閉じる

日文研の話題

[人コミュ通信 vol.10]井上所長インタビュー ―日文研、そしてこれからの国際日本文化研究へ想うこと―

2020.07.03
日文研の人文知コミュニケーター、光平有希〔光)〕です。国際日本文化研究センターの活動や教員、そして所蔵資料の魅力を定期的にお届けしている「人コミュ通信」も今回で10回目を迎えました。節目となる今回は、4月に日文研の所長に就任された井上章一先生〔井)〕に、今のお気持ちや日文研の在り方、また今後の展望をうかがってきました。


光)

新所長に就任されて早2ヶ月あまり。改めて今のお気持ちをお聞かせください。

井)

もっぱらコロナ感染症への対応が第一の仕事になっているので、予め覚悟していたこととは仕事の内容が全く違いました(笑)というのが正直な気持ち。でも、この話はちょっと置いといて。まずは、国際日本研究の課題について、わたしがかねがね考えていることをお話しするところから始めましょうかね。
日文研には大勢外国の研究者が来てくれます。わたしも、日文研に来て初めて気づいたんだけれど、例えば、京都の北野天満宮についての建築分析で学位をとったスイス人とか、初期狩野派を研究するイタリア人なんかと出会うと「よくぞそんなテーマを思いついたな!奇特な人だな。果たして本国に友達がいるだろうか…」と心配になってしまいます。そういう人たちの研究を意外に感じるし、どこかありがたいことだという思いも湧いてくる。そして、こちら側も何かお手伝いをして差し上げようとか、研究のチャンスを拡げてもらおうとか。そういった気持ちになる。そんな想いを組織化したところが、わたしは国際日本文化研究センターという、この研究所だと思うんです。
だけどイタリア人は、例えばミケランジェロを研究している日本人と出会っても「ありがたい。奇特な人だ。」とはきっと思わない。外国人がミケランジェロを調べること。それは当たり前の事なんです。狩野永徳を調べるイタリア人。井原西鶴を研究するイギリス人に我々は驚くけど、シェイクスピアを研究する日本人といっても、イギリス人は「ああ、またか。」くらいにしか思わない。光平さんの研究分野、音楽で言うと例えば…。


光)

瀧廉太郎を調べるドイツ人とか!

井)

そう!瀧廉太郎を調べるドイツ人に会ったら「あぁ!よくぞ、そのテーマで研究してくれたな。」と思うけれども、ベートーヴェンやモーツァルトを調べる日本人に出会ってもドイツ人は驚かないでしょ。これは非常に大事なことで、西洋のこうした種々のテーマは「世界のテーマ」になっていて、自国が必ずしも研究の「本場」というわけじゃないんですよね。研究テーマに沿った論文の数だけを比べれば、他国が本場になることもあり得る。


光)

それって、日本研究の動向とは違いますね。

井)

そうですね。例えばね、安土桃山文化の研究者は9割9分日本人。これはどういうことかというと、わたしたちは安土桃山文化をどう読み解くかということを日本人の都合だけで動かせる。その意味で日本文化研究の本場は日本なので、外国の人が面白い読み解きをしたとしても「それはやめたほうがいい。本場の日本では受け入れられない、日本の学会はこういう風にやってきている。だからこちらで倣った方がいい。」という風に処理をしかねない。つまり、外国からの面白い着想で、研究が発達していくという可能性を我々は閉ざしているところがあるんやね。これはもったいないことだとわたしは思います。いわゆる人文学の実証的な研究という水準を比べれば、どうしても日本人の方が精度は高いと思う。だからついつい外国の人にも教え諭す風になりがちだと思うんだけど、あまりそこに流れてしまうと、せっかくの意外な発見を握り潰してしまうかもしれないわけじゃないですか。わたしは、国際日本研究の肝心なところは、外国の視点と出会って日本流を教え諭すのではなく、「そうか!そんな見方があったのか!」と驚く、あるいはうろたえる、それが大事なことだと思うんです。日文研でおこなっている「研究協力」は一見すると、外国へのサービスのように見えるかもしれない。でも、実は協力の過程や裏側では、海外の人に日本研究に対する豊かな着想を示してもらって、われわれがうろたえる貴重な機会をもらってるんですよね。


光)

一方向の「研究協力」ではなく、そこから帰ってくる反応、つまり双方向の研究コミュニケーションによって、日本側の日本研究も深化していくというわけですね。

井)

そうそう。残念ながら、日本文化研究は放っておいても世界中が研究してくれるテーマでは、まだない面があります。だからこそ、日本人が寄ってたかって研究してしまう。そして「本場はここですよ」と言ってしまいがちなこの分野の鎖国的な状態をどうにかして変えたい。そういうところに挑戦することも、日文研という組織の大きな意義だと思うんです。


光)

垣根を超えた研究深化という意味では、「国際」性だけでなく「学際」的な日本研究の在り方にも通じますね。

井)

