北村透谷の「文学」観については様ざまに論じられてきたが、「文学」概念をめぐる
当代の状況が十分解明されてこなかったことによって、いまだに混乱から抜け出していな
い[1]。その解決のために、ここでは彼の文章中に現れる「文学」とその同義語の大方を拾
い出し、それぞれの意味を文脈から判断して、その「文学」観の変化を跡付け、最後に、
その変化のよってきたる所以を考察する。なお、便宜のため、用法の分類には(算用数
字)を、用例の見られる文章には漢数字を付す。引用には『透谷全集』(岩波書店、第一
巻、第二巻、一九五〇)第一三刷(一九七〇)、第三巻(一九五五)第十刷(一九六九)を用い、第
一巻二二九頁を(一-二二九)のように略記する。
(1)「文学」すなわち文章術。
用例一「『日本の言語』を読む」(『女學雜誌』一八八九年七月)に〈国語に完、不完
を見んと要せば、会話及文学に於て其実際を見るを得べし〉(一-二二九)とある。あとに、
〈今や我国語は文学と共に猛進せんとす、文法整然とし、談論の法大に開け、修辞の学も
亦非常に進むの日、期して待つ可し〉(一-二三二)と述べられ、これらは修辞学ないし文
章術と同義と知れる。”literature”の語源、ラテン語の”litteratura”からくる用法で、
ヨーロッパ語圏では二〇世紀初めまで教育制度に存続するが、日本においては比較的早く、
減少する[2]。透谷においても、これに限られる。
(2)広義の「文学」すなわち人文学と言語芸術。
用例二「当世文学の潮模様」(『女學雜誌』一八九〇年一月号)。散文家・アディス
ン(John Addison, 1672-1719)、小説家・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)、詩
人・ポープ(Alexander Pope, 1688-1744)、ミルトン(John Milton, 1608-74)らとともに
評論家・歴史家として名高いカーライル(Thomas Carlyle, 1795-1881)を称賛。明治二〇
年代には、広く人文学の範囲を指すこの用法が支配的であったことは定説である[3]。文中、
〈文字の英雄は兵馬の英雄と異なる所なし、四海を飲の胆は愚か、宇宙を覆ふの大観念を
なすの力なくしては、文字の英雄とはなり難し〉(三−二七八)という。政治的ロマンティ
シズムが挫折して宗教的ロマンティシズムに転じた跡がうかがえる。なお、文中、〈何ぞ
一滴の涙を真の国家の為に流す者なきや〉(三−二七九)に国民国家主義が歴然としている。
用例三「文学史の第一着は出たり」(『女學雜誌』一八九〇年五月号)。関根正直「小
説史稿」を批判して、〈一の時代に其宗教あり、志想あり、哲学あり、外辺あり、其根性
あり、其種族あり、是等の者を観察し、究明するは文学史を編む者の任なり〉(一−二四
六)と述べ、そのような「文学史」こそが〈歴史の最純なる者〉(同前)であると主張。こ
の考えは文中に引用されているテーヌ『イギリス文学史』(Hippolyte A. Taine,
Histoire de literature anglaise, 4vol. 1864) に触発されたものだろう。ただし、テ
ーヌ『イギリス文学史』は明らかに言語芸術ジャンルを特権化する姿勢をもっている。北
村透谷も、この立場に次第に接近してゆく。
透谷が一八九二年に、恋愛感情への関心をにわかに高めたことは、よく知られている
が、「厭世詩家と女性」(『女學雜誌』ニ月号)、「粋を論じて『伽羅枕』に及ぶ」(
生前未発表、二月?)などを経て、「『歌念仏』を読みて」(『女學雜誌』六月号)には
〈日本文学史を観じ来れば恋愛に対する理想、余をして痛歎せしむるもの多し〉(一-三五
一)とある。坪内逍遙『小説神髄』が唱え、山田美妙・尾崎紅葉・幸田露伴らが実作に移
した「人情小説」に対して、キリスト教倫理や啓蒙主義の立場が広義の「文学」概念に
よって、「文学極衰」と非難する論陣を張り、その勢いを殺いだのちのことであり、透谷
