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明石博高と島津源蔵

AKASHA Hiroakira and SHIMADZU Genzo

京の近代科学技術教育の先駆者たち

明治初期、東京奠都が行われると新時代の到来とともに京都の経済は大きく衰退。低迷から脱却するべく、官民一丸となって様々な近代化事業に着手していきました。そのとき、京都近代化の要となった産業や医療、理化学革新の中心的役割を果たしたのが、今回の企画展でスポットを当てる明石博高ひろあきらと島津源蔵です。彼らは、幕末の京都に根付いた蘭学や出版文化を受け継ぎつつ、お雇い外国人たちから新たに摂取した豊富な知識のもとに、様々な制度・施設・モノを生みだしていきました。

本展では、国際日本文化研究センター(日文研)、神田外語大学、島津製作所 創業記念資料館の豊富な資料をもとに、明石と島津が全国に異彩を放った近代科学技術教育の歩みに迫ります。

本企画展について

  1. ごあいさつ

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    このたび、国際日本文化研究センターの主催により、神田外語大学、島津製作所 創業記念資料館と協力して、国際日本文化研究センターのウェブサイトにてオンライン企画展「明石博高と島津源蔵―京の近代科学教育の先駆者たち―」を開催する運びとなりました。

    明治期京都の科学技術を大いに牽引した革新者の中でも、明石博高と島津源蔵は傑出した存在です。博高は勧業の官僚および開業医として、源蔵は起業家として、木屋町二条周辺という近代科学の発祥地を中心に活躍し、互いに良き影響を与え合いました。本展は、三機関が力を合わせて、関連の所蔵資料を一堂に公開することを通じて、両者のルーツと活動の軌跡をたどる新しい試みです。

    本オンライン企画展は3つの章から構成されています。第1章「京都近代科学教育の黎明―洋学の発展と科学知識の普及―」では、主に神田外語大学所蔵神田佐野文庫若林コレクションの資料展示を通じて、京都の洋学の特色や江戸から明治初期にかけての京都出版文化について解説し、博高と源蔵の科学技術知識を育んだ土壌がいかなるものだったのかを解き明かします。

    続く第2章「明石博高―産業・医療・理化学の先駆者―」では、国際日本文化研究センター所蔵宗田文庫に含まれる、博高関連資料および博高が密接な関係をもっていたお雇い外国人関連資料の展示を通じて、京都舎密局や療病院のような近代医療・理化学関連施設の創立、そして近代科学教育の整備など、博高が推し進めた京都近代化の軌跡をたどります。 最後の第3章「島津源蔵―科学・技術の研鑽、啓蒙への情熱―」では、島津製作所 創業記念資料館所蔵資料をもとに、国産の教育用理化学器械の制作や理化学器械目録表、科学雑誌の刊行などを通じて、科学知識の普及に力を尽くした源蔵の活動を再現します。

    各章で紹介している資料一点一点、また資料全体を通じて、京都の洋学の土壌、官僚としての博高の尽力、起業家としての源蔵の活動という3つの物語が有機的に繋がっていき、 京都の近代科学の発展を描き出します。 本オンライン企画展のご観覧の皆様におかれましては、ご清鑑を賜われば幸いです。

    最後になりましたが、本オンライン企画展開催にあたり、関連する貴重資料や参考資料の出品をお許しいただきました諸機関および個人の方々、ならびにご協力を賜りました関係各位に、心よりお礼を申し上げます。

    国際日本文化研究センター研究部 教授
    フレデリック・クレインス

  2. 殖産興業の時代

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    京都大学 名誉教授
    神田外語大学日本研究所 客員教授
    松田清

