親日仏教と韓国社会(Pro-Japanese Buddhism and Korea Society)

申 昌浩 (SHIN Chang Ho)国際日本文化研究センター 中核的研究機関研究員

1.はじめに

 皆さん、あけましておめでとうございます。

 二〇〇二年、日本と韓国のあいだでは、これまでなかった多くのことが起こりそうな予感がします。もちろん、 五月には日韓共催のワールドカップもありますが、そのほかにも何かと多忙な一年になりそうだなと思います。そういった予感からではありませんが、私は昨年の大晦日から元日にかけて、今年も良いことだけ起きますようにと、神様や仏様に頼みごとをするために初詣に行きました。大晦日の夜十一時五〇分ぐらいに一〇八の鐘をつくために、この近くにある新京極の「誓願寺」に行きました。誓願寺は落語家の祖といわれる安楽庵策伝上人のゆかりの地でして、多くの芸能者が芸道上達を祈願するために訪れる寺でありました。私も芸事が上達するように祈りました。私の場合は芸道上達というよりも、日本語がもっと上手くなりますようにとお願いをしました。それから、私はけっこう欲深い人間でして、同じ新京極の通りにある「錦天満神社」に行きました。錦天満神社は北野天満宮に縁を持つ神社でありますので、これからも学業が上達するようにと神頼みをして、家に帰ってきました。それからお昼過ぎには、家の近くにあるお酒の神様を祀る「松尾大社」に行き、今年もおいしいお酒が沢山飲めますようにと、またお願いをいたしました。これらのすべてが、日本のお正月には欠かせない伝統的な風景であります。特に、私がおこなったすべての行為は、偽りのない宗教行為でもあります。
 このような初詣はとなりの国、韓国では行われていない新年の行事でもあり、宗教行事でもあります。むしろ、韓国では寺や神社に行く代わりに、大晦日の夜から親戚が集まり、元日の朝、祖先に対する「茶礼」という礼拝を行うのです。これは、宗教的な祈りや儀礼であるというよりは、儒学の教えに基づいて長年行われている祖先に対する感謝の意を表す行事の一つであります。そうすると、やはり日本と韓国の宗教は大きく異なるのではな かろうかといえます。その中でも特に、神社の存在が気になります。韓国には神をまつる神社が日本のような形ではありません。むろん、朝鮮半島に住んでいる人々も神を信じていますが、こんなに多くの神社はありません。その代わりに、日本よりもはるかに多いのがキリスト教会です。もし、韓国に行く機会がありましたら、韓国の夜空(ソウルでもどこでもいいですが)を一度見上げてみてください。日本の夜空とは異なる風景が目の前に広がると思います。それは、韓国の夜空を彩採っている十字架、それも華やかなイルミネーションの十字架の数にびっくりすると思います。一九九八年度の韓国プロテスタントとカトリックを合わせた教会の数は、六四、四二 七ヶ所であり、キリストを信ずる信者の数は二三、五二七、六三五人にも上ります。全国民の半分が教会に通っているクリスチャンであるということです。しかし、これらの統計は宗教団体が自ら申告した数によるものでありますので、それほど信憑性は高くないと思います。それに比べ日本のキリスト教信者は、全国民の一%弱にも満たないといわれています。そのことを考えると、いかに韓国に教会とキリスト教信者の数が多いのかが分かると思います。
 しかし、韓国で一番長い歴史と伝統がある宗教は、仏教です。今現在韓国にある寺の数は、一八、五一一ヶ所であり、その信者の数は、三〇、七六四、〇四五人にも上るのです(1)。この韓国の仏教が、一時期日本の仏教の影響を受け、親日的な性格が強い宗教として批判されたことがあります。今は韓国の仏教を「親日仏教」であるという人は誰もいません。しかし、日本の植民地支配を受けた韓国仏教に親日仏教としての傷跡は未だ完全に消えていないように思われます。今日は、どうして韓国仏教が親日仏教といわれるようになったのか、韓国社会はどのように受け止めているかについて少しお話してみたいと思います。
 まずそのために、朝鮮半島における「親日」(2)という問題を考えなければなりません。「親日」という問題は、今日の韓国の政治・経済・文化のどの断面をみても様々な問題が未だに残っています。また、韓国人のナショナリズムをくすぐる気持ちの問題でもあります。日本の植民地支配から解放されてすでに五十年も経っているにもかかわらず、何一つ解決される兆しは見えてこない歴史的な傷跡なのではないでしょうか。日・韓両国のあいだで何かと不協和音が発生する度に必ず問題にし、両国の緊張感を高潮させる道具として利用されているように思われます。二〇〇二年日韓共同開催のワールドカップを迎え、こういった問題を解決するためにも、日韓両国のあいだに内在している問題は何かについてもう一度考えるべき時期に来ているのではないでしょうか。
 朝鮮半島の近代宗教形成の問題は、他の政治問題とほぼ同じくらい関係性があると思います。いわゆる、朝鮮王朝が封建的な君主国家から近代国家への扉を開いていく過程で形成された韓国的ナショナリズムと深い関わりを持っています。また、近代日本に対する「親日」と「反日」という民族的な感情問題も含まれております。そのため、今日においても慎重に扱わなければならない神経質な課題であります。今日のお話は、私が今もっとも 関心を抱いている「日本と韓国の近代宗教形成史」の中から、再生宗教としての朝鮮仏教が持つ親日性についてであります。韓国における近代的な宗教形成史において、この「親日」や「反日」の問題は、これまでそれほど綿密に論じられてきた内容であるとは思われないのです。朝鮮半島における近代の成立は、日本の近代と深く関わりをもっている日本研究の一つでもあります。

