於竹物語大日如来縁起絵巻
国際日本文化研究センター
「於竹大日如来縁起絵巻」データベースについて
 「於竹大日如来縁起」は、羽黒山修験道根本道場羽黒山荒沢寺正善院に伝わる三巻からなる絵巻で、同院境内に祀られているお竹大日堂の由来を説いたものである。
 本データベースは、正善院の全面的な協力の下で、上記の絵巻及び同院所蔵のお竹関係資料に基づいて制作された。

 巻物を収めた木箱に「嘉永二年(1849)重修」と記され、第三巻末に、この絵巻製作に関わる事情記した跋文や絵師等の名前などが記されている。この奥書によれば、この絵巻は羽黒山の玄良坊に伝わる絵巻をもとにしてできたものである。旧絵巻の痛みがひどいため、これを「重修」することを考えた玄良坊の弘道阿闍梨の求めによって、詞書は黒川春村が旧文を撰述して新たに書き、挿絵9葉は旧挿絵をもとに、喜多武清、喜多武一、山本文承、山崎知雄ら9名が手分けして描いたものである。跋文を山崎知雄が書いているところから判断すると、彼が絵巻製作チームのリーダーであったらしい。また、この絵師のうちの可庵老人こと喜多武清は、谷文晁門下で仙台の四大人の一人に数えられた絵師であり、黒川春村は、初め狂歌を修め、後に古学を修し、伴信友らと交流し、考証学を得意とした国学者で、薄斎と号した。

 お竹大日堂は、寺伝によれば、寛文6年(1666)に、佐久間勘解由家が施主となって、羽黒山麓の手向という宿坊集落の正善院黄金堂境内に建立された。縁起の概略は、次の通りである。

 元和寛永のころ、江戸の佐久間某の家に、竹という下女がいた。竹は信心深く、従順で、五穀を大切に扱い、自分の食事を減らして飢えに苦しむ者に与えた。そのころ、武蔵国比企郡に乗蓮という聖(行者)がおり、生身の大日如来を拝みたいと思って出羽山に何年も通った。そして、登山の折りには、いつも玄良坊に宿をとった。ある年、例のごとくこの坊に止宿したとき、不思議な夢を見た。「お前が私の姿を見たいならば、これより江戸に上って、佐久間某家の竹という者を拝せ。」乗蓮は、これこそ大日如来の託宣、と歓喜し、宿の主人の玄良坊宣安とともに江戸に上り、佐久間家を探し出して、竹を礼拝した。すると、竹の全身から光明が発せられた。二人は竹を何度も礼拝し、感激して帰っていった。翌日から、竹は部屋に籠もって念仏に専心し、寛永15年3月21日、亡くなった。竹の死後、家の主は等身の像を彫刻し持仏堂に納めて、毎日供養したが、その後、羽黒山黄金堂境内に、仏殿を建立してその像を安置し、その世話を玄良坊に任せた。

 このような縁起を用意した羽黒修験の山伏は、お竹大日堂を宣伝するため、江戸の出開帳をおこなった。元文5年(1740)を皮切りに、安永6年(1777)には芝愛宕の円福寺で、文化12年(1815)には浅草寺境内の念仏堂で、嘉永2年(1849)には回向院と、都合4回の出開帳がおこなわれ、その際に略縁起やお札が頒布された。とくに嘉永2年の出開帳には、お竹大日如来像ともに、竹の「遺品」である、流しに結びつけてご飯や野菜の屑を集めたという麻袋や、竹が着用したという前垂れなども展示されたという。この絵巻も、絵解きをするために出開帳に合わせて製作されたものであった。賢女の不思議な物語をともなったこの出開帳は、江戸の人びとの心を掴んで大当たりとなり、この縁起を素材とした芝居や講釈、錦絵、小説などがたくさん生み出された。明治になっても、たとえば坪内逍遙の「お竹大日如来一代記」が上演されるなど、お竹ブームの残映が認められるが、時の流れとともにその記憶も薄れ、今日では、お竹の物語を知る人は少ない。
 なお、詞書に錯簡があるとする説もあるが、本データベースでは、そのままにしてある。

 最後に、正善院から、本データベース作成の趣旨に対して格別の御理解と御配慮を頂けたことに対して、心から感謝の意を表したい。

国際日本文化研究センター
教授 小松 和彦
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