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日文研の話題

[人コミュ通信 VOL.8]新型コロナウイルス感染症拡大をうけ、人文知にできること

2020.05.08
 新型コロナウイルス感染症の影響が多方面に出ているいま、この状況をどのように捉え、そのなかで「人文知」には何ができるのか。日本近代文学・文化史がご専門の坪井教授にお話をうかがいました。(人文知コミュニケーター:光平)
 

―Q1.  現状をどう見ておられますか。
 
 世界的な新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、いま世界保健機関(WHO)に批判が集まり、国連の機能低下を含むグローバリズムの挫折が顕著になっています。WHOやEUなど国を超えたレベルでの協力に困難が生じるなか、パンデミックを生み出したグローバリズムが、自己解決の厳しさに直面している――そういった現実にも目を向けていく必要性を感じます。
 他方で、私たちは国境管理に象徴されるように自国民を守って他を顧みない自国第一主義という陥穽に引きずられようともしています。あるいは国民国家への回帰だけでなく全体主義への回帰も見え始めている。また、ウイルス感染者追跡の中で、監視体制を強化する国も出てきていますよね。現代社会の主体と主権は市民/国民であるべきだと考えられてきましたが、その主体と主権を国家権力へ譲り渡していく状況もこれからは起こり得る。まさに民主主義が岐路に立たされている状況だと考えています。
 
 
―Q2.  今後、さらにどのような問題が出てくると思われますか。
 
 中央への権力集中と併行して、一見それとは真逆の細分化・個別化の流れも更に加速していくのではないかと危惧します。「個」が生存と生活の単位として固定されていく。そうすると、個人は自存自衛を考えざるを得ません。「自分で自分を守る」といえば聞こえはいいですが、ここには、自分を守りさえすれば他人はどうでもいいという利己主義にも繋がる志向も孕まれている。そのことにも気をつけるべきだと思います。
 また、日本でも合衆国でも自治体や州の首長の言動に注目が集まっています。国連やEUの力が低下するなか、国民国家の強化と同時に地方への権限の移譲を求める声が強まる。しかし、国際連携がこのまま機能不全に陥っていけば、二つの世界大戦を経験した後、健全で公正平等な市民社会を作り上げるべく人類が知恵を出し合って乗り越えてきたこれまでの努力の歴史が、水泡に帰してしまうかもしれない。こういう状況下だからこそ、どういう世界を再構築していきたいのか、一人ひとりがしっかり考えなければなりません。
 そんな中、例えば3月末にイギリス元首相が行った、世界が協調してパンデミック対策のために暫定的に「世界政府」を樹立する提案を私は荒唐無稽とは思いませんし、天動説的枠組に基づいて地球(globe)に住む人間に主眼を置く「グローバル」を超え、あくまでも惑星の一つである地球で起こる森羅万象の一部として人間の営みを捉えようとする「プラネタリー(planetary)」的な見方もまた、今後検討してみる余地はあると思います。
 つまり、私たちはこれまでとは異なる視点から、新しい個人と個人の繋がり方、新しい世界との繋がり方を模索していく必要がある。現状においては国境を閉ざすしか術はない。日本でも地方行政単位で閉じようとしています。確かに今はそうせざるを得ないかもしれない。しかし同時に、将来の世界像を個々人でイメージしそれを実現していくことが、今後、とても重要になってくると思うのです。
 
 
―Q3. 「人文知」にはいま、何ができるとお考えでしょうか。
 
人文学研究者の責務
 人文学は、主体というものをどう考えるか、個人というものをどう考えるか、個人と共同体との関係をどう考えるかということを、探求してきた学問です。この意味で、「人文知」は、現在進行形の問題に対してだけではなく、この問題が終熄した後の「ポストコロナ(Post COVID-19)」の課題にも今から備え、取り組んでいく必要があります。
 人文学の研究者には、自然科学者のようにワクチンや治療薬の開発といった直接的な貢献を果たすことは不可能ですが、感染症拡大が引き起こす、個人とそれを取り巻く共同体、国家、世界との関係の変化について、論理的に整理してそれを言語化することはできます。私たち人文学者は感染症対策そのものには直接関与はできないけれども、それを取り巻く政治に対しては発信する力は持っている。政治家(せいじや)たちに対峙するポリティクスです。人文学者として何を発信できるのか、常に考えておく必要があると思います。
 