2.朝鮮王朝の排仏政策と朝鮮仏教の特徴

 朝鮮半島における仏教の始まりは、三七二年に高句麗の小獣林王(三七一―三八三)が、中国から伝来してきた仏像と仏典を受け入れたことによるといわれています。当時、高句麗が仏教を受け入れた目的は、古代国家として王室の権威を高め、民衆の精神的な統一を狙うことにあったと思われます。このように受け入れられた仏教は、伝来当初から国家の庇護下で大きく発展し、「鎮護・護国仏教」として定着するようになりました。仏教は、準国教時代の統一新羅を経て、国教として高麗時代の末に至るまで、文化を創出する主役としての地位にありました。仏教は、単なる宗教の範疇を超えた民族の精神を培ってきた文化の一つでもありました。そして、周辺諸国を始め、国際的な文化交流の担い手でもありました。このことから古くから日本とのあいだにおいても、この仏教が文化交流の担い手であったことはいうまでもないと思います。朝鮮半島における仏教は伝来から一六〇〇年のあいだ、多くの王様や僧侶たちによって、そして民衆たちが力を合わせて守ってきた伝統的な民族の宗教であります。
 この伝統宗教仏教が高麗時代の末に至ると、政治的・経済的な不祥腐敗の温床になってしまったのです。腐敗した仏教に対する批判の声も次第に高まり、排仏政策を取るべきであるという世論も形成されるようになりました。特に、儒学を身につけ、科挙を通じて政治舞台に登場した一部の新進士大夫と、革新的な武士階級が排仏を強く要望するようになりました。そして彼らは、一三九二年に仏教王国高麗を倒し、朝鮮を建設したのであります。新たな国家朝鮮は、儒学思想を基盤とした両班官僚組織と政治体制を構築するのでありました。彼らはすべての政治・経済体制を儒学思想に基づいた国家建設を目指しました。彼らの「排仏論」や「排仏政策」の原因は、高麗時代の仏教があまりにも国家の庇護を受けながら政治的、経済的に膨張していたことと、僧侶の地位が貴族化され、風紀を乱していたことが上げられると思います。そのため朝鮮の王様たちは、政治機構から仏教色を排除、撤廃し、儒学思想による「徳治主義」の理想政治を実現するために様々な排仏政策を行うことになりました。
 朝鮮両班社会からの冷遇と中央政権から見放された僧侶たちは、社会的な地位が低下し、経済的にも零細化を逃れることはできなかったのです。大部分の僧侶は、製紙などの手工業に従事することとなり、奴婢階層と何ら変わりのない身分の位置に置かれてしまったのです。朝鮮仏教には、いつの間にか「護国仏教」としての色合いがうすくなってしまいました。その代わりに、僧侶たちの物貰い行為や寺の世俗的な信仰行為の傾向が益々強く現れるようになりました。その世俗的な信仰体系が一般庶民には受け入れられ、仏教を崇拝する伝統も相変わらず続いていたのです。
 こういった朝鮮仏教の姿は、崇儒排仏を唱えていた為政者や男性から離れ、両班たちの家を守る役割を担っていた内房(婦人)によって、保全されることになったのです。女性たちによって、守られた仏教は、家族の成功や死後の祈願や病気を治すなどの行事を担当する役割をしたのです。僧侶たちも困難な寺院を維持するために、仏教行事の中に土俗的な信仰を習合させていたのです。本来の信仰形態から大きく逸脱した不健全な状態であったかも知れませんが、民衆レベルに根強く生き残る方法を選択したのです。排仏という嵐が吹き荒れた朝鮮時代においても、仏教は女性たちの信仰心によって生き残ることができました。
 朝鮮時代の仏教は、現世利益のために求福祈祷の形式ではあったが、宗教としての役割を十分果たしていたともいえます。朝鮮時代の崇儒排仏政策によって、お寺や僧侶の姿は都城や村から消え、町から山中に追いやられたことによって、「山中仏教」もしくは「山僧仏教」ともいうようになりました。そして、信仰の対象者が男性から女性へ移行したことによって、「家内(内堂、内房)仏教」ともいうようになりました。この一連の宗教施策と宗教形態の変貌が、結局、朝鮮仏教を特徴づける要因になりました。国家による保護や仏教思想を重視していた時代とは異なり、朝鮮時代の仏教は、政治性が欠如している姿になりました。その代わりに、貴族の宗教から生活に密着した「民衆の宗教」として、「庶民の宗教」として定着したともいえると思います。

