日本における禅浄双修-黄檗宗を中心として
(The Joint Practice of Zen and Pure Land in Japan: A Look at the Obaku School)

ジェームズ・バスキンド(James BASKIND) 国際日本文化研究センタープロジェクト研究員

禅行と浄土行の双修を考える際には、ある程度、時代と思想背景を含めて検討する必要がある。そして、禅と浄や自力の仏教・他力の仏教というのは、あまりにも広いテーマであり、いくつかの時代に亘って非常に多くの経典や人物を含んでいる。したがって、ここでは、いくつかの人物や経典などを取り上げることで、日本における禅浄双修言説の輪郭を把握していきたい。

最初に問わなければならないのは、禅と浄土教は、一体どういうものなのか、そして、なぜこの二つの宗教表現が相容れない、別々の修行法として考えられてきたのか、という点である。

禅は、仏教の根本義としての戒・定・慧の三学の一つ「定」をいう。「定」は、瞑想や心の安らぎのことで、精神を統一し、心を一点に集中すること、つまり、三昧のことである。これによって、煩悩の穢れや束縛を絶ち、真理に到達しようとする。禅と浄土という修行法、宗教現象としての一般的な見解としては、禅は自力で、自分の力で、悟りを開こうとする修行法である。これは、より難しいので、「難行」ともいう。それに対して、浄土は、仏・菩薩(おもに阿弥陀仏)の住む穢れのない、純粋なところをいい、浄土教は、念仏を唱えることによって我々のような凡夫でも阿弥陀に救われ、西方極楽往生を遂げられる、とする。これは、阿弥陀仏という「他」の救済力に頼ることであり、より易しい修行法であるので、「易行」という。以上が、禅と浄土についての基本的な事項であるが、次に具体的に、日本の禅浄、自力・他力の言説において、大いに貢献した人物を見ていこう。

親鸞と禅浄・自力、他力思想

親鸞(一一七三―一二六二)は、浄土真宗の開祖であり、日本仏教史においては大きなな位置を占める。師である法然と違い、念仏を唱える回数は一切関係ないと主張したのにとどまらず、念仏を唱えることによって自分自身の救済の保証ができるのではなく、念仏を唱えること自体が感謝の表現に過ぎず、すべての救済力が阿弥陀仏の働きによるものであるとした。言い換えれば、親鸞によって完全なる他力思想ができたということである。親鸞の著作である『教行信証』や『歎異抄』そして彼の消息の中で、他力と自力、浄土行と禅行とをはっきりと分けている例が多く見出される。消息集である『末燈鈔』から親鸞自身が直接述べた言葉をあげておく。

『末燈鈔』

かさまの念仏者のうたがひとわれたる事

それ、浄土真宗のこゝろは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家、浄土の祖師のおほせられたることなり。まづ、自力と申ことは、行者のおの〳〵の縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもて、身・口・意のみだれ、こころをつくろい、めでたうしなして、浄土へ往生せむとおもふを自力と申なり。(1)

また、他力と申ことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申なり。如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して、往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり。しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむ、とおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。また、わがこゝろよければ往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては、真実の報土へむまるべからざるなり。行者のおの〳〵の自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。(2)(傍線筆者)

以上の例からは、親鸞の自力、他力観がよく窺える。自力と他力の定義を提供した後、その位置付けについて、他力だけで往生できるとし、自力で救済されようとも、疑城の浄土にしか往生できず、甲斐のないことである、としている。日本仏教の自力・他力、禅行・浄土行の言説においては、親鸞がその第一の先駆者だと言っても過言ではないだろう。

一般的に言えば、自力・他力の言説を支えている一つの観念は、いわゆる末法思想である。少し時代背景について述べると、仏教の発展説には、三時説があり、それは、正法(しようぼ)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)という時代区分を指すものである。正法は、釈尊の教えが正しく世に行われている時代のことで、その時限として、一般的には五百年続くとされたのである。この時代には、教説(教)とその実践(行)が完全に行われ、その最終の結果である悟り(証)に帰着することができる。その後、正法に似ているという意味の、像法の時が到来する。この時代には、教説とその実践だけが残っているが、その結果としての悟りを欠く時代である。つまり、修行を行う人はいるが、真実のないもので、悟りを開くことがまったくない。これは千年も続くとされた。そして、千五百年を経過すると、仏説のとおりに修行できなくなり、悟りを開く人がまったくいなくなる。これは「世の末」のことであって、これを、末法の時代という。信者に危機意識を起こさせるために説かれたといわれている。

