■トピックス  2018年

2018-06-21 日文研の話題

[Evening Seminarリポート]かつてシナリオ文化が花開いた時代があった(2018年6月7日)

 6月7日、映画史家のラウリ・キツニック氏(京都大学人間・環境学研究科/日本学術振興会外国人特別研究員)を講師に迎え、英語によるイブニングセミナーが開催されました。

 “Scenario Culture: Rethinking Authors and Audiences of Postwar Japanese Cinema”(シナリオ文化――戦後日本映画の作家と鑑賞者について再考する)と題する今回は、戦後の日本で注目された映画脚本家の仕事と、その読者がテーマでした。

 ハリウッド映画に登場する昔の脚本家といえば、薄暗い室内で一人黙々とタイプライターに向かうイメージが一般的ですが、日本では1920年代に松竹キネマ撮影所に創設された脚本部に代表されるように、映画の脚本(台本)執筆は伝統的に監督と脚本家、さらに他のスタッフも交えて共同作業で行われてきたといいます。発表では、監督と脚本家の有名なコンビとして、溝口健二と依田義賢(よだよしかた)、小津安二郎と野田高梧(のだこうご)、50年代以降の黒澤明と橋本忍ら脚本家グループ、市川崑と妻・和田夏十(わだなっと)などの名前が続々と登場。時には「定宿」である箱根や茅ヶ崎等の温泉旅館にこもって執筆に没頭する映画人たちの熱気が伝わり、映画が大衆文化として花開いた当時の活況が蘇ってくるような内容でした。

 「日本映画の黄金期」と呼ばれた50年代の動向でとりわけ強調されたのが、撮影用の進行台本であった脚本がシナリオ「文学」として人気を博し、映画のファン層とは別の新たな読者を獲得していったという文化現象でした。高度経済成長とともにシナリオ専門誌や映画雑誌が続々と創刊され、シナリオが独立した作品として掲載される。さらに、「名作シナリオ集」や「シナリオ古典全集」が編纂され、競い合って刊行される様子は、さながら日本映画の聖典を生み出すかのような象徴的できごとだったとのこと。ちなみに、シナリオ作品集には現在も熱心なコレクターがいるそうです。
 
 
(文・白石恵理 総合情報発信室 助教)