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関西から文化力

国際日本文化研究センター

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資料展示

【宗田文庫】図版資料はしか絵

「錦絵」より:歌川芳虎画「麻疹後の養生」
文久2(1862)年 〔1枚 木版 35.6×24.5cm〕

江戸時代には幾度となく麻疹が流行。とりわけ文久2年に発生した麻疹は猛威を奮い、コレラ流行を経験した数年後の大惨事に、民衆間では混乱と社会不安が大いに掻き立てられました。動乱のさなか、同年の春夏には麻疹の予防や心得、病後の養生法などを附した「はしか絵」という錦絵が次々と刊行されます。また、人々は忍び寄る脅威からの回避や救済を神々に求め、その様子は「はしか絵」にも反映されました。「麻疹後の養生」では、疫病神と化した「麻疹」「ころり(コレラ)」「痢病(赤痢)」を、鐘馗たちが退治。添えられた詞書では、赤斑を伴い人体の皮肉間に発症する麻疹は、食養生を怠ると他病を併発し、死の危険性もはらむと警鐘が鳴らされます。

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〈 所蔵資料の展示 〉日文研医学コレクションにみる東西医療文化史

日文研が所蔵する日本医療文化史コレクション「宗田文庫」と
西洋古典医学史コレクション「野間文庫」。
両文庫の貴重かつ豊かな資料の世界と、その魅力をご紹介します。

宗田文庫

「宗田文庫」は、医史学者の故・宗田一氏(1921-1996)が収集した日本の医学史や薬学史に関する一大コレクションです。「宗田文庫」には、およそ13,300冊の書籍のほか、錦絵や番付、護符、書簡、各時代の薬や手術道具など、日本の医学や医療の歴史だけではなく、それを取り巻く文化についても深く知ることのできる様々な貴重史料が揃っています。

本展示では、近世・近代を中心に、日本医療文化史料の多彩な魅力をご紹介します。
書籍ならびに図版資料の解説にあたっては、主として〔国際日本文化研究センター 宗田文庫目録編集委員会編『宗田文庫目録』書籍編・図版編、2001年〕を参照した。

【宗田文庫】図版資料

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【宗田文庫】書籍資料

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【宗田文庫】もの資料

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【野間文庫】書籍資料

野間文庫

「野間文庫」は2003年春、野間科学医学資料館の閉館に伴って日文研に寄贈された西洋古典医学史料コレクションです。7000点にも及ぶコレクションの核となっているのは、1922年にビタミンEを発見し、また蔵書家としてもその名を知られるアメリカの医学研究者ハーバート・マクリーン・エヴァンズ Herbert McLean Evans(1882-1971)が収集した古書群。それらの史料は、西洋医学史を語る上で必見の貴重書であることはもちろんのこと、それらの状態は非常によく、繊細で巧みな図版を多く確認できることも大きな魅力です。

本展示では、解剖実験を初めて行ったヴェサリウスの『人体構造論』や顕微鏡を発明したレーウェンフックの『自然の秘密』、そして天然痘ワクチン開発者ジェンナーの『牛痘の原因および作用に関する研究』など、野間文庫の中でも選りすぐりの貴重書をご紹介。見事な図版も併せ、ぜひご覧ください。

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  • 飲食養生鑑
  • 飲食養生鑑

飲食養生鑑(スライド2枚)

(19世紀)〔1枚 木版 52.7×38.5cm〕

「錦絵」のテーマは多種多彩ですが、「飲食養生鑑」「房事養生鑑」のように人の体内図をテーマに描かれたものもあります。これらの作品では、体内にいる小人が説明役となり、臓器の役割を紹介して日常生活の不摂生を諫めています。

「飲食養生鑑」では中国の五行説によって色分けがされており、「悪い病気は飲食の不養生でおこる」ことを説いています。また、「房事養生鑑」では体内を遊郭の世界にたとえて、女性特有の体内を描いています。

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  • 房事養生鑑
  • 房事養生鑑

房事養生鑑(スライド2枚)

(19世紀)〔1枚 木版 51.7×38.2cm〕

「錦絵」のテーマは多種多彩ですが、「飲食養生鑑」「房事養生鑑」のように人の体内図をテーマに描かれたものもあります。これらの作品では、体内にいる小人が説明役となり、臓器の役割を紹介して日常生活の不摂生を諫めています。

「飲食養生鑑」では中国の五行説によって色分けがされており、「悪い病気は飲食の不養生でおこる」ことを説いています。また、「房事養生鑑」では体内を遊郭の世界にたとえて、女性特有の体内を描いています。

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  • 賢明馬鹿見立競

賢明馬鹿見立競

明治12年(1879)〔1枚 銅版 27.1×19.8cm〕

「番付」は相撲や歌舞伎の興業に付随して出され、その後、それらを模倣した様々な見立て番付が作られました。内容は、ものの優劣や人気の程度を序列化したり、世相や社会状況を浮き彫りにする、あるいは諷刺したものもありました。