日本において、末法思想にもっとも貢献した文献は『末法燈明記(まっぽうとうみょうき)』で、一部で伝教大師最澄(七六七―八二二)の作とされているが、疑わしく、おそらく平安末期あるいは鎌倉初期の偽作であるという説が有力である。平安末期は武士の勃興や僧兵の横暴などの貴族社会を揺るがす出来事があり、不安定な世の中で益々浄土教が有力となり、多くの人々が帰依した。末法の始まりについては、釈尊の入滅を紀元前九四九年とし、正法・像法二千年とする説により、永承七年(一〇五二年)が末法を迎える年とされていた。

通説では、浄土教徒であった法然と親鸞は末法思想を積極的に受け入れ、道元や他の禅僧は否定した、とされる。しかし、実は、そうではなく、浄土教にとっても、禅にとっても末法思想は衆生を導くための大切な方便であったのだ。

道元と一休

浄土教の親鸞と並んで、日本曹洞宗の開祖である道元(一二〇〇―一二五三)は鎌倉仏教における画期的人物の一人である。道元も比叡山延暦寺で天台宗の教学を学んできたが、その教学には、どうも腑に落ちない所があり、完全に受け入れることができなかった。その疑点は、一切の衆生(つまり、すべての生き物)には元から仏(仏性)が備わっているということであるならば、なぜ修行しなければならないのか、ということだった。その疑問に駆られて、いくつかの寺を廻ったが、解決できなかった。その精神的な縺れを解くためには、本物の仏教が存在している中国に行くしかないと考え、宋代の中国に渡り、天童寺の如浄(一一六三―一二二八)の下で厳しい坐禅修行をした結果、大悟をしたという。その時点から、坐禅一点張りの仏教を主張し、坐禅は「大安楽の法門である」とした。道元は末法思想や浄土教に対して批判的態度を見せたと言われているが、道元自らの言葉を通して、その見解を検討しよう。仏教の三時説について、道元は次のように述べている。

『正法眼蔵随聞記』

仏法に正像末を立事、しばらく一途の方便也。真実の教道は、しかあらず。(3)

明らかに、道元にとって、末法思想はただの方便に過ぎない。末法思想により、危機意識を高揚させ、益々学道、修行に励まなければならないという気持ちになるのなら、末法思想がそれなりの役割を果たしたということだろう。末法だからこそ、阿弥陀仏のような他力的媒介に頼ることなしに、自分の努力で究極の目標である悟りへ到達せよということだった。次は道元の傑作である『正法眼蔵』を見よう。

『正法眼蔵』弁道話

又、読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただ、したをうごかし、こゑをあぐるを、仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するに、うたたとほく、いよいよはるかなり…おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれ、ながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。口声をひまなくせる、春に田のかへる<蛙>の、昼夜になくがごとし、つひに又益なし。(4)(傍線筆者)

道元の非難の対象は、阿弥陀仏や念仏行そのものではなく、むしろ、意に介することなく念仏を唱えることである。このような人々は、春の田んぼの蛙に譬えるほど甲斐のないことのように表現している。道元にとっては、念仏も、末法思想も、方便の範疇に入るものだったが、仏道や悟りのための修行法としては、坐禅が第一であったということである。

次は、日本の有名な禅僧である一休宗純の念仏観、禅観について見てみたいと思う。一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(一三九四―一四八一)は、室町中期の臨済宗の僧である。大徳寺の住持にまで登り、当時の禅界においては屈指の禅師だった。一休は、真面目な修行僧でありながら、狂乱な行動も取ったことが特徴であり、自らの詩集に『狂雲集』(狂った雲の集)と名付けたほどであった。

あまり知られていないが、一休には、『阿弥陀裸物語』という作品があり、念仏行についての一休の見解が述べられている。

タイトルの『阿弥陀裸物語』だが、「物語」というよりも、むしろ、正式には「仮名法語」の範疇に入る。「仮名法語」は、師が弟子に仏法を教えるための語録である。タイトルの「裸」は阿弥陀仏のありのまま、本来の姿を表していると解釈されている。まず疑問となるのは、なぜ一休のような禅師が阿弥陀仏を取り上げる作品を書いたのかということだろう。一休は、黄檗僧の到来の百年以上前に生きていた人なので、いうまでもなく黄檗僧の影響を一切受けていなかった。にもかかわらず、この作品の主題は一休の念仏や浄土観においての「正しい」修行法である。作品の設定は、小笹(おざさ)の少将為忠(しょうしょうためただ)という人が称名念仏の効果について疑問を抱き、一休からの説法をお願いする、という問答形式を取る。小笹の少将為忠は阿弥陀と念仏についていろいろと合理的に考え、もし阿弥陀仏の極楽浄土が十万億土(世界)離れているのであれば、声で念仏を唱えても、阿弥陀仏の耳まで届くのだろうかという疑問を抱く。原文は次の通りである(傍線筆者)。