3.開国と朝鮮仏教の再生

 一八七六年二月二六日、朝鮮政府は「日朝修好条規(江華島条約)」を結ぶことで、長いあいだ堅く閉ざしていた鎖国の扉を開くようになりました。この規程付録によって、釜山港における「日人居留地祖界条約」が調印され、後に、釜山が日本に開港されました(3)。一八八〇年四月十二日に、元山に日本領事館が開館され、一八八三年九月三十日、仁川では「日本居留地借入約書」が、竹添進一郎と閔泳穆との間に調印され(4)、使節の交換及び治外法権が認められるようになりました。この開港条約が成立したことによって、朝鮮内部では先進国日本と親密な関係をもつ親日的な性格の政治的集団が形成されました。また、それに対して敵対心を抱く反日的な政治勢力も形成されるようになりました。(むろん、親清勢力も、親露勢力も、親米勢力なども現れていた時代でありました。)開港された港を中心に、多くの日本人が経済活動をするため進出してくるようになり、それに伴って日本の宗教界も、とりわけ仏教界が活発な宗教活動を行うようになりました。
 一八八〇年代に伝来してきた日本仏教が行っていた布教活動に、朝鮮仏教界も大きな刺激を受けたことはいうまでもないことだと思いますが。しかしすでにお話したように、当時の朝鮮仏教は、排仏政策によって宗乘も宗旨も信条も曖昧な状況に堕ちていたのです。このことを念頭に置くと朝鮮仏教界が、いかに日本仏教界の活動に対してあこがれを持つようになったのかについては想像できると思います。むろん、先進的な行政機構の改革と 西洋文物の受容に関して、朝鮮仏教界も大いに刺激を受けており、新たな自覚運動が始まる時期でもありました。こういった朝鮮仏教の動きが自力で軌道に乗る前に、日本仏教日蓮宗本佛寺住職佐野前勵(後に、日宗宗務統監に就任した)の登場によって、朝鮮仏教界の親日性が具体化されるようになりました。
 日蓮宗の僧侶佐野前勵は、一八九五年三月三日、釜山に上陸した後、仁川を経てソウルに入り、日本公使館の後援を得て布教活動を始めた人物であります。佐野前勵は、当時摂政を行っていた大院君に謁見し、王室に接近するための法華経と香炉などをプレゼントし、「立正安国論及び古代綴錦」を献上したのです。それから同年四月二十二日に総理、内務、外務、度支、学務、宮内の諸大臣を次々と歴訪し、「僧侶都城出入禁止」解除の上書 を内閣総理大臣金弘集に提出しました。その建議書の内容は、朝鮮僧侶たちの都城出入禁止の不当性を指摘した上、この出入禁止に対する解禁を願うものでありました(5)。金弘集内閣は、その建議書を受け入れ、その年四 月二十三日次官報に「僧侶の都城出入禁止令」を緩和させるという成果を挙げたのです(6)。
 これは一五〇三年、燕山君によって、僧侶たちにソウル四大門内の都城出入りを禁じていた、この「都城出入 禁止」の解除および許可の快挙でもあったといえます。朝鮮仏教界の長年の夢であった都城出入が、日本からきた僧侶の力によって実現したのです。佐野前勵は、一躍にして朝鮮仏教界に再生のきっかけを与え、宗教活動の自由を吹き込んだ聖者になったのです。日本からの僧侶の意志によるものであったのか、それとも日本帝国政府の政治的な意図がどの程度働いたかは確かではありません。しかし、朝鮮僧侶たちの「都城出入禁止」が解かれたことは大きな意義があることには変わりのないことです。そして、長いあいだ足を踏み入れることを許されなかった都の城内で自由に弘法できることは、朝鮮仏教の新たな再出発と近代宗教への道を見出すようになったともいえます。
 都城出入禁止解除に対する朝鮮仏教界の反応の中には、佐野前勵に対する感謝の意を積極的に表明した僧侶もありました。水原龍殊寺尚順崔就墟僧侶は、佐野前勵に感謝状を(7)贈呈していたのです。また、北韓山中興寺住職李世益に日蓮宗を伝えた佐野前勵は、出入禁止令撤廃六日後に中興寺に「日蓮宗教会本部」の看板を掛けました。佐前勵野は、一八九六年に北一榮で、都城出入禁止を解除してくれた皇恩に報いるために、中興維新の大業を祝賀するという意味で高宗のために御安泰を祈る大祈祷祭をも開催しました(8)。この祈祷祭には、南・北漢山と金剛山及び華渓寺・白蓮寺・龍殊寺から来た僧侶三〇〇人と外務・学務・農商工部大臣以下高官二十名、日本の名士五十名など一五、〇〇〇名が参加した盛大な親日法会が行われました(9)。これを機に、日本仏教界 の各宗派が日本人の保護と精神的な慰安機関としての役割を果たす目的を持って、次々と朝鮮半島に各宗派の別院を建立し、宗教活動を行うための地盤を整え始めました。そして、日本仏教の活動範囲も、次第に朝鮮人を対象とするようになっていったのです(10)。佐野前勵による朝鮮仏教の解放は、日本帝国の朝鮮支配と仏教の布教の宗教侵略の基盤を形成する期となり、一八九七年に、朝鮮から大韓帝国に国号が変わる時期、僧侶の都城出入り禁止が完全に解かれるようになったのです。