も、その影の中にいることがわかる[4]。なお、この間、「松島に於て芭蕉翁を読む」
(『女學雜誌』四月)には、自然との〈冥合〉(一-三〇二)の境地への着目があり[5]、これ
は禅への関心につながろうし、「トルストイ伯」(無署名、『平和』五月号)では、トル
ストイ『わが懺悔』(Lev Tolstoy, My confessions,
1879-81)より、〈神は生命なり〉
(一-三二四)を引用、のちの「内部生命論」への通路がほの見える。
(4)狭義の「文学」の成立
用例四「文学一斑」(『女學雜誌』八月号)は内田不知庵『文学一斑』(一八九二)に対
する賛辞を連ねた書評で、〈其総論、及び詩論は多く古人の説を咀嚼して、以て我文学に
応用したるにや〉(一−四〇一)と登場する。『文学一斑』は、数理的思考に対して、哲学
などを含めて「情感的思想」を主とする文章を「文学」と定義、そのうち、詩(的精神)を
「純文学」の根幹とし、かつ、宗教的要素を重視する。透谷の宗教的ロマンティシズムと
言語芸術への関心を満たし、その「文学」観の形成に大きく働いたと見られる[6]。
用例五「処女の純潔を論ず」(『女學雜誌』一〇月八日号)に〈わが美文学は、宗教と
の縁甚だ深からず、別して徳川氏の美文学を以て然りとなす〉(二−二六)と見え、その例
外として芭蕉と馬琴とをあげ、『南総里見八犬伝』の仏教的側面を論じる。この「美文
学」は広義の「文学」と区別するために用いたもの。森鴎外「『文学ト自然』ヲ読ム」
(一八八九)、三上参次、高津鍬三郎合著『日本文学史』(一八九〇)「緒言」(「序文」には
「純文学」も)などに、「理文学」すなわち理知を主とするもの対して美的文章、すなわ
ち言語芸術の意味で用いられていた。論題は俳諧と小説にとられており、言語芸術ジャン
ルを意識した上で、その宗教性に着目するものである。馬琴の作品は活字化されて、その
流行は止んでいないが、仏教的要素への着目は珍しい。
用例六「他界に対する観念」(『国民之友』一〇月号)も言語芸術ジャンルに属する作
品を論じるもので、その趣旨を端的に示す〈我文学の他界に対する観念に乏しきこと〉
(二-四四)に現れる「文学」は、先の「美文学」と同義と見てよい。〈他界に対する美妙
の観念〉(二-四一〜四二)ともいわれている。論旨は、禅は想像力を閉じ、儒教は他界の美
醜を想わないゆえ、ロマンティックな美学の大敵とする。背景には日清戦争を前後する時
期の禅の興隆がある。同じころの「文界要報」(『女學雜誌』一〇月二二日号)も論じる
範囲を小説、評論、翻訳、戯曲と言語芸術の範囲に限定している。漢詩にも配慮し、洋学
者流との相違がうかがえる。
(5)「硬文学・軟文学」論争の中で
用例七「文界近況」(『平和』一一月二六日号)には〈純文学中にて彼の所謂艶話情語
を本色とするもの等は所謂軟派なるものに属し、文論史論等、其他或一定の主義を抱ける
ものを呼びて硬派となす〉(二-七六)とある。ここに透谷が民友社のいう「硬文学」を
〈純文学〉内の評論の類とみなしていたことが明らかである。もう一カ所〈禅は実に日本
に於て哲学上、文学上、宗教上の最大要素〉(二-七七)とあり、この「文学」も明らかに
狭義の「文学」ジャンルの意味で用いられている。
「硬文学・軟文学」論争の口火を切ったとされる三叉漁郎「文話数則」(『國民新聞』
一〇月二三日、日曜附録)は冒頭、小説に「軟文学」を代表させて、その衰弱をいい、史
論に「硬文学」を代表させて、その隆盛を述べ、「軟文学」の衰弱は〈理想派〉の実作が
存在せずに〈写真派の微弱なる文学が衰退〉しただけのこととし、〈今後の軟文学〉すな
わち〈小説戯曲〉の行き方として、〈硬文学を混化〉して、すなわち哲学、思想を学ぶべ
しと論じるもの[7]。言語芸術に〈理想派〉の出現や、その要素の拡大を望む趣旨で、その
意味では透谷も同意したはずだ。評論・エッセイは哲学、歴史、言語芸術にまたがり、そ
れ以上にも広がる。迂闊とはいえるかもしれないが、独自の「純文学」観念によるもので