本作「賢明馬鹿見立競」は、明治12(1879)年のコレラ大流行に際し、東の方を「善」、西の方を「悪」として日常生活において心得ておくべき注意事項を書き上げ、実際の医療的知識に役立つ内容となっています。

 善の方の大関は、房事を慎む人、関脇は清水を飲む人であり、悪の方の大関は、神仏祈て養生せぬ、関脇は大喰いする者と記されています。

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  • 麻疹食物善悪鏡

麻疹食物善悪鏡

文久2(1862)年〔1枚 木版 44.8×35.0cm〕

「麻疹食物善悪鏡」が、文久2(1862)年の麻疹流行の際に版行されたもので、たべてあしき物(悪)と、たべてよろしき物(善)を書き分けています。あしき物には、大毒として、「なたまめ、即死」とあり、さらに大毒は魚鳥獣、毒脇は貝類。一方、薬王は犀角、大薬として沢庵漬け、薬脇は黒豆となっています。

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  • 見立番付為麻疹
  • 見立番付為麻疹

見立番付為麻疹(スライド2枚)

文久2(1862)年頃〔1枚 木版 35.7×24.1cm〕

「見立番付為麻疹」は麻疹流行時の世相を諷刺したもので、景気がよくなった職業として、治療に関連する医師、薬種屋、人手不足から日雇人、奉公人、また、寺院、葬儀屋、医者を運ぶ駕籠屋、飼葉桶の呪術から馬屋の別当等が挙げられています。一方、不況となった職業としては、女郎屋、芸者、灸点屋、船宿、水売人、てんぷら屋、そば屋、寿司屋、湯屋、酒屋、髪結床などを挙げています。

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  • 越前南篠郡湯尾峠御孫嫡子略縁起

越前南篠郡湯尾峠御孫嫡子略縁起

制作年未詳〔1枚 木版 27.0×37.5cm〕

「越前南篠郡湯尾峠御孫嫡子略縁起」は、北陸街道の要衝である湯尾峠の茶屋が、疱瘡除けの守り札として広めた孫嫡子に関する縁起です。その縁起によると、諸人の厄として疱瘡を煩わせる疱瘡神と、加持によって疱瘡や麻疹を封じ込めている安倍晴明が、長徳4(998)年に峠の茶屋で出会います。2人は論議の末、疱瘡神は命に支障はないとして、茶屋の娘に疱瘡を煩わせ、その病苦の礼にと茶屋に守り札を残して「諸国に広めよ、この札を持つ家は孫嫡子まで疱瘡が軽いであろう。」といいます。晴明は自分の力の及ぶところではないと考え、「疱瘡が軽くすむように守らせよ」と頼み、お札のすそに共に封印を加えたといいます。茶屋では、峠を通行する人にお札と共に、この縁起を頒布しました。

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  • 八丈島正一位八郎大明

八丈島正一位八郎大明

慶長7(1602)年〔1枚 木版 30.3×13.4cm〕

「八丈島正一位八郎大明」は、強弓で知られた平安末期の武将で、流罪の伊豆大島から八丈島に渡り、疱瘡神を退治したという伝説を持つ鎮西八郎為朝を祀った八丈島の神社から出されたものです。この伝説により、八丈島では疱瘡が流行しないと言われ、疱瘡除けの信仰を集めていました。

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  • 疱瘡守護神

疱瘡守護神

制作年未詳〔1軸 木版 24cm〕

神仏の守護によって災厄、病を防いだり、除くことを目的とする「護符」には、各地の神社や寺院等から配布されたものが多く存在します。その祈願目的は、疱瘡除け、疫病除け、除魔、除災、家運繁盛、子育て、安産、火の用心など多種多様です。「疱瘡守護神」は、山梨県にある身延山東谷延壽房から出されたもの。日蓮宗では加持祈祷を重視し、数多くの護符が出されました。赤一色で刷られているのは、疱瘡を招く疱瘡神が赤色を好んだり、忌み嫌うとする信仰が背景となっています。

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  • 佐藤進野邨素介宛書簡

佐藤進野邨素介宛書簡

(明治期)〔1枚 肉筆 17.5×32.8cm〕

佐野進は、日本人としてベルリン大学医学部を最初に卒業した人物です。順天堂の院長、陸軍軍医総監、男爵であり、明治を代表する外科医としてその名を馳せました。野邨素介は山口藩出身の文部官僚で、男爵、貴族院議員でした。本書簡は、佐藤が野邨を自邸や駒込の別邸に招待した時のものです。

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  • 長与専齋柴田承桂宛書簡

長与専齋柴田承桂宛書簡

(明治期)〔1枚 肉筆 16.1×52.0cm〕

長与専齋は、岩倉遣欧使節団の随員として欧州の衛生制度を視察し、初代衛生局長となって日本の衛生行政の基盤を確立した人物です。他方、永田承桂は最初の文部省留学生となってドイツに留学して薬学を学び、帰国後、東京大学医学部の薬学教授となった人物です。また、日本の近代薬学の基盤を築いたことでもその名を知られています。この手紙では、製薬会社のことについて相談をしています。

