(上智大学教授)・松田利彦(日文研教授)の共同研究班による国際研究集会「帝国のはざまを生きる-交錯する国境、人の移動、アイデンティティ」が開催された。この研究集会の目的は、「帝国のはざま」―植民地帝国間の敵対的共犯関係の「はざま」―で生きてきたサバルタン・ディアスポラに着目し、そうした人々がポストコロニアルの時代をどのように生きてきたかを考えることにある。101名にのぼる多くの研究者が日文研会場とZoomで参加し、本研究集会のテーマに対する関心の高さが感じられた。

 陳來幸氏による基調講演「帝国崩壊後の在日華僑と在日台湾人」は、在日華僑の近現代史、とくに戦後日本社会における台湾人の政治運動、言論活動を概観したあと、陳氏自身のファミリーヒストリーを、台北から神戸にわたった貿易商だった祖父の代に遡って語られた。なお、作家の陳舜臣は陳氏の伯父に当たり、その華僑としての歩みにも触れられた。

 第Ⅰ部会「移動の経験は世代や境界をいかに『越える』のか」では、中国帰国者・在日台僑・在日朝鮮人の日本帝国をめぐる移動の記憶とその語りを扱った。山崎哲「中国帰国者アイデンティティは世代を越えるか」は、中国帰国者三世へのインタビュー調査を通して、彼らが、祖父・祖母と「残留」の記憶を共有する場をもたないものの、中国帰国者という自己認識をまったくもたないというよりは、自己を語る言葉が欠如しているというべきではないか、との考察を示した。岡野翔太(葉翔太)「民主化後、日本育ちの二世が語る『台湾』」は、1980年代以降台湾から来日したニューカマーを親にもつ二世がいかに「台湾」を理解・解釈しているのかを検討した。インタビュー対象は台湾への里帰りや台湾の親族との往来の経験をもつ二世であるが、彼らは、台湾社会で民主化後に高まった「台湾人」意識を、親からの影響によって受け入れたと論ずる。竹田響「日本と朝鮮半島に跨る親族の繋がり―在日コリアンからみた『故郷』と『祖国』」は、韓国と北朝鮮に親族が離散している在日コリアンが3カ国にまたがる親族とどのようにつながりを保っているかを、在日コリアン(朝鮮籍)2世帯の事例から検討した。在日コリアンが韓国と北朝鮮の親族を結ぶ結節点となっているものの、韓国と北朝鮮にいる親族は関係性が異なっている、親の代での親族とのつながりが子供の代で希薄化するといった問題を抱えていることが指摘された。

 第Ⅱ部会「朝鮮戦争-『帝国のはざま』で起きたポストコロニアル戦争」では、開戦70周年という節目を迎える朝鮮戦争を、映像メディアや文学における表象、マイノリティの従軍経験という面から切開した。丁智恵「朝鮮戦争報道と占領期日本-映像メディアの分析を中心に」によれば、CIE映画(GHQ制作の短篇ドキュメンタリー映画)が「文化冷戦」の道具として、朝鮮戦争を西側陣営の立場から描いた。一方、ニュース映画においては、避難民や米軍基地の様子をときには命がけで撮影しようとする報道姿勢もうかがわれ、林田重雄の記録映画『朝鮮の悲劇』は戦火を生き抜く朝鮮半島の人々をクローズアップしている。松平けあき「朝鮮戦争におけるマイノリティ兵士の従軍経験-ポストコロニアル戦争を象徴するもの」は、北朝鮮の捕虜になり日本語通訳・尋問の任務を与えられた日系二世兵士、英語が不十分な元日本軍の日系兵士、コリア系アメリカ人兵士、在日朝鮮人義勇兵など、マイノリティ米軍兵士の従軍経験を考察した。日系アメリカ人兵士は日本語話者、コリア系アメリカ兵士は韓国語話者としてエスニックな役割を期待されたが、マイノリティ兵士が日本語を媒介してさまざまな形で日本帝国の影に出会った様相、および、彼らのエスニックアイデンティティとナショナルアイデンティティの一致と背反が論じられた。原佑介「日本語文学に描かれた朝鮮戦争期の朝鮮人越境者―小林勝の反戦運動と麗羅の従軍体験に着目して」は、植民地朝鮮で生まれた日本人作家・小林勝を通じて、ポストコロニアル朝鮮の朝鮮人と日本語でしかつながれない状態に疑問を抱かなかった戦後日本人の意識を指摘する。ついで、アジア太平洋戦争で日本軍兵士(陸軍特別志願兵)、朝鮮戦争で在日韓国人義勇兵として従軍した麗羅を取り上げ、その二度にわたる志願・転向・引揚げの意味を考えた。

