社会科学としての近代日本

 イスラエル、ヘブライ大学名誉教授で歴史社会学理論家として知られるアイゼンシュタット氏は昨年 『日本文明』と題する大著を出版した。この著作を巡る国際シンポジウムが京都の国際日本文化研究センターを 会場として催された。同著の基本的な認識は、世界史的な軸をなす諸文明から外れた非基軸文明としては、唯一 日本文明が近代化に成功したとするものだ。そしてその特異な成功の理由を、入手可能な非日本語の著作、論文を ひろく渉猟することから探ろうというのが、この碩学の意図であり、それがこの壮大な書物に結実した。

 基軸文明という考えは、ヴェーバーおよびヤスパースの発想を基礎にしたものらしい。その場合、まず最初の 疑問は、上山春平も提起するように、はたして西欧が基軸文明なのか、という点にある。地中海文明圏に生まれた ヘブライ的一神教、ギリシア思想およびローマ法を具現して内面化した存在としての西欧という図式は、時代遅れ、 という以上に、19世紀以降の西欧が必要とした虚構的自画像ではなかったか。西欧がこれら3要素を啓蒙において 統合した、というよりは、むしろ基軸文明を構成するこれら3要素が撒種されアルプス以北へと伝播した結果、いわば 後知恵として再構成された逸脱的純粋化こそが、西欧近代の姿ではなかったのか。それはインド仏教をアニミズム的に 歪曲し、中国儒教を骨抜きにした非基軸文明としての日本文明の逸脱性と、むしろ並行的に対比されうるのではないか。 この点、乾燥地帯を中心帯として楕円を描く旧世界の両端に位置する西欧と極東を類比する梅棹忠夫の生態史観との 正面きった対決が回避されているのは、比較文明論としていささか物足りない。

 第二の疑問は基軸文明と近代化を連続したものとして把握する枠組みだ。なぜ日本が近代化しえたのかと 問うより、なぜ西欧が近代化しえたのかをこそ問うべきだとの梅棹の見解はまたアイゼンシュタットも共有するところ だが、その場合、両者に基軸文明からの逸脱としての共通性を見るほうが説得力があるのではないか。逆に西欧を基軸に 組み込む強引な意志の背後には、陋固たる西欧中心主義的価値観の残滓が見え隠れする。伊東俊太郎の議論を借りるなら、 精神革命にいたる古代文明と科学革命以降の発展を遂げた近代的主体とは、むしろ断絶していると認識されるべきでは ないか。中山茂も強調するように文明の担い手はそれ自体歴史のなかで地域的に遷移する以上、「基軸」の設定は、その 設定基準の客観性よりもむしろ設定主体の価値観を反映する、あくまで主体的=恣意的な認識行為となる。

 そのうえで第三に疑問となるのは、日本のみが近代化に成功したという認識そのものだろう。「非西欧唯一の成功例」と いった認識は、かつての日本人論にも見られた「西欧と日本」という図式を引きずっている。だが世界的な資本主義市場経済 席巻下の現在の地球で、自律的近代化を言祝ぎ他律的近代化を蔑むのは、勝者のナルチシズムに過ぎまい。さらに 世界的規模で適用可能なテクノロジーを近代化の指標とすれば、経済発展の雁行モデルからも脱却した現時点では、近代化の 成否を判断する基準そのものがもはや成り立つまい。

 一神教的価値観を相対化し、現世超越的な原理志向を排除する列島の文化史は、外来要素の吸収と排除の基準を 明示することそのものを回避する。朝鮮半島の原理純化志向とは対照的な、この非主体的抵抗の姿勢が織り成す歴史的文化経験の 堆積は、この国の社会科学の在り方をも規定してきた。本書がそうした列島の知的土壌への挑発的挑戦となることを期待したい。

Shmuel Noah Eisenstadt, Japanese Civilization: a Comparative View, The University of Chicago Press, 1996.