昔、小笹の少将為忠といふ人、大徳寺の一休和尚へ、詣で給ひて申されけるは、我、無智愚鈍の身なれば、坐禅参学の道にも、至り難し。只一向に、弥陀の他力を願ひて、名号を唱ふる外、またもなし。されども、愚案に不審はれ難く候へば、尋ね申さん為に参りて候也。弥陀仏は、西方十万億土に住み給ふとなれば、その十万億土にまします仏を、居ながら、名号を唱へ候ても、十万億土へ通じ申すべきいわれ候やらん。(5)

「浄土」とは、「浄き土」と書きたり。悟りの人の肉身体なり。是れを、欣び求めよと、確かに教へ給ふなりと雖も、是れを悟る人稀なり。総じて、此五尺の身の中に、大千世界を引き集め、約め持ちたる、此の身なり。法界と平等にして少しも違ふことなし。法界の虚空に、色形なくして、一心失せず、即ち弥陀仏なり。形なき仏を法身仏と名付け、形を顕す仏を報身仏と名付け、八相成道して、衆生を利益し給ふ仏を応身仏と名付けて、是れを三身と言ふ。是の如く観ずるときんば、三身の外に、浄土も仏も有るべからず。此の故に、「唯心の浄土、己身の弥陀」とは、教へ給ふなり。(6)

一休の説法の裏には、不二法門という思想がある。不二法門は、二項対立的思考を離れ、相対の差別を超えた絶対平等の真理をいう。『維摩経』には、維摩居士が、「不二法門とはなにか」と聞かれた時に、何も返事せず、長く続いた沈黙を通じて、不二法門のなんともいえなさやその表現不可能であることを伝えようとしたことが書かれている。『阿弥陀裸物語』では、これに従って、一休も煩悩・涅槃、この世・西方極楽浄土、自力・他力という二元論的思索に基づいた分類を一切否定し、阿弥陀仏は、宇宙の至るところに――特に人間の心に――内在し、衆生と阿弥陀仏との間に何の隔たりもないという意味を表そうとする。これは、唯心の浄土、己身の弥陀と表現されるのである。心の中に存在する阿弥陀仏、「唯心の浄土」に対して、指方立相(しほうりつそう)というものがある。これは、我々の住んでいる世界から無限に遠い実体のある西方極楽の存在を設定する観念なのである。

一休の解釈によれば、阿弥陀仏とその浄土自体は、心の外に存在するものではないのである。勿論、この思想は、一休が初めて作り出したのではなく、実は、浄土三部経の一つである『観無量寿経』にこのような解釈が立証されている。『観無量寿経』には次の節がある。

仏告阿難及韋提希、見此事已、次当想仏。所以者何。諸仏如来、是法界身、入一切衆生心想中。是故汝等、心想仏時、是心即是、三十二相、八十随形好、是心作仏、是心是仏。諸仏正徧知海、従心想生。

(仏、阿難および韋提希に告げたもう、この事を見おわらば、つぎに、まさに仏を想ふべし。所以はいかに。もろもろの仏・如来、これ法界身にして、一切衆生の心想の中に入りたもう。このゆえに、汝らよ、心、仏を想う時、この心、すなわちこれ、(仏の)三十二相・八十随形好なれば、この心、仏と作し、この心、これ仏なり。諸仏の正徧知海、心想より生ず。)(7)(傍線筆者)

以上の引用が言わんとしているのは、心が仏となし、この心が仏そのものであるということである。『阿弥陀経』が、実体ある西方浄土の功徳を述べるのに対して、『観無量寿経』は文字通り、観想法なので、そのような観想過程の中で、心の果す役割の重要さを認める。一休は、阿弥陀仏の名前を唱えるという行を否定せず、精神統一や内観法のためには、立派な方便のひとつであると説いているのである。

明末の仏教

さて、黄檗宗は、中国に生れ、日本に移植されたので、黄檗の禅風を検討する前に、大陸の仏教の状態を考慮する必要があるように思う。

日本禅宗の場合、栄西と道元が宋代の中国に渡り、当時の仏教思想や修行法を取得し、帰朝ののちは、斬新な大陸仏教の修行法を日本に広めようとした。鎌倉時代の間は、大陸との交流が続いたが、室町時代から江戸初期にかけては、大陸との交流が完全に途絶えることはなかったものの、中古、中世の時代ほどさかんに行われなくなり、中国からの影響力が少し弱まり、仏教が完全に日本風へと完成された。