    尊王攘夷の気運がなお京都に漂っていた慶応3年(1867)。4月1日から11月3日までパリ、シャン・ド・マルスで万国博覧会が開催された。日本から別個に参加した、幕府、佐賀藩、薩摩藩の代表団は、西欧列強が軍事力と自由貿易の覇権を争い、自国産品の性能品質とデザインカを競い合う姿を等しく目の当たりにして帰国した。そのなかで佐賀藩の技術官僚佐野常民は有田焼がパリで全く売れず、その改良の必要性を痛感した。

    佐野は渡仏以前から京都と関係が深かった。広瀬元恭の時習堂で蘭学を学んだ佐野は開明的藩主鍋島直正の信任厚く、嘉永5年(1852)創設の佐賀藩精煉方(理化学研究所)に時習堂の門人3名、すなわち機巧堂からくりどう主人田中久重、オランダ語にすぐれた石黒寛次、化学に詳しい中村奇輔を京都から抜擢して蒸気機関、造船、化学の実験を重ねていた。長崎海軍伝習(1855~1857)には真っ先に参加した。海軍伝習の医官として1857年に来日したポンペが日本最初の洋式病院、長崎養生所を設立した文久元年(1861)、佐賀藩ではすでに領内に漢方医学禁止令を出し、洋方への転換をはかっていた。

    王政復古のスローガンのもと戊辰戦争に勝利した維新政府が殖産興業政策を強力に推進したのは当然であった。政府は明治4年(1871)5月の大学南校物産局博覧会を皮切りに、国内各地の博覧会を奨励した。 この年10月、第1回京都博覧会が西本願寺で開催され、翌年官民協同の京都博覧会社が設立された。政府は明治6年(1873)5月開催のウィーン万博参加のため、府県物産調査を進め準備を急いだ。新政府の墺国博覧会総裁大隈重信のもと、副総裁となった佐野は明治5年(1872)2月、大学東校御雇教師ワグネルを墺国博覧会御用掛とし、その指導を仰いだ。ワグネルは同年7月、希望により京都の美術工業を視察した。京都から技術伝習生としてウィーン万博に派遣された西陣機業家伊達弥助(四世)は中村喜助の門人であった。かつて佐野から佐賀藩精煉方に誘われたが断わり家業を継いでいた。

    明治5年1月京都府博覧会掛兼務となり、第2回京都博覧会(於知恩院・建仁寺・西本願寺、3月10日から50日間開催)の物品検査と墺国博覧会事務を担当したのが明石博高ひろあきら(1839~1910)だった。明石は明治3年(1870)閏10月出仕以来、大参事槙村正直(明治8年権知事、同10年知事)と二人三脚で急進的な欧化・殖産興業政策を推進していた。府から政府の墺国博覧会事務局へ派遣されたのは、明石の師、本草学者山本章夫であった。明石は万延元年(1860)4月13日、章夫に入門している。章夫は文部省博物局で田中芳男が企画した木版の日本産業図説『教草』の作成に協力した。田中は、幕府物産方として派遣されたパリ万博、墺国博覧会御用掛として参加したウィーン万博、さらにフィラデルフィア万博(1876)で得た知見をもとに産業博物館創設に邁進することになる。一方、明石は明治8年(1875)、12年(1879)、13年(1880)と京都博覧会の品評管理を歴任するとともに、明治8年4月には御所内仮博物館を設置し、さらにヘールツの協力を得て、仙洞御所跡に自然史博物館を計画する。

    槙村と明石による京都府の急進的な欧化政策は明治14年(1881)1月の槙村知事離任、明石の退官によって破局を迎えた。新知事北垣国道は琵琶湖疎水工事という一大衛生事業に転換したのである。明石が10年余りの在任期間に、創設にかかわった主な殖産興業施設は舎密せいみ局(明治3年12月)、京都合薬会社(アポテーキ、明治7年9月)、織殿(明治7年6月)、伏見鉄工所(明治6年10月)、染殿(明治8年11月)、パピール・ファブリック(製紙場、明治8年)、化学学校(明治11年3月)、主な医療施設は検黴のための療病館(明治3年7月私設、同9年9月府に移管)、療病院(明治5年11月)、南禅寺の癲狂院(明治8年7月)、癩病者のための療痼院(明治11年2月)、コレラ患者のための避病院(明治10年10月)など多数に及ぶ。医療制度としては医務取締制(明治5年3月)を布き、上京下京の5区ごとに洋方医と漢方医の取締各1名を置き、開業医の組織化と医療水準の向上をはかった。また医師試験制度(明治7年6月)を導入した。京都では伝統的な漢方医が庶民の信頼を得ていた。