はない。それゆえ、史論を言語芸術の範疇における硬派を代表するもののようにとった。
「文話数則」についで『國民新聞』に「大勢一斑」(一一月一三日)が載り、「硬文
学」の担い手を歴史家、論文家(エッセイスト)等とした[8]。この記事の〈論文〉は、
「軟派」のエッセイを排除してのものと受け取るのが自然で、主題・題材の「硬軟」をそ
のままジャンルの区別と短絡させたこの「大勢一斑」の主張が、民友社の主張と受け取ら
れ、翌一八九三年、森鷗外「無名氏に答ふる書」(『しがらみ草紙』六月号)も、内田不
知庵「今日の小説及び小説家」(『國民之友』七月三日号)も、この点を揶揄することに
なる。が、透谷は、「大勢一斑」を読まずに、あるいは読んだとしても、親交があった竹
越三叉の主張を受け取ったときのままに「文界近況」を書いたのである。
用例八「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』一八九三年ニ月号)中、〈彼は「史
論」と名づくる鉄槌を以て撃破する目的を拡めて、頻りに純文学の領地を襲はんとす〉
(二-一一三)は、よく知られた一節。もちろん、山路愛山「頼襄を論ず」(『國民之友』一
月一三日号)冒頭のいわゆる「文章事業説」を受けてのことだが、先の「文界近況」と同
様、透谷は、これを「純文学」内部のことと考えていた。〈撃破する目的を拡めて〉は
「人情小説」の類だけではなく、の意味であり、〈純文学の領地を襲はんとす〉は、実世
界相手の「事業」をもって、透谷が考える「純文学」すなわち精神的な高さに価値をおく
言語芸術の世界を踏み潰そうとしている、という意味である。史論を「純文学」すなわち
言語芸術の内部のことと考えたからこそ、透谷はいわば危機感にかられ、これを防衛する
姿勢を示したのである。
これに対して愛山は、自分のいう「事業」の意味は世間を相手の〈思想の活動〉(「明
治文学史」「凡例三則 吾人が所謂文学なる者の釈義」、『國民新聞』三月五日)[9]の意
味であると応接し、その意義を認めないキリスト者など、十把一絡げに「唯心的傾向」に
陥っていると非難すればすむ、という態度に出る(「凡神的唯心的傾向について」「唯心
的、凡神的傾向について」、『國民新聞』四月一六、一九日)[10]。もしかしたら、山路愛
山のこの態度は透谷にとって、ある意味で痛撃だったかもしれない。
(6)ある解決
用例九「和文学史」(『女學雜誌』ニ月号)は、刊行されてそれほど間もない大和田建
樹『和文学史』(一八九二)への書評。一応の措辞を述べつつ、〈文学史と題するからには
時代時代の思想の変遷、内部潮流の傾向を記述するにあらざれば、物足らぬ心地するな
り〉(二-一〇八)など不満を隠さない。この「思想」は仏教、儒教などの〈精神〉(同前)
のことで、宗教性の重視に変わりはない。透谷の「文学」観に変化が見えるのは、次の文
章である。
用例十「明治文学管見」(『評論』一八九三年四月)には〈余は之れより日本文学史の
一学生たらんを期する〉(二−一四七)とある。まず、一「快楽と実用」で、〈「快楽」と
「実用」とは疑もなく、「美」の要素なり〉(二-一五〇)と断じて、「美」をもって「文
学」の本質とすることを主張する。これは言語芸術、すなわち狭義の「文学」の考え方を
保とうとする姿勢を示すものであるが、そこに道義に役立つものを主眼とする「実用」を
ふくめている。愛山の主張は、いわば「実用」一辺倒だから非難した(二−一四八)とい
う論点整理が、このような主張を生んだともいえるだろうが、ここでは、これまでジャン
ルとしての言語芸術を前提にして、その内部における精神性の高さを論じてきた態度が、
精神性の高いものをすべて「美」に含める態度へと、いわば逆転して、「美」を書き方に
求めるのではなく、主題の範囲で論じる態度になっている。その意味では、民友社の「硬
文学・軟文学」の基準に対応して、その裏返しに陥ったのである。
