参勤交代と日本の文化  (Alternate Attendance (sankin kotai) and Japanese Culture)

Constantine Nomikos VAPORIS (コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス) メリーランド大学準教授

 本日は、発表する機会をいただき、ありがとうございます。二六年前に日本に来て、四ヵ月間京都に滞在しました。その時、北区にある家に下宿をしたのが私の最初の日本の体験でした。それ以来数えてみますと一四回ぐらい日本にきております。本日、京都の皆さんに自分の好きな研究テーマについてお話しする事が出来ることを 大変嬉しく思います。

はじめに

 日本から遠く離れているモロッコの国では、十八、十九世紀に王様が部族を統制する為に国中を動き回りました。王様の政権の最も重要な特徴は彼の移動性にありました。四万人に上る人が御供して、まるで一年中、移動生活をしているようになり、「王座は鞍のよう」という風に言われていました。日本の近世では、対照的なイメージが目に浮かびます。星のように、大名が太陽である将軍の軌道を回っていました。将軍の政権は、彼自身の移動性に拠ったものではなくて、地方の有力者である大名を移動させることに拠っていました。寛永時代から文久時代までの近世約二三〇年の間、大名を原則として一年おきに、あるいは半年おきに江戸と国元に交代で住まわせ、その妻子は江戸に常住させたのが参勤交代制度でした。
  私はドイツ人のケンぺルが書いた『日本誌』を大学院生の時に読みましたが、日本人の移動、いわゆる行動文化、は大変印象的でした。そのテーマを取り上げて、江戸時代の交通――特に関所と庶民の旅に関する研究をしてきて、それについて本も出しました。今は参勤交代を中心にして、同じ日本人の歴史的な移動性というテーマを続けて研究しております。今回は特に大名行列や参勤交代と日本の文化との関係に絞ってお話をさせていただきたいと思います。

一 参勤交代と大名行列

大名行列――今日における昔

 参勤交代に代表される大名行列は何と言っても江戸時代を象徴するものです。しかし、それは明治時代にも引き継がれ、かつ現代にまで続いていると思います。幕末の日本にミットフォードというイギリス人が滞在していましたが、彼は一九〇六年(明治三九)、イギリスの王エドワード七世から明治天皇へ勲章(Order of the Garter)を捧呈する使節団の主席随員として再来日しました。この時、明治政府は彼らを歓待するために大名行列を再演したのです。
  ミットフォードは次のように書きました。「封建制度は終わったが、まだまだその幽霊に私はとりつかれているようだ。目を瞑ると、鎧に身を包んだ侍が東海道の並木にそって歩いている大名行列が見える。それに『したにいろ』『したにいろ』と大きな声で呼びかけているのも聞こえる。」後でも大名行列の再演について触れますが、ここでこの外国人にとっての江戸時代を考えると、そのイメージとして参勤交代が浮かんで来ます。明治初期の元老は徳川時代のすべてが封建的で、文明開化ではないということで、それを拒否していますが、明治維新のわずか三八年後に、江戸時代のシンボルとして大名行列を元老たちが喜んで許容するようになったのは驚くべき事ではないかと思います。
  次に、行列のイメージに触れてみたいと思います。大名行列は錦絵、いわゆる「江戸絵」に沢山出てきます――とくに交通ブームの起きた文化・文政時代以後です。双六にも目立ちます。振り出しに大名行列を描いているものが多く、幕府の首都である江戸の一つの大事なイメージです。当時も今もそうであると思います。
  大名行列の絵巻物も沢山造られており、次にお見せしますが(下の図)、それは一般の人のためではなくて、多くは公的な記録のためでした。大名行列は異国人である韓国人、琉球人、あるいはオランダ人などの行列と違い毎年行われていて、比較的珍しくなかったので番付は造られなかったようです。しかし、今申し上げましたよ うに、他の種類の絵は沢山出されていました。

