V.S. ナイポールの苛立ち
   --文化を跨ぐ「書き手」の不機嫌について

稲賀繁美         図書新聞(1997/12/06)   


 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、日本を共感をもって描いた英語作家として知られている。すでに 西インド諸島で口誦伝承を採取する経験をもっていたハーンは、未知の国、日本を発見するにつれ、その知られざる 於母影を描いていった。そこには日本人が忘れていた姿、失われようとする習俗が描きとめられた。しかしこうした 共感ある日本描写は、その後、欧米の日本学者によって否認された。ハーンの描いた日本は、ことさら情緒的に理想化され、 牧歌的に誇張された、非科学的な感情移入過多な眉唾もの、と貶められてきた。

 そのハーンが日本の心を司る大切なものとして注目した神道は、しかし日本による朝鮮半島の植民地政策によって、 半島の人々に強制された。そうした日本の横暴を正面から批判した例外的な知識人に、柳宗悦がいる。かれはそれまで さして重視もされなかった李朝の白磁のなかに、無名の匠の手になる無垢な美を見いだし、その色彩と線に、異国によって 蹂躙されつづけてきた半島の民の悲哀の表現を把えた。だがこの朝鮮への共感に満ち、その歴史に同情する姿勢は、皮肉にも 朝鮮の民によって、ゆゆしき誤解として拒絶されるに至った。

 文化を跨ぐ文筆活動のジレンマがここにある。ハーンは自分の共感を伝えようとした読者から見放され、柳は自分が 共感をむけた朝鮮において拒否された。同様の境涯を今日もっとも熾烈に生きている作家のひとりに、目下来日中の V.S.ナイポールを数えることも許されよう。

 トリニダート・トバゴのインド系家庭に生まれ、イギリスで教育を受け、近年爵位を得たこのノーベル賞常連候補者は、 近著『インド--無数の騒乱にある現在』(1990)などでの辛辣な筆致が、そこに描かれた人々の側に立つ(と主張する) 批評家たちによって、痛烈に批判されるに至っている(岳藤友治訳では、副題が「大変革の胎動」と肯定的な用語に 変えられている)。共感を看板にして、観察した事態を誠実に描くことが良心の証しとなる時代は、とうに終わった。 自らの文明でありながら、そこから疎外されている、というこの作家のインド社会に対する愛憎そのものに、「書くこと」の 倫理があらためて問われている。日本での講演でこの作家が見せた居心地の悪さと癇癪と。そこには悪意と無関心との 板挟みに苛まれる表現者の真実が露呈した。それは今日作家であることの困難の、赤裸々な披瀝ではなかったか。