そうですね。次いで「学際」学について、わたしが思っていることに話を移しましょうか。一般的に日本人は、周りの気配を十分勘案したり、集団の輪を重んじて協調性があるなどと言われることが多いですよね。今回の感染症騒ぎでも、日本人に対して自宅に留まりなさいという時、罰則をわざわざ与えなくてもいい。上の意思を十分に重んじる民族なので、その当局の意図さえ皆が呑み込めば、多くの人は協力してくれるはず。自分のわがままより集団の輪を重んじると言われていることを耳にもしました。
わたしは建築を勉強したんですけどね、例えば四条河原町の交差点に立ってみて、四条通と河原町通りの建物を眺めてみる。すると、周りの建物に自分を合わせた建物なんてひとつもないでしょう。みんな自己主張の塊。色も形も。てんてんばらばらじゃないですか。どうみても調和のとれた街並みを作ろうという風には思えないよね。他方、ウィーンでもパリでも、ヨーロッパの街並みは、四条河原町と比べたとき建物は和をもって、集団の調和を重んじているでしょう。言い換えれば、ひとつひとつは没個性的でしょう。ヨーロッパと比べれば、日本人の方がはるかにエゴイズムを増長させていると、建築を勉強したわたしは思うわけです。ただ、日本人論の多くは社会学や文化人類学などのテーマになり得るから、それらの分野の人たちはわたしの意見を「そんなの建築だけだ!」といって跳ね付けることもできる。でも、「学際」学のいいところは、「なるほど建築とか都市を見れば、今までの見方とは違う観点がでてくるな。これは何故そうなるんだろう?」と検討してみる必要があるなと、本気でうろたえることができるところに醍醐味があると思うんです。
日文研の創設当初、日本人の形質人類学をめぐる共同研究会に参加しました。そこでわたしは思ったんです。「考古学では、こうみます。」「いや、歴史学ではそうのめません。」「神話学ではこういいます。」「それは民俗学では受け入れられません。」お互い同じものを論じてるのに、「ああ、そうそう。学会によって心理が違うんやね。」と。学会によって、心理が違うという現象自体が面白い分析対象になるとも思うんだけども、こうした語り合いって自分の学会を反省してみる機会にもなるじゃない。自分が今まで馴染んできた学説史は問題がないのだろうかって。「学際」学ってそういう機会を与えてくれるんですよ。それは外国の目が反省を迫るのと同じでね、「そうか、分野が違えば人はこんな風に考えるんだ!」と気づかせてくれる。そういう「国際的」「学際的」日本研究を進めていくことに意味があると僕は思っています。


光)

「国際的」「学際的」なまなざしというものは、相通じるものであって別々のものではないということですね。

井)

そうやね。私は「それぞれのdiscipline(学問の分野)を疑いなさい!」という言い方に通じてしまうと思う。


光)

昨今、「人文知」や「人文学研究の社会還元」といった言葉も多く耳にしますが、人文学研究の成果発信や、研究と社会との繋がりについて先生はどのようにお考えになりますか。

井)

わたし個人としてはね、読んでくださった方が「へー!」とか「ほー!!」とか「自分が今まで考えてきた常識を揺さぶってくれた!ありがとう。」と思ってくれるような読み物を残していきたい。それで十分と考えています。
人文学のいい成果は、例えるならばおいしいお酒、ふくよかたる芳醇なワインともいうべきかな。それは、ゆっくり時間をかけて熟成させなければ出来上がらない。日文研の所員には、思う存分時間をかけて研究を熟成させてほしい。わたしに志があるとすれば、その環境づくりをしていくことかなと思います。そして、残念ながら人文学研究に優しい世の中とはいいがたいですが、その中にあっても、時間をかけながら惚れ惚れするような人文学研究者を育成していくことこそが、社会的な貢献に繋がるんだと信じています。


光)

貴重なご意見をうかがわせていただき、本当にありがとうございます。これまでうかがった先生の人文学研究、国際日本文化研究に対するお考えというのは、京都について様々な観点から読み解きをされている、先生ご自身のここ数年のご著書にも通じるものがあるのかな…と思ったのですが。

井)

そうそう。光平さんから見たら、わたしは京都の人にみえるでしょう?けど、わたしは京都出身だけど、洛中の人ではない、京都の人間じゃない。それは今まで話してきたこととも繋がるんだけれど、初期狩野派を研究するイタリア人は、日本での留学を終えて本国に帰ったら、半分日本の人と思われる。わたしの京都へのまなざしは、そのポジションと似てるかな。「洛中」という完全にその中にいるのではなく、そこに繋がる橋の上にいる。こういう所にいるからこそ見える「なにか」に可能性があるのではないか――そう思いながら読み解きをしているんだね。


光)

井上先生、本日は本当にありがとうございました。

井)

こちらこそ。



あわせて3月に行われた小松前所長との対談もぜひご覧ください。
【「国際日本研究とこれからの日文研」国際日本文化研究センター(日文研)報道関係者との懇談会(2020年3月4日開催)】
  • 今回お話をうかがった井上章一所長今回お話をうかがった井上章一所長
  • インタビュー風景インタビュー風景
トップへ戻る