参勤交代の再現

  江戸時代以降、大名行列はずっと演じられて来ましたが、それは今日まで続いていると思います。

 箱根と二川の大名行列祭りが文化の日に行われているのは、大名行列が日本の伝統(つまり、江戸時代の文化)と同等なものであるという事を強調しているのではないかと思います。岩滝町(京都府)、矢掛町(岡山県)、大井町(静岡県)、豊橋市(愛知県)、玖珂町(山口県)などの各地でも行われています。島田市(静岡県)の場合は十月、元禄時代に始まった帯祭りに付け加えられていて、祭りの最終日に行われています。大名行列の一 部である奴の組はもちろん、京都の時代祭に再演されています。

 新見市では御神幸武器行列祭り、土下座祭りともいう祭りが毎年十月一五日に行われています。これは一万八千石の格式である岡山新見藩主が一六九七年新しく出来た藩の国入りの時に船川八幡宮を守護神としてあがめたお祭りです。藩主は御神輿、お米、道具(鉄砲五挺、弓五挺、槍五本)を神宮へ寄付して、村から二五人でお祭 りを起こすべしと命じました。当時から三〇〇年以上続いていると言われています。江戸時代に、この祭りの日に郷士が行列をつとめ、武士は土下座して行列を迎えたと言う話もあります(しかし、史料的な証拠は全くありません)。行列は十年前までは二つに別れていて、最初に、六四人が勢揃いする大名行列が出て、そして御神輿 が出ます。行列は御神輿を守るということです。最近は町の子供たちを参加させるために子供の大名行列も最後の方に加えられました。

 ところで、このような祭りは今の日本人に江戸時代の歴史を教えるための一つの大事な方法だと思われます。祭りの担当者は行列が出発する前に、その参加者に当時の衣装のつけ方、武器の持ち方などを教えます。この祭りも岡山県の無形民俗文化財になっていています。
 去年の十月にとったビデオを少しご覧になってください(次ページ写真2葉)。最初の方は神宮を出たところ、次に町を通る部分で、ここには写っておりませんが最後に子供の大名行列が続いています。

 この行列は、一九九〇年代にフランスでも演じられたことがあります。これが、この年代に外国でも演じられたという事は、日本人の誰にとってもそうかも知れませんが、特に新見市の人々にとっては大名行列は日本の江戸文化の象徴であると同時に、過去と現在のつながりが深いものであるということを表わしているように思います。

参勤交代――幕府大名の権力のシンボル

 参勤交代は、幕府、または大名の封建的な権力を表わしていました。参勤交代の行列は藩の権威と実力を対外的に誇示する、大きなデモンストレーションの効果があったように思います。特に領内と城下町、あるいは江戸市中での行列が、威儀を正した形態を保持したのは領民や他藩に対する幕府または藩の権威を見せるためのものでした。戦争の時と同じように、行列は権威を見せるためであったという事を強調したいと思います。紀州藩参勤交代行列図には藩主の廻り番として七〇〜七五人もいます。参勤交代は藩の権威を表わすものと今申しましたが、同時に藩の行列、大名の江戸往来が幕府との従属的な関係を表わしていたことも見逃してはいけないと思います。毎年家来や陪臣が付いている大名一二〇人以上を移動させたのは幕府の権力でした。

 幕府の大名に対する権威の中で、参勤交代は、殆ど最後まで続いた一番強力なものであったと言えるかもしれません。文久時代に参勤交代を緩めていた幕府の権威は急に衰えて、六年の後幕府自体が廃止されました。

 幕府との服従的な関係は大名行列の様々な道具や他の物にも見られます。例えば、南部藩(盛岡藩参勤交代図巻)の場合、挟箱、櫃を覆う朱塗り皮革を使うには幕府の特別な許しが必要でした。藩主の替え馬には、徳川家康から南部藩二代藩主利直が拝領した二疋の虎の斑模様の革が掛けられています。それに、将軍家に献上する南部の馬と鷹も行列に加わっています。ここにスライドはありませんが、火縄銃を覆った猩々緋の皮袋は、二代将軍秀忠から利直が拝領した物です。長刀も対道具も非常に限られた大名にのみ許可されていました。こういう道具類もまた、幕府との従属的関係を強調しているものではないかと言えると思います。