室町時代、大陸では、百年近く中国を支配したモンゴル(元)が倒され、一三六八年に明が建国された。朱元璋(しゅげんしょう)(一三二八―一三九八)が明初代の皇帝(在位一三六八―一三九八)となったが、彼の宗教観は非常に折衷的で、マニ教、道教、儒教、そして民間宗教からのいろいろな信仰要素が入り混じっていた。皇帝の影響で、明代には三教一致、つまり中国の思想の主流となす儒教、道教、そして仏教が一致しているという思想が益々有力となり、また、更に仏教の中でもこの融合傾向が顕著となった。宗派意識の強い日本に対して、中国の仏教は、総合的な傾向が特徴であり、華厳、律宗、浄土行、密教、そして禅行が一般化された「仏教」に網羅されていた。明代までに、特に禅(臨済系)が中国仏教の基盤となり、すべての仏教の受け皿として、仏教の諸形態を保存する役割も果たした。基本的に、明の仏教は宋代、元代の仏教の継承で、教学的にもそれほど変化していないのだが、折衷的、融合的仏教という色彩が一段と顕著になり、庶民の間に広まっていた。明末、清初の仏教の明らかな特色の一つは、禅浄がともに行われていることである。この時代には浄土教関係の寺院には禅の修行者が多く入門したし、禅の寺院には禅堂――坐禅を修行する堂、建物――に加え、更に念仏堂もあった。これらのことは、明・清の仏教における禅・浄の融合程度を物語っている。

黄檗宗となった教団は明末清初のころに形成されたので、もう少し明末清初の仏教の姿勢を探ってみよう。明末の四大師は、明仏教・黄檗宗を通じて日本仏教に多大な影響を与えることになった。その四人の禅師は、雲棲袾宏(うんせいしゅこう)(一五三五―一六一五)、紫柏真可(しはくしんか)(一五三七―一六〇三)、憨山徳清(かんざんとくせい)(一五四六―一六二三)、藕益智旭(ぐえきちぎょく)(一五九九―一六五五)である。その中の一人雲棲袾宏は、明末の仏教の形成において非常に重要な役割を果たし、黄檗宗にも大きな影響を与えた。雲棲袾宏は禅を主張したが、禅浄一致を唱え、浄土宗の僧とされることもある。あまりに禅浄を強調したことから、後年、日本禅の復興者といわれる白隠禅師から非難されることもあった。白隠の方は、後で触れることにしたい。

黄檗宗

周知のとおり、日本の三大禅宗は、曹洞宗、臨済宗、そして十七世紀の半ばに入ってきた黄檗宗である。黄檗宗の開祖は中国の福建省から日本に来た隠元隆琦(いんげんりゅうき)(一五九二―一六七三)で、隠元は将軍徳川家綱と後水尾天皇の帰依を受け、彼らの大きな支えにより、黄檗宗は一時的に有力となり、日本中に広がっていった。

黄檗の禅風への一般的な見解とは、禅宗であるが、浄土行(念仏を唱える)もその禅行に含まれており、禅宗と浄土宗との折衷体であり、いわゆる「禅浄兼修」または「禅浄双修」の禅宗である、というものである。禅学者の座右の書である『禅学大辞典』にも、黄檗宗について「その禅風の特徴は念仏禅である」と書かれている。

だが、黄檗禅風をそのように捉えていいのだろうか。禅行と念仏行とは実習の上、必ずかけ離れる、相互排他的なものなのだろうか。黄檗宗の三開祖、隠元隆琦、木庵性瑫(もくあんしょうとう)(一六一一―一六八四)、そして、即非如一(そくひにょいつ)(一六一六―一六七一)の言葉を検討することによって、黄檗の禅は、浄土との折衷ではなくて、むしろ、念仏も禅修行の範疇に入り、禅浄というのは、相反するものではないことを明らかにしたいと思う。

隠元隆琦

少し隠元の背景について述べておきたい。隠元隆琦は福建省生れ、六十二歳まで中国に住んでおり、来日以前も明末の中国で屈指の名僧であった。十七世紀の半ばまでに、長崎は大陸との接点だったので、多くの中国人が住み、幕府に指定された唐人屋敷ができたほどである。その長崎には、仏教の信者のための寺院が三つ作られたが、その一つに興福寺がある。その住持の逸然性融(一六〇一―一六六八)が、一六五二年に隠元に招請状を出したが、断られ、四回目の招請で漸く来日することとなった。長崎で三年過ごしたが、一六五九年、京都近郊に寺院を建立したいという徳川家綱の願いにより、一六六三年、宇治に黄檗山万福寺が完成した。

今日と同じく、妙心寺が江戸の臨済禅のもっとも有力な寺院であった。実は、隠元を妙心寺の住持(住職)に迎えようとする運動があったが、妙心寺の高僧により反対された。その理由として挙げられたのが、浄土行を取り入れた零落した禅風であるという点である。ここで、隠元の言葉から、その禅浄についての思想の有り様を考えよう。

