堀辰雄、「文化翻訳者」としての
一、 はじめに
ここで私に課せられているのは「文化翻訳」者としての堀辰雄を論じることである。堀
辰雄がジャン・コクトー(Jean Cocteau)やギョーム・アポリネール(Guillaume Apolinaire)
らフランス当代の詩人たち、またリルケ(Rainer Maria Rilke)のいくつもの作品の翻訳を
手がけていることはよく知られている。そのような文芸作品の個々の翻訳の問題を超えて、
彼がどのようにヨーロッパの文化とかかわり、どのような富を日本の文化にもたらしたか、
について考えよ、というくらいの意味に了解して、この課題に取り組んでみたい。といっ
ても、ことは文芸を離れるわけではない。だから、彼が西ヨーロッパ文芸をいかに受容し、
いかに論じているか、ということにつきるだろう。
最近しばしば目にする「文化翻訳」という語は、翻訳といえば言語作品のそれと決めて
かかってきた長い間の習慣に対して、それらをもふくめて、異文化コミュニケイションの
媒介項、ミーディアのあり方を全般的に問い直すという観点の移動を意味するものといえ
よう。そして、それは、それがどのような機運から起こってきたものにしろ、翻訳の問題
は煎じ詰めれば文化の問題だという、翻訳について関心をもつ人すべての実感に支えられ
て、容易に学術界に市民権を獲得したように見える。が、それが、ただちに言語の意味、
文法の問題と、それらに現れることのない背後の文化の問題の水準の差異とをしばしば混
同してきた、これまでの翻訳に対する考察を是正する方向をとるとも思えない。
たとえば日本語の一人称や、その省略の問題をめぐって行われてきた議論の中に、文法
とその言語を保持する集団の精神性とが混同されてきたことについては、すでに指摘して
きた[1]が、翻訳論が、言語習慣を超えたことまでを「文化」の名によって考察の範囲にと
りこむことによって、一層、その混同の度合いを高めはしないだろうか。文法の次元で処
理しうる、そして、そうすべき問題であるにもかかわらず、著者の個性をも突き抜け、あ
る時代の、あるいはそのような限定さえも超えた「民族」の精神的基盤の特殊性のような
ものまでをも、翻訳が示さなくてはならないという一種の脅迫観念のようなものに翻訳者
たちがとりつかれている場面にも出会う。たとえば、日本語の規範によれば、強い命令形
である「〜せよ」について、それを表面のみのこととし、その発話者の意識を忖度し、日
本における他者意識を考慮に入れて、それをやさしい誘いの言葉として翻訳しなければな
いないとするような場合が、そうである。「ひとには告げよ、海人の釣り舟」の翻訳をめ
ぐる、そのような議論に立ち会ったことがある。言語翻訳における文化還元主義といえよ
う。
そして、「文化翻訳」という語は、文化を、どのように定義するにせよ、むしろ、これ
まで以上に、それをシステムとしての言語に似せて考える方向に人びとを向かわせるので
はないか、という危惧を抱かせもする。言語を、何をもってひとつの単位として認定する
のかは、かなり漠然としている。日本語と琉球語は別の言語なのか、別の言語とするなら、
それはいつ分岐したのか、などの議論が尽くされているとは思えない。それでいながら、
語彙の意味や文法は、とりわけ国民国家の言語政策によって、かなり堅い規則をもつ体系
として、あるいは、そうあるべきものとして、認識されており、さらにつけ加えれば、そ
のような認識は、この半世紀ほどの間に構造主義によってさらに強固に打ち固められたと
もいえるだろう。こうして固められた言語システムに似せて「文化」を考える方向が強く
ならないことを祈ろう。
ある文化現象の異文化間の差異を「文化がちがう」といってすますのは、解明すべき差
異の生じる水準を見極めずに、その由来を「文化」に預ける態度である。そして、そこに
は、還元してゆく先の「文化」に対する一方的な裁断や無知ないしは神秘化が伴うのが常