ただし、この転換は、広義の「文学」の歴史を論じようとする姿勢が招いたともいえ
よう。透谷は書いている。〈明治文学の性質を知らんが為には如何なる主義が其中に存す
るかを見ざるべからず。純文界にも、批評界にも、或は時事界にも、済々たる名士羅列す
るを見る〉(二-一四九)と。「文学史」は、当時もいまも、ヨーロッパ語圏における中義
の”literature”、すなわち神学を離れた人間本位の「立派な文章」、ほぼ人文学の範囲
をカヴァーするもの。その中義の”literature”によって、伝統的に漢学を意味した「文
学」観念を組み替え、日本語による記述を加えて「発明」された日本のそれも、その点で
は同じである。それゆえ、この一般的基準に立っても、透谷が、その二で「精神の自由」
こそが新時代の向かうべきところと説き、三「変遷の時代」で福沢諭吉や中村敬宇を論じ、
四「政治上の変遷」において「国民精神」の変化を論じていること自体は逸脱ではない。
しかし、どのような題材をとっても、またどんな要素が混じっても、立派な文章なら
ば「文学」とし、そのうち、読者の情感に訴える、すなわち「美」を主眼におく書き方を
とるものを言語芸術とするのがヨーロッパ近代流の分類基準である。透谷が、この論文で、
はじめて行った「純文学」の定義は、「美」の追究という限りでは、この基準に寄り添っ
ているものの、主題をもって、その範疇を定め、その「美」の定義を自己流に拡大するこ
とによって、独自の観念を創り出すものとなったのである。
そして、その広義の「文学」の下位分類は、上記のように、「純文学」「批評」「時
事」となった。ここでは「批評」を「純文学」の外部に置いた。主題を法律・政治・経済
などにとって、一般論ないしはその過去、すなわち歴史を論じるものを指し、現下の問題
を論じるものを、それと区別して「時事」としたのである。いうまでもなく、これは通常
の人文学の内部分類、哲学・史学・文学(純文学)とは著しく異なる。哲学の範疇には宗教
学も倫理学も美学も含まれる[11]。
しかし、透谷なりの分類が通常とは異なるからといって、それをもって非難するには
あたらない。透谷はマシュー・アーノルド(Matthew Arnold, 1822-88)の主張、「人生の
批評」としての詩は「詩の理」と「詩の美」とを兼ねざるべからず、を引用して、「詩の
理」を人生の〈知覚〉、すなわち〈人間の性質を明らかに認識するの要〉(二−一五〇)と
論じている。〈然らざればヂニアスは真個の狂人のみ、靴屋にもなれず、秘書官にもなれ
ぬ白痴のみ〉と。これは、言語芸術ジャンルを前提にして、そのあり方を論じるマシュ
ー・アーノルドの主張の我田引水であり、かつ、人間精神のあるべき方向をもって、「純
文学」のあるべき姿とするものである。それは人間を人間たらしめている本質、すなわち
「人生」ないしは「生命」によって、すべてを統一的に論じようとする姿勢から必然化す
るもので、透谷自身は、言語芸術ジャンルを成り立たせる基準を無視しているとも、人間
精神のあるべき方向と混同しているとも感じない。
「明治文学管見」は、愛山との応酬を意識しつつ、愛山の「明治文学史」(一八九三年
三〜六月)に対抗するようにして書かれたものだが、文学史への情熱は以前からのもので
ある。用例三「文学史の第一着は出たり」にいう「文学史」こそ〈歴史の最純なる者〉と
いう思いは、「明治文学管見」中にも〈真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあ
るべし〉〈人生は文学史の中に其骸骨を留むるものなり〉(二-一六二〜一六三)と登場する。
そうであるなら、歴史もまた「純文学」の範疇に加えてよいはずなのだが、「純文学」の
あり方だけを関心事とする透谷には、分類など、どうでもよかったといった方がわかりや
すいかもしれない。
書き方と主題とを混同し、また区分の仕方をおざなりにした透谷独自の「文学」観は、
人文学と言語芸術とを内容とする広義の「文学」が定着してのち、言語芸術とその批評を