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  • 松本良順小野田篠庵宛書簡

松本良順小野田篠庵宛書簡

明治4(1871)年〔1軸 肉筆 16cm〕

松本良順は幕府の医官として長崎でオランダ海軍軍医ポンペに医学を学び、幕府の西洋医学所の頭取として活躍した人物です。明治維新後は軍医寮創設に関わり、その後は西洋衛生思想の普及に尽力しました。この手紙は、金銭の貸借、病院建設について述べているのですが、この手紙からは長崎養生所以来、良順の門人となった人々についての消息をうかがうことができます。

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  • 吉益東洞自筆「範学一則」

吉益東洞自筆「範学一則」

明和4(1767)年〔1枚 肉筆 14.0×17.1cm〕

吉益東洞は、名を為則、字は公言、通称は周助といいました。安芸国山口町(現在の広島県広島市)出身の漢方医で、古方派を代表する医者です。万病一毒説を唱えて独自の医学体系をつくり上げ、大いに名声を博しました。主著には『類聚方』『薬徴』『方極』『古書医言』などがあります。この「範学一則」は東洞の自筆で、楷書に近い字体で書かれ、現存する数少ない東洞の遺墨のひとつです。自著の『類聚方』もしくは『方極』の巻尾余白に自ら書き著して弟子に与え、のちにそれを外して一枚物にしたと推測され、「学問には思考することが必要である」ことが説かれています。

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  • 吉益東洞自筆「範学一則」

薬種切手

慶應2(1866)年発行〔5枚 木版 14.6×3.3cm〕

薬種切手とは江戸時代末期、薬種(生薬)問屋が仕入れ先の生産者への支払い用に発行した約束手形のことです。宗田文庫には3種5枚の薬種切手があり、いずれも銀壱両を後日しはらうことを約束するものです。支払人、銭屋佐太郎のもの3枚、石田清輔のもの1枚、平井屋甚兵衛のもの1枚があり、薬種切手に相応しく薬草を口にする神王像や恵比寿像が刷られています。幕末、京都・奈良における生薬の経済流通機構の一端を語る資料です。

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  • きたいな名医難病療治

きたいな名医難病療治

(19世紀前半)〔3枚続 木版 36.2×75.6cm〕

本作は幕末の浮世絵師・歌川国芳による風刺画です。中央に座っている女性「名医こがらし」が弟子たちを使って様々な病を治療しているところです。ろくろっ首には髪に鉄粉を入れ磁石をあて、人面瘡には米屋の証文を見せてびっくりさせる。さらに、中央の下にいる虫歯になった人には、全て抜歯して総入れ歯にしたら良いなど、絵図の背後には医者のセリフが描かれています。この浮世絵に描かれた「名医こがらし」は当時の大奥で権勢を振るった姉小路局がモデルと言われ、江戸時代の滑稽譚「竹斎物語」も下敷きにしています。弟子たちの羽織の紋が、それぞれ幕府の若年寄や奉行たちの家紋と対応する、すなわち当時の幕閣の為政者たちを揶揄している、と江戸町民たちの人気を博し、たちまち発禁処分となりました。しかし版元では発禁を見こして、大量に増刷するとともに多くの異版が作られたといいます。

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  • 新板尾張ヨリ伊勢参宮巡双六

新板尾張ヨリ伊勢参宮巡双六

(19世紀)〔1枚 木版 37.2×50.6cm〕

絵双六は、仏法双六、浄土双六を基に江戸時代から発達し、その種類も多いことで知られています。名古屋の版元である井筒屋文助が版行したものが多く、この出版地を反映した内容のものも多く存在します。本作「新板尾張ヨリ伊勢参宮巡双六」は道中双六と呼ばれ、街道の風物を紹介すると共に、里程や名所、名物の案内の役割も果たしました。伊勢参宮の道中には朝熊岳や内宮、外宮において有名な万金丹の販売についても記されています。

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  • 大新板化物飛廻双六

大新板化物飛廻双六

(19世紀)〔1枚 木版 37.3×50.8cm〕

「大新板化物飛廻双六」は、徳利・やかん・釜などの日用品が化け物になったものを描いています。

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  • 新板女出世鏡飛廻雙六

新板女出世鏡飛廻雙六

(19世紀)〔1枚 木版 37.3×50.8cm〕

「新板女出世鏡飛廻雙六」は、誕生から成育儀礼、手習い、婚礼に達する流れを描いており、当時の女性観が表れています。

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  • 大日本物産雙録

大日本物産雙録

明治11(1878)年〔1枚 木版 60.6×72.8cm〕

「大日本物産雙録」は、一立斎広重が明治新政府の殖産興業を取り上げ、農産物、水産、商工、鉱業、畜産といった全国の物産を紹介した「大日本物産図会」を双六化したものです。ここには双六の時代を映す鏡としての一面が見えています。

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  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
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  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図
  • 二十四気坐功法図

二十四気坐功法図(スライド12枚)