    明石の衛生、勧業両面にわたる八面六臂の活躍は槙村の独裁的権力だけではなく、京都の各界指導層にわたる明石の幅広い人脈によるところが大きい。明石は官民の紐帯となって、 民の協力を束ねたのである。 その人脈は薬業家に生まれ、 新旧の教養を身につけた修学時代に培われたといってよいだろう。 明治以前における明石の教養と医学・理化学の師を挙げれば、漢学(神山鳳陽)、国学・歌学(五十嵐祐胤、月照)、仏教(清巌和尚、信亮僧正)、漢方(桂文郁)、化学的製薬(祖父善方)、蘭方(外祖父松本松翁)、オランダ語(宮本阮甫、武市文造)、物理学(柏原学介)、蘭医学(新宮涼閣、新宮涼民)、本草学(田中探山、山本章夫)、化学・製薬術・測量法(辻礼助)、解体術(錦小路頼徳)、日本医道(錦小路頼言)である。 明石が創設に尽力した京都初の洋式病院が療病院という仏教由来の名称となったのは、単に有力寺院の支援を受けたという事情のみならず、鳩居堂主人熊谷直恭以来の仏教的な慈善精神が設立に協力した開業医に共有されていたように思われる。

    明治初年、大坂医学校で生理学(ボードイン)、大坂舎密局で理化学(ハラタマ)を学んだ明石は槙村の支援を得て、明治3年12月に京都舎密局を開局した。ここで本格的な化学教育を試みたのは新設の官立京都司薬場に東京から赴任したヘールツ(明治8年2月~9年9月在任)であった。その舎密学(化学)開講演説の結びで、ヘールツは数学の必要性を訴えた。ポンペ、ボードインのあと慶応2年 (1866)長崎精得館に赴任したマンスフェルトは前任者たちの医学教育を改善し、数学・物理・化学からなる予科教育を重視した医学教育カリキュラムを初めて実践した。精得館あらため長崎府医学校予科教師として明治2年 (1869)7月赴任したのがヘールツであった。マンスフェルトが熊本医学校で北里柴三郎らを教えた後、京都療病院に赴任し(明治9年3月~10年8月在任)、予科教育の充実をはかった意義は大きい。

    ヘールツの後任者として舎密局にワグネルが赴任した(明治11年~14年在任)。ワグネルはウィーン、 フィラデルフィア両万博で日本政府顧問をつとめ、京都の美術工業の改良に熱心だった。 そのワグネルに師事し、ダライ盤(旋盤)の操作技術を習ったのが島津源蔵(1839~1894)であった。源蔵が明治15年 (1882)以来製作販売した優秀な教育用理化学機器は、整備されていく中学校、師範学校、とりわけ尋常中学校・高等中学校(明治19年設置)の基礎教育、予科教育を支えた。その意味で、初代源蔵の企業的成功と発展は殖産興業時代の終わりを告げるものであったといえよう。

  3. コレクションの紹介

    国際日本文化研究センター所蔵「宗田文庫」

    国際日本文化研究センター総合情報発信室 特任助教
    光平有希

    国際日本文化研究センター(以下、日文研)が所蔵する「宗田文庫」は、医学史・薬学史研究の分野においてすぐれた業績をのこした故宗田一そうだはじめ氏によって収集された日本医療文化史コレクションである。主として医学史・薬学史に関する書籍、図版資料、文書、雑誌、モノ資料等で構成されており、和装本1456点、医学本草博物・錦絵・引札・書画・書簡・護符・双六・古地図などの図版資料1104点、和書7694点、洋書266点など厖大な資料数を誇る。また、モノ資料には本企画展でも出品する明石博高旧蔵金属標本など極めて貴重な資料を含んでいる。