だ。たとえばフランスの知性を機械論の創始者としてのルネ・デカルト(René Descartes)
に代表させるようなことが、白昼堂々と日本の学界でまかり通っている。が、これは極め
て近代主義に偏ったイデオロギッシュなフランス文化観である。機械論の創始者という限
り、それは当時デカルトのみが行いえたことを意味する。十八世紀後半からは、むしろフ
ランスの知性の基盤は生気論(vitalisme)に傾き、その中でデカルトの思考は孤立していた
ということを含意しているはずなのだ。十八世紀フランス思想を「前近代」とするなら話
は別だが、それにしても、そのデカルトでさえ人間は神の最も優れた被造物であるという
こと、その人間の身体のしくみを前提にして、機械を論じていることをカンギレム(Georges Canguilhem)は明らかにしている[2]。
そこで、なぜ、そのようなイデオロギュシュなフランス文化論が、今日の日本で定着し
ているか、を考えるような方向に、文化翻訳論、ないしは異文化交流史研究の舵を取るべ
きだろう。そして、それをイギリス文化、ドイツ文化の受容史などと比較しながら、そし
て、ヨーロッパ文化圏に対する日本文化、ないしはアジア文化圏という像が、どのように
伸びたり、縮んだりしながら、その縁を鋭くしたり、緩やかにしたりと変化してきたかを
考えること。それらはまだ、これからの課題のように思える。そのとき、文化翻訳という
視角の転換、ないしは領域の拡大の意義が発揮されよう。
私は、文芸を中心に、システムとしての言語ではなく、言語活動全般を研究の対象とし
ている立場から、翻訳の問題を、異文化間を仲介する活動として、その異文化意識の変化
をもふくめつつ、研究対象や視角のそれぞれに研究者が設定する次元や水準を明確にしな
がら考えてゆくための枠組として「文化翻訳」を了解したい。そのような枠組において、
堀辰雄の西欧文芸に対する態度を考察することが、ここでなすべき作業となる。そして、
文芸研究に文化研究を有効に結びつける、ないしは文芸研究の一環としての文化研究には、
表現と享受の現場に働く四つの重要な要素、すなわち思潮、概念=ジャンル、メディアとり
わけ出版、そしてリテラシーをあわせ考えること、海外文化受容に関しては、それを受け
取る際に、受容器、リセプターとして何が働いているかを考察することが必要かつ有効な
方法であること私は考え、提起し、研究を進めている。ここでも、それを応用してみたい。
二、「文化翻訳」における堀辰雄の時代
堀辰雄は西欧当代の芸術・文化に対して、学ぶべき遠い先行者としてではなく、同時代
を生きる親しいものとして接した。これは第一次大戦後の西欧文芸の新たな動向を受け取
りながら活動した若き詩人や作家たちに一定程度共通する態度だった。小林秀雄「故郷を
失つた文学」(一九三三)は、その態度を世代論としてはっきり述べたものだった。そのと
き小林秀雄の念頭には梶井基次郎が置かれていたのではないか、と書いたことがあるはず
だが、まずは堀辰雄の名をあげるのが順当だった。堀辰雄も自分たちの世代の特徴として、
このことを意識している。堀辰雄と小林秀雄の間で、それに類した会話がなされたことが
あったと想像してもよい。
コント「噴水のほとりで――」(『文芸春秋』一九三〇年七月号「モダン掌篇小説集」)の冒頭
近くに、こんな条がある。〈東京にだって近頃はこんなに面白いものがあんだぞ、是非見
てみたまへ、とむりやりに洋行帰りの友人を連れてきた、水族館のカジノ・フォリイも、
ただ彼を苦笑させただけだった。なんて気むづかしいんだろうと、私はさういふ彼にすこ
し反感をさへ感じた位だつたが、その彼が公園に巣喰つてゐる乞食達を一目見ると,彼等
がすつかり気に入つてしまつたのである。/「あれは、君、銀座なんかのハイカラ紳士より
ずつとハイカラだぜ」と彼は付け加えた〉(『堀辰雄全集』第四巻、筑摩書房、一九七七、18頁、
以下、四-18のように略記する)。
浅草観音堂裏に乞食どもが点在する光景に、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)の絵を感じ