4.近代日本仏教の布教

 十九世紀の末に入ると、日本帝国と朝鮮との政治関係が深く絡み合うことに歩調を合わせたかのように、日本仏教界と朝鮮仏教界との関係も深くなったことはすでに述べてきました。特に、日露戦争が勃発したことによって、日本仏教は朝鮮開教への転機を迎えることになりました。それも日露戦争が日本の勝利に終わり、朝鮮半島に対する利権を得た日本政府は、一九〇五年十一月に「第二次日韓協約」を締結しました。やがて一九〇六年二月に、漢城に韓国統監府を開庁するようになりました。これがいわゆる朝鮮半島における「統監政治」の実施を意味するものであり、統監府は、大韓帝国の外交権を始め、実質上の内政を干渉することで統監府による統治を始めたのです。そして、日本仏教各宗も朝鮮開教に対する意欲が一層高まり、すでに開教を実施していた諸宗は益々力を注ぐようになりました。未だ開教に着手していない真言宗・曹洞宗等も一斉に朝鮮布教に着手することとなりました(11)。これらの各宗派も、日本政府の協力と援助により、急進的な成長を成し遂げることになりました。日本仏教界を代表する本願寺が一九〇六年十月に、ソウルの龍山に「開教総監部」を設置したことで(12)、日本仏教の宗教的な進出の本格的な基盤を形成したのです。韓国仏教界は、近代的な日本仏教界の政治的、経済的な力を見せつけられることになりました。
 この「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」が締結されると、全国各地で反日的な性格の義兵運動が、次々と発生しました。「乙巳保護条約」に反対する義兵たちと日本軍が衝突する事態が頻繁になりました。それに追い打ちを掛けるように一九〇七年に韓国軍隊が解散されると、武装解除された韓国軍が抗日義兵運動に参戦することによって、戦いが益々激しくなっていったのです。近代的な武器で武装した日本軍に劣勢であった多くの義兵たちは、山中の寺院を根拠地とし、抗日運動を展開するようになりました。そのため山中の寺院は、戦場化し、日々荒廃するようになったのです。このことを好機に、統監府は、朝鮮仏教を保護推進する計画を打ち出しました。その際、相当数の朝鮮の寺刹が、日本仏教の各宗派の末寺として隷属することで戦火を逃れようとしたのです(13)。
 そして、統監府は宗教を規制するために、一九〇六年十一月十七日に統監府令第四十五号として、「宗教の宣布に関する規則」を発布しました。日本帝国が植民地統治を行うための宗教に関する政策とその関連法案の整備は、すでに統監府時代から始まったのです。この「宗教の宣布に関する規則」は、すべての宗教活動に関する認可や不認可を統監府令によって規定するものでありました。