最初に挙げたものは、典座、つまり寺の料理長が、隠元に念仏の本当の意味を尋ねた場面である。二人の対話は次の通りである。

典座問、出声念仏不為正念、黙念弥陀不為正念、如何為正念。師云、破木杓。僧礼拝。師云、還我木杓来。僧無語。師便打、乃云、欲識仏性義、当観時節因縁、時節若至、其理自彰。(8)

(典座、問ふらくは、声を出して念仏することは正念と為らず、弥陀を黙念することは正念為らず、如何ぞ正念と為さんや、と。師云く、破った木杓、と。僧は礼拝す。師云く、我に木杓を還し来たれ、と。僧、語ること無し。師、便ち打ち、乃ち云く、仏性の義を識らんと欲せば、当に時節因縁を観る。時節若し至れば、その理は自ら彰らかとなる。) (読み下し筆者)

隠元と典座との対話は、確かに公案のような響きがある。公案は、一種の謎のようなもので、合理的思考を絶つことに目的がある。『禅学大辞典』によると、公案の定義は:「公の法則条文をいい、私情を容れず遵守すべき絶対性を意味する。転じて禅門では、仏祖が開示した仏法の道理そのものを意味し、学人が分別常識を払って参究悟了すべき問題とされる。」である。分別常識を払う方法として、出鱈目や理性で解決できない問題が出され、それと取り組んでいる過程で、自分の理性や識別が無力であることに気付き、直感的な悟りに導かれる、という悟りに至るための手段のひとつである。上記の例では、念仏の本当の意味は何か、という問いに、「正しい念仏法は破った木杓です」と隠元が答え、さらに、棒の一発をその僧侶に与え、最後に、タイミングと条件がちょうど良いものになれば、自らその理が明らかになると述べている。このような対応から、隠元の目的は合理的な思索、分別常識の働きを断ち、直感的な悟りに導入しようという点にあることがわかる。

念仏公案

公案の話が続くが、念仏自体が公案として使われることもある。いわゆる「念仏公案」という。修行者が坐禅をしている時に「南無阿弥陀仏」を唱えながら、「誰が念仏を唱えているのか」と自分に問うものである。勿論、合理的な解答に到達することが目的ではなく、むしろ、唱えている自分も「空」であること、自分と阿弥陀とが一体であることを自覚できたら、公案の解決となる。もう一つの目的は、念仏を唱えることによって、精神を統一し、深い瞑想に入るという点にある。隠元の嗣法の弟子である独照性円(一六一七―一六九四)の語録には、以下のような解釈が見られる。

山僧、汝に念仏の公案を授く。此れに依って工夫を做せ。南無阿弥陀仏の六字の聖号を以て行も亦念じ、住も亦念じ、坐も亦念じ、臥も亦念じ、以至飯裏・茶裏、坐禅昏沈の時、心緒散乱の時も亦念ぜよ。念じ来り念じ去って、行、行を見ず、住、住を見ず、坐、坐を見ず、臥、臥を見ず、飯を喫して飯を知らず、茶を喫して茶を知らず、全体只是れ一箇の阿弥陀仏。更に精彩を著けて念ずること一声・二声・三声して看よ、畢竟念ずる底是れ誰そと。忽然として誰の字に撞着せば、始めて知らん、自己本来是れ仏なることを。(9)

禅浄兼修というのは禅行と浄土行(念仏)を同時に行うことではない。むしろ、念仏を禅行の一種として考えていたのだろう。念仏行の最終的な目的は合理的な思考を絶つことにあるので、公案と同じ効果があり、公案の一つとして扱われた。このように念仏行を行い、念仏を唱えている人は一体誰であるかと自問自答することで、疑情を起こすことになる。そして、この疑情や疑いのもつれを解くことによって悟りへ至ることになる。禅においては、このような疑団を起こし、そして、乗り越えようとする過程が禅修行の非常に重要な一部である。

上記の例に見られるように、念仏はただの手段であり、集中力を高めることにその目的がある。隠元は禅僧なので、もちろん坐禅は第一の修行法であり、念仏は補佐的な役割を果すものとしている。しかし、仏教の基本的な教化、衆生を導く方法は、対機説法であり、教えを聞いている人の能力、性質を考慮し、相応しい方法を説く、としている。言い換えれば、方便や手段を選ぶということである。以下の文で隠元は念仏の方便としての役割をはっきりと述べている。

老僧、自東来此土迄今十載、専行済北之道。奈何、時輩根劣気微無能担荷。至不得已、亦教人念仏。正応病与薬之意也。誰謂不宜。(10)