庶民の対応と「御馳走」(Reception)

 ここまでは主に江戸時代以降の日本人が大名行列についてどう考えたかについて触れましたが、次に当時の江戸時代に生きていた人達のことも取り上げたいと思います。行列をどういう風に見ていたか?どのような応対、つまりどんな「御馳走」(ふるまい)が行われたかということについてです。

 大名行列は幕府、大名の権力のシンボルであったからこそ、庶民がそれを再現して、武士をからかったことは 不思議ではないように思います。大名行列はいろんな意味で「祭り」であったわけです。例えば、幕末日本を訪れたフランシス・ホール(Francis Hall)というアメリカ人は横浜の弁天祭りについて詳しく書いています。一 八六〇年に行なった祭りのなかに大名行列が再現されていましたが、藩主の乗り物の中に狐が座っていて、その廻り番は藩士ではなくて、化粧して着物を着ている男三人でした。ホールが説明したように、行列の日だけは庶民は侍を真似しても良く、侍は顔を見せずに、引きこもったままでいたということです。

 庶民は行列に対し敬意を表して土下座をしたと言われていますが、絵巻を見ると殿様が入っている本隊が通る時にしか土下座はしていません。その時、ある人は土下座をちゃんとしていますが、他の人はうずくまっています。殿様が通ったあと人々はまた立ち上がります。

 幕末大坂京町の女の人によると(『幕末明治女百話』という口述歴史の説明にあるように)大名が「お国許からお着きになる時は、大概拝みに行たもんだす・・・拝見する者は暮れがたのこともありましたが、お腹が減って目えがくらんでしもても、チンと辛抱して待ってたもんだす。」と述べています。

 庶民の対応と「御馳走」とはどういう事かと言いますと、例えば、(1)盛り砂を立てること(次ページの写真)、(2)水を振りまくこと、(3)水桶を置くこと、(4)露払いをすること、(5)土下座あるいはうずくまることなどです。

演劇としての参勤交代(Sankin kotai as theater)

 庶民の側からは、大名行列はある意味では演劇として見られていたのではないかと思います。それは先程のフランシス・ホールの日記にも絵巻にも見られるようです。演劇、あるいは文化的なパフォーマンスとして、参勤 交代は劇的な要素が多く、それについて四、五点あげてみたいと思います。

 行列を演劇だとすれば、道は舞台、行列の人達は俳優、道具は演劇の小道具(prop)、道端の人々は観衆として考えられると思います。紀州藩絵巻の場合、観衆が五〇〇人も描かれています。

(a)行列の大きさ

 最初に資料をご覧になって下さい。大名行列の人数の表は二つ、土佐藩の部表1と他の藩の部表2があります。
 行列の人数は大名の威光を表わしているので、少なくとも元禄時代までは大名は行列の人数そのもので競争したようです。人数が一番多いのはもちろん百万石の加賀藩です。他の藩と違って、その人数は時代が下がってもあまり変わらなかったことは注目すべき点です。

 二四万石の土佐藩は貞享から元禄時代にかけてよく二、〇〇〇人を上回ることがありました。紀州藩は江戸後期になっても、一、三二二人もの大行列を結成した事が注目されます。

 他の藩の場合、その人数は熊本藩のように急に減少する場合もありましたが、大名の威光を守るために江戸や国許へ入る前に、人足や奴を雇って人数を増やす傾向があったことはよく知られています。

 人数の多さとはもちろん関係がありますが、行列の長さ――つまり行列がどのくらい続いていたかということは、外国人にとっても日本人にとっても大変印象的なことでした。有名な川柳はそれを暗示しています。

あとともは
霞みひきけり
加賀守(かがのかみ)

(b)色彩と物(道具)