 第Ⅲ部会「引揚げの表象-植民地を故郷とするということ」は、「植民地を故郷とすること」をテーマに、満洲・台湾・樺太で生まれた植民地二世による文学作品や、当事者の記憶を扱った映像作品を取りあげた。坂堅太「安部公房『城塞』における満洲表象」は、「引揚げ」による故郷喪失体験を持つ作家として安部公房を取り上げている。1950年代、安部は反米民族主義を肯定していたが、日本共産党を除名処分となってからナショナリズムへの違和感をもつようになる。そのような時期に書かれた戯曲『城塞』(1962年)が、旧満洲での敗戦という情景からナショナリズム批判を遂行したことに着目する。野入直美「“湾生映画”にみる植民地二世の記憶と表象」の論ずる「湾生」とは、植民地期台湾で生まれ育った日本人を意味する。近年、日台で製作された「湾生」を主人公とするドキュメンタリー映画が、台湾植民地時代をめぐる日本と台湾の記憶の非対称性、「記憶の選別」を超える一つの回路となる可能性を見いだそうとしている。ニコラス・ランブレクト「李恢成の初期作品を通して引揚げ文学を再考する」は、樺太生まれの在日作家・李恢成の初期作品を手がかりに、日本人が「外地」から日本に帰るものとして理解されてきた引揚文学の概念の拡張を試みた。「またふたたびの道」(1969年)、「私のサハリン」(1972年)を通じて、その文学に、「在日性」ばかりでなく「引揚性」を読み込むことも可能なのではないかと問うた。

 第Ⅳ部会「境界を生きる、境界を考える」は、中心―周縁という枠組みの世界システム論を見直す潮流をつくってきた研究者によるセッションである。上水流久彦「八重山・対馬にみる〈境域〉研究の課題」は、日本帝国にさかのぼる二つの境域―八重山花蓮境域と対馬釜山境域―を検討する。境域研究の課題として、錯綜した「空間と場所の緊張」、地域が「中央」に対して異化と同化の二重性を示すこと、地域の脱国家的な動きが国家に絡めとられていく現象、という3つを指摘した。朴裕河「越境をめぐるポスト帝国・植民地のジェンダーポリティックス―「日本人妻」とその家族を中心に」は、植民地期に朝鮮人男性と結婚し、敗戦後に朝鮮半島に住むことになったいわゆる「日本人妻」とその家族について考察した。日本人妻が国籍・戸籍に翻弄され、意志に反した移動をせざるをえなかったことを掘り下げ、現代韓国・日本における日本人妻の取り上げられ方の問題も指摘した。権香淑「解放以降における在『満』/在日朝鮮人社会の跨境的諸相-包摂と排除の〈あいだ〉」では、日本敗戦により帝国が国境により分割されるなか、当該地域に住む人々にどのように受け止められたのかを検討した。中国朝鮮族と在日朝鮮人の両社会を比較の視点から検討することで、日本敗戦後における在「満」/在日朝鮮人をめぐる包摂(中国)と排除(日本)を指摘しつつ、コリアン・ディアスポラが提起する跨境的諸相に目を向けた。泉水英計「米国人歴史家の生きた東アジアの境界領域―ジョージ・H・カーと台湾・沖縄」は、冷戦期に著述活動をした米国人歴史家で、台湾史と琉球史を遺したカーGeorge H. Kerrを取り上げた。二二八事件時の台北副領事だったカーは、米国史に照らして台湾を「フロンティアの島」と理解した。一方、1950年代以降にカーがたずさわった琉球史著述や琉球文化財サーベイが沖縄の本土復帰を否定するものでなかったことが論じられる。

 以上のように、社会学・文化人類学・歴史学・文学など他分野の若手第一線の研究者が集まり、日本帝国崩壊後の国境をまたぐ人の流れをポストコロニアルな視点から捉え、充実した議論を展開した。


(文:松田利彦 副所長) 

当日のプログラムはこちら
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/intr_kenkyu_shukai/2020/11/13/

  • 井上所長開会挨拶井上所長開会挨拶
  • 蘭上智大学教授 趣旨説明蘭上智大学教授 趣旨説明
  • 陳 來幸兵庫県立大学教授 基調講演陳 來幸兵庫県立大学教授 基調講演
  • 日文研会場の様子日文研会場の様子
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