次世代の不安に寄り添いメッセージを届ける
 人文学のもう一つ重要な使命は、若い人たちにどういうメッセージを送ることができるのかということです。高齢者の生命を感染症から守ることもとても大切ですが、次世代が抱える不安にも寄り添わなければなりません。この不安な現状に対して必要な言葉を求めている若者に向けて、「現在はどういう状況なのか」「この不安はどういう不安なのか」といった問いを言語化してメッセージを届けることにより、現状や将来を考えるきっかけをつくる。これも「人文知」の大切な役割だと思います。今後、どういう世界にしたいかを考えることは、どういう風に個人が生き延びて、そこで新しい生き方、生活の方法を作れるのかということに直結します。これにはユヴァル・ノア・ハラリ、日本では大澤真幸や宮台真司、斎藤環などがそれぞれの知見から、興味深いメッセージを発しています。
 
言葉の用法を分析し批判すること
 文学を研究しているので言葉のことがどうしても気になります。海外のstate of emergency のことは〈非常事態宣言〉と紹介する一方、日本国内の政策は〈緊急事態宣言〉と呼んでいます。〈非常事態宣言〉は〈非常時〉にあることを自覚させるものの、〈緊急時〉はスパンがかなり短く感じられて一種の免罪符として使われている。〈非常時〉はては〈有事〉〈戦時〉という言葉が常態化する4月以降の日本の空気には、抵抗を感じます。〈非常〉性を誰も否定できないため、細かなプロセスへの検証が置き去りにされたまま〈お願い〉や〈要請〉が実質的には〈指示〉や〈命令〉と同じ意味を持ち合わせるようになった。政権や自治体の行政が市民に要請している〈自粛〉は、ものの辞書によると「誰に頼まれたわけでもないのに自主的に行動を抑制すること」と定義されます。つまり〈自粛〉という用語には、頼めない/頼まない(要請できない/しない)という条件が含意されている。〈自粛しよう〉とは言えるけれど、〈自粛して下さい〉とは本来言えないのです。上の方からお仕着せされるこうした言葉のインフレーションに対する処方箋として考えられるのは、今が非常時だと考えるのなら、自分の意志と言葉で今が〈非常時〉だと名づけるということなのです。しかし〈戦争〉とは人が人を殺すことです。特にトランプたち為政者にはウイルスとの闘いである今の状況を安易に〈戦争〉になぞらえることには強く異議を呈したいと思います。
 
現代的な病を奇貨として
 今回の新型コロナウイルス感染症は、とても現代的な病だとも感じます。感染拡大はグローバル社会だからこそ起きた。その一方、オンライン化が進む現代だからこそこれに持ちこたえている部分も大いにある。私たちはこの現代的な病を前に、今まで経験したことのない個人のあり方を求められているのが現状でしょう。これが終熄したのち、すぐにハグする、キスする、皆で一緒にご飯を食べに行くなど、以前は当たり前だったことが、そう簡単に回復できるのだろうか。現在の事態が、人との関わりや繋がりにどんな変化をもたらす可能性があるのか。こういうことも、今から考えておかなければいけないと強く思います。
 現在の過酷な状況に対して一人一人が自分なりの世界像を作ること、そして個人のふるまい方や他人との関係の作り方、そして状況が落ち着いた後の社会について、あらかじめあらゆる可能性を考えておくことが求められている。その上で、この惨状下で必要となっている新しい理性や倫理の姿を丁寧に探しだし、過去はどうだったのかを検証し、そこから将来はどうなるべきかを考えるために、「人文知」の学びを生かしつつ、他者と一緒に育てていくことがとても大切だと考えています。
 
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