(老僧、此の土に東来してより今迄、十載、専ら済北の道<臨済宗>を行ふ。奈何せん、時輩、根劣気微にして、能く担荷するもの無きを。已むを得ざるに至り、亦人をして念仏せしむは、正に病に応じて薬を与ふるの意なり。誰か宜しからずと謂わん。)(読み下し筆者)

隠元が来日して十年が経った頃、努めて臨済の禅風を伝えようとしてきたが、当時の日本人が臨済禅の厳しい修行に十分に付いていけないことを心配して、仕方なく方便として念仏を使用したということを言っている。隠元のこのような言葉から見られるように、黄檗の禅は、念仏禅や、零落した禅浄折衷体であるとは言えない。はっきり明記されているように、隠元の禅風では、念仏は修行手段、方便であり、説法法の一つに過ぎない。

木庵性瑫

万福寺第二の住持は木庵性瑫である。木庵は広く活動し、黄檗宗を関東まで広めたこと、嗣法の弟子の多いことが知られる。木庵自身も、隠元から悟りの証明である印可を受けたので、木庵の禅風が隠元に似ていることは当然かもしれない。出家や在家を教化している時に、木庵も念仏公案を使用し、また、修行者と阿弥陀仏とが一体であり、往生する極楽浄土が心に存在するなどの禅的解釈を使用する。いくつかの例をあげておく。

極楽寺善阿上人以念仏為本分問老僧即説偈示之

是心念仏不離心。念到無心弗外尋。体悟弥陀元自性、灼然越古復超今。(11)

( 極楽寺善阿上人念仏を以て本分と為す。老僧に問いて即ち偈を説きて之を示す。是の心、念仏して心を離れず。念じて無心に到り、外に尋ねる弗れ。弥陀元より自性なること体悟すれば、灼然として古を越えまた今を超える。)(読み下し筆者)

示念仏善人

参禅念仏不離心。忽悟自心休外尋。刹刹塵塵元浄土(下略)

念仏之人心要切心心念念無休歇。忽然念到念忘時迸出蓮花香満舌。(12)

( 念仏善人に示す参禅し念仏して心に離れず。忽ち自心を悟り外に尋ねること休めよ。刹刹塵塵元より浄土なり。念仏の人、心に要切し、心心念念にして、休歇無し。忽然に念じて念を忘れる時に到らば、蓮花迸出し香り舌に満つ。)(読み下し筆者)

一つ目の引用だが、善阿上人は念仏を通して本分――自分の心の本来の姿――を究めることについて、木庵に訊ねる。木庵の解答に見られるように、念仏は精神統一のための手段であり、一心に唱えることにより、無心の心境に到達すれば、自分の本性、本来の心が阿弥陀仏であることを自覚する。

二つ目の引用も同じことを主張する。悟りを得ようとするのであれば、自分の心の外に求めるのではない、悟りが心に内在しているように、浄土も人間の心にしか存在しないという。隠元は黄檗宗の開祖、木庵は黄檗宗の中でもっとも広く活動した僧であり、この二人の禅観、説法、教化は黄檗の主流をなし、明末清初仏教の代表的なものであると言っていいだろう。次は、即非禅師をみることにする。

即非如一

即非は隠元・木庵とは違い、万福寺の住持の座までのぼらず、地方(主に九州)において日本での十四年間の殆どを過ごした。即非の日本黄檗宗への影響は隠元や木庵ほど多大なものではないが、彼は説法と教化の多彩なことで知られている。次の例のように、相手が出家でも在家でも、禅らしい念仏行を教えた。

示念仏緇素

有念鋳無念。無念即浄念。念念念不生。弥陀全体現。自心即浄土。仏不離自性。看破念仏誰是真為究竟。(13)

( 緇素に念仏を示す有念は無念を鋳す。無念即ち浄念なり。念念不生を念ず。弥陀全体現す。自心即ち浄土なり。仏は自性を離れず。念仏誰と看破すれば是れ真の究竟となす。)(読み下し筆者)

そして、次に、

念仏須心念。念念仏不忘。念頭都打断何処不西方。(14)

(念仏はすべからく心に念ずべし。念念仏を忘れず。念頭すべて打断せば、何処、西方にならざるや。)(読み下し筆者)

上述の如く、日本黄檗宗の中心的人物である隠元、木庵、即非の教えの中の念仏行は、極楽浄土への往生を目的としていない。むしろ、極楽浄土も、阿弥陀仏も心に内在するとしている。そして、一心に称名念仏をすることによって、無心なる心境へ到達する、そのための方便として念仏行が使われていることは明らかである。

白隠慧鶴

白隠慧鶴は力強い書や親近感のある絵画を数多く残し、多才な禅僧としてよく知られている。画家としての白隠はともかく、彼が江戸臨済禅における第一人者であると言っても過言ではない。現在の禅の実態は、日本臨済禅(黄檗も含む)が白隠系統のものとなっている。