内容とする狭義の「文学」の尊重が次第に拡がる中で、自身、言語芸術ジャンルを尊重す
る態度を強くしていた透谷が、「硬文学・軟文学」論争を経て、「文学史」という広義の
「文学」を範疇とする問題の前に立ったとき、「文学」の広義と狭義とのギャップを一気
に埋めようとした際に、理想主義が働いてつくられたものといえよう。
用例十一「今日の基督教文学」(『聖書之友雜誌』四月号)には、〈宗教と哲学とは文
学の原素にして〉(二-一八二)とある。ここで三者の関係がはっきりさせられる。この
「文学」はカテゴリーとしての宗教、哲学の上位に置かれており、広義の「文学」のよう
に見えるが、透谷の考える「純文学」の意味で用いられている。「明治文学管見」中の
「純文学」を端的に言い表したものと知れる。用例十二「文界時事(1)」(『評論』第
二号、四月八日)に〈明治文学は、別して純文学は、驚くべき進歩をなせり〉(二-一七
九)と広義の「文学」と「純文学」との使いわけが見える。これも「明治文学管見」中の
使い分けと同じ。用例十三「文界時事(2)」(『評論』第三号、四月二二日)でも、
〈文学は一国のプライド〉(二-一八七)、〈純文学界に、剛強なる東洋趣味を得たるを喜
ぶことしきり〉(二-一八八)と使い分けは確定している。透谷における文化ナショナリズ
ムとアジア主義の同居も歴然としている。また、愛山に対して、〈君が純文学に対する希
望たしかに見えたり。吾人は寧ろ評論家として君を待つより、美文家として今日の文壇に
君を得んことを希望す〉(二-一八九)と述べている。「評論」は「明治文学管見」中の分
類の「批評」と同じ。用例十四「文界時事(3)」(『評論』第四号、五月)の内、小
題「小説の極衰」に〈愛山君の非文学説〉(二-二一八)と見える。この限りでは広義か狭
義か判断できない。なお、この文章で、〈全盛なるは浪六なりとは聞けど〉と述べたのち、
「探偵小説の流行」では黒岩涙香の翻案探偵小説について、〈元々江湖が相手なれば〉
(同前)とある。村上浪六の撥鬢小説は「純文学」の範疇に加え、探偵小説をそこから差
別する発言である。浪六を低俗視する内田魯庵「今日の小説及び小説家」「再び今日の小
説家を論ず」ともちがう。用例十五「賤事業辨」(『文学界』五月号)では、〈「事業」
を以て文学を論ずる標準とする〉(二-二三五)など、そもそも「文学」を論じる態度ではな
いと愛山の説を難じる。前例にいう〈愛山君の非文学説〉なる批判の中身を明確にしたも
ので、広義と知れる。事業を論じたければ「人物論」で、ともいう。その場合の「人物
論」は「純文学」ではなかろう。そして、自分には〈文学史上にて白石山陽等の諸氏の文
学上の価値を論ずる〉(二-二三六)つもりがあるという。この「文学」も広義すなわち
「立派な文章」の意。この範疇では愛山も〈文豪〉(二-二三七)とされる。
用例十六「内部生命論」(『文学界』五月号)にいう。〈文芸は思想と美術とを包合した
る者にて〉(二-二四一)と。またいう、〈文芸は論議にあらざること〉(二-二四四)と。
「明治文学管見」中の「批評」「時事」が「論議」と一括され、「純文学」が「文芸」と
呼び換えられている。「文芸」は、当時、言語芸術と美術とを総称する語として用いられ
ていた。この用法は当時、珍しいが、透谷歿後に言語芸術の意味で用いられてゆく[12]。
用例十七「偶思録」(『評論』七月号)に〈願わくは我が文学をして一層、国民的思想
に進ましめ、一層、一国の精神に関係あるものたらしめん〉(二−二六五)とある。「日清
戦争」後に坪内逍遥らが「純文学」と政治との乖離を批判して「国民文学」論を唱えたの
に同調しつつ、その乖離の原因を突きとめよ、と論じるもので、これは狭義の「文学」。
透谷流の狭義の「文学」の含意を考えれば、この主張の意味するところは瞭然としよう。
結論
「純文学」を、すなわち精神的価値の高いものとして追究すべし、という北村透谷の