 演劇としての参勤交代を考えると、色彩と物(道具)の関係も深いものがあります。古川古松軒とドイツ人のケンぺルは、大名行列を見ると、必ず御供のりっぱな服を詳しく記述しました。行列の同じ組に入っている人はよく同じ服を着て、同じ笠をかぶって、しゃれた格好をしていました。江戸へ入る前に礼服に着替えて見事に見せました。

 道具も大名の威光を見せるためであって、行列を見た外国人、特にケンぺルは非常に詳しくその様子を述べました。道具とはもちろん鉄砲、槍、弓(いわゆる三つ道具)を始めとして、挟み箱、長刀、毛鎗を指しています。「大名の鎗はだまって、名を名乗り」という歌が江戸時代から残っていて、鎗の政治的な意味をよく表わしています。

(c)動作と音

 演劇としての参勤交代の、「動作」と「音」について少し触れたいと思います。行列は大きな宿場町と城下町 に入る前に「行列を立て」ました。つまり、列を一直線に並べたり、笠を整理したり、足並みを整えたり、鎗などを立てたり、馬に乗ったりする事です。これは俳優が舞台に入る前の準備と同じ事です。大名行列の行進は、 一日平均一〇里(四〇キロ)ぐらい歩きましたが、城下町を通る時は堂々と歩いて劇を演じました。

 ケンぺルは、「実に規則正しいみごとな秩序を保ち、きぬずれの音や人馬の動きでやむを得ず起きるかすかなざわめき」と書いています。大名行列が割りと静かに通っていた事を意味しています。昭和四年の記録に、当時七八歳の男がケンぺルとほとんど同じような感想を述べています。彼によると、「お大名行列と言えば、金紋ず くし先箱に、二本道具一対ときた日には、実にたいしたもんで、それに三〇〇人のお供が添えましょう。それで静かさといったら、しんとしたもので、ただ響きますのは、馬の轡(くつわ)の音のみでございます」と言っています。(幕末百話)

 しかし、このしんとした状況は先払いの「したに、したに」や奴の呼び声や踊りや鎗を投げたりする事で一時的に中断しました。奴が威勢のいいかけ声とともに練り歩いた(parade)ことは、他の国のパレード、特に十九世紀アメリカのフィラデルフィア市のパレードにも見られるように、行列は男らしさをよく見せたわけです。

 庶民が行列をどんな気持ちで見ていたかは簡単に言えませんが、絵巻物に描かれている子供は感激しているようすです。人に畏敬の念を起こさせたり、同時に人を楽しませたりする事は互いに矛盾しないものであると思います。ここまでの結論として、大名の政権の立場から考えると大名行列は藩の権威と軍事的な力を見せる仕組み(mechanism)であって、庶民はそれに対して十分敬意を払っていました。それと同時に、大名行列が通る街道の近くに住んでいた人々、江戸市内に生活していた人々、あるいは来日した外国人にとって、行列は大変魅力的で、演劇のように見ていたと論じてきました。大名行列を見物したり、錦絵を造ったり、絵双六の背景になったり、あるいは錦絵に見られるように子供は遊びに行列の真似をしたり、地方の祭りに大事な役割を果たしたりもしました。このように江戸時代の文化にかなりの影響を与えたのではないかという風に思います。特殊な旅の表現としての大名行列は物質文化の物をになって交流し、相当広い範囲に影響を与えたわけです。

二 「江戸の文化」

 次に参勤交代から生まれた文化――つまり、江戸文化の形成と参勤交代――を二番目のテーマとして取り上げてみたいと思います。

江戸文化の形式

 

 「江戸文化」という表現は、江戸の都市の文化=江戸時代の全国の文化という風に使われている傾向があります。ここでこれは「一定方向説」(unidirectional)という風に呼ぶ事にします。つまり、江戸から生まれた文化説と同じです。これはいろんな学問的な論文に見られます。『長野県史通史編5近世2』には、「参勤交代の 定着や江戸の繁栄のなかで、その世紀の後半以降、またとくに十八世紀にはいって、城下町は、江戸文化を吸収して、それを近在におよぼす役割をつよくもった」と書いてあります。日本の学研という会社のインターネットの辞書によると、「参勤交代の影響で街道が発達し、江戸の文化が地方に広まった」と述べています。