その時、宗教活動の認可対象となったのが、日本神道、仏教、その他の宗教に限られました。その他の宗教という曖昧な枠の中身は、主に外国からの宣教師が布教 活動を行っていたキリスト教のことでありました。それ以外の宗教、いわゆる韓国の自生・新興宗教及び民間宗教は、宗教としての認可対象にならなかったのです。いずれにせよ、この「宗教の宣布に関する規則」によって、日本帝国から朝鮮半島における布教活動に対する許可権を獲得しなければならなかったのです。この規則は建前上において日本の宗教であれ、外国の宗教であれ、その宗教活動が反国家的であると認められれば、朝鮮半島内での布教活動は許可しないことも可能であるということでありました。
 さらに、一九〇七年七月に統監府は、宗教活動そのものを統制するために「保安法」を制定し、公布施行したのです。この法案は、韓国人だけにその効力がある法案でありました。この保安法を用いて統監府は、韓国の宗教教団を一般社会結社として扱っていたので、その活動をきわめて制限するものでありました。日本は植民地支配を行う中で、日本が望む秩序の安定とその方向性のため、一般結社のような宗教の活動は固く制限、禁止され、治安維持の名目で警察の手によって、管理されることになりました。
 一九一〇年、「日韓併合」が成立するまで展開された日本仏教界の活発な布教活動は、開港地と租借地が増えるにつれ、宗教活動の拠点も増していきました。日本仏教の代表的な六つの宗派は、ソウルを初め全国二十六地域で布教活動を行っておりました。その各宗派が設置した寺院及び布教所の数も一八〇ヶ所に上りました。日蓮宗は、朝鮮内に十一ヶ所の寺刹を保有しており、真宗派本願寺は、二〇ヶ所の布教所及び出張所を保有し、附属事業として十個の教育機関と青年会を運営していました。曹洞宗は五ヶ所の寺刹と四ヶ所の布教所を、真言宗は、一ヶ所の寺刹と二ヶ所の布教所を設けており、浄土宗は、二〇ヶ所の寺刹及び出張所を運営していました。また、 朝鮮人に布教するために四ヶ所の出張説教所を設置し、活動を行っていたのです(14)。浄土宗の開教監督には、白石堯海、堀尾貫務、廣安眞随などが継承し、着実に教勢を拡大していました。浄土宗の布教活動によるその成果は、一九一〇年の浄土宗に所属していた朝鮮人の信徒数、五、三四三名であったのが、一九三七年には、九五、〇五二名に昇る教勢を形成していました。浄土宗は、朝鮮半島で布教活動を行っていた他の仏教教団と比べ、信徒の数がもっとも多かった宗派でありました。浄土宗はその勢いをもって、朝鮮人による寺院と朝鮮人の教役者まで養成しようとしました(15)。韓国仏教界と僧侶たちは、日本の仏教に親しみをもっており、開港後の日本の近代仏教の流入という外部的条件に便乗し、朝鮮仏教界の再起と再生を図っていたためであるといえます。