る条が、このあとに続く。銀座のハイカラ紳士より浅草観音堂裏の乞食どものかもしだす
光景が西欧前衛美術に通じるというのは皮肉を効かせたナンセンスだ。堀辰雄はナンセン
スという言葉を避けているが、マックス・ジャコブ(Max Jacob)をめぐるエッセイに〈ポ
エジイは駄洒落に過ぎぬ〉(四-170)という過激な一言があることを思えば、そして、それ
が〈現実において最も離れ合つてゐる二つの事物も駄洒落の巧妙な一撃によつて、そこに
思ひがけぬそして微妙な調和を生ずる〉(同前)というアンドレ・ブルトン(André Breton)
がロートレアモン(Lautréamont)を再評価した際の言葉を応用した一句によって裏打ちさ
れていることを見れば、フランス当代の詩心と彼のナンセンス精神が気脈を通じたもので
あったことは明白だろう。
堀辰雄はドイツ語を学んだが、フランス語、英語も読むことができた。とくに同時代の
フランス文芸に強く関心をもち、フランスの文芸雑誌にも目を通している。日露戦争後、
各分野で、同時代の海外専門雑誌記事の翻訳紹介が次第に盛んになってきていた。しかし、
それだけでは、こうした冗談は成り立たないだろう。雑誌などを通して西欧の卑近な生活
のくさぐさについてまでも情報がもたらされるようになっていたし、なにより洋行帰りが、
それもエリートに限らない人びとの数が増え、また各種の外国人の数も次第に増えていた。
そして、都市の尖端風俗における西欧との一定の共通性が生じていた。大きく括るなら、
都市大衆文化形成期の様相が西欧とアメリカと日本に、互いに差異をもちつつも共通して
展開していた。精神文化の受容に加えて、生活情報の豊富化もなされ、かつ、物質的基盤
の一定の共通性の認識があったことが彼らの新しい文芸への動きを支えていたのである。
そして、日露戦争から第一次大戦後にかけて増大した国民全般の国力への自信も、その
認識を背後で支えただろう。さらに、文芸に関しては、もうひとつ裏側に働いたものを指
摘しておくべきだろう。
フランスでは、一九二〇年に新たに”NRF”の編集に加わったジャン・ポーラン(Jean
Paulhan)が俳句特集を組んだ。そして、ルナール(Jules Renard)のものをふくめて、マッ
クス・ジャコブらの短詩にも、俳句の影響が及んでいることは、すぐに彼らが知るところ
となった。これについては北川冬彦氏から直接聞いたことがある[3]。また、フランスとド
イツの前衛詩運動にかかわったアルザス出身のイヴァン・ゴル(Yvan Goll)がドイツ表現主
義は俳句の模倣からはじまったということを書き、その文章が日本でもいくつか翻訳され
ていたことは、日本の象徴技法は世界に冠たるものとぶちあげた萩原朔太郎「象徴の本質」
(一九二六)から知れる[4]。
この西欧における俳句受容の動きは、大正生命主義の流れが生んだ一九二〇年代の芭蕉
再評価の機運を刺戟した。西欧の前衛詩にも関心をもち、一高時代に萩原朔太郎『青猫』
を読んで、詩的哲学者になろうと思った (「二三の追憶」、四-138)と自ら語る堀辰雄が、
これらのことを知らないわけがない。つまり、彼の西欧モダニズムの受容には、日本の「伝
統」美学への意識が伴っていたのである。そして、このころにはソ連のエイゼンシュタイ
ン(Sergei M. Eizenshtein)のモンタージュ論やイギリス・イマジスムにも俳句受容が働い
ていたということが彼らのもとに届いていた。
堀辰雄と小林秀雄との間に、西欧文化受容についての世代論的な会話が交わされたとし
たら、それは小林秀雄が「私小説論」(一九三五)を書くまでの間のことだろう。「私小説
論」において、小林秀雄は突然、西欧と日本の文化の相違を主張しはじめる。西欧と日本
では「文化がちがう」。「マルクス主義」によって実証主義の浸透がもたらされたとし、
それを基準に、「伝統」を「いらない肥料」と退けてのことだ。その直前まで、現代小説