白隠の数多い仮名法語から、その禅風をはっきりと窺うことができる。道教に影響された内観法、念仏、戒律など、いろいろな要素が含まれている。彼の念仏における観念を検討するには、『遠羅天釜続集』に収録されている説法を見る必要がある。次の引用から、白隠の念仏観を垣間見ることができよう。

悲シム所ハ、今時浄業ノ行者、往々ニ諸仏ノ本志ヲ知ラズ、西方ニ仏在リトノミ信ジテ、西方ハ自己ノ心源ナリト云事ヲ知ラズ。念仏ノ功課ニ依テ、虚空ヲ飛過シテ、死後、西方ヘ行ントノミ覚悟ス。一生苦吟シテ、往生ノ素懐ヲ遂グル能ハズ。真正浄業ノ行者ハ即チ然ラズ。生ヲ観ゼズ、死ヲ観ゼズ、心失念セズ心顛動セズ、トナヘ唱ヘテ一心不乱ノ田地ニ到ッテ、忽然トシテ大事現前シ、往生決定ス。

(残念なのは、今時の念仏行者は、ややもすると、仏様のおられる浄土は西方にあるものと信じ、自己の心源こそが真の西方浄土だという、本当の教えが分かっていないことである。念仏の功徳によって、死後には空を飛んで西方に行きたいと願っているのだが、そういうことでは一生、往生の素懐を遂げることはあるまい。しかし、真正しんせいの念仏行者はそうではない。生も死も思わず、ひたすら唱えて一心不乱の境地に入るならば、そこに忽然として仏法の大事(意味)が現前し、往生するのである。)(15)(傍線筆者)

須ラク知ベシ、話頭モ称名モ、総ニ是レ開仏知見道ノ助因ナル事ヲ。開仏知見ハ、諸仏出世ノ本志ナリ。後来シバラク方便ヲ設ケテ、往生ト名ヅケ見性ト云。豈ニソレ両般有ンヤ。

(大切なのは、公案も念仏も仏知を開くための手段だということである。仏知を開くこと、これこそ仏教の目的であり、諸仏が出世されたのも皆このためである。仏教が発展していろいろに方法が分かれたから、あるいは往生と言い見性と言うが、別物ではない、ということである。)(16)

最終的に、黄檗の念仏行・念仏思想と白隠の述べたものとは同じである。

「南無妙法蓮華経」を唱えることも精神を統一し、心の本来の姿を見つめ、深い瞑想に入るための手段である。念仏にしても、題目にしても、自分の心を参究するための修行法は沢山あり、どんな修行法でも、一心に唱えれば、一心不乱の心境に到達し、そこで主観や感情、自我に基づく「自分」がなくなる。これこそ修行の目的達成の状態だろう。

白隠は念仏そのものに反対したわけではない。むしろ、坐禅せずに、念仏に頼り、極楽往生ばかり考えるという禅の僧こそが腑に落ちないものだったのだ。在家となると、僧侶とは期待と基準がまったく異なる。お寺に住み込んでいない在家の人が毎日厳しい禅修行ができるはずがないので、修行として念仏だけを唱えることは、何の問題もない。その修行法によって、「自我」を忘れる心境に到達できるのであれば、それはそれでよかろう。禅僧である場合も、念仏でも公案でも、大切なのは、一心から無心の状態へ達することであり、そこでは念仏も、坐禅も同一のものである。

以上、黄檗禅は「禅」という範疇に入ること、また白隠禅師の念仏行についての教えと黄檗禅とは、ほぼ同じであることを述べた。

時代が前後するが、黄檗は「念仏禅」だという考えが本格的に根付いたのは、明治時代の時であった。江戸時代、黄檗宗は、徳川家の特別な庇護があったからこそ、一時的に栄えたのだが、明治時代になると、徳川の庇護が却って負担となったのだ。それに、新政府の取った姿勢は、神道を立てる王政復古、祭政一致であり、廃仏毀釈がその結果であった。そのため、黄檗宗が、二重の困難に直面しなければならない時代となったのだ。

明治政府のとった宗教政策は、宗派や宗旨を明確にし、組織化された特定団体のみを認めようというものであった。従って、各宗派は教義を明確にする必要に迫られていた。しかし、禅は、これまで不立文字、教外別伝を述べてきたが、ここに至って言葉での表現を超越するということを標榜し続けるわけにいかなかった。

その時、黄檗宗の三十八代住持である林道永は教義を分かりやすく解説した書物を著し、それは『黄檗在家安心法語』という著作となった。しかし、林道永は、典型的な黄檗僧とは言えない。林は、元来浄土真宗の家に生れ、浄土真宗の教学を熱心に研究した。彼の浄土真宗からの影響が『黄檗在家安心法語』を貫いている。以下、いくつかの例を挙げておく。