制作年未詳〔1冊 肉筆 32cm〕

今日の体操・運動療法に相当する導引の術は、中国で仙家・道家の養生法のひとつとして重要な位置を占め、「気をめぐらし、食を消して積聚を生ぜず、毒気を吐き出させるもの」とされました。後世には、各種の術式を生み、インド系のものも加えて、婆羅門導引十二法、達磨大師・十八羅漢導引法、八段錦・十二段錦などが有名で、それらは日本に伝えられました。本図に描かれている二十四気坐功法は、明・陳望夷が考案した方法とされ、立春より大寒にいたる24節において、毎日一定時間すわって行うものでした。

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  • 二世長谷川貞信「金化粧白粉」

二世長谷川貞信「金化粧白粉」

(19世紀)〔1枚 68.6×26.0cm〕

美人画を用いたたいへん艶やかな本作は、「大坂心斎橋南壹丁目」の「杉本勘七」が製造した「金化粧白粉」のびらです。近代大坂を代表する浮世絵二世長谷川貞信(1848-1940)が手がけています。杉本勘七は、「泉屋勘七」「杉本肥後大掾」「杉本肥後大掾光房」という名で、江戸期以来さまざまな白粉を製造してきた家柄です。本作上部枠外には「大日本帝國農商務省登録商標」とあり、美人図の上には、平安遷都1100年を記念して京都・岡崎で明治28(1895)年4月1日~7月31日のあいだ開催された第4回内国勧業博覧会において褒章を賜った旨の記載が認められます。

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  • 効能書・鳥犀圓

効能書・鳥犀圓

(制作年未詳)〔1枚 22.5×31.7cm〕

鳥犀圓は、徳川家康の残した記録の中に「神明膏」「萬病圓」「八味圓」などともに出る生薬であり、家康が駿府城内の製薬所で作らせた薬の一つでした。はじめ、幕府や一部の藩で、「施薬」の一種として武士のための中風薬として用いられました。家康の九男・徳川義直が初代藩主となった尾張藩では、藩士やその家族が高齢で中風にかかると、上司を通じて申請し、藩主の許可を得て鳥犀圓を拝領することが習わしとなっており、その製造には御測医があたり、この習わしは江戸後期まで続きました。

市井への販売は、加賀藩が寛文10(1670)年に紫雪・嗜婆万病圓とともに三秘薬の一つとして売り出したことが有名ですが、名古屋ではそれより若干早く、小見山宗法が、二代藩主・光友の時(1648-1651) に鳥犀圓の薬方を賜り、あまねく国中へ施薬することを特許されたといわれています。小見山宗法は名古屋玉屋町の町医で薬舗を兼ね、三代宗法は小見山順友で、松平君山に本草学を学んだ本草家として知られています。江戸期後半になると鳥犀圓は、江戸・尾張・加賀のほか佐賀・秋田・肥後などでも製造販売されましたが、同じ薬名でも処方と効能にかなりの相違がみられます。

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  • 効能書・梅花錠

効能書・梅花錠

(制作年未詳)〔1枚 23.9×35.8cm〕

梅花錠は、蘭方医で『草木図説』の著者として知られる飯沼慾斎(1783-1865)の家につたわる家伝薬です。効能書に見える酔月堂は、慾斎の養父・長顕の兄飯沼定九郎長意の曾孫定九郎長侃(1824-1892)のことをさします。長意から長侃にいたる飯沼家本家は問屋(伝馬役)を主業、煉薬の製造販売を副業として梅亭とも称しました。

梅花錠は精神不安や船酔いなどにも効く旅行薬として売買されました。薬材や処方は不明ですが、明治中期まで製造され、大形が定価拾銭、小形が三銭で販売されていました。効能書には取次所を東京に29ヵ所、横浜に2ヵ所挙げており、問屋のルートをも利用してかなり手広く販売していたことが窺われます。

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  • 呉崑『脈語』2巻

呉崑『脈語』2巻

元和5(1619)年 刊本

本書は、明の時代に活躍した呉崑による脈学書です。本書『脈語』は、同じく呉崑の書である『医方考』とならび、刊行後まもなく日本に舶載されました。同書は、日本では複数再版され、日本の医学に大きな影響を与えました。『脈語』の日本刊本には慶長7(1602)年以降いくつもの版がありますが、宗田文庫本は元和5(1619)年の梅寿重刊有訓点整版・後刷と考えられますが、宗田文庫の中では最古版の一つに属する著作です。

  • 曲直瀬玄朔『済民記』3巻
  • 曲直瀬玄朔『済民記』3巻

曲直瀬玄朔『済民記』3巻(スライド2枚)

寛永8(1631)年 刊本

曲直瀬玄朔は二代目道山とも言われ、初代曲直瀬道山の医学を継承し発展させた人物として著名です。さらに、天皇や著名人を治療したことから、臨床家としてもその名を残しています。本書は、玄朔25歳の時の著作であるとされ、上巻には中風や癇癪、中巻には諸虫や牙歯のことを、さらに下巻には外科、婦人科、小児科についての治療法を詳細に記載しています。

