長門国(ながとのくに)の少女(をとめ)
 本尊(ほんぞん)ハ弘法(こうぼう)大師(し)入唐(につたう)の時(とき)風波(ふうは)の大難(だいなん)を免(まぬか)れたる仏(れいぶつ)なり貞享(ていきやうの)はじめ長門国(ながとのくに)青野(あをの)といふ処(ところ)の某(なにがし)の娘(むすめ)西国順礼(さいこくじゆんれい)をふかく意(こゝろざ)してひそかに家(いへ)を出(いで)男女(なんによ)三十余人(よにん)乗合(のりあひ)の船(ふね)に乗(のり)たるところ海上(かいしやう)ニて難風(なんふう)に船(ふね)を砕(くだ)かれ乗合(のりあひ)の人数(にんず)残(のこ)らず溺死(おぼれし)せしが此(この)少女(をとめ)のみふしぎと其浦(そのうら)ちかき伊崎(いさき)といふ所(ところ)にあがりて漁父(れうし)に助(たす)けられて親(おや)の家(いへ)に送(おく)られけれバ両親(ふたおや)よろこび其(その)逐一(ちくいち)を尋(たづ)ねけれバ娘(むすめ)こたへけるにハ難風(なんふう)に船(ふね)をくだかれて死(し)するに覚悟(かくご)して心(こゝろ)にうかぶまゝ今朝(けさ)見(ミ)れバ露(つゆ)おか寺(でら)と念(ねん)ずる折節(をりふし)帆柱(ほばしら)に取(とり)つきたりといふかの送(おく)りたる漁父(れうし)のいふにハ吾(われ)その暁(あかつき)寝(ね)て居(ゐ)たる戸(と)をたゝきて誰(たれ)ともしらねど魚(うを)の集(より)あり急(いそ)ぎ磯(いそ)へゆけとありしかバ磯(いそ)へゆきて見(ミ)るに大風(たいふう)にて魚(うを)ハなく此娘(このむすめ)を見(ミ)つけたりと語(かた)るがゆへ愈(いよ/\)仏力(ぶつりき)を尊(たうと)び漁父(れうし)に礼物(れいもつ)を与(あた)へて帰(かへ)せり誠(まこと)に観音(くわんおん)の験(れいげん)著(いちじるし)く普門品(ふもんぼん)の内(うち)若為(にやくい)大水所(たいすゐしよ)漂称(ひやうしやう)其(こ)名号(めうがう)即得(そくとく)浅処(せんしよ)〈もしたいすゐのためにたゞよハゞ そのめうがうをとなへよすなハちあさきところをえん〉とあるに少(すこ)しも違(たが)ハざりけり

廣重美術館蔵

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