寺尾(てらを)村(むら)の孝子(かうし)
 当山(たうざん)ハ白河院(しらかハいん)の御建立(ごこんりう)にして遙(はるか)下(しも)に荒(あら)川の水藍(あい)のごとく渦(うづ)まきてながれ絶頂(せつてう)ハ峨(がゝ)々としてその風景(ふうけい)言葉(ことは)に尽(つく)しかたし験(れいけん)の多(おほ)きなかに此(この)寺尾村の者(もの)老(おい)たる母(はゝ)を川むかひの宮路(ミやぢ)といふ所(ところ)におきて朝夕(あさゆふ)に見(ミ)まひけるに或時(あるとき)ふと病(やま)ひのよしを告(つげ)来れバ急(いそ)ぎ行(ゆか)んとこの麓(ふもと)の淵(ふち)に来りしところ折(をり)しも大雨(う)なかバにて俄(にハか)に水まして歩行(かち)わたりすること叶(かな)ハずとやせん角(かく)やせんと心(こゝろ)あせるうち水ハ弥(いや)増(まさ)りするばかりなれバ仮令(たとへ)命(いのち)を捨(すつ)るまでも母(はゝ)の安否(あんひ)を知(し)らすにやハと既(すで)に渡(わた)らんとする所(ところ)へ見馴(なれ)ざる童子(わらべ)舟(ふね)に棹(さほ)さして是(これ)に乗(の)れといへバ夢(ゆめ)のごとくに悦(よろこ)びて岸(きし)に上(あか)り御身(ミ)は何処(いつこ)の者と聞(きけ)バ我はあの岩(いハ)の上の者也汝(なんち)が孝心(かうしん)を憐(あハれ)ミて渡(わた)す也母も兼(かね)て我(われ)を信(しん)ず疾(とく)々ゆけといふしたに舟ハ失(うせ)て跡(あと)なけれバ扠(さて)ハ観音にましませしかと岩の上をふしをかミて急(いそ)ぎ母に見(まミへ)し所最早(もはや)悩(なや)ミも愈(いへ)けれバしか/\と物語(ものがた)れバともに利益(りやく)を信仰(かう)して一生(しやう)供養(くやう)をもなしけるとぞ
 

廣重美術館蔵

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