  • 藤林普山『譯鍵』1巻
  • 藤林普山『譯鍵』1巻
  • 藤林普山『譯鍵』1巻

藤林普山『譯鍵』1巻(スライド3枚)

(19世紀)

本書は、日本で2番目に刊行された蘭日辞典として知られています。著者の藤林普山(1781-1836)は、はじめ大垣の江馬蘭斎に蘭語を学んでいましたが、文化5(1808)年に京都にきた海上随鴎に入門。随鴎は江戸で、大槻玄沢の指導下に、蘭日辞典『ハルマ和解』(約8万語)を編纂し、寛政8(1796)年に30部を刊行した人物です。しかしあまりにも『ハルマ和解』が高価であり、さらに内容豊富であったため、初学者がこれを筆記する途中で、たえきれず蘭学を諦める人が後を絶ちませんでした。そこで普山は、親友の小森桃塢と相談し、師の許可を得て3万語をえらんで新しい辞典『譯鍵』を編纂、初版で100部を刊行しました。本書は、半透明の和紙294丁に横書2段組、各21行で2万数千語を含んでいます。本書は、凡例・附録を含め計三巻で完結するものですが、宗田文庫の所蔵は本文1冊のみです。

  • 貝原篤信『大倭本草』
  • 貝原篤信『大倭本草』
  • 貝原篤信『大倭本草』
  • 貝原篤信『大倭本草』

貝原篤信『大倭本草』7巻(スライド4枚)

宝永6(1709)年 刊本

本書は、黒田藩の儒医としてもその名を知られる貝原益軒(篤信)による本草書です。益軒79歳の宝永5(1708)年に成稿し、翌年梓行、そののち数版を重ねています。益軒は本書で、中国の明代に著された『本草綱目』(1596)などをもとにしつつ益軒独自の分類を加え、1362種にも及ぶ本草の由来や形状、利用法などを記載しています。

  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜
  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜
  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜
  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜
  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜
  • 本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜

本木了意訳/鈴木宗云撰次『和蘭全躯内外分合図』験号(本文)と図譜(スライド6枚)

明和9(1772)年 刊本

本書は日本で初めて刊行された解剖書で、原著はヨハン・レムメリンの‶Pinax Microcosmographicus″(『小宇宙艦』)の蘭訳本‶Ontleeding Menschelyke Lichaems″(『人体解剖』)です。通詞の本木了(良)意が『人体解剖』の翻訳を手掛けたのは天和2(1682)年頃と推定されていますが、当初は出版されず写本のままでした。ところが宝暦4(1754)年に山脇東洋による人体解剖の実験以降、解剖学への注目が一気に高まります。その中で、この解剖書の価値にいち早く気づいた周防の医師・鈴木宗云が本木了意の翻訳文を校正し『和蘭全躯内外分合図』として出版しました。これは、前野良沢・杉田玄白の『解体新書』が出版される2年前のことでした。

  • 森嶋中良『紅毛雑話』
  • 森嶋中良『紅毛雑話』
  • 森嶋中良『紅毛雑話』

森嶋中良『紅毛雑話』(スライド3枚)

天明7(1787)年 刊本

江戸時代中頃、紅毛人(オランダ人)を通じて入ってくる外国の情報は、当時の日本人にとって好奇の対象でした。本書は、その話題を一手に集めた編纂物です。編者の森嶋中良は、長兄の法眼桂川国瑞(甫周)が、宿舎長崎屋に江戸参府のオランダ商館館長を尋ねた際に同行しており、その時に質疑した内容や、桂川家に集まった蘭学者の話題に挙がった海外の珍しい事がらなどを記しています。本書は全5巻66項目で構成されており、地歴や動物、医学などについて平易な文章で綴られています。巻3には、顕微鏡で観察した写生図および顕微鏡自体の図を載せているほか、エレキテルの図なども見られます。序文は桂川甫周と大槻玄沢が、後序は前野良沢と宇田川槐園という著名な蘭学者たちが書いていることを見ても、当時の西洋の知識をまとめた重要な蘭学書として位置づけられます。

  • 宇田川榛斎訳・宇田川榕菴校『和蘭薬鏡』
  • 宇田川榛斎訳・宇田川榕菴校『和蘭薬鏡』

宇田川榛斎訳・宇田川榕菴校『和蘭薬鏡』(スライド2枚)

文政2(1819)年 刊本

本書は、江戸時代後期の蘭方医・宇田川榛斎が、和漢方で通常使用する薬草木と蘭方薬品とを比較するため、オランダの蘭学書や博物学書20数冊を抄訳し、西洋の薬と有効な日本や中国の薬とを照らし合わせて同定を試みた著作です。西洋の薬物を初めて本格的に研究した、代薬の試みを伝える先駆的な貴重書です。

  • ポンペ口授/松本良順筆記『原病各論』
  • ポンペ口授/松本良順筆記『原病各論』

ポンペ口授/松本良順筆記『原病各論』(スライド2枚)