    これらの資料群は、広い意味での薬を中心とした、15世紀から現代まで500年にわたる日本医療文化史の一大宝庫といえる。また、前述した図書資料・図版資料といった各種の一次史料を中心に、同文庫には宗田氏自身の研究ノートや研究書なども同心円状に見事に構成されており、厳しく実証的学風を自らに課した学者の蔵書として、正に「文庫」として後世に伝える意義を孕む存在である。宗田氏による広範な資料の収集は、自らが専門とした医学・薬学の領域はいうまでもなく、科学・文化史全般にわたっており、宗田氏の広い視野と飽くなき探求心と旺盛な好奇心によって築きあげられていったものだといえよう。

    宗田一氏は、大正10年(1921)に新潟県でうまれ、昭和16年(1941)に旧制官立金沢医科大学薬学専門部(現在の金沢大学医薬保健学域薬学類)を卒業後、武田化成KKに入社。戦後、吉富製薬KK勤務と並行して大阪大学などで教鞭を執り、民俗・文化史的な視点から医学・医療や薬の研究に尽力された。長年、日本医史学会常任理事や野間科学医学研究資料館理事を歴任されると共に、日文研の共同研究会にも参加されるなど、平成8年(1996)7月7日に75歳で逝去されるまで、精力的に研究に取りくまれた。著書は『日本製薬技術史の研究』(1965)、『近代薬物発達史』(1974)、『日本の名薬』(1981)、『図説 日本医療文化史』(1989)、『渡来薬の文化誌―オランダ船が運んだ洋薬』(1993)など多数存在する。

    宗田氏のご逝去後、遺された資料群一式は当時京都大学の教授と併任で日文研の客員教授であった松田清氏によって整理され、平成9年 (1997)6月7日、京大会館で開催された「宗田一先生を偲ぶ会」でその概要が紹介されたのち、ご本人の生前の意思を尊重する形で、同年度中に日文研に受け入れられた。その後、平成10年 (1998)9月25日には、『宗田文庫仮目録』(日文研)の刊行に合わせて、「宗田文庫開庫式」および開庫記念展示が日文研で開催された。

    それから2年半後の平成13年(2001) 3月、遠藤正治氏、北川央氏、小曽戸洋氏、酒井シヅ氏、杉立義一氏といった医学史の専門家を客員編集委員に迎え、『宗田文庫目録』図版編・書籍編が刊行された。 さらに、目録・図版篇に掲載されている一枚物図版資料を中心に「宗田文庫図版資料データベース」にてオンライン公開している。現在、目録やデータベースは、医学史・薬学史を含む科学史はもちろんのこと、文化史や宗教史、芸術史など、多種多様な分野の研究者に広く利用されている。

    「島津製作所 歴史的資料」

    島津製作所 創業記念資料館 主任
    高橋綾子

    京都で明治8年(1875)に創業した島津製作所は、教育用理化学器械の製造に端を発し、現在は総合精密機器メーカーとして分析・計測機器や医用機器、航空機器、産業機器など多岐に渡る事業を展開している。その145年の歴史を語る土台となるのが、島津製作所 創業記念資料館で保管・展示を行っている歴史的資料である。

    島津製作所では、昭和60年(1985)「島津製作所 歴史的資料目録」を編纂し、企業アーカイブとしての体裁を整えた。その後も整理・蓄積を重ね継承し、現在の資料総数は約11,000点に及んでいる。

