アジアの西の境(The Western Boundary of Asia)

Pekka KORHONEN(ペッカ コルホネン) 政治学教授 フィンランド・ユワスクラ大学・社会科学哲学研究所

一 問題

 アジアの西の境が話題になったのは一九九六年の春だった。三月一〜二日にバンコクでアジアとヨーロッパが世界史の中で初めて会議のテーブルについた。この時ヨーロッパの意味はあまり問題ではなかった。ずっと昔からヨーロッパの代表者は西ヨーロッパであり、一九六○年代からEEC、そして今はEUがその代表者の役をしている(1)。しかし、アジアには昔から同じような地域的な代表者はなかった。どんな国々が一九九六年のバンコク、そして一九九八年のロンドンのASEM会議に参加したかというと、日本、韓国、中国とASEAN七カ国(2)であった。そして、二○○○年十月二十〜二十一日のソウルの会議にも同じ国々が参加する予定である。つまり、ユーラシア大陸の東西両側にある国々が「ヨーロッパ」と「アジア」という地名を使い、お互いに話し合う。しかしその間にあるとても広い地域は何だろう。ヨーロッパの東の境とアジアの西の境はいったいどこにあるのか(図1)。

第1図(省略) ASEM過程におけるアジアとヨーロッパ

 地理学的にはその境の場所は簡単。カラ海から始め、ウラル山脈とウラル川を通ってカスピ海に下がり、そしてカウカス山脈の南側を進み、黒海を渡り、ボスポラス海峡に終わる。アジアとアフリカの境はスエズにある。しかし、この地理学的な境は文化、政治、経済、人種、宗教等の分野では全く意味がない。歴史的に見てもこの境はロシア帝国の中の一つの境界線に過ぎない。意味のない境は本当の境ではないので、もっと具体的な境を探さなければいけない。
  このことを考えると、特にアジアの場合にはおかしいことが分かる。地理学的なスペースは普通五つの方面に分かれる。つまり中心と東西南北の四つの方向である。ヨーロッパの東の境がはっきり見付からなくても中欧、北欧、南欧、東欧と西欧が確かに会話の中によく出て来る。アメリカ大陸の場合にも同じように北米、中米と南米があるし、東海岸と西海岸に分けている。アフリカも同じであり、同じ四つの方面がある。しかし、アジアは違う。アジアの場合には東アジア、東南アジアと南アジアに簡単に分けられる。一九九一年から中央アジアという地名も国際政治学の論文とマスコミの中によく出ている。
  中央アジアという地域は普通旧ソ連圏のアゼルバイジャン、アルメニア、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、グルジア、タジキスタン、とトルクメニスタンのことを表している(3)。中央アジアの北側に北アジアがあるはずだが、そうではない。北アジアという言葉はほとんど使われていない。一九九四年からBritish Business Monitor International という会社が China & NorthAsia Monitor という雑誌を出版しているが、その「North Asia」とは香港、台湾、北朝鮮と韓国のことである。また日本をこれに入れると、現在日本語の「北東アジア」という地域が出てくる。中央アジアからけっこう離れているし、方向もおかしい。中央アジアの西側に西アジアがあるはずだ。一○○年前によく本に出ていたが、現在は西アジアもほとんど使われていない地名である。中近東という地域は西アジアの部分を満たしている。「東」と「アジア」はある意味で似ている、どちらもヨーロッパから東の方にある。しかし、同じではない。北アジアと西アジアはあまり存在していない。現在の用語の中で東アジア、南アジアと中央アジアが全てのアジアを表している。どうしてだろう。