(19世紀) 1~2、4~6、8巻、10巻 写本

ポンペJohannes Lijdius Pompe van Meerdervoort(1829-1908)は、安政4(1857)年から文久2(1862)年までの5年間、長崎に滞在して幕府の官医であった松本良順とその門人に医学の系統講義をおこないました。本書は、その時の病理学講義録です。本書に「松本氏蔵記」の蔵書印が認められます。ポンペの講義録は門人の間で転写されましたが、本書は松本良順による原本となったと考えられます。ポンペが近代病理学を最初に講義したことで本書は貴重ですが、行間の書き込みは松本良順の所感である可能性があり、松本良順研究においても貴重な資料です。

  • 平野重誠『病家須知』
  • 平野重誠『病家須知』
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平野重誠『病家須知』8巻(スライド3枚)

前篇(巻1~4)天保4(1834)年/後篇(巻5~8)天保5(1835)年 刊本

病気の治療において医療と同様、看護も非常に重要なものです。本書は体系的かつ一般的な養生兼看護書として日本初の書物と言われています。著者の平野重誠は江戸両国の薬研堀で開業していた町医でしたが、その知識は産科を含むどの領域においても抜きん出ていました。本書は、第1巻で摂生、養生の心得、第2巻で食物摂取の注意、第3巻で小児の養育について、第4巻で婦人の平素の心得、妊娠・分娩・産褥における心得、第5巻で梅毒性病が異邦から伝来したわけ、第6巻で傷食などへの注意、第7・8巻で産婆に専門技術的な事柄を教授しており、本邦初の産婆学教本とも言うことができます。

  • 上野彦馬抄訳『舎密局必携』3冊
  • 上野彦馬抄訳『舎密局必携』3冊

上野彦馬抄訳『舎密局必携』3冊(スライド2枚)

文久2(1862)年 刊本

本書は、日本での写真の開祖と称される上野彦馬(1838-1904)が訳した化学実験のためのマニュアル書です。長崎の御用時計師の家に生まれた上野は、海軍伝習所のオランダ人医師ポンペに化学を学んだのを機に、写真に興味を抱き、その後、津藩の堀江鍬次郎と共同研究の末、安政6(1859)年、湿板写真の撮影に成功しました。『舎密局必携』は、上野が堀江の協力を得て著した化学実験のための便覧です。開成所という幕府の洋学教育機関でも参考書として用いられました。上野は、堀江と共に津藩の藩校で化学とオランダ語を教えたのち、文久2(1862)年、長崎で写真館「上野撮影局」を開業。坂本龍馬、勝海舟ほか幕末維新を彩る人々を多数撮影しました。

  • 懐中持薬入
  • 懐中持薬入
  • 懐中持薬入

懐中持薬入(スライド3枚)

江戸期に唐物和物薬種売買問屋で妙薬調合も手掛けていた大坂・心斎橋の近江屋安兵衛店で制作・販売された旅行用の携帯薬入れです。厚紙の上に折りたたんだ紙袋がついており、中に薬が入れられるようになっています。「紫金錠、黒丸子、万金丹、奇応丸、真宝丸、安神散、薄荷塩」は、当時よく用いられた胃腸薬、解毒剤、口中清涼剤です。

  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具
  • 香道具

香道具(スライド8枚)

江戸期に使われたと伝えられている香道で用いる道具です。香箸・火箸・香匙・銀葉挟・鶯・羽箒・灰押という七つ道具などが含まれています。

  • 外科手術道具

外科手術道具

江戸末期~明治初期に用いられたと考えられる外科手術道具です。治療瘻孔刀(ヒストルメス)やコロンメス、鋭鉤、熊手(複鉤)、鑷子(ピンセット)、截除刀などが揃っています。これらと同型の手術道具は、江戸期に活躍した医師の華岡青洲も痔や乳癌の手術時に使用したとされています。

蛇頂石(スライド2枚)

かつて鳩居堂が販売していた人造の石です。ムカデ・蜂・蜘蛛・サソリ・クラゲなどによる刺傷や、マムシ・鼠・犬などによる咬傷に対して、その「毒気」を吸う効能があるとして第二次世界大戦前まで販売されていました。説明書によると、傷口に蛇頂石を当て置く、または熱をもっている所を蛇頂石で擦ると、痛みを止め、石が毒気を残らず吸い取ると記されています。

  • 薬局版木(小西薬局)

薬局版木(小西薬局)

近世~近代の薬種商では、薬を油紙に包み、その上から墨をつけた版木で薬名や薬屋名などを押印していました。昭和初期ものと考えられるこの小西薬局の版木には「百発百中実に良く効く 小西の百中散 小西薬局 たんせき風邪ひき 吉原仲之町」との彫が認められます。

  • ガレノス『自然の諸能力について』(1547年刊)

ガレノス『自然の諸能力について』

1547年刊

ガレノスGalenos(129頃-200頃)は、ローマ帝国時代のギリシアの医学者です。臨床医としての経験と数多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成を成し遂げたことで知られています。ガレノスの学説は、ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的な影響力を持ちました。ガレノスの生理学説を詳細に記した本書は、イギリスの医師トーマス・リネカーによる注釈本です。

