第四番高谷山金昌寺[新木寺]
埼玉県秩父市大字山田1803−2

宗派=曹洞宗
札所本尊=千十一面観音
中興開基=荒木丹下
開創年代=不詳


 
 仁王門を入って、まず驚かされるのは、おびただしい数の石仏である。その総数、千三百十九体。天明三年(1783)の浅間山大噴火による飢饉から立ち直った寛政元年(1789)に、当時住職だった古仙登嶽が、千体石仏の安置を発願したことによる。これは七年後に成就したが、それ以降も信者の寄進が続いた。寄進者には、江戸、武蔵国一帯の商人や豪農家が多いが、紀州家や越前家などの奥女中の名を刻んだ石仏も見ることができる。子供を抱いた子育て観音、酒樽の上に据わっている禁酒地蔵、亀の子地蔵など、ユニークなものも含まれている。
 荒木観音は当初、金昌寺の東側に位置する高篠山に祀られたと思われる。後に、古堂と呼ばれる地に移転し、長享二年(1488)当時、第二十五番札所となった。
 別当の金昌寺は、山田村光明寺の第二世峰山寿が、寛永十五年(1638)衰微していた天台宗寺院を復興して、曹洞宗に改宗したものである。境内に現存する観音堂を宝永六年(1709)に新築して、札所本尊を移した。現在、観音像の脇に安置されている地蔵菩薩像は、金昌寺の旧本尊と伝えられている。
 縁起によると、昔、この地に荒木丹下という男が住んでいた。ある時、一人の巡礼が食物を乞うのに立腹して、神国の米を仏に供えるいわれがあるものかと、巡礼に対して乱暴した。ところが、巡礼は少しもひるまず、仏の慈悲について語り、前非を悔いた丹下は篤く観音に帰依するようになった。そして、行基菩薩の作とされる高篠の観音を当地に移して、観音堂を建立したという。

朱鷺書房蔵

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