の方法をめぐって、あたかも小林秀雄とともに走っていた感のある坂口安吾などは、その
態度の豹変に裏切られたような気がしたのではないだろうか。
堀辰雄の方は昭和初年代に身に着けた態度を貫き通す。それは彼の詩誌『四季』の編集
の姿勢にも明らかだ。堀辰雄はリリシズムを尊重した人だから、したがって、この問題は、
堀辰雄がリードした『四季』派と亀井勝一郎ら転向左翼による『日本浪曼派』の抒情の質
のちがいにも及ぶ。昭和初年代に西欧文芸に対して同時代者として並行し、自ら創作、批
評を実践した人びとの間に、その後に生じた様ざまな亀裂を考え直すためにも、堀辰雄の
「文化翻訳」に働いた「伝統」意識をさぐることは意味をもつだろう。
三、文化翻訳における「伝統」意識
堀辰雄は早くから西欧現代文芸を「伝統」の上に花開いたものとして見ようとしていた。
〈伝統はいつも思ひがけないところに、みづみづしい姿をして、生き返つているのだから、
用心したまへ〉(「フランス文学を如何に観るか」、四-175)と。彼はコクトーの詩句にも
「伝統」を〈蘇らせるに充分な新しさ〉(四-173)を見ている。〈コクトオの新しさを理解
すること。彼のクラシシズムを理解すること〉(同前)。それは彼に、あるひとつの系譜を
読みとらせる。「アルテユル・ランボオ」(一九二六)では、アルテュール・ランボー(J. N.
Artur Rimbaud) の詩に強烈な「非欧化」の精神を読み取り、絵画におけるセザンヌ (Paul
Cézanne)と同様の[5]、当時は世に容られることのなかった革命家の位置を与え、その詩句
について、ほとんど「新感覚派」について解説するような言葉を与えながら、その系譜に
ダダや現代詩人たちを並べる。いわば反伝統の伝統を見ているのだ。
「小説のことなど」(一九三四)では、モーリアックが〈われわれの民族の天性に従つて、
構成し、秩序づけること〉(三-231)を尊重しつつも、イギリス文学やロシア文学、とくに
ドストエフスキー(F. M. Dostoevskii)の書く人間の不合理、不確実さ、複雑さを取り入れ
て、文芸をより豊富にする道を提案していることを紹介しながら、〈丁度、今日のわが文
壇はその当時に似てはいないか〉、〈モオリアックの出した問題は私達にもたいへん有益
に思へる〉(三-252)という。これは、日本では明治末に次ぐ第二のドストエフスキー受容
の季節にあたる時期の到来を的確に言い当てている。そして実際、室生犀星の「神々のへ
ど」について、〈ドストエフスキー的な人物を描こうと努力してゐるにせよ〉、モーリアッ
ク的に合理的方法ではなく、もっと野蛮で、混沌とした、「ずぼら」な行き方をとってい
るところに、〈日本人らしい、最も独創的な点がある〉(三-355)と評価している。そして、
この「ずぼら」の認識はプルースト評価と結びついてもいて、彼はそれを〈無構成の構成〉
(三-379)と名づけたこともあった。このように堀辰雄はフランス当代の文芸の背後にある
「伝統」と反「伝統」意識、異文化受容の欲求をよく知り、それを自らの同時代の日本文
芸の問題として考えていたのである。
堀辰雄は、このような態度を、同世代でいえば石川淳と同様、森鴎外にはじまる西欧文
芸翻訳者の系譜に連なる者として身につけていたと想われる。それゆえ、当代の日本に対
しては戦闘的な啓蒙家として振舞わずにはいられなくなることもあった。他者の作品に温
厚柔和な態度で接する堀辰雄の評言が、〈僕らの欲するのは、現在の僕らの作品を一遍に
時代遅れにしてしまふやうな、一箇の傑作でしかない〉(四−612)など、思いのほか過激で
あるのも、そのせいだろう。また、時として、〈現代の新しい傑作は何等のモダアニズム
なしに生まれ得るのであります〉(四-17)というような鋭い警句が発せられるのも、そのた
めといえよう。これはレイモン・ラディゲの「ドルジュル伯の舞踏会」(Raymond Radiguet,
Le Bal de conte d’Orgel, 1924)をめぐるエッセイ(一九二九)の結びの一句だが、このジャ