  • ヴェサリウス『人体構造論』
  • ヴェサリウス『人体構造論』
  • ヴェサリウス『人体構造論』

ヴェサリウス『人体構造論』(スライド3枚)

1543年刊

『人体構造論』の著者アンドレアス・ヴェサリウスAndreas Vesalius(1514-1564)は、「近代解剖学の父」として知られています。ブリュッセル(現ベルギー)生まれのヴェサリウスは、本書の扉絵に見られるように自ら執刀しながら教授するという形式で実証主義的な解剖講義をおこないました。また、『人体構造論』に見られる精巧な図版からも、古典の医学書ではなく実験を重視するという独自の姿勢が顕著に認められます。その一方で、古代ローマ帝国時代の医師ガレノスの医学理論にも深く通じており、まさに「温故知新」の観点から近代解剖学を発展させました。「野間文庫」には国内外 でも珍しく、同書の初版・第2版・第3版が揃っています。本著作には300点以上の木版画による挿絵が含まれており、それらの写実的な解剖図は、ルネッサンス芸術と印刷芸術の進歩と医学科結合して科学的医学の原動力になっていたことを物語っています。

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  • アヴィセンナ『医学典範』

アヴィセンナ『医学典範』

1593年刊

本書の著者アヴィセンナAvicenna(980-1037)は、「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことで、ヨーロッパの医学・哲学に多大な影響を及ぼしました。彼の代表作『医学典範』のなかでも、本書は現存している種々の版の中でも極めて珍しいアラビア語の叙集です。

  • ハーヴィー『動物における血液と心臓の運動について』

ハーヴィー『動物における血液と心臓の運動について』

1639年刊

ウイリアム・ハーヴィーWilliam Harvey(1578―1657)は、イングランドで活躍した解剖学者・医師です。彼の代表作である本書で、ハーヴィーはひとつの系統のなかで血液は循環しているとする「血液循環説」を唱えています。

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  • レーウェンフック『自然の秘密』

レーウェンフック『自然の秘密』

1695年刊

「微生物学の父」とも称されるオランダの科学者アントニ・ファン・レーウェンフックAntonie van Leeuwenhoek (1632―1723)は、自ら製作した単レンズ顕微鏡で多くの原生動物や細菌、淡水性の藻類などを観察しました。本書には、肉眼では見ることできない顕微鏡を通して広がる「自然の秘密」が所せましと紹介されています。

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  • ジェンナー『牛痘の原因および作用に関する研究』
  • ジェンナー『牛痘の原因および作用に関する研究』
  • ジェンナー『牛痘の原因および作用に関する研究』

ジェンナー『牛痘の原因および作用に関する研究』(スライド3枚)

1798年刊

「近代免疫学」の父とも呼ばれるイギリスの医師エドワード・ジェンナーEdward Jenner(1749-1823)は本書で、当時しばしば流行していた天然痘の予防に、種痘(牛痘接種)法が有効であることを提唱します。この考えは、その後ヨーロッパ中に広がり、天然痘ワクチンの開発につながっていったことはよく知られています。本書は著者自身による献呈本であり、銅版画の挿絵は色彩が美しいことも特徴的です。

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  • ダーウィン『種の起源』
  • ダーウィン『種の起源』

ダーウィン『種の起源』(スライド2枚)

1859年刊

19世紀を代表する博物学者ダーウィンCharles Robert Darwin(1809-1882)は、「自然淘汰により生物は進化する」という画期的な理論を、20年にも及ぶ歳月をかけ、粘り強い観察と精緻な論理の積み重ねで築き上げました。その「進化論」をまとめたのが本書『種の起源』です。

  • コッホ『結核の病因論』

コッホ『結核の病因論』

1882年刊

「近代細菌学の開祖」とも称されるドイツの医師・細菌学者コッホHeinrich Hermann Robert Koch(1843-1910)による著作。コッホは生前、炭疽菌や結核菌、コレラ菌を発見し、細菌培養法の基礎をも確立しました。また、感染症の病原体を証明するための基本指針となる「コッホの原則」を提唱し、感染症研究の開祖として医学の発展に貢献した人物としても知られています。1882年3月24日に結核菌を発見したコッホは、本書『結核の病因論』を著し、人においても細菌が病原となり結核を引き起こすことを証明しました。

  • ドドネウス『植物誌』
  • ドドネウス『植物誌』

ドドネウス『植物誌』(スライド2枚)

