概要:
哲学者・梅原猛の学業を、ふりかえる。その仕事は多岐にわたる。ここでは、その怨霊論に注目する。日本史上の政争には、しばしば怨霊がかかわった。その鎮魂も、政治過程には影をおとしている。梅原は怨霊と鎮魂の政治史に肉迫した。歴史の見方に新機軸をもたらしている。その意義を小論は評価する。他の業績も、これとの関連で位置づける。
キーワード: 怨霊, アニミズム, アイヌ, 梅原猛
梅原猛は1925年に生まれた。今年(2025年)は、もう故人だが、生誕百年をむかえる。私どもがつとめる国際日本文化研究センターの、初代所長でもあった。事実上の創設者でもある。
私はこのセンターが設立された1987年から、ここにつとめだした。所長であった梅原とは、しばしば言葉をかわしている。百年という節目をむかえ、梅原を想いおこすことがふえた。この場をかりて、その学業などを、かんたんにふりかえりたい。
梅原は哲学をまなんだ人である。そして、生涯哲学者をもって任じた。しかし、いわゆる哲学研究らしい業績は、あまりない。
梅原は日本の歴史、文学、芸術の分析に健筆をふるった。そして、その読み解きでは、哲学への沈潜で身につけた手法を、いかしている。哲学者を自任しつづけたのも、そこへのこだわりがあったからだろう。
また、芝居の台本や小説も書いている。ひとつの枠にはおさまりがたい、大きな著述家であった。ただ、そういう創作文芸への評価は、私の手にあまる。論評はひかえる。
日本の歴史や文化を、どう解釈するか。その点で梅原ののこした最大の貢献は、怨霊への注目であったろう。
政治的な闘争は、結果的に勝者と敗者をつくりだすことがある。そういう場合、あとにはしこりがのこりやすい。勝った側は負けた側への配慮も、時にはほどこさねばならなくなる。
敗者が衆目の一致する優秀な人材であれば、なおさらである。ひきょうな手で相手をだしぬいた勝者には、とりわけ事後的な心配りが強くもとめられる。さらに、敗者のうらみが明白であれば、そのケアをおこたることはゆるされない。
日本では伝統的に、怨念をいだいた敗者が、しばしば怨霊化すると考えられた。世にわざわいをなすと、みなされたのである。じっさい、天変地異による災害は、よく怨霊のもたらすたたりのせいだとされてきた。
いきおい、勝者はその対策を講じるようしいられる。怨霊の沈静化に失敗すれば、凶事の責任もおわされかねない。そのため、勝者は敗者の怨念をしずめることに、細心の注意をはらった。たとえば、敗者を神としてまつりあげたりもしてきたのである。日本史上では、早良親王、崇徳上皇、菅原道真といった顔ぶれを想いつく。
ほろんだ政敵を、神としてうやまう。お前のことは神格化してやるから、俺たちのやることに邪魔立てをするな。イデオロギーの世界であがめてやるから、現実面の政治は俺たちにゆだねろ。そんな霊とのとりひきを公然とうちださなければ、勝者は失脚を余儀なくされた。
こういうアニミスティックな心性は、イスラム教圏やキリスト教圏では、まず浮上しない。そもそも、人が神になるという現象じたいが、みとめられてこなかった。東アジアの仏教圏でも、あまり類例を見ないだろう。だが、日本の仏教、とりわけ真言密教は怨霊の鎮魂にも、力をつくしてきた。
日本の歴史学をはじめとする人文諸学も、この日本的な現象を知らなかったわけではない。だが、サイキック・パワーが跳梁跋扈する歴史を、論文のテーマにはしてこなかった。とりわけ、科学的であろうとした20世紀後半の人文学は、そこから目をそむけている。もちろん、生産力の推移を重んじたマルクス主義の研究者たちも。
聖徳太子(574-622年)は、怨霊化をさけるために神格化されている(『隠された十字架―法隆寺論』1972年)。柿本人麻呂(687-707年)も、その例にもれない(『水底の歌―柿本人麿論』1973年)。梅原はそう論じた著作で、読書人をおどろかせた。やはり、あまり前例のない著述であったと、評せよう。