 この一定方向説には疑問の余地があるのではないかと私は考えています。中央の文化――つまり「江戸文化」――とはなにか?江戸で発生した文化のみと思ってしまうのが問題です。「江戸文化」とは全国に発生した文化であるという事を正確に強調しなければ、「江戸文化」を誤解してしまうことになります。文化という言葉をこ こでは物質的な文化と非物質的な文化との両方の意味で使っています。

 一定方向説は江戸からの交流の事を強調しますが、それはもちろん否定出来ません。しかし、江戸に集まっていた藩の家臣と小者などは地方の人々であった事も見のがしてはなりません。十八世紀の江戸の人口の四分の一、約二五万人は参勤交代で来た者であって、土佐藩の場合、元禄十年(一六九七)、四、五五一人の土佐人が土佐以外の、江戸、京都、伏見、大坂に住んでいて、藩の四一万人の約一パーセントとなりました。内訳はわかりませんが、他の年の数字に近似していれば、ほとんどの人が江戸に集中していて、一八六人が京都に住んでいました。全部で三五〇人が大坂、京都、伏見の三都市に住んでいました。

 こういう人達がお国で覚えた言葉、習慣、知識などを持ってきて、それが道中で、あるいは江戸にいる間に変質させられて、国元へと環流しました。江戸と往来した家臣は文化――いわば物質文化――を文字どおりに運んで来、かつ比喩的に非物質的な文化も普及させていきました。こういった二重の意味があるわけです。

 藩士たちは文化の交流に大きな役割を果たしました。土佐の森正名は五回も江戸との間を往来しました。彼が 書いた日記を見ると、参勤交代の個人的な意義がよく分かります。土佐はどういう国であるかという事を、初めて考えたのは多分文政十一年の最初の旅のころでしょう。つまりこの年より以前、正名の世界は土佐の国の境目 の内側、あるいは城下町周辺に限られていました。高知を出て他の藩を見るまで、自国の有り様は十分には分かり得なかったでしょう。

 正名が高知を出てから最初に出会った城下町は丸亀でした。その城を見て、「天守なし。殿様御住居出来る様なる所見えず。小さきものなり」と判断しました。また城下町を歩いて見て「町は大繁盛、家中は衰微と見ゆ」と書きました。最初の旅だからこそ各城下町一四カ所を通った時に必ずメモを残したものと思います。このように他藩の城下町その他の都市を見ることにより、初めて他の世界と高知との比較が出来ました。

 三都である京都、大坂、江戸へ入った時、その大きさに衝撃を受けました。「京都に入てみればさすがに大坂に勝ること遠し。そもそも男女の風俗優にして衣服の美成る事、又大坂に倍せり。御国を出、丸亀の繁盛に驚きしが、大坂へ入て見れば、又十倍に覚申す。京へ入て又倍せり」と書いています。その後、江戸へ着いた後愛宕山に登って「京都、大坂などより広大なる事、十倍もあらんや」と驚いています。このように、彼の計算によると江戸の繁盛の様子は丸亀の百倍とか二百倍になって、高知とは比べものにならない事は明らかでした。

交流のパターン

 参勤交代が江戸の文化を全国に広げた一方的な現象ととらえるのではなく、より多面的なプロセスだという風に考えたいと思います。(1)江戸から地方へ、だけではなくて、(2)国許から江戸へ、(3)江戸を通して地方から地方へ、あるいは(4)直接に地方から地方へ、のようなパターンも考察しなければならないと考えます。それに忘れてならないのは(5)京都、大坂から江戸へ、あるいは江戸を通して京都大坂から様々な藩へというパターンもありました。次にこの五つの流れのパターンを取り上げてみたいと思います。