1583年刊

ベルリン出身の博物学者ドドネウスRembertus Dodonaeus(1517-1585)が著わした本書は、一冊本ではあるものの全6巻、各巻5部から成る大著です。第1巻第1部が総論と植物名のアルファベット順の解説、第2巻は香りのある花や花輪になるような植物、第3巻は主として根が薬用にされる植物、第4巻は穀物、豆類、水草などの植物、第5巻は食用となる植物や園芸植物など、そして第6巻は樹木や、他国の植物を分類しています。どの巻も多彩な図版入りであり、それぞれの花の形態によって近種のものをまとめるなど、既に科学的な分類の萌芽もうかがえます。また、各植物の項目ごとに、種類、形態、生息地、花期、名称、性質、薬効、利用法などの説明が附されており、こうした近代的特徴を備えた系統的な分類手法は、後の植物誌のひな形ともなりました。

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  • ファブリチウス『解剖学全集』
  • ファブリチウス『解剖学全集』

ファブリチウス『解剖学全集』(スライド2枚)

1625年刊

本書の著者ファブリチウスHieronymus Fabricius(1533-1619)は、イタリア出身の解剖医・外科医です。比較解剖学や発生学の分野に優れた業績を残しており、本書はその集大成ともいうべき一書です。イングランドの解剖学者ウィリアム・ハーヴィーWilliam Harvey(1578―1657)はパドヴァ大学でファブリチウスに師事しており、静脈弁の存在を学ぶほか、ファブリチウスの実験に多くのヒントを得ています。その学びを糧に後年、血液循環論を提唱しました。

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  • ビドロー『人体解剖図、105図』
  • ビドロー『人体解剖図、105図』
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ビドロー『人体解剖図、105図』(スライド3枚)

1685年刊

本書の著者ホヴァルト・ビドローGovard Bidloo(1649-1713)はアムステルダム生まれの解剖学者です。本書の解剖図は当時の人気画家ヘラルト・デ・ライレッセGérard de Lairesse(1641-1711)が手掛けました。ビドローの精密な身体観察に基づき、ライレッセによって描かれた写実的な解剖図はどれも圧巻です。本書が誕生した17世紀はオランダ絵画の黄金時代にも該当し、解剖学においても当時オランダが抜きん出ていたことを物語る作品でもあります。

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  • カウパー『人体解剖図、118図』
  • カウパー『人体解剖図、118図』

カウパー『人体解剖図、118図』(スライド2枚)

1739年刊

本書の著者イギリスの解剖学者ウィリアム・カウパーWilliam Cowper(1666-1709)は、尿道球腺について初めて詳細な解剖図を描いたことでもその名を知られています。本書は、初版がでた当初イギリスでベストセラーになりましたが、内部の解剖図がその約10年前に刊行されたオランダの解剖学者ビドローの解剖書『人体解剖図』からの剽窃であることがビドローによって指摘され、名声と悪名の双方を得ることになりました。本書でカウパー自身がビドロー『人体解剖図』に新たに付け加えたのは、118図中13図だけとも言われています。一方、解剖図に附されたカウパーの解説は、独自の基礎研究に基づいた高い水準のものとなっています。

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  • アウエンブルッガー『胸部打診の新考案』

アウエンブルッガー『胸部打診の新考案』

1808年刊

ウィーンの開業医レオポルト・アウエンブルッガーJosef Leopold Auenbrugger(1722-1809)によって著された本書は、医学古典のなかでも最高水準の一書とされ、同年に出版されたモルガーニ『病気の座と原因』と共に、18世紀の二大医学書と言われています。本書では、新しい理学的診断法として胸部の打診法が提唱され、また種々の胸部疾患における打診音が詳しく記載されています。発表当初こそ医学界ではあまり注目されなかったものの、1808年にナポレオンの侍医長ジャン・ニコラ・コルヴィサールJean-Nicolas Corvisart-(1755-1821)によってフランス語訳されたことで、世界的に評価されるようになりました。

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  • バルトリン『古今の観察に基づく解剖学』
  • バルトリン『古今の観察に基づく解剖学』

バルトリン『古今の観察に基づく解剖学』

1673年刊

デンマーク出身の医師であり、数学者・神学者としても活躍したトーマス・バルトリンThomas Bartholin(1616–1680)は、胸管などを発見し、人間のリンパ系の研究で医学史に名を残した人物です。本書では、同じく医師であった父カスパーの研究を踏襲しつつ、身体の構造、内臓、血管系、リンパ系などについて詳述されています。本書の扉絵には、まるで生きているかのような人体を見ながら議論するギリシャの学者風の人物が描かれています。

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  • 『アンブロワーズ・パレ全集』

『アンブロワーズ・パレ全集』

1655年刊

「近代外科の父」と称えられるアンブロワーズ・パレAmbroise Paré(1510–1590)は、理髪外科医の見習いを経た後、軍医として銃創の治療経験を重ね、様々な画期的な治療法を考案したフランスの医師です。1585年に出版された『パレ全集』は17世紀までドイツ語、英語、オランダ語に翻訳されながら版を重ね、とりわけオランダ語版の本書は1592年からいくども再版されました。また、本書は日本の近世医療にも大きな影響を与えており、『紅夷外科宗伝』の著者である楢林鎮山(1648–1711)は『パレ全集』の記述と図版を大いに参照しているほか、整骨術に関するパレの教えは華岡青洲にも影響を与えました。

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