5.植民地統治と朝鮮仏教の日本仏教化

 朝鮮総督府は「日韓併合」の翌年である一九一一年六月三日に、朝鮮総督府制令第七号「寺刹令」を制定し、 「朝鮮総督府官報第二二七号」に掲載・発布しました。この「寺刹令」は、韓国仏教界に対する懐柔と弾圧という両面性をもつものであるといえます。朝鮮総督府はこの「寺刹令」を利用し、韓国仏教界を日本仏教に附属させ、統治しようとする目的があったと思います。この「寺刹令」を通じて、朝鮮半島全国山地に散在している寺刹の運営を効果的に統制しようとしたものでした。そして、同年七月八日に続いて、朝鮮総督府令第八四号「寺刹令実施規則」八ヶ条をも発布しました。この規則によって、朝鮮の寺刹を三十本山(一九二四年に華厳寺を加えて三十一本山となる)に統併合し、住職を朝鮮総督の統制下においたのです。総督府は、朝鮮仏教界を三〇個の教区域に分割させる方策をとったのです(16)。「寺刹令及び同令施行規則」は、朝鮮仏教を構造的に総督府の支配下におき、日本仏教に隷属させるための法案でありました。この「寺刹令」の内容は、第一に、朝鮮仏教の宗派を統一して禅教両宗としました。第二、寺刹財産の安全を図ったのです。第三、寺刹の本末の関係を附し、統轄を図りました。第四、寺法を定めて法網の振粛寺務の刷新 を図ったという意義を唱えるものでした(17)。
 この「寺刹令」の制定と、その趣旨に関する説明では、千余年の歴史を有している朝鮮の寺刹の頽廃を防ぎ、仏法を保護更生することにあると述べていたのです。「寺刹令」によって、当時全国にあった一、三〇〇の寺刹と、七、〇〇〇名の比丘僧が総督府の統率下におかれることになりました(18)。韓国仏教界の多数の人たちが、この「寺刹令」を擁護する立場で現実を認識していたようであります。総督府の仏教政策に従うことが、「国民の義務であり、仏教者として修業のためにも当然である」という見解も多く現れていたのです。「寺刹令」に対する朝鮮仏教の各寺刹の反応は、とても良かったといえるものでありました(19)。当時の仏教界が「寺刹令」によって、すべての活動と組織が正常化されたということについて各界からの極讃もありました。「寺刹令」を喜んだのは韓国仏教界の認識のなかに、韓国の仏教界が近代的に組織化されるということに注目し、そこに大きな意義を置いたためであります。また、僧侶たちの身分が社会的に安定され、寺刹の財産が保護されることに大きな満足を示していたといえます(20)。
 朝鮮総督府の宗教政策は、施政以来終始一貫して、朝鮮仏教の保護善導に努めたという建前の下で、一九三七年二月に併合以来最初の試みとして、「三一本山住職会議」を開催しました。この「三一本山住職会議」が動機となり、朝鮮僧侶の覚醒を促すという名目で有力な住職らは様々な画策を試みるようになりました。それが「帯妻制度」であります。一九一一年、総督府が発布した「寺刹令」には、「各本山の寺法制定する際にも比丘に限って、本末寺の住職とする規定」(21)となっていました。しかし、朝鮮仏教界は日本仏教のように僧侶の結婚、いわゆる帯妻を制度的に保証する条文を盛り込ませたのです。朝鮮仏教に「帯妻制度」を(22)取り入れたのであります。このことは、暗黙のうちに進めていた日本仏教化を公然と行おうとする意志を表明したものであると思われます。近代日本仏教の特徴である「帯妻制度」を朝鮮仏教界にも導入させ、そうすることで、日本仏教と同一なものである認識を朝鮮の僧侶たちに植え付けようとしたのです(23)。この「帯妻制度」は、日本仏教界に一八七二年に出された「太政官布告第百三十三号」によって、公布されました。その内容を見ると、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」と(24)なっていました。この太政官の布告をそのまま韓国仏教界にも取り入れたのでありました。この「帯妻制度」が、公然と朝鮮仏教界に広まることによって、 比丘を中心としていた朝鮮仏教の特色を(25)薄め、より日本仏教界の形態に近いものにしようとした政策であったと思われます。この「帯妻制度」が、解放後の韓国仏教界においてもっとも大きな親日問題として残るのでした。
 特に、韓国仏教界の中堅僧侶として積極的に活躍していた留学僧たちは、帰国後彼等はおおむね結婚をしただけでなく還俗もしていたのです(26)。彼等は公費または、私費留学で日本に渡り、日本の仏教を学んできた僧侶であり、その数は、六〇〇人を上回るといわれています。彼等の言い分は、「日本の僧侶は妻子がいるにも関わらず日本の社会から尊敬されている」といっているのでありました。日本仏教の一断面を見た韓国の留学僧侶たちに、伝統的な朝鮮仏教の持戒に対する価値観に変化をもたらしたといえます(27)。このように帯妻制に対しては、国内の多くの仏教者たちも賛成しており、親日的な傾向もさらにつよく現れてくるのでありました。僧侶たちは、日本の女性や両班家門出身の女性を娶ることによって、その社会に進出し、朝鮮時代に抑圧されてきた政治的、社会的な地位や権限を取り戻そうとしたのです。