    その内容は幅広い。文献は公文書、各種記録、契約・権利書類、人事・営業資料などがあり、当時の様子を多方面から窺い知ることができる。他にも私信、賞状や書画なども含まれている。書籍は内外の出版物等のほか、創業初期より発刊し続けた自社の製品目録や社外向け科学雑誌があり、古い製品の調査に役立っている。また明治30年代の写真帖をはじめ、写真·音声資料も数多く残されている。

    特に今回の主な展示である理化学器械をはじめとする製品資料は、研究・産業用分析計測機器や医用機器なども含め、現在1,100点余りを収蔵している。これは収蔵数、常設展示数としては全国有数となる。 中でも創業期より手掛ける教育用理化学器械は収蔵品の8割を占めているが、その理由は京都が明治2年(1869)に日本初の小学校を64校開校したことにある。これを受け継ぐ京都市内の各学校には永らく古い器械が保存されていたが、2000年代以降の学校の統廃合や耐震補強のための校舎建替えにより行き場をなくしたため寄贈をうけることとなり、貴重なコレクションの充実につながったのである。

    また学校からの寄贈により標本資料も充実する。明治28年(1895)から戦前まで存続した標本部は、 島津製作所のものづくり多様性の一端を現す部門である。かつて2点のみだった標本資料は学校からの寄贈により、現在は生物学、植物学、地学、殖産産業や風俗などに至るまで網羅し展示できるまでに拡充している。

    一方、現在の製品へとつながる研究・産業用の機器は、教育用器械と比べ、不要となった装置が廃棄されやすいこと、容量・重量が大きいことから収蔵や展示活用が難しく、収集が進まない状況にあった。 しかしここ十数年で国立科学博物館をはじめ複数の組織により科学・産業史に関わる資料の評価・保存・アーカイブ化が本格的に始まるようになった。結果、平成19年(2007)当館および収蔵資料の「近代化産業遺産」認定、平成30年(2018)初期の医療用X 線装置ダイアナ号の「重要科学技術史資料」(未来技術遺産)登録、平成31年(2019)当館および所蔵理化学関係機器・資料等の「化学遺産」認定、と続けて科学史・産業史の視点から評価される機会を得た。これにより、その歴史的価値を認識した社員を経由しての顧客や、外部団体・個人からの寄贈の打診も増え、資料の収集がさらに進んでいる。

    島津製作所の歴史的資料、なかでも製品資料は、一企業の歴史だけにとどまらず、日本の近代化を牽引した科学技術、教育、産業の発展の流れを知るための一助となるものでもある。今後も引き続き収集・保存と調査研究を続けることで、社是である「科学技術で社会に貢献する」を歴史的知見からも成し遂げていきたい。

    「神田佐野文庫」若林コレクション

    神田外語大学外国語学部 准教授・日本研究所 副所長
    町田 明広

    神田佐野文庫は2017年の開学30周年を記念し、神田外語大学附属図書館に設置されたもので、その中心として位置付けられるものが若林コレクション(以下、若林蒐書)である。京都の書店主であった若林正治氏 (1913~1984)は明治維新から60年以上の歳月が過ぎ、幕末・明治初期の学問・文化の重要な一面を伝える「洋学」の書物が既に散逸し、失われようとしていたことを憂いた。そこで、私財を投じて昭和初期から約半世紀近くにわたり熱心に蒐集し、形成した偉大なコレクションがこの若林蒐書である。

    若林の没後、その洋学関係コレクションは雄松堂書店(現在の丸善雄松堂)の仲介を経て学校法人佐野学園に移り、1987年の神田外語大学の開学に際して附属図書館に移管となり、「洋学文庫」と命名され図書館蔵書として重要な一角を形成することになった。こうした経緯は、洋学研究者の間では広く知られているが、同時に、旧蔵者のコレクターとしての業績も「若林正治旧蔵」の呼称により、今なお記憶に留められている。