二 隠喩

 隠喩というのは意味が何回か変わった単語のことである。名前はほとんど全て隠喩である。隠喩は容器のようなものとして考えられる。その容器の中に色々な地理学、哲学、文化、政治、経済、宗教、民族学、語学等の分野から取った意味が入れられる(4)。そして、また意味がなくなる可能性もある。長い歴史を考えると、一つの隠喩の内容は何回も大きく変わるのが普通である。しかし、この変化は遅い。短い時間、例えば人生の瞬間みたいな短期間の場合には隠喩は容器のようなものには見えない。固定した言葉だけに感じ、意味が大きく変わるというようなことは普通考えられない。
  地理学的な隠喩は地域的なアイデンティティーと地域的な統合の研究にとって面白いものである。固定したものに感じるので、自然にどんな国とどんな民族が同じ運命圏に入り、どんな国と民族をその運命圏の外に残すかというような議論に強い影響力がある。ヨーロッパ人がEuropaをいう時にヨーロッパ人同士だけの運命を考え、日本人は「東洋」という時に普通日本、中国、韓国のことしか考えない。「アジア」という隠喩はこの意味でとても複雑な単語である。四五○○年ぐらいの長い歴史の間に意味が何回も大きく変わり、地中海、ヨーロッパ、中国、日本などでその容器に色々な意味を入れたり出したりしたのである。その歴史を見ればアジアの西の境の謎が分かる。

三 地中海のアジア

 アジアという隠喩は元々ヨーロッパ製ではない。地中海の文化圏で使い始めた言葉である。四五○○年前にアッカド語の「アースー」(a-su-)は日の出という意味であった。これが「アジア」の起源である。「エレーブ」(ere-bu)の意味は日の入りであった(5)。「Europa」、そして北西アフリカにある「マグレブ」(Maghreb)という二つの地名がエレーブから出来ている。この二つの言葉がアッカド帝国で地理的と政治的な意味があったかどうかは知られていない。しかし、太陽の動きは大体どこでも地理学的な意味を持つ。アジアの元々の意味は「日本」という国号の意味とほぼ同じだということは偶然ではない。太陽、東と西、そして地理的なアイデンティティーは昔から一緒になっている。「日本書紀」を書いた日本人は自分のいる場所は世界の中心から東にあるというふうに考えたようである。中国語の「東」の漢字も木の後ろから昇って見える太陽の絵だ。地中海でもオリエントという言葉がラテン語のoriens―つまり上がる、という意味から発生し、オクシデントがoccidens=沈む、から出来た言葉である。地中海の東部に対して使われるLevantの地名のルートはスペイン語のlever=上がる、である。英語のeast・ドイツ語のOst・スウェーデン語のoster等のインドゲルマン語族の東という意味で時にはアジアのシノニムとして使われる言葉の言語学的な起源はラテン語のaurora=朝焼け、と同じである(6)。フィンランド語の同意味のitaの起源はitaaという動詞の発芽という意味から出来、つまり太陽がゆっくり東のホライゾンから空に芽ぐむ。またアラビア語のシャーク(Shark)、地中海の東部にあるアラビア語圏、北東アフリカとアラビア半島に対して使われる地名の元の意味は日の出である。また地中海の西部、特に北西アフリカのモロッコ、アルジェリアとテュニジアに対して使われるマグレブ(Maghreb)は四五○○年前のアッカド語のエレーブから作られた地名である。つまり、語源学的にはヨーロッパとマグレブは同じ地域だが、そのことは一般に知られていないので、同じ運命圏に入っているという議論は少ない。
  アッカド帝国は後の地中海の文化に大きい影響を与えたが、「アースー」の動き方ははっきり分からない。二○○○年の後、アースーはもう地名になっていた。紀元前五○○年ごろギリシア人のヘカタイオス(Hekataios)という地理学者の世界図の中にヨーロッパとアジアの地名が両方とも出ている。ヘカタイオスの世界図は丸く、中心はギリシア人が住んでいる地中海の東部、その周りに大きい島のような土地、そして周辺には世界海であった。しかし、ヘカタイオスには東西の区別が大事ではなく、南北の区別を使っていた。そのせいで地中海の北側はヨーロッパになり、南側はアジアであった(図2)。
  一○○年後ヘロドトスの歴史書はアジアからリビアという大陸を分けた。リビアは地中海の南なので、アジアはまた東の方向に戻り、ヨーロッパは世界の北西部の地名になった。ディケールプス(Dicaerpus)の紀元前三世紀に書いた世界図にこのパターンが見える(図3)。三つの大陸の中でアジアは日の出の方向にあたる一番大きい大陸であった。この後は地名についての大きな変化はなかった。リビアの地名は少しずつアフリカに替わっただけである。
  しかし、アジアという隠喩に新しい意味が入り始めた。ギリシア人は世界の中心部の人間なので、アジア人でもヨーロッパ人でもなかった。例えば、アリストテレスの「政治学」の中に色々な民族の描写がある(7)。アジアは勿論文明の大陸で、ヨーロッパは野蛮の大陸であった。従って、アジア人はインテリジェントな人間だが、自由でないので、大きい帝国に住んでいる。ヨーロッパ人は自由だが、残念ながら馬鹿なので、適当なポリスが作れない。ギリシア人だけは自由でインテリジェントで良い性質を持つ人間であり、アジアとヨーロッパの海岸に住み、ちゃんとした小さな国家で自由な文明生活をしていた(8)。