ン・コクトーが見出した天才による心理分析小説への礼賛は、堀辰雄のコクトーに対する
親しみだけではなく、芥川龍之介への敬愛と結びついて生まれたものといえよう。
そして、それは彼のモーリアック(François Mauriac)やプルースト(Marcel Proust)への
親しみを生んでゆくことにもなった。彼は、そのふたりの心理分析と表現の差異、さらに
はジョイス(James Joyce)とプルーストの差異をも充分意識していたはずだ。そのような差
異の認識は、〈我々の時代は、伝統的な「舞踏会」と革命的な「ユリシイズ」との間に板
挟みになつてゐる〉(「詩人も計算する」中「小説の危機」一九三〇、三-209)という時代認
識をも産んだ。ただし、板挟みの意識は解決の方向を見出しつつあったともいえよう。
堀辰雄は「フランス文学を如何に観るか」(一九三〇)で、ジィド(André Gide)がドスト
エフスキーやゲーテ(J. W. von Goethe)の名をあげ、「最もよいフランス的な頭脳は出来
るだけ外国文学の影響を受け入れ、それをよく消化しうる頭脳である」と述べた言葉を紹
介しながら、〈僕はフランス文学を学べば学ぶほど、それを学ぶことの必要を痛感すると
同時に、いつか日本文学の伝統についてもしみじみと考へずにはゐられなくなるのだ〉(四
-175)と述べている。この「伝統意識」についての国際的な理解と心理分析小説への親しみ
とが、日本のいわゆる「日記文学」へと彼が近づいてゆく契機となったことは疑いようも
ない。
そして、さらに、そのような「伝統」意識がいわゆる「支那趣味」に向いていたことを
も付け加えるべきだろう。さしあたり、それは「我思古人」(一九四一)という父親から受
け継いだ印鑑の篆刻についてのエッセイに知ることができる。そこでは、室生犀星、芥川
龍之介、佐藤春夫の名をあげて〈独自の文人趣味〉(四-131)という言葉を用いているだけ
だが、追記には〈「四婦人集」といふ詩集を手に入れた〉(四-134)とあり、そのうちに魚
玄機の名も見える。エッセイ「近況」には唐詩の一句も引かれている。当然といえばあま
りに当然だが、堀辰雄もまた、日本近代の知識人の西欧、中国、日本古典というトリリン
ガルな文化リテラシー[6]の「伝統」の中にいたのであり、その「伝統」をよく知っていた
ことにもなるだろう。このようして、われわれは堀辰雄において、日本の「文化翻訳」の
態度の逸早い成熟を見出すことができるのだが、同時に、こうした態度が、そして堀辰雄
の同時代者たちの「新しさと古さの共存」(加藤典洋)をめぐる認識が充分に掘り下げられ
ることなく、後代からの勝手な裁断にさらされてきたことに驚きもするのである。
先に引いた〈現代の新しい傑作は何等のモダアニズムなしに生まれ得るのであります〉
という警句が単に流行を追う態度に向けて発せられたものであることは、いうまでもない。
それはシュルリアリスムの没落など知ったことではない、という態度にも明白である。堀
辰雄はシュルレアリスムは〈われわれの芸術の見方を一変させた〉(三-205)が、その方法
は新しい芸術を生みはしないと断言している。見方を変えることと新しい物を生み出す力
との関係は微妙だが、ここに西欧の当代文芸への批判をもって接する態度も明確である。
そして、これは堀辰雄が、あくまでも現実に立ちつつ、現実から切り離された世界を築
く「新しい現実主義」(三-204)を志向していたゆえのことであり、それゆえに彼は夢を夢
として、観念を観念として追うことには厳しく一線を画した。「マルクス主義」の流行に
動じなかったのもそれに由来する。そこで、彼の西欧文芸受容にリセプターとして働いた
「新しい現実主義」について、次に検討してみたい。ことはジャンル意識にかかわる。
四、「文化翻訳」におけるジャンル意識
先に引いた〈我々の時代は、伝統的な「舞踏会」と革命的な「ユリシイズ」との間に板