 一番盛んなのが、(1)の江戸から地方への交流です。

 吉宗将軍も十八世紀の初め頃、日本国内の輸入代用物政策を推進する為に、江戸に集まっていた大名にサトウキビや朝鮮人参の苗を配って、それらの栽培を地方へ奨励しました。

 正名のような藩士は道中で、または江戸で買い物をよくしました。江戸に着いて次の日、ある土佐藩の郷士は錦絵(江戸絵とも言う)を六十枚ほど買って、三日後にはさらに一〇枚を買いました。これは今の絵葉書のように目的地に着いた事を表わす物として、国許の家庭、友人などへ送ったのでしょう。幕末には泥絵も藩士にとって人気のある土産品でした。

 大ざっぱに買い物と言うと、布、衣類、食品、武芸品、美術品、植物などのようなカテゴリーがあげられます。

 さらに、八戸藩士富山家二代目の日記を見ますと、国許の人から、特に本家より頼まれて商品を買って国へ送ったり、持って帰ったりする例も少なくなかったようです。

 植物の買い物として次のような例があげられます。土佐藩士の島田武衛門は江戸の商人からサツキの種や苗を買って高知に居る郷士の友人に送るうちに、サツキの栽培が友人の商売になりました。こういう例も少なくないと思います。

 また帰国の際、友人からの餞別として良く錦絵、画、タバコ入れ、扇子などのような物をもらう事は全く珍しくなかったようです。

 江戸日記を見ますと帰国する藩士は自分の買い物の他に、友人から餞別としてもらった錦絵、画、タバコ入れ、扇子のような物も持って帰っています。土佐藩下級武士小倉貞助は江戸のお土産として団扇三六本、財布、糸、子供の簪、真田緒紐付きの日和下駄、絵本六冊、腰帯二筋、利休箸一〇包、扇子、薬などのような物を買いました。それに、本家より注文された日和下駄も買って持って帰りました。

 非物質的な文化の場合、江戸での経験は藩士のものになって、その人と共に藩へ伝えられました。しかし、江戸で習ったことの起原は江戸に限られていたのではなく、日本の様々な所から来たケースが多いのです。もちろん、外国からのケースもありました。ここで小田野直武の例をあげてみます。

 小田野直武は秋田藩士で参勤交代の際藩主のお供をしました。江戸にいる間、平賀源内の弟子になって西洋(蘭)風の画法を勉強して、杉田玄白の『解体新書』という翻訳書の絵を描きました。蘭癖(ランペキ)大名の 一人である藩主の佐竹義敦も直武に教わって腕の良い画家として知られるようになりました。西洋画法についての本を二册ぐらいも書いています。直武と義敦のお陰で秋田蘭画が生まれました。

 藩士だけではなく、藩主も参勤交代のお陰で交流ができ、遠く離れている秋田藩の藩主佐竹義敦と熊本藩の殿様細川重賢が江戸で知り合って、お互いに蘭学を奨励し合う事になりました。

 陶工の場合も参勤交代の仕組みの中で江戸へ行くチャンスが与えられて、同じ分野の人間との交際が可能になりました。例えば、森田久右衛門という人物は土佐藩の尾戸焼きを改善するために藩主に江戸へ遣わされました。

 画家と陶工だけではなくて、一般的に藩のインテリ――儒者、茶の湯の師、歌人、医者、など――も藩主のお供をして江戸で一年間とか数年間を過ごして、江戸のサロンで他の藩のインテリと交流する事ができ、藩と藩との政治的な境界を超える事が出来たと考えればよいのではないかと思います。あるいは、こうしたネットワーク で明治維新後の日本の近代化――文明開化が日本中に伝播したとも言えると思います。

 土佐藩の有名な儒学家である谷、宮地のメンバーは、よく美濃岩村藩の優れた学者の佐藤一斎の門下生になりました。こうしたケースは、国へ帰ってから藩校の教授になる場合が多いのです。つまり江戸で資格をとって国へ帰ったわけです。

 武芸をやっていた武士もそうでした。例えば、久留米藩士今井湛斎(一七六九〜一八四〇)は五年間江戸で沼田藩士長沼(ながぬま)長平の道場で剣術を学び、教える資格をもらって国へ帰りました。国許では江戸で習ったことを教えて、「江戸での経験」を幅広くいかしました。こういう江戸勤番の武士は江戸のサロンに参加して 幕藩制度の政治的な境界を超えた者です。