考えは一貫しているといえるものの、その内部は、「文学」の広義と狭義の闘争期におけ
る「硬文学・軟文学」論争、「人生相渉論争」に関わることによって、さらには「想実
論」「国民文学」論などからも刺戟を受けながら、変遷を重ねている。カテゴリーの問題
としては「美」の範疇を広くとることによって、透谷なりの独自の「純文学」観の形成に
より一応の解決を見たというべきである。書き方と主題とを混同し、また区分の仕方をお
ざなりにした透谷独自の「文学」観は、人文学と言語芸術とを内容とする広義の「文学」
が定着してのち、言語芸術とその批評を内容とする狭義の「文学」の尊重が次第に拡がる
中で、自身、言語芸術ジャンルを尊重する態度を強くしていた透谷が、「硬文学・軟文
学」論争を経て、「文学史」という広義の「文学」を範疇とする問題の前に立ったとき、
「文学」の広義と狭義とのギャップを一気に埋めようとした際に、理想主義が働いてつく
られたものだった。決して十全な考察を展開し得たとは思わないが、紙幅がつきようとし
ている。少なくとも、彼の「文学」に関する用語法の変化を、その時どきの問題意識の変
化とともに吟味することなくしては、透谷の「文学」観の把握はおぼつかないということ
は明らかにしえたと思う。
人もいうように、その軌跡は、たしかに言語芸術において思想ないしは宗教をどのよ
うに扱うべきか、という問題との悪戦苦闘だったかに見える。だが、透谷は「文学」と
「宗教」の関係を追究したなどと論じること自体、ヨーロッパ近代よりも狭矮化した言語
芸術観を、はしなくも自己暴露することにほかならない。その狭さに対して透谷自身が警
句を発しつづけていたにもかかわらず。そして、透谷の悪戦苦闘は「文学」概念の再編成
期に行われたことは知られていても、その再編が日本にのみ生じた特殊性を帯びていた故
のこと、ということを思ってみた人はいなかった。日本前近代においては、宋学、陽明学
をふくむ儒学こそが「文学」であり、ヨーロッパの中義の”literature”、すなわち「立派
な文章」に沿って新たに発明された「日本文学」は、ヨーロッパの各国文学の基盤たる
”national language”すなわち国語の観念を度外視し、日本人が書いた中国語をもあわせ
たものをその内容とした。したがって、そこには仏教、道家思想、道教、国学をふくむ思
想がそっくり組み込まれることになった。これも神学と人文学とを厳然と区別し、キリス
ト教の要素の色濃い言語芸術は、それとして扱う制度を確立したヨーロッパ近代では考え
られない事態だった。今日でも、儒教が、キリスト教を基準にした「宗教」かどうかは解
決しようのない問題だが、そのような難問に取り囲まれて、とにもかくも、北村透谷は言
語芸術に関心を抱き、そのあるべき理想を論じつづけ、ついには言語芸術の範疇を度外視
した独自の「純文学」観念を案出するに至った。そこに屈折や混同が伴っていようとも、
いや、その屈折や混同こそが、この日本において、ヨーロッパ近代がそのまま規範足り得
なかったことの証というべきであろう。「文学」概念の問題は、日本近代文化史の根幹に
直接降り立つ通路なのである。
[1] 永渕朋枝「透谷は『軟文学』を代弁したのか」(『国語国文』、一九九二年一二月)は、当
時の民友社系の「硬文学」の主張と、それに対する批判の応酬について丹念に資料を収集
し、そこにおける北村透谷の見解を一貫したものして解明した好論文と判断し、『日本の
「文学」概念』(作品社、一九九九、誤植訂正版、二〇〇〇)の注でふれた。が、永渕朋枝『北
村透谷―「文学」・恋愛・キリスト教』(和泉書院、二〇〇二)に第二部第五章として収録
の際、補注(二一三-二一四頁)において、広義と狭義の「文学」概念について、鈴木の『日
本の「文学」概念』中の見解を批判した部分に混乱が見られた。そこで日文研ホームペー
ジ内の鈴木のホームページを用いて、これを反批判した(二〇〇三年九月)が、それに対し
て、永渕さんが寄せた反反批判から、彼女が民友社のいう「軟文学」がすなわち言語芸術