挟みになつてゐる〉という認識は、「ユリシーズ」(James Joys, Ulysses,1922)は〈今日
の小説からジョイスによって新しく独立させられた未知の型式〉であり、〈小説とは別個
の文学〉(三-209)であるとする小説ジャンルに対する意識に立つゆえだった。それに対し
て、コクトーの小説の新しい形式については、コクトー自身が用いた「詩的小説」の呼称
を退けて、小説の伝統に立つ「もっとも現代的な小説」(三-209)と評している。別のとこ
ろでは「グラン・テカアル」(Le Grand Ecart,1914)を〈一箇の本格的小説〉(四-618)と呼
んでもいる。堀辰雄は自身の書くものが、一種の「私小説」であるという認識ももってい
た。それは、切実な告白の欲求に発する西欧の「私小説」とは異質の、〈わが国特有とも
いうべき、その種の小説の小じんまりした形式が自分には居心地よいような気がした〉か
らのことという。彼の師事した芥川龍之介の作品について、〈最も晩年のものを愛する〉(四
-560)といっていることを勘案すると、当時の言葉では「心境小説」に類するものだった[7]。
つまり、この「私小説」の語は「本格小説」との対比において用いていたと判断される。
堀辰雄のいう「本格小説」とは〈作家の異常な手腕によつて虚構された人間社会の生きた
カラクリ〉(三-209)と考えてよい。それを彼は小説の〈伝統的な法則〉(三-210)と考えてい
た。
彼にとって、小説とは、詩人の発汗のような詩とは異なり(三-208)、現実に立って、現
実から切り離されたフィクションを構築するものを意味した。「ヴェランダにて」(一九三
六)では、モーリヤックが小説の技術を〈現実の「再現」(ルプロダクション)ではなくして、
現実の「置換」(トランスポジション)である〉(三-245)と述べていることを紹介している。
自分は〈経験したとほりに書いたことはない〉(三-226)ということを彼は繰り返し述べて
いるが、西欧の現代小説に対する堀辰雄の関心も、経験にフィクションの形式をあたえる
方法を焦点とするものだった。それは彼が自作の「麦藁帽子」について、将棋の駒のよう
に登場人物を動かす方法をとった「聖家族」のあとで、それとは対極的な〈一人の娘を語
り手に映つている側からのみ描いていつた〉と述べているように、小説の方法について極
めて意識的だったからのことだが、この〈語り手に映つている側からのみ描いて〉ゆく方
法は、あくまでも架空に設定した一個の「語り手」の知覚の変化に着目しつつ書く方法だっ
た。「麦藁帽子」(一九三二)では、それは、〈素つ裸になることは、何と物の見方を一変
させるのだ〉(一-241)など解説的になされているが、「美しい村 或は 小遁走曲」(一九
三三)では、帽子の上に落ちてきた〈何だか雨粒のようなもの〉(一-342)に触れてみて、そ
れが桜の実だと気づき、そして〈昔馴染の桜の老樹〉に出会うという知覚の成り行きを再
構成し、記憶想起と結びつけて書かれることになる。
堀辰雄が、事実ではなく、実感に基づく作家だったことは、嘉村礒多とのやりとりにつ
いて書いた「嘉村さん」の中でもはっきり述べられている(四-68)。実感主義は、西欧近代
のロマンチシズムの理念とリアリズムの技法を日本の文芸がうけとりながら、「国学」的
な情の美学と経験的事実を尊重する「漢詩」の精神を受け皿にすることによって、創造的
で想像的であることを第一義とするロマンチシズムの価値観が脱落し、実感や実景を描く
ことが理念化されてゆくところに生じたと考えられるが、世紀転換期の西欧哲学の転回の
影が、それを促したというのが私の持論である。世紀転換期の西欧哲学に生じた転回とは、
ヘルムホルツ(H. L. F. Helmholtz) による聴覚の仕組みの解剖学的解明などを土台にして、
観念論と物理法則還元主義の機械的唯物論の対立を超えて、知覚こそが世界認識の要素で
あるとするマッハ(E. Mach)の感覚主義にはじまり、ウィリアム・ジェイムズ(William.
