■トピックス  2019年

2019-08-23 日文研の話題

[木曜セミナー・リポート]異才×奇才――近代が生んだ南方熊楠と土宜法龍の対話(2019年7月18日)

 7月18日の木曜セミナーでは、思想史を専門とする小田龍哉・機関研究員が、「南方熊楠と土宜法龍――近代日本の宗教と思想再考」と題し、長年取り組んでいる南方熊楠研究の一端を紹介しました。
 
 2年前に生誕150年を迎えたのを機に、全国各地で展覧会が開催され、日本の近代思想・学術を語るうえでひときわ関心が高まっている南方熊楠(1867-1941)。和歌山市出身の生物学者・民俗学者であり、柳田國男をして「日本人の可能性の限界」と言わしめたほどの博覧強記で知られています。若くしてアメリカとイギリスに単身留学し、晩年は昭和天皇に進講するなど、国内外で一目置かれる存在でありながらも、終生を在野の研究者として過ごしました。

 一方の土宜法龍(1854-1923)は、伊勢出身(名古屋説も)の僧侶・仏教学者で、真言宗近代化の立役者といわれた人物です。演説の名手であり、小田研究員によると、「口八丁手八丁」で知られていたとか。南方とは、1893(明治26)年のシカゴ万国宗教会議に参加した帰途、ロンドンで初めて出会っています。

 発表では、この一癖も二癖もある両者の出会いの直後から、土宜の死の前年までの29年間に交わされた往復書簡152通のうち、前半期の118通について調査・研究した成果をもとに、それぞれの思想の特色と応答、その後の議論のすれ違いを時系列で振り返りました。研究者の間では「南方曼荼羅」で知られる図に代表されるように、現象の総体としての世界観を目に見えるものとして表そうとした南方の異才ぶりにはあらためて驚かされます。しかし、複数のペンネームを使い分けることにより、自分で自分に応答し擁護するという「ブーメラン式」論法を繰り広げた土宜法龍もまた、負けず劣らずの奇想の人だったことがわかり、収穫でした。

 「往復書簡から何か新しい理論が生まれたのか」というフロアからの質問に対し、「土宜がプロデュースした文通だったが、理論のくみ上げになり損なって終わった」という小田研究員の答えが、二人の関係性を端的に語り、印象的でした。
 
 
(文・白石恵理 総合情報発信室 助教)