6.解放の喜びと悲しみの親日仏教

 一九四五年八月十五日、連合軍の勝利によって、朝鮮半島は日本帝国の植民地から解放されることになりました。それは政治的な解放だけでなく、経済的・文化的にも解放されたのです。仏教も他宗教と同様に日本の植民地支配からやっと解放されることになりました。植民地からの解放は、韓国仏教に宗教として自由と独立の喜びをもたらしただけでなく、韓国仏教界に混乱と親日というレッテルをも同時にもたらしたのです。
 解放後の韓国仏教界の宗権を握っていたのが、解放以前と同様に帯妻僧でありました。彼等は日本の植民地時代にも権力の座 に就いていた親日宗教家といわれていた人々でありました。彼らの政治活動が、韓国仏教界に内在していた「親日の問題」を表面化させたのです。解放後、韓国仏教界を始め、各宗教界の最も大きな問題点であった日本帝国への協力と、協力の見返りとしての財産を蓄積した親日者に対する処分が問題となりました。特に韓国仏教界において、日本の植民地支配に便乗し、一般の民衆が苦しむとき「帯妻肉喰」を行いながら、華やかな生活を送っていた親日僧侶が何よりも大きな問題になりました。勿論、これらの問題は、仏教界だけの問題と言うよりも、社会全体に内在していた「親日」や「親日派」の処理問題でなければならなかったのです。新国家建設の基本的な前提は、日本帝国よる植民地時 代の残骸を削除し、「親日」及び「親日派」の処理が問題でありました。しかし、解放後の韓国仏教界内部は、親日的な要素の削除に足を捉えられ、教団の浄化という時代的な要求に応えることができず、そのまま生き残っていたのです。
 一九四五年、韓国仏教界の帯妻僧の数は七、〇〇〇名でありましたが、それに対して、伝統的な韓国仏教を主張した比丘僧の数は、わずか五〇〇余名に過ぎなかったのです。これは帯妻僧の数が、比丘僧の十四倍をも上回るものでありました(28)。これは解放後の韓国仏教界において、その実権を掌握していたのが、帯妻僧侶たちであったことを証明する証であったといえます。彼等は、植民地支配の協力者としての反省も行わずに、解放後も 経済的、政治的基盤を守るための政治活動を行い続けていたのでありました。
 今日、韓国の寺刹や寺院の数は、約一八、五一一にも上る数があるといわれております(29)。その殆どの僧侶たちは「帯妻肉喰」をしない比丘及び比丘尼という清僧と尼僧に変わっているのです(30)。いわゆる、伝統的な韓国の仏教本来の姿と、清浄比丘による宗教活動に戻っていることを意味するように思います。しかし、今日のような伝統的な仏教の姿へ戻る過程には、様々な苦境が待ち構えていたのです。アメリカ軍政は韓国仏教界を統制するための法律的な根拠として、日本植民地時代下で制定された「寺刹令」と「朝鮮仏教曹渓宗総本山○○及び三十一本寺・末寺法」をそのまま存続させていたのです(31)。そして、一九四九年六月に公布された「農地改 革法」は、土地収入に依存していた仏教宗団に大きな打撃を与えたのです。土地収入が経済的な基盤であった仏教宗団は、再び自立のための経済基盤を失うことになったのです(32)。韓国仏教教団は解放直後、自らの民族的 覚醒と宗教的良心による教団浄化の意志が、政治的な混乱と民族間の戦争によって、中断されることになりました。また、韓国仏教界は朝鮮戦争による被害が整理される前に、旧日本寺院と個人の所有になっていた多くの寺刹財産が、キリスト教団体や個人に売却されるなどの損失を受けたのです。