第2図(省略)  ヘカタイオスの世界図の復元 Edward Herbert Bunbury (1883)A History of Ancient Geography among the Greeks and Romans from the Earliest Ages to the Fall of the Roman Empire;republished (1959) New York: Dover,vol. 1, map facing p.148.

第3図(省略) ディケールプスの世界図の復元  J. B. Harvey and David Woodward (eds.) (1987) The History of Cartography,Vol. 1, Fig. 9. 2.

 ローマ帝国時代にアジアとヨーロッパは別の政治的な意味はなかった。地名として知られていたが、たいして使われていなかった。ローマはヨーロッパの帝国ではなく、地中海全体の帝国だったが、実際にはローマ人の自己意識では世界帝国だった。昔の中国の自己意識に似ているが、文明はローマだけではなく、アジアにもあった。ヨーロッパとアフリカは危険な野蛮人が住んでいる地方であった。従って、ローマ帝国を通ってアジアの文明がやがて西の方に流れ込んだ。エジプトの宗教、東地中海のヘレニスチックな哲学、そしてユダヤのキリスト教がヨーロッパに広がった。結局、文化の面で見れば、ローマ帝国はアジア的な文化圏に変わった。このアジアに対して深く敬意を表する態度がヨーロッパの文化に入った。後にヨーロッパが強くなってアジアを軽蔑する態度も表われたが、元の尊敬の流れは完全には消えなかった。現在でも、もしアジアに文化、美術、経済発展等の分野で優れたものが現れれば、それを誉めたたえる者がいつも出てくる。
  ローマ帝国が終わった後中世のヨーロッパはキリスト教的な世界観を持っており、新しい種類のマッパエムンディ(mappaemundi(9))と名付けた世界図をつくり始めた。キリスト教伝道のための地図だが、キリスト教はアジアの宗教、ヨーロッパは野蛮人の周辺地域ということがこのタイプの地図でよく分かる。地球はギリシア人が想像したように丸く描いたし、人間が住んでいる世界の周りは海だった。三つの大陸の間にもはっきり海を描いた。バイブルに物語られていることは全てアジアで行われたので、アジアを一番尊敬された大陸として、上に置いた。オリエンテーションという現在の言葉はマッパエムンディから伝わった言葉である。つまり、オリエントを一番上に置いてから他の地域をその下に合わせるという意味であった。パラダイスはアジアの一番遠い所にあり、「ノアの方舟」がアジア大陸に流れ着き、人類は全てアジアから世界中に広まり、キリストがアジアで生まれた。だからアジアは敬意に値する大陸であった。
  マッパエムンディには色々な形があったが、このTのパターンが一番多い(図4)。ヨーロッパを一番下に置いた九世紀に描かれたマッパエムンディもある(図5)。この頃「アジア」は特別のキリスト教的な意味を持っていたが、「ヨーロッパ」は普通使われる言葉ではなかった。
  一○○○年のころ、ヨーロッパの隠喩にまた新しい政治的な意味が入って来た。スペインでイスラム軍と戦ったフランク人がそれを自分の軍隊に対して使い始めた。理由ははっきり分からないが、フランク兵の中に恐らくキリスト教徒も異教徒も入っていたので、両方とも含める掛け布団みたいな言葉として使われたのだろう。しかし、キリスト教とイスラム教の対立はまだそれほど激しくはなかった。どちらも異教徒と争っていたし、カトリックキリスト教の一番大きな敵はオルトドクスキリスト教(東方正教会)であった。従って、ヨーロッパとイスラム教の対立があってもヨーロッパとアジアの対立はなかった。そして、ヨーロッパから見れば、イスラム教もまた長い間文明の内に入っていた。ヨーロッパ人で特にスペインのイスラム大学に入り、ギリシャ哲学、インドの数学、アラビアの世界地理学などを勉強する者もいた。
