当該画面は、霊験譚の内容に則さず、象徴的に描かれたものである。
 画面に登場するのは、烏帽子(えぼし)を被った男性と、男性が持つ経巻の一端を手にする若い男性の二者である。髭を蓄えた人物は行器(ほかい)に腰掛け、年若い男性に向かって何事か諭しているようにも見える。しかし、彼らの名や相関についての記載、あるいはどのような場面を絵画化したものであるかに関しては、霊験譚の中には直接の指示はない。
 烏帽子直垂(ひたたれ)姿の男性は、その衣に菊水の文様が描かれていることから、霊験譚の表題に掲げられる楠木正成であると考えられる。法楽寺本では、彼が手にする巻物の裏に黒雲母摺(くろきらずり)が施されていたことが確認できる。
 もう一方の若い男性の衣にも、正成のものと同様に菊水文様が記されている。このことから、彼が正成の息子である正行と推測することも可能である。
 『百番観音霊験記』中、他に『観音経』の経巻を読誦する場面が絵画化されているものに、西国第十番、西国第十七番があり、いずれもその功徳によって、難から免れている。霊験譚中、正成が『観音経』を誦持(じゅじ)する記述は見られないが、彼がよく観音を信仰した点、また肌身離さず持っていた『観音経』の経巻が、敵の矢から正成の身を守った点からも、彼らが持つ経巻は、『観音経』であると思われる。
廣重美術館蔵

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