    若林蒐書は、蘭学の勃興・発展する江戸後期の天明・化政期(1781~1829)から洋学全般が開花した幕末維新期を経て、昭和前期および敗戦直後の占領期に至るまでの資料が網羅的に蒐集されており、外国語学習、外国文化摂取、文化交流史に関わる資料が充実している。特筆すべきは、明治初期までの医学・理工学分野の術語集が多数蒐書されていることである。さらに、若林自身が蒐書に必要な書誌的研究に早くから熱心に取り組んだことから、多数の研究参考文献が含まれており、他に類を見ない若林蒐書の画期的な特色を示している。

    若林蒐書は今日では入手不可能な古典籍が数多く含まれており、学術的価値も高く、規模も総計1430点と大部で貴重なコレクションである。その構成は、蘭学(205。括弧内は点数、以下同)、英学(697)、 仏学(56)、独学(69)、露語(16)、他言語(51)、明治文化資料(51)、キリスト教資料(19)、洋学研究参考文献(266)、蘭学・医学・洋学史関係(93)書誌・目録・文献学(50)、文化史関係(62)、欧米東洋学(日本・中国・他)(61)となっている。オランダ語・英語・ドイツ語・フランス語など外国語の学習・研究に関連する洋学書を中心に、日本語・中国語・朝鮮語・アイヌ語といった東アジアの言語についても、多数蒐集されており、幅広く網羅された言語コレクションである。

    なお、神田外語大学では若林蒐書の調査研究および公開準備にあたるため、2016年に京都大学名誉教授である松田清氏を日本研究所客員教授として招聘した。この間、「若林正治コレクション蘭学資料目録」「若林正治コレクション英学資料目録」が作成され、2018年7月より研究者を対象に順次公開を開始した。また松田氏の下で、「神田佐野文庫プロジェクト」が実行されており、学内外の専門家を集めて「日本広東学習新語書」「彩色ジャワ植物図譜」「長崎屋宴会図」に関しての研究プロジェクトが進行中であり、既に多くの成果が『神田外語大学日本研究所紀要』等で発表されている。

  4. 凡例

    本文を読む

    ◆原資料の複製写真を参考資料として展示する場合は(参)の略号を付した。
    ◆第1章、第2章における掲載写真のキャプションの表記は、次の要領に従った。
    洋書をのぞいて、資料番号、資料名、作者・著者等、制作年・発行年等、所蔵先の順に記した。洋書の場合は、資料番号、著者等、発行地、発行年の順とした。
    キャプション末尾の所蔵先の表示は(個人)、(京都府立医科大学附属図書館)、(佐倉市教育委員会)、(長崎大学附属図書館医学分館)をのぞいて、下記の略号を使用した。
    (若林蒐書)   神田外語大学附属図書館若林正治コレクション
    (神田佐野文庫) 神田外語大学附属図書館神田佐野文庫
    (日文研)    国際日本文化研究センター
    (宗田文庫)   国際日本文化研究センター宗田文庫
    (歴彩館)    京都府立京都学・歴彩館
    (島津)     島津製作所 創業記念資料館
    資料リストに、資料番号、資料名、員数、作者・著者等、制作地・発行者等、制作年・発行年、素材・技法、法量、所蔵を記載した。
    ◆第3章における製品資料(110~139、145~148)のキャプションは資料番号、資料名、所蔵先のみとし、資料館での実地展示表記にあわせ旧字体を使用した。また、資料リストの製造年は島津製作所発行目録での初掲載年を記載した。
    ◆「こらむ」は松田清(1の01、1の02、1の03、1の04、2の02)、フレデリック・クレインス(2の01)、光平有希(2の03、2の04、3の02)、川勝美早子(3の01、3の02、3の03、3の04)、「えぴそーど」は松田清がそれぞれ執筆した。
    ◆第3章のデザイン構成は宮野正喜が担当した。
    ◆資料解説は松田清(1~46・48~63・65・70・84・85)、光平有希(47・63・64・66~69・71~74・76~83・86~91)、フレデリック・クレインス(47・63・64・66・69・75・78)、川勝美早子(92~149)が執筆し、各解説末尾に(松田)、(光平)、(クレインス)、(クレインス・光平)、(光平・クレインス)、(松田・クレインス・光平)、(川勝)の略称で文責を示した。
    第3章における製品解説は神戸大学名誉教授(物理学)福田行男先生、並びに元京都大学大学院理学研究科冨田良雄先生の監修による。明治期の教科書口語訳などは京都大学文学研究科日本史学専修森岡将宏氏の協力を得た。