  一四五三年にトルコ軍がコンスタンチノープルを奪取した。オルトドクスキリスト教がそれで弱くなったので、二つのキリスト教の対立は意味がなくなった。ピウス二世がトルコイスラムに対抗して汎キリスト教同盟を結成しようとしていた。キリスト教内の紛争をかたづける為に宗教的な意味が全く入っていない「ヨーロッパ」の地名を使い始めた。この結果「ヨーロッパ」が一般的に使われる言葉になった(10)。同時に、地理学も発達し、新しい種類の地図が少しずつ描かれ始めた。しかし、世界地図は北が上になったのに、その精神的なモデルはまだマッパエムンディであった。だからアジアとヨーロッパの区別ははっきり描いてあった。二つとも大陸であるから、その間には水があるべきであった。ロシアはまだモンゴル占領下だったので、ロシアの領土の形も完全に分からなかった。それでアジアとヨーロッパの間に川を想像した。その線は色々な処を走っていたが、大体二つのパターンが普通であった。一つは黒海から直接北の方に描いた川であった。そのような川は普通日本製の南蛮図にも見られる。そして、もう一つは黒海からデニエペル川とラドガ湖を通って白海までの線であった。この線は政治的な意味もあった、つまりヨーロッパの東の境はスウェーデン、ポーランドとオーストリアの東の国境で、アジアの西の境はモンゴル占領下のロシアの国境であった。ウクライナという国号はロシア語の kraj=境、という言葉から出来た(11)。この頃にはアジアの西の境がはっきり分かった。本当の地理学上でそれを森の中で見付けるのは無理だったにもかかわらず、概念としてその境は地図に出ていた。中央アジアという地名は、やはりこの頃カスピ海の東部のモンゴル民族の出身地域を示すために出来た言葉である(図6)。これまではヨーロッパは比較的弱く、周辺の地域であった。西ヨーロッパのカトリックの中だけで使う地中海生まれの世界観は特別に問題にはならなかった。しかし、一五○○年代に航海・探険による海外進出が始まると、地中海の地方で意味がある地理概念が他の文化の地理概念とぶつかった時、問題なく通じたというわけではなかった。日本の場合には別に問題はなかった。南蛮図はある意味で天竺図に似ていて、地名はほとんどなかった。そして装飾(オーナメント)として使われたので、別に深い意味の地理概念はなかった。中国の場合は違った。Asiaは亜細亜に替わってしまった。

第4図(省略) ノアの三人の息子。ジャーン・マンセルというフランス人が15世紀に描いたマッパエムンディ。アジアにシェム、アフリカにハム、そしてヨーロッパにジャフェットが立っている。J.B.Harvey and DavidWoodward (eds.) (1987) The History of Cartography, Vol. 1,Plate12.

第5図(省略)  ヨーロッパを下に描いたマッパエムンディ。ベデが9世紀に書いた Do natura rerum より。J. B. Harvey and David Woodward (eds.) (1987) The HistoryofCartography,Vol.1,Fig.18.38.