James)の「純粋経験」(pure experience, non-reflective consciousness)や「意識の流れ」、
ベルクソン(H. Bergson)の「意識の直接与件」としての知覚、フッサール(E. Husserl)の
「先験的現象学」などの哲学の流れを生み、唯物論にもレーニン(V.I.Lenin)『唯物論と経
験批判論』(Materializm i empiriokrititsizm, 1909)が出て、一九世紀機械論からの脱却
がなされた。この哲学の新たな動向は、日本にも新しい主観ないしは客観、主客合一、直
観による本質把握などの観念の流行を生み、文壇にも田山花袋に「事実そのまま」から「見
たまま聞いたまま」へ、すなわち「平面描写」への転換を促し、生命主義の流れには岩野
泡鳴の「一元描写」を生んだことも繰り返し説いてきたことである[8]。一時期の「自然主
義」作家、島崎藤村や徳田秋声が登場人物の「目つき」を形容、説明することで、その心
理を「暗示」するかの技法を連発したことさえある[9]。そうした流れに、さらに豊島与志
男の「意識の流れ」の手法などを加え、梶井基次郎が独自の意識の再構成の手法を生み出
していたこと[10]などを考えあわせれば、ジョイスやプルーストの方法にも意識的だった堀
辰雄において意識の動きを再現する方法の獲得がなされたことは、決して突然変異的なも
のではなく、たしかな「伝統」の上にあったことといえよう。
この「伝統」に、もうひとつ考えあわせてみなければならないことがある。美術と描写
との関連である。堀辰雄は、ラディゲやモーリヤックの心理分析に強くひかれつつ、登場
人物の顔が想い浮かぶかどうかをめぐって、〈小説が心理的であればあるほど、その小説
は少なくとも視覚的ではなくなるものらしい〉(三-230)と述べ、さらに〈しかし、小説に
おいて読者に漠然たるものを与へる方がより効果的であるのは、何も視覚的なものばかり
ではあるまい〉として、「テレーズ・デケイルウ」(Thérèse Desqueyroux,1927)について
のモーリヤックの自解を引用して、登場人物の心理を無自覚、無意識のままにしておく方
法を述べているが、これは、それまでの彼が、いかに視覚的な効果というものを重視して
いたかを逆に示している。
堀辰雄にもあった「支那趣味」を、彼が篆刻について書いたエッセイから知ることがで
きたが、彼の西欧文芸に対する接し方には、「伝統」意識とともに、西欧美術についての
勉強が密接に関係していることを、その特徴のひとつとしてあげることができる。彼が浅
草の乞食にピカソの絵を連想し、ランボーを論じて、セザンヌを引き合いに出していたこ
とは、すでに述べたが、彼の西欧の小説の鑑賞が絵画を連想しながらのものであったこと
は、枚挙に暇がない。レンブラント(H. Rembrandt)、モネ(J-D. Monnet)、セガンティーニ
(G. Segantini)、ルノワール(P. A. Renoir)、キリコ(G. de Chirico)……。彼の「マルセ
ル・プルウスト」が〈僕はプルウストをベルクソンやフロイドに結びつけて考へようとす
る人達をよく見かけるが、僕はプルウストは、さういふ哲学者や心理学者たちよりもずつ
と深い暗示を、これら印象派の画家たちから得てゐるやうに思はれるのだ〉(三-367)と書
き、そのあとで、プルースト自らが「失われた時」(A la recherche du temps perdu,1913-27)
を「ベルクソニスムの小説」と呼んでいることに言い及ぶ構成をとっているのは、それを