    ◆第3章理化学器械の項目における引用文献は、下記の通りに表記する。
    ・田中竹次郎『小学物理啓蒙』上・中・下巻、明治16年(1883)→『小学物理啓蒙』
    ・宇田川準一『物理学』、明治22年(1889)→『物理学』
    ・木村駿吉『新編物理学』巻之二、明治24年(1891)→『新編物理学』
    ・三守守 『普通物理学教科書』上巻、明治26年(1893)、中巻・下巻、明治27(1894)→『普通物理学』
    ・吉田彦六郎・足立震太郎・八田三郎『理科示教』、明治31年(1898)→『理科示教』
    ◆資料写真は、松田清(1・5・7~11・13・16・17・21~27・30~38・39和文標題紙・40標題紙・42口絵飽浦製鉄所・44脚部の手書き銘・45・46・48・49・62・65・70・「えぴそーど」掲載分)、清水光芸社(3・4・12・14・15)、大入(28・29・39独文標題紙・39本文・40本文・41・58)、国際日本文化研究センター(2・6・18~20・42元表紙・42口絵養生所・47・50~55・57・63・64・71~79・81~91)、島津製作所 創業記念資料館(92・95・97~99・105・109~139・141・145~148)、宮野正喜(106~108)が撮影した。

    ◆参考資料の写真は下記の機関から提供を受けた。記して謝意を表する。
    佐倉市教育委員会 長崎大学附属図書館医学分館 京都府立京都学・歴彩館 京都国立博物館

第一章

京都近代科学教育の黎明 -洋学の発展と科学知識の普及-

1 二条木屋町地図(部分) 三町組作成
文政元年(1818)4月清書(若林蒐書)

古来、京都は学芸の都である。諸学は長く書物の学であり、書物は和漢書に限られて久しかった。とりわけ近世において、日本儒学は諸学の王となり、町衆にも浸透した。諸芸は長く職人の目と手に支えられ、洗練の技が代々受け継がれてきた。

西洋の近代科学・技術も、産業革命以前のサイエンス・アンド・アーツの時代は、観察科学と実験科学が発達し、植民地科学が生まれたにせよ、書物の学と農業・手工業が文明の中心であったといってよい。

明治4年(1871)、木屋町二条下ルの一角に突如、産業革命後の近代科学・技術を象徴する「化学」の実験場「舎密局」が出現し、西洋の新知識、新技術を求める人々が押し寄せた。その中核に京都府勧業掛となった蘭方医明石博高がいた。仏具職人島津源蔵は「舎密局」の目と鼻の先に住んでいた。

明治14年(1881)の退官に至る明石の八面六臂の華々しい活躍の背後に、京都独自の洋学の流れがあったことを我々は忘れがちである。この源流をたどることで、明治初年の実験を歴史的に理解することができる。

そこで、本章では「物を知る」「言葉を学ぶ」「理を究める」「知を広める」というキーワードのもと、京都の博物学、語学、医学、出版文化における洋学受容の諸相を尋ねよう。

資料画像

こらむ

第二章

明石博高 -産業・医療・理化学の先駆者-

41 明石博高肖像
静瀾翁明石博高略伝
明石厚明編刊 大正5年(1916) 口絵より

明治初年、徳川幕府が瓦解して戦乱は終息、新たに明治政府が成立した。新政府のもとで首都となることを京都の人びとは切望していたが、願い届かず明治2年(1869)、東京奠都に伴い京都の経済は大きく衰退していった。