第6図(省略) ヨドコ・ホンディウスのアジア新図、1600年代の終わり頃。京都大学図書館、室賀コレクション。

四 中国のアジア

 十六世紀に日本と中国に来たイエズス会の神父達の世界観の基本はマッパエムンディであった。そして、自らのヨーロッパも文明世界の内に入ったので、ギリシア哲学も強く教育の対象に入れられた。だから彼らのアジア観はアリストテレスとキリスト教のミックスであった。大変苦労させられてもアジアを尊敬し、中国と日本をほめるレポートをヨーロッパに送った。例えば、アルヴァーロ・セメード(Alvaro Semmedo)の「シナ帝国志」に次のように書いてある。

アリストテレスは、アジアは智においてヨーロッパに優り、ヨーロッパは力においてはアジアに優る…(12)

 力においてもアジアの方が強かっただろうと思うが、それは今は問題ではない。問題は、なぜアジアという隠喩の意味が中国語に翻訳された時に突然大きく変わったか。亜細亜の漢字はとてもおかしい。価値のない、狭い地域というのは、あまりあの時代のイエズス会のアジア観に当たらない。漢字で書いた亜細亜の地名はマッテオ・リッチが一五八四年に描いた世界図の中に初めて出ている(図7)。リッチはその時中国に来たばかりで、まだあまり中国語は出来なかった。だから彼は自分で地名の翻訳をしなかったのだろう。中国人の友人が手伝ったし、中国人の官僚「司賓」が一番最後にリッチの地図を認めた(13)。だからリッチの地図の地名は中華的な考え方を示している。中国は中原で、亜細亜という地域に入れるというような考え方は無理だった。中国を中心に考えようとした(図8)。つまり、西から来た変な坊さんのかっこうをしていた仏郎機(フランキ)が下手な中国語で語った「Asia」という地域はやはり東夷南蛮西戎北荻、倭寇等の野蛮人が住んでいた、大明帝国の周りにあった価値の少ない、狭い地域であった。そのように考えると、亜細亜の漢字名は理解出来る。
  また、亜細亜の西の境は全くなかった。中国の古い地理意識には外の境はなかったからである。実際、リッチの一五八四年の世界図にはまだ歐邏巴の地名はなかった。中国の官僚はヨーロッパ人が自らに対して使っていた地名と民族名を認めなかった。だからあの地図ではヨーロッパも亜細亜の内にあった。

五 ロシアのアジア

 十五世紀から十七世紀にかけてモスクワ公国が少しずつモンゴルの勢力から自由になり、自分の勢力圏を広げて、ロシアの小さな公国を統一した。オルトドクス(正教会)であっても、キリスト教国としてイスラム教のモンゴルと戦ったので、やがて西ヨーロッパでロシアのイメージが変わってきた。十七世紀の終わりにピョートル一世が「脱亜入欧」の政策を始めた。一六九七年にインコグニト(変名)でオランダを訪ね、後に大勢の留学生を西ヨーロッパに派遣し、新しい技術、知識をロシアに導入し、専門家等を招いた。ロシア国土全体も西の方に動かした。つまり、何回もスウェーデンと戦争をし、ロシア国土をバルト海の海岸まで広げ、新しい首都をネバ川の河口に建てた。概念としてもロシアをヨーロッパに動かした。ロシアの地理学者に「新しい地図を書け」という命令をした。従って、一七三○年代にワシリ・タチシチェフ(Vasili Tatishchev)が新しい地理学議論を興した。アジアとヨーロッパの境は水で決めるのは意味がなく、ウラル山脈の方が自然的な境である(14)。
  スウェーデン人のフィリップ・ユーハン・ストラーレンバリ(Philip Johan Strahlenberg)という士官が一七○九年に捕虜になり、長い間シベリアで過ごし、新しいロシア地理学を学んだ。スウェーデンに帰国してかその新しいヨーロッパ概念をヨーロッパの地理学者たちに伝えたが、定説にはならなかった。十八世紀、十九世紀中頃これについての議論が盛んにあった。本来地理学的に見ればアジアとヨーロッパは別の大陸ではない。境をウラルに置くのは政治的な意味があっても、地理学的な意味はなかった。ヨーロッパは小さく、アジアは大きいので、大陸全体にアジアという名を付けたら良いという議論もあった。アジアは大陸であり、スカンジナヴィア、ヨーロッパ、アラビア、インド、中国とインドシナは全部半島という意見もけっこう強かったが、一八八五年にチェコ人のスエス(E.Suess)という地理学者がユーラシア大陸という地名を作ってから議論が少なくなった(15)(図9)。
  このようにロシアが脱亜入歐を果たし、新しいヨーロッパの代表者としてヨーロッパ文明をアジアに広げた(16)。この過程の一つの結果としてアジアの西の境も北の境も不明になった。学校の地理学の教科書を別にして、地理学的なアジア解釈はもうこれから意味がなくなった。政治的、経済的、民族学的、言語学的な解釈しか意味はない。エドワード・サイードの「オリエンタリズム」のような論文にこの新しい十九世紀のアジア解釈が詳しく研究されているが、英語で出ている本は大体全部西欧と南欧のことしか語らない。中欧と北欧のことはそれほど知られていないだろう。