知る以前の自身の見解をぜひとも示しておきたいという意志の現われだろう。
プルーストがラスキン(John Ruskin)を論じていたことを堀辰雄は知っていた。ラスキン
にも印象派にも、知覚や、その変化についての着目があり、それらと哲学の新たな動向と
の相互干渉は充分解明されているとはいいがたい。日本の描写論も、その射程に国木田独
歩のコロー論(『武蔵野』一九一一)などを入れ、また正岡子規の写生論を斉藤茂吉が受け
継ぎつつ、後期印象派の絵画をその短歌に取り入れたことなどを総括的にとらえることが
必要となろう。堀辰雄もまた斉藤茂吉に深く影響を受けたひとりだった。彼のいう「新し
い現実主義」とは、このような西欧哲学と美術と文芸、それらを受け止めつつ独自に日本
で展開してきた文芸の動きのないあわされた流れに立っていた。そうである以上、彼が夢
や観念を厳しく排除する理由も自ずと知れよう。
「美しい村 或は 小遁走曲」と名のつく作品を書いた堀辰雄が西欧音楽にも関心を
もっていたことはいうまでもないが、他のジャンルとのかかわりで、もうひとつ着目すべ
きは、映画についてである。「小説の危機」(一九三〇)において、ジィドのいう「純粋小
説」、「小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く」に賛同しつつ、〈筋とか、
事件とか、風景などは、すでにシネマの領分に入つてゐる。それらのすべてはシネマに任
せてしまふがよい〉(三-208)という。そして、これを応用して、彼は室生犀星に宛てて、
あなたの小説は〈レアリスムとして欠陥を持つてゐるのは、一つはあなたの方法が映画の
方法からあまりに多くのものを借りてゐる〉(三-221)とも述べている。「不器用な天使」(一
九二四)で試みた映画技法の安易な利用への自戒もあろう。これなど、一九三五年前後から
の、高見順らの描写を嫌う饒舌体の発生の秘密を、少なくとも、そのひとつの要因を明か
しているといえよう。このようにして、堀辰雄の西欧文芸受容の問題は、ジャンル意識や
ジャンルを超えた文化受容の新しい「伝統」の解明へとわれわれを導いてくれるのである。
[2] ジョルジュ・カンギレム『生命の認識』(La connaissance de la vie, 1952,1965)杉山
吉弘訳、法政大学出版会、ニ〇〇ニ、127-128頁を参照されたい。
[3] 「北川冬彦氏に聞く」、『早稲田文学』一九八一年九月号、『梶井基次郎全集』別巻(筑
摩書房、ニ〇〇〇)所収。
[4] 鈴木貞美「解説」『大正文学全集、大正十五年』(ゆまに書房、二〇〇三)を参照された
い。
[5] セザンヌに対するこうした評価は、当時はかなり一般的になっていたと思われるが、そ
の日本でのはじまりについては、稲賀繁美「『白樺』と造形美術:再考―セザンヌ「理解」
を中心に」(『比較文学』三八巻、一九九五)を参照されたい。
[6] さしあたり、鈴木貞美「日本近現代文芸、文化史を書き換える――その原理と実際、そ
して、東アジア国際共同研究の課題」(高麗大学校日本学研究所国際学術シンポジウ
ム「日本文化研究――その方法論構築の方案」基調報告、同報告書、韓国語訳付、
2002、および、その改定版、日文研鈴木貞美ホームページに2003年7月より掲載)
を参照されたい。
[7] 鈴木貞美『梶井基次郎の世界』(作品社、ニ〇〇ニ)103-104頁などを参照されたい。
[8] たとえば「宮澤賢治の生命観」、『国文学 解釈と鑑賞』ニ〇〇三年九月号を参照された
い。
[9] 野口武彦「『鋭敏なる描写』の文法」『文化記号としての文体』(ぺりかん社、一九
八七)51-55頁を参照されたい。