 そして、朝鮮戦争が一九五〇年六月二十五日勃発し、一九五三年休戦が成立するまで、同族間の激しい戦争によって、国土は荒果ててしまいました。その翌年である一九五四年五月に、李承晩大統領は「仏教浄化に関する諭示」を(33)発表したのです。この「仏教浄化に関する諭示」は、一九五五年までのあいだ、七回も発表されたのです。大統領の仏教浄化という名分の諭示は、当時七千名の帯妻僧侶と(34)、五百名余りの比丘の間に仏教紛 争を招来し、帯妻僧と比丘僧とのあいだでは政治的な争いが始まったのです。その第一次諭示の内容は、「過去四十年のあいだ、日人たちは所謂神道というものをもってきた。自分たちの天皇を天神のように崇める制度を作り、神社参拝を行うとき宣教師は参拝を拒否し、韓国から追放された人もおり、被迫された人もいる。我々韓人教徒たちも神社参拝を拒否して獄中で被迫された人の数も多く、死んだ人もいる。同時に日人たちは所謂仏教というものを韓国に伝播させて、我々の仏教で行わないすべてのことを行い寺刹を都市と村落に混ぜ、僧侶に家庭を持たせ俗人たちと一緒にいさせた。(中略)韓国の高尚な仏道を抹殺させようとした。その結果、今日の僧侶は、僧であるか俗人であるか混沌している。そのため我々の国の仏教というのは有名無実になっている(35)。」こういった内容でありました。これらの諭示に基づいて第三次の諭示では、「仏教浄化委員会」が設立されました。また、一九五五年二月四日に「韓国仏教浄化対策委員会」を構成し、仏教浄化の基本問題に対する公開討議が行われました。その後、文教部長官の報告書という形をもって、寺刹浄化に関する仏教教団内の両院(総務院側と禅学院側)の合意の下で、僧侶の資格に関する「八大原則」(36)をも決めました。こういった原則を始め、大統領の仏教浄化に関する諭示は、日本帝国から解放後成立した大韓民国が民主国家として掲げていた政教分離 の原則に反していたといえます。これはいわゆる、政府権力による新たな宗教弾圧の一場面であったとも考えられます。
 当時、国家運営に携わっていたアメリカ軍政には、李大統領の政治的な意図が大いに含まれていました。一種のキリスト教指向の宗教政策であったともいえます。アメリカ軍政は仏教が韓国民衆の伝統的な民族宗教であり、民衆を巻き込む政治的な力を得ることに対して不安を抱いていたのです。アメリカ軍が軍政を行うに当たって、 戦略に韓国仏教界の政治的、経済的な弱体化の必要性を唱えていたといえます。敬虔なキリスト教徒であった李承晩大統領との宗教的な対立も、大きく関わりを持っていたと思われます。政界に進出していた仏教系政治家(特に帯妻僧)に対する政治的な牽制であり(37)、政治的な計算が含まれていたといえます。しかし、李承晩大統領が行った仏教浄化政策がもたらした影響を始め、親日仏教としての性格が、今日の韓国仏教界に未だに残存しているのです。

7.おわりに

 私は「近くて遠い国」という言い方や、「近くて近い国になろう」という言い方も嫌いです。日本と韓国は「隣人」や「隣国」ではなく、となりの友だちになるべきではなかろうかと思います。友たち同士では、喧嘩もするけれども、互いの痛みを共有できる家族以外の唯一の存在であります。
 今日は、「親日」「反日」の話を近代期に向かい再生された朝鮮仏教にもたらされている「親日性」についてお話しました。「親日」という言葉や「反日」という言葉は、あまりにも日本と韓国の人的・物的交流を妨げる壁のように感じます。
 今、私は友だちになろうという話をしましたが、ハングルで友だちは「■■(チング)」といいます。■■(チング)という字を漢字で書きますと「親しくて旧い」と書きます。この親しくて旧い■■(チング)という 文字をよく頭に浮かべ考えて見ると、これまで幾度ともなく話していた「親日」という文字のあいだに縦の線を一本書き入れれば、「親旧(チング・■■)」となるのです。これからも日本と韓国は友人として、いわゆるチングとして一緒に歩く運命ですのでこれからも隣の友人を知るための努力をしてくださるようにお願い申し上げます。

 ご清聴ありがとうございました。