官製「日本帝国美術史」の誕生--正史編纂の舞台裏に隠された歴史観の葛藤

 『稿本日本帝国美術略史』という本がある。1900年のパリ万国博覧会を機会に出版されたフランス語版の Histoire de l'art du Japonの日本語原稿『帝国美術略史稿』が1916(大正5)年に一般向に縮刷再版されたものだ。 帝室博物館編、菊版484頁、図版368の大著。近代日本国家が最初に編纂した官選の日本美術史である。最近 この書物を巡る議論がかまびすしい。

  まず注目すべきは、本書がパリ万国博覧会を目指して編纂されたことだ。日本美術史なる構想は、あくまで 外向きに「我国光を発揚せん」がために編まれたことになる。さらにそこには東洋の覇者としての日本の位置づけも 反映していた。九鬼隆一の序文に曰く、「支那印度に於ける数千年来の文華は、寧ろ其の本国に餘葩を留むるもの 少くして、却て我日本帝国に於て遺芳を放つもの多し」。 すなわち「日本帝国」こそ東洋美術の精髄を保存している 「東洋の宝庫」であり、日本美術史を編むことは、たんに日本一国のみならず、東洋全体の美術史を描くことに通じ、 しかもその偉業は「支那および印度の国民に望むべからず、応に東洋の宝庫たる我日本帝国民にして始めて能く 完成するを得べきのみ」、と九鬼は宣言する。

  これに先立つ著作としては、民衆芸術に主眼を置くジャポニスム史観の試論たるルイ・ゴンスの『日本美術』(1883)や、 イタリア・ルネサンス中心史観を日本に当てはめて室町水墨画を頂点と見なすウィリアム・アンダーソンの『日本の 絵画芸術』(1885)がある。これらに比べると、『稿本』は著しく古代偏重で、推古、天智、聖武の三代に全体の3割に当たる 紙面が割かれる。そこには、飛鳥・奈良をギリシアの古典古代に類比しつつ「東洋の宝庫」たらしめんとする意志が窺れる。 「法隆寺金堂の壁画は印度「アチ"ヤンター」の壁画と其の致を一にし、薬師寺其の他の寧都古刹の佛像は支那龍門伊闕の 彫像と其の趣を同うす」というわけだ。

  印度の道徳と支那の哲学を美において統合する、「東洋の博物館」たる日本、という発想は、本書編纂を推進した岡倉天心の 基本的な発想でもあった。だが天心は編纂中途で解任され、福地復一が後を襲う。そして天心の初期的構想とフランス語版 目次、さらには『稿本』章立てには、看過できない齟齬がある。天心の重視する「空海時代」は「桓武天皇時代」に、「東山時代」は 「足利氏幕政時代」に代わり、ともに予定紙面が半減する。そこに、天心と福地との個人的な確執のみならず、全アジアの融合を 描く天心史観と、万世一系の国体の「特調」にこだわる水戸学名分論との衝突を見る仮説もある(小路田泰直『日本史の思想』)。 促進成仏を唱える密教などの外来思想を重視し、禅林文化を尊んで北朝正統論に加担しかねまじき天心の思想は、外来思想を 「異端邪説」として桓武帝や後醍醐帝の英明を慕う史観とは相いれない。

  今日「日本美術史」といわれても、その成立の裏面にこうした思想的葛藤が伏在していたことを知る人は少ないだろう。 だが一見客観的な教科書の記述や、専門的美術史研究の装いの下には、近代日本の歴史的経験が、不可視を枠組みとして なお隠蔽され温存されている。

本稿は 国立文化財研究所主催で、東京国立近代美術館において昨年12月3-5日に開催された国際シンポジウム 「今、日本の美術史学を問い直す」に取材した。紙面の都合で関連する論文の発表者名に逐一触れられないことを遺憾とする。 なお報告書が追って公刊の予定。