文献上で怨霊とそれへの鎮魂が、明白に記載されだすのは、8世紀末からである。聖徳太子や柿本人麻呂の生きた時代に、そういう現象があったことをしめす史料はない。伝統的な人文諸学の世界からは、以上のような反論もおこった。実証的な不備への批判も、まねいている。
しかし、反感の根には、政治過程の分析で霊的な事情を重視しすぎたことも、あったろう。また、梅原は政敵どうしの葛藤を、あまりに生き生きと描写した。なるほど、こんな争いがくりひろげられたのなら、敗者の怨霊化もやむをえまい。そう読者に思いこませるような書きぶりで、読み手をうならせた。やや、おおげさなこの文章も、学界人たちの生理的な反発をさそったろう。
ここでは、聖徳太子や柿本人麻呂の怨霊化説が妥当か否かを論じない。ただ、うらみをいだいた敗者が怨霊になりやすいと、日本でされてきたのは事実である。彼らが神としてまつられることも、よくあった。仏教がその鎮魂に協力してきたことも、たしかである。
どうして、日本ではそうなったのか。原始的に見える霊魂観が、世界宗教である仏教と共存、連携しあえたのはなぜなのだろう。梅原の疑問は、おのずとそういう方向へむかっていった。
そんな探究の過程で、梅原はある仮説にたどりつく。大陸からつたわった仏教が、アニミズムと融合する。その度合いが強いのは、もともと日本に長いアニミズムの蓄積があったからだろう、と。
日本列島では、縄文時代とよばれる狩猟採集の時代が、長くつづいた。考古学的な出土品からは、アニミズムの継続が想定される時代である。この一万年前後にもおよぶつみかさねが、外来宗教をアニミズムへ近づけてしまう。その文化的な基盤になったと、考えだしたのである(『怨霊と縄文』1979年)。
また、梅原はアイヌがのこしてきた民俗文化に、同じアニミズムの気配をかぎとった。たとえば、イヨマンテの儀式などに。そして、アイヌは縄文につうじる、アイヌの人たちこそ縄文人の末裔だと、喝破した(『日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る』1983年)。
創設当時のセンターでは、そのことをたしかめる共同研究もはじめられている。縄文人と弥生人、そしてアイヌの人たちは、どうつながるのか。あるいはつながらないのか。人文諸学のみならず理系の学問手法も動員して、研究がすすめられた。
その結果、梅原の着想は、おおむね肯定されることになる。たとえば、形質人類学はこう判定した。縄文とアイヌの人びとは、ともにモンゴロイドである。人骨を比較すると、いくらかの相違も見いだせるが、おおむねつうじあう。三者をくらべれば、いちばん異質なのは、むしろ弥生の人びとだ、と。今日のDNA解析でも、その位置づけは基本的にくつがえらない。
以前のアイヌは、しばしば日本人との民族的なちがいが強調されてきた。人種的にはコーカソイド、白人の一種である。その言語は、日本語と本質的にちがっている、などなどと。
梅原の仮説とセンターの共同研究は、そうしたじゅうらいの認識を、決定的にかえた。その意味では、大きな役割をはたしたと考える。
しかし、縄文のアニミズムに怨霊の神格化という形態があったかどうかは、わからない。なるほど、さまざまな霊魂崇拝の形があったことは、たしかだろう。ただ、勝者が敗者におびえ、打倒された側をたてまつる現象の存否は、確認されていない。考古遺跡からも、そういう精神面は読みとられてこなかった。
イヨマンテの儀式も、自分が打倒した政敵の霊にたいする恐怖とは、つながりにくい。ならば、いったいあの怨霊観は、いつどのようにして形成されたのか。そこのところは、未解明のままにとどまっている。
これを読んでくれた人が、その謎にむきあってくれればうれしく思う。
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"Trends in Japanese Studies" 編集委員会
(25 November 2025)
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