第三回国際北斎学会 in 小布施--外から見た北斎像と内なる画狂人像との相克

  北斎没後百五十年にちなみ、表題のような国際研究集会が四月十九日から四日の日程で開かれた。 小布施は北斎が晩年に土地の豪商、高井鴻山に招かれた土地で、岩松院の鳳凰の天井画や、祭り屋台の龍や男波、女波と いった作品が今に伝えられる。長野県信濃美術館では、ライデン国立民族学博物館のマティ・フォラーの企画による 『北斎:東西の架け橋』展も開催されている。

それにしても、北斎ほど近年に至るまで内外の評価の格差が激しかった画家もあるまい。いやそもそも、一介の 浮世絵師風情を画家といった範疇に仲間入りさせることに、ほんの二十年ほど前までの日本では激しい抵抗があった。 東京帝国大学の美術史教授だった藤懸靜也が最終講義で一度だけ浮世絵の話をした、というのは有名な逸話である。 また『日本美術の特質』という名著の著者、矢代幸雄にしても、なお室町水墨画に最高位を認め、浮世絵には辛い評価しか 与えていない。初日の基調講演を行ったドナルド・キーン教授は、ここに、ひたすら江戸時代を封建の暗黒時代に 染め上げた、時代的制約を認めていた。

ところが北斎に日本を代表させる見方にも、思わぬ陥穽が待っている。『富嶽三六景』の主要作に見られる深い藍色は、 実は最新輸入のベロ藍、すなわちプルシアン・ブルー。あまりにも有名な「神奈川沖波裏」の近景の巨大な波濤と円形の 小さな円錐の富士との対比も、実は北斎が理解した遠-近法、すなわち西欧の透視図法の成れの果てだった。また人物の 顔を円を組み合わせて略画にする秘訣も、じつは森島中良が舶来の画法書から取った挿絵を応用したもので、その起源は デューラーにまで溯られる。北斎ならではの東洋の神髄としんじられてきた多くの特質が、実は東西の出会いのなかで 花開いたものだった。

そもそも、北斎をミケランジェロやレンブラントに匹敵する東洋の巨匠へと格上げしたのも、十九世紀後半のフランスを 中心とする前衛批評家たちの仕業だった。アカデミーの因習を打破する鑑として、ジャポニスム流行のなか、北斎は浮世絵の 代名詞として、民衆複製芸術史観の支えとなる役割を果たすことになったのだ。そんなフランス人たちの勝手気ままな 北斎評価を最初は苦々しく思っていたアメリカ人、フェノロサも、その晩年には小林文七に頼まれて、北斎の浮世絵版画展に 協力する。だが一九〇〇年のパリ万国博覧会を前にした大日本帝国は、ちょうどそのころ北斎や浮世絵を公式美術史の 枠組みの隅に追いやろうとしていたのだ。

お雇い外国人キヨッソーネ、パリに目黒の大仏を持ち出したセルヌーシといった明治初期の訪日外国人の軌跡を追う企画が、 このところ目白押しだ。外の目が捉え、外からの評価によって築かれた日本像を、改めて歴史的に問い直す時期が来ているようだ。