 藩士だけではなくて、土佐藩郷士である岩崎弥太郎や町人画家弘瀬絵金は江戸で勉強するために江戸お供の藩士に雇ってもらい、行けるようになりました。その江戸滞在の経験は彼等の生涯に大変重要な位置を占めました。

 岩崎は儒者である安積良斎(一七九一〜一八六〇)の門下生になる為に奥宮忠次郎という藩士の小者に雇われて、奥宮と奥宮の家族と一緒に江戸へ向かい、ゆったりとした六〇日間の旅をしました。絵金は岩崎ほどよく知られていませんが、一八二九年十八歳で江戸へ出て三年間滞在し、異端的な画家としての評判を取りました。江戸で見た歌舞伎が彼の絵の大事なテーマになり、江戸での経験のおかげで御用絵師となりました。

 江戸文化とは多面的なプロセスで形成されたものと申し上げてきましたが、(2)の「地方から江戸へ」と(3)の 「江戸を通して地方から地方へ」はケースによって区別出来ないので一応ここでは一緒に取り上げます。(2)と(3)の流れとして、現在の段階では次のようなものがあげられます。

こういう神々は屋敷内に移り、幕末 には庶民にもよく祭られていました。

 国許から食器類を藩邸内のために送った藩も少なくなかったようです。加賀藩と高松藩の例はよく知られています。高松藩で出来た京都うつしの肥前焼は江戸藩邸に送られ、京都の影響は肥前と他の藩を通して江戸にまで及びました。もちろん、この京都うつし焼は中国と韓国の影響も受けましたから、こういう風に参勤交代のお陰で文化の交流がどんなに多面的なプロセスであったかは十分に分かると思います。

(4)は中央を通さず、地方から地方へというパターンです。時間の関係で例は一つしかあげられませんが、一番多いと思われるものは、帰り道で購入したお土産です。

 独特な例として土佐の碁石茶があります。これは醗酵させた黒いお茶です。胡乱茶より濃くて酸っぱい味がします。十八世紀から土佐藩の参勤交代の道は北山道に変更され、行列は伊予の国を通りました。そのために伊予の国にある仁尾の商人が碁石茶の事を知り、碁石茶を売る特権を買って、瀬戸内海辺りに仁尾茶の名前で碁石茶 を発売することになったのです。

 江戸文化の形成を考えるにあたって最後に、(5)の京都大坂から江戸へ、あるいは京都大坂から江戸を通して 地方の城下町へのパータンについて触れたいと思います。西日本の各藩は大坂、京都に屋敷を持っていました。参勤交代は、もちろん周知のように、米の販売のために城下町と大坂を結ぶと共に、国中に特産品の生産多様化、あるいは金融を促進した制度でもありました。土佐藩山内家のような藩主は、大坂で一泊二泊するのは普通でし た。京都へ寄らない場合、京都から幕府役人、門跡、役者も大坂の藩邸に招かれました。京都へ寄るとすれば土佐藩の場合、河原町の藩邸に入って休憩してから見物に出ることもありましたが、ここに泊まるにはあらかじめ幕府の許可が必要でした(許可がない場合伏見に泊まったわけです)。京都藩邸の留守居役という役人がいて、彼の大事な仕事は少なくとも二つありました。一つは、情報を集めて藩主に伝えることです。二つ目は、京都または関西の文化人の弟子になりたい土佐の家臣をそういう人たちに紹介することでした。こういう風に京都は重要な情報ネットワークの拠点になりました。

 以上簡単な発表をさせていただきましたが、参勤交代とは江戸、大坂、京都、全国の城下町という拠点を結ぶ 人、物、金の流れと情報知識と文化の流れを作り、ネットワーク化する事も促進して、日本江戸時代の文化形成に強く刺激を与えた制度であったと考えております。

 ご清聴ありがとうございました。