第二十番獨鈷山西明寺
栃木県芳賀郡益子町大字益子4469

宗派=真言宗豊山派
札所本尊=十一面観音
開基=行基菩薩
開創年代=天平九年


 東日本を代表する焼き物の一つ益子(ましこ)焼は、もとは黒羽藩の指定窯だったが、明治になって民営に移った。現在、三百を越す窯元があり、春と秋には陶器市でにぎわう。そのような益子の町を見下ろす高館山の中腹に、西明寺は境内を有している。仁王門、三重塔、本堂内厨子は室町時代のもので、国指定重要文化財。閻魔堂の閻魔大王は、口を大きく開けており、笑い閻魔と称している。
 聖武天皇の生母は、熊野権現を篤く信仰しており、毎年春になると参詣して、国家の泰平を祈願していた。ある夜のこと、証誠殿の扉が開いて権現が現れ、生母に十一面観音の画像を授けた。生母は都に持ち帰り礼拝していたが、その没後に天皇は、行基菩薩に勅して十一面観音の木造を作らせ、胎内に画像を納めて、豊前国京都郡に安置した。
 後に行基菩薩が熊野権現に参拝していると、神託があったので、東国に霊地を求めて旅立った。下野国芳賀郡まできた時、益子の山に数万の烏が集まっているのを発見し、さっそく登ったところ、豊前国に安置したはずの尊像が光明を放って立っていた。そこで堂宇を建立し、芳賀山益子寺と号したという。
 延暦年間(782〜806)になって弘法大師が巡錫したが、その徳の高さを妬んだ法相宗の僧たちによって岩窟に閉じ込められてしまった。しかし、大師が所持していた独鈷によって難を逃れたところから、獨鈷山と呼ばれるようになったとされる。
 その後、度々の兵火によって焼失。鎌倉時代には執権北条時頼が出家し、諸国を巡った折に、当寺を復興して西明寺に改めた。全国に伝わる最明寺入道時頼伝説の一つである。

平幡良雄氏蔵

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