山城国綺田村の農夫の娘は、髪のほつれもかまわず経巻を開き、一心不乱に『観音経』を読誦している。
 娘が蟹を救ったことで蛇の害から免れる、いわゆる蟹報恩の話は、全国に伝承されている。文献では『法華験記』に記す蟹満寺縁起が初出であるが、ほぼ同文が『今昔物語集』『古今著聞集』などにも収載されている。この蟹満寺の縁起譚を用い、三室戸寺の霊験が語られている。
 『観音経』を信奉して殺生をしない娘は、村人に捕まえられた蟹を助けた。一方、信心深い父も、蛇に呑まれそうな蛙を救うため、たわむれに娘をやるとの約束をした。蛙を放し、約束をたがえずやってきた蛇は、本文によると蛇身もあらわに室の戸を破り娘に襲いかかる。ただし図中、蛇の化身は若小姓姿のみで、尾は描かれていない。
 忽然としてあらわれた多数の蟹は、蛇の化身を囲み足元から切り刻もうとしている。その蟹のあらわれた源は、扁額中左下に流れる宇治川である。遠くこの宇治川から次第に形をあらわしながら無数の蟹が、這い上がってきたのである。
 経机の手前には、香炉が転がり線香からは煙が上がっている。こぼれて散った灰も、蛇の来襲に娘が動転し、切羽詰った雰囲気を感じさせる。
 
廣重美術館蔵

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