を意味するものとし、森鷗外、内田不知庵らの主張を広義の「文学」内のジャンル分けに
反対するものと解釈していたことが判明した。永渕論文を読み直してみると、北村透谷の
それをふくめて当時の論争の概念上の混乱を、そのまま反映したところが散見することに
気づき、それへの回答を公開し(十一月)、また本稿をまとめた。
要するに、この論争の筋をつかむことなく、「硬文学」すなわち「上の文学」、「軟
文学」すなわち言語芸術と整理してきた、これまでの誤りを指摘し、透谷が精神的な高さ
をもって「文学」をはかる価値観において一貫していたことを明らかにした点で、永渕論
文は大きな前進を示すものであったが、その論争自体に孕まれている混乱に惑わされ、
「文学」の「硬・軟」と、広義と狭義の対立とを関係づけることに失敗していたのである。
それに気づかなかった自身の不明を恥じ、ここに北村透谷研究会、一九九八年秋における
報告「北村透谷の『文学』概念」(北村透谷研究会会報、九九年六月)をまとめ直すに当
たって、その関係によく注意して、論の組み立てを変更したことを銘記しておく。永渕さ
んの鈴木への批判、および反反批判によって、明確にすべきことが明らかになったこと、
また、反反批判において、『日本の「文学」概念』中の誤記を指摘していただいたことに、
あらためて謝意を表しておきたい。
[2]西周『百学連環』(一八七〇頃、刊行は一九四七)をはじめ(『日本の「文学」概念』、前掲書、
W-1-Bを参照されたい)、福地櫻痴「日本文学の不振を嘆ず」(一八七五)などでも「文学」
概念中に文章術の意味は混用されているが、後者には早くも言語芸術重視の傾向が見える
(同前、W-2-@)。坪内逍遥『小説神髄』(一八八五-八六)中に一例登場する「文学」は文章
術の意味で用いられており(同前、二〇六-〇七頁)、この用法はのちまで残るものの(同前、
三七頁)、徳富蘇峰「言論の不自由と文学の発達」(一八八九)にいう「文学」は人文学と
言語芸術を指す広義の意味で(同前、Z-1-@)、このあたりから「文学」の語からカテゴリ
ーとしての文章術の意味が離れると見られる。
[3] ただし、それらの多くは、この概念がすでに徳川時代に成立していたとする中村幸彦
説に従っている点で誤りであり、また、狭義の概念が優勢となる時期をも見誤ってきた。
柳田泉説については『日本の「文学」概念』(前掲書、一五三-八頁)、平岡敏夫、猪野謙二
説については「『日本文学』という観念、および古典評価の変遷―万葉、源氏、芭蕉」
(日文研叢書22,井波律子・井上章一編『文学の近代−過渡期の諸相』、二〇〇〇)注を参照されたい。
[5] 俳聖・芭蕉と禅の結びつきは知られていたが、自然との〈冥合〉の観念を中心に論じ
る観点は、大正生命主義の中で全面開花することになる。鈴木「『日本文学』という観念、
および古典評価の変遷」(前掲)などを参照されたい。
[6] 西欧近代以降、今日まで”literature”の広義は、著述一般を指すのに対して、中義のそ
れ、すなわち”belles lettres”、”humanities”、”polite literature”とほぼ等しいそれが、
神に関する ”saintes lettres” に対立する領域として成立したことを思えば、日本にお
いて、その対立がさほど意識されることなく展開したことと、これは無縁ではない。ヨー
ロッパやアメリカにおいてキリスト教神学に付随するような形で展開していた宗教学が、
まったく疑われることなく、広義の「文学」(”literature”の広義、すなわち著述一般に
相当する「文学」は中国、日本においては用いられていないため、その中義に相当するも
のが広義となる)すなわち人文学の一部をなすものとされたこととも関係しよう。
[12] 鈴木『日本の「文学」概念』(前掲書、[-1-A)を参照されたい。
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