コレニ因ッテ此ノ六字ノ名号ハ禅ニコモリ禅ハ又此ノ六字ニコモリタルガ故ニ、参禅ト浄土ノ法門ト全ク差別アルベカラズ、是レ即チ教外別伝ノ所談ナレバ他流ノ人ニ対シテ沙汰アルベカラズ、只佛心宗ノ門徒タルモノ、カカル道理ヲ会釈シテ更ニ六字ノ禅ニ参シテ悟道スル、コレヲ佛心宗特別ノ心得ナリト思フベキ者也。(17)

夫レ熟ラ思フニ禅宗念佛公案ノ大意ト云ヘルハ、唯心ノ浄土自性ノ阿弥陀佛ト心得ベキナリ。先ズ唯心ト云ルハ、衆生ノ妄心ニハ非ズシテ一心無安ノ佛心ヲ云ヘルナリ。コノ心ト云ルハ、一法界性ナルガ故ニ、タダ衆生ノ色身ニノミ住スルニハ非ザル者也。サレバ西方極楽世界ト云ヘルモ此ノ娑婆ト同ク唯心ノ法界ナリト知ルベシ。又自性ノ阿弥陀佛ト申スハ、此ノ佛ノ法身ハ過去ニモ非ズ現在ニモ非ズ、又未来ニモ非ズ、常ニ十方ニ遍満シ玉ヒテタダ衆生ノ志願ニ随ッテ応化シ玉フ者ナルガ故ニ、経ニモ是心作佛是心是佛ト説ケリ。(18)

確かに、『黄檗在家安心法語』に見られるようなテーマ――唯心の浄土、禅浄の一致、念仏公案――というのは、隠元、木庵、即非、そして白隠の言葉にすでにうかがえたのだが、林道永になると浄土的色彩が一段と顕著になってきている。しかし、基本的には、林でも、西方に実体としてある極楽浄土への往生を説くのではなく、むしろ、この世界と浄土とは同一のもので、『観無量寿経』に説かれているように、心から仏も浄土も発するものなのである。道永の禅には、浄土的色彩が色濃いが、零落した禅浄雑体とは言いがたいものである。

あくまでも、黄檗宗は中国からやって来たので、当時の中国の仏教界の情勢を反映していることは、言を俟たない。黄檗を批判した日本の僧たちがもし、隠元・木庵・即非らの語録を検討したならば、同じ結論に至っただろう。つまり、黄檗禅の念仏行は主に方便として使われ、黄檗は曹洞宗や臨済宗と同じように禅行、つまり、坐禅を第一に挙げる禅宗なのである。

  1. 「親鸞集・日蓮集」『日本古典文学大系』一一七頁、岩波書店、一九六四年。引用文の旧字体は新字体に変え、ルビおよび返り点などは省いた。また必要に応じて句読点を付した(以下同)。
  2. 同、一一七‐一一八頁。
  3. 伊藤秀憲・東隆真訳注、「宝慶記・正法眼蔵随聞記」『原文対照現代語訳・道元禅師全集』一六巻、二四五頁、春秋社、二〇〇三年。
  4. 藤吉慈海『禅と念仏その現代的意義』一五〇‐一五一頁、大蔵出版、一九八三年。
  5. 飯塚大展訳注「阿弥陀裸物語」『一休和尚全集』四巻、一一七頁、春秋社、二〇〇〇年。
  6. 同、一二四頁。
  7. 「観無量寿経」『浄土三部経・下』五八頁、岩波書店、一九六四年。
  8. 平久保章編『新纂校訂隠元全集』、一巻七九頁、開明書院、一九七九年。
  9. 平久保章『隠元』、一九三頁、吉川弘文館、一九六二年。
  10. 平久保章編『新纂校訂隠元全集』、七巻三三一九‐三三二〇頁、開明書院、一九七九年。
  11. 平久保章編『新纂校訂木庵全集』、六巻、二六九九頁、思文閣出版、一九九三年。
  12. 同、三巻、一一五二頁。
  13. 平久保章編『新纂校訂即非全集』、三巻、九七二頁、思文閣出版、一九九三年。
  14. 同、三巻、一二一九頁。
  15. 芳澤勝弘編、白隠禅師法語全集・第九冊『遠羅天釜―上・中・下・続編』、四五三‐四五四頁、一三五‐一三六頁、禅文化研究所、二〇〇一年。
  16. 同、四五八頁、一三九頁。
  17. 『黄檗在家安心法語』、五頁、木村宜豊(発行者)、一九五〇年。
  18. 同、五‐六頁。