その京都の低迷期を、西欧諸国の技術・学問を取り入れ、文化や産業の振興で脱却しようと尽力したのが、当時、京都府の参事(後に知事)であった槙村正直、顧問の山本覚馬、そして青年蘭方医の明石博高である。彼らは、日本初の小学校創立を皮切りに、集書院(図書館)や勧業場、舎密局、療病院などを建設し、驚異的なスピードで革新的施策の推進を計っていった。

本章では、とりわけ実働的に推進役を担った明石博高、および明石が密接な繋がりをもったお雇い外国人関連資料を通じて、近代医療・理化学関連施設の創立、そして近代科学教育の整備など、明石が推し進めた京都近代化のあゆみに迫る。

資料画像

「明石博高旧蔵金属標本」のEDX分析

こらむ

第三章

島津源蔵 -科学・技術の研鑚、啓蒙への情熱-

島津製作所の創業者である初代島津源蔵は、仏具の鋳物業で培った技量を京都府などに見込まれ、明治8年(1875)、教育用理化学器械の製作を始めた。しかし、科学概念の理解や理化学知識の習得は容易なことではなく、器械の需要は極めて限られていた。初代源蔵はこの苦境にも屈せず、博覧会に製品を出陳したり、啓発するための雑誌を発刊したりするなど科学・技術の研鑚、普及に努めた。

その熱意を受継いだ息子の二代目源蔵は、家業を企業として発展させるとともに、医療、研究、産業用の機器など次々と新分野へ挑戦し、産業技術の発展に尽くした。親子を導いたのは、科学立国への志であった。

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こらむ

資料リスト

企画委員
松田清(神田外語大学日本研究所 客員教授)
フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター研究部 教授)
川勝美早子(島津製作所 創業記念資料館 学芸員 課長)
光平有希(国際日本文化研究センター総合情報発信室 特任助教)
謝辞

本企画展は人間文化研究機構「博物館・展示を活用した最先端研究の可視化・高度化事業」からの助成を受け開催いたしました。また、企画展にご協力いただきました下記の皆様に厚く御礼申し上げます。(敬省略・五十音順)

京都国立博物館
京都府立京都学・歴彩館
京都府立医科大学附属図書館
佐倉市教育委員会
長崎大学附属図書館医学分館
池田進 今村凌 梅村茂樹 江上敏哲 王紫沁 奥村修一郎 北本早紀 酒井美佳 左武千寛 菅野裕子 宋琦 谷口博和 永益英敏 中村収三 中村隆彦 西之原一貴 林潤平 前田司 松野頌子 御手洗悠紀 山崎剛史 大和亮介 山本侑子 若林正博

タイトル

サブタイトルやキャッチコピーがあれば

ダミー文章です。ダミー文章が入ります。

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明石博高史跡
デジタル・イラストマップ

このマップは、2022年5月21日(土)に京都府立京都学・歴彩館で開催された
共催企画展「明石博高-京都近代化の先駆者-」開催記念シンポジウムとの連動企画により、
総合情報発信室が制作したものです。

企画展「明石博高(あかしひろあきら)-京都近代化の先駆者-」詳細ページはこちら

明治期に産業や医療、理化学革新で京都を盛り立てようと奔走した明石博高(あかしひろあきら、1839~1910)。
このマップ上では、国際日本文化研究センターが所蔵する古地図を背景に、明石にゆかりのある京都市内のスポット情報が表示されるほか、GPSを使った現在地情報の表示、マップの切替などができ、バーチャルな歴史体験が可能です。

Stroly マップの使い方

オープンストリートマップや衛星写真との切り替え表示が可能です。
(Google マップとの表示切り替え機能は2023年9月末で終了しました)