文藝より遠く離れて--映画的身体論への素朴なコメント

  それはなにか亡霊を呼び出したような具合だった。必要に迫られて金井美恵子の、ほかに分類不能なので とりあえず小説、とでも呼んでおくほかあるまい『柔らかい土をふんで、』(1997)に近づき、ながらく意識下へと 抑圧していたものが、ヌッと頭をもたげてきた。

映画仕立て、 という著者の後書きの種明かしを導きの糸としてこのテクストを読むのは、 あえて著者の仕掛けた 罠に嵌まってみせるという愚行を犯す以外のなにものでもあるまいが、まずはこの常套的かつ凡庸このうえない作業を 演じてみる。ジャン・ルノワールの『牡犬』(1931)で、 情婦をナイフでめった突きにして殺害する中年男のシーンに まつわる映画的映像記憶の執拗なる記述。わずか十数秒の場面に割かれた金井の記述を朗読するには、優に数倍の時間と 忍耐とを要する。この倒錯的な遅延の拡大が齎す苦行=快楽 passionとしての絵解き=エクフラシスを含む部分の章立てには、 「外套と短剣」とある。フリッツ・ラングによる『牡犬』のリメイク(1945)の題名だと、ご丁寧にも後書きで注釈される この章は、しかし元来は蓮實重彦による『オペラ・オペラシォネル』という、これまた扱い方 modus operandiの 分からない文藝作品への、金井の「書評」だった筈だ。ところがそこには批評めいた言辞は一切欠如していて、金井の小説世界に 接続可能な「部品」が--山括弧を付して--出典不明記のまま、組み込まれている。蓮實と金井が、かつてたがいに相手の 原稿を斧正したゲラをそのまま公表していたことも、ふと思い出される。相手の文体的不倫には、校正鉛筆の短剣が応える。 金井の蓮實に対する関係が、ラングのルノワールに対するそれをなぞり、読者は文学機械の野合的交接の犯罪現場を 窃視する権利/義務を、無理やり強制される。

「柔らかい土をふんで、」と始まり、何度もの差異/差延を含んだ反復の末、「柔らかい土を踏んで、」と句点では おわらない文章によって閉ざし損なわれ--ヴィム・ベンダースの『都会のアリス』なり、トリュフォーのいくつかの 作品でもお馴染みで、『凡庸なる芸術家の肖像』にも取られた、この紋切り型の円環構造の内部に閉ざされ--損ね--た息の 長い言葉の羅列からなる没閉鎖系の内部では、ふいに句点にお目にかかる度に、かえって落下にも似た目眩に襲われ、次ぎの 瞬間には誰が「わたし」なのか突如として判別不可能となり、はては作中に絵解きされた殺害犯人に緊急避難の場所を 提供した筈の女性たちが、どうやら映画の鑑賞者かつ地の文章を綴っているらしい女性の周辺の私小説的会話の 話者たちらしい--といった混線も、それがいかなる説話的構造を組み上げているのか、自由間接話法が幾重にも重畳した 濃密なテクストは、克明な細部に阻まれて、二・三度読み直した程度ではいっかな読み解けず、低能で怠惰な読者は、解こうと すればますます晦渋と混迷の度を深める迷宮のうちへと、作者の目論みどおりに絡め取られてゆき、気づいた時には 脱出不能となっている。

そのより陳腐な模型としては、アラン・ロブ・グリエあたりの、因果律をわざと逸脱し転倒させて既視感を露骨に 際立たせた、あの教壇映画学のイロハを裏切ってやまぬ映像的記憶。そこに蓮實的韜誨--と言われつつ、その実 フランス的小説作法に登場した自由間接話法と執拗なエクフラシスの伝統を日本語で忠実に模倣=実践すれば容易に 得られる異化作用--を機軸に、松浦寿輝的皮膚感覚の"女性的"変装と形容することがあらかじめ禁じられている濃厚 かつ鋭利な触覚と、二歳で映画を見始めたという著者の臭覚的記憶とがコーティングされ、ここに現れた文章以外の形は 取り得ない結晶を結ぶ・・・ 「やっぱり男は分かってくれない」。愚かものめという著者の罵倒を聞く前に中断しよう。 一言リヴィア・モネに感謝、