第7図(省略) マッテオ・リッチの1584年の輿地山海全図。岡本良知(昭和48年)16世紀における日本地図の発展、226頁。

第8図(省略) 中国地理学的な亜細亜観

第9図(省略) 地球半球総図部分寛政6年=1794年船越昭生(1986年)鎖国日本にきた「康図」の地理学史的研究、図15

六 芬人のアジアの旅

 地理学上でアジアの西の境が東に動いたが、同時にその境は民族学上で西に移った。言語学の研究は特に十九世紀になってから発達した。それまでヨーロッパに色々な言葉があることを気にしなかった。神が人類の言葉を混合したというバイブルの一つの物語によってこれを当然のこととして考えた。しかし、一八〇〇年代にインド・アリアン語族の形が少しずつ見えて来た。ハンガリー人とエストニア人も同じであるが、特にフィンランド人がアジアに関係のありそうな変わった言葉を話している(例1)ということは大きいセンセーションになった。一八五三−五五年にフランス人のデゴビネー(A.de Gobineau)がアリアン論を出版した。その中に le Finnois がヨーロッパの中のモンゴル人としてよく出てきた。この説は第二次世界大戦の後消えたと思ったが、そうではなく、一九八四年出版の「大漢和辞典」にまだ出ている。

【芬人】種族の名。亜州人種の一派。欧州の芬蘭にをり、頭は大きく圓く、顔面は扁平、顴骨は隆起してゐる。Finnsの譯(17)。

例1日本語と芬語の比較どちらも膠着言語で前置詞を使わずに名詞の後に文法を表す助詞を付ける。例の場合には助詞の発音がにているし、意味がほぼ同じである。

 これはほとんどデゴビネーの説だが、彼によればフィンランド人の頭は圓くはなく、四角形であったし、髪の毛が黒く、目がつり上がった形で、身長は一五〇センチぐらいであった。性格は愚かで野蛮。実際にはフィン人は統計学上のノルウェー人とスウェーデン人に続く世界三番目の金髪を持つ民族で、頭の形と身長の面でも他の北欧の人種とは違わないが、デゴビネーは一人も本当のフィン人を見ないで、どこかからもらった頭蓋骨だけで研究した。
  一八七〇年の独仏戦争の後でアリアン論が一般的になった。戦争中に自分の研究室が被害を受けたフランス人のデクアトロファージュ(A.de Quatrefages)という民族学教授が、ドイツ人はアリアン人ではなく粗暴フィン人だと騒ぎ始めてから大きなFinnenfrage(芬人論)という議論になった。つまり、ドイツ人はどこまで野蛮なモンゴル人か、どこまで清潔なアリアン人か。やはりドイツ人もアリアン人になりたくて自分より東にある民族をモンゴル人と呼び始めた(18)。その議論から Homo Europaeus の概念が一般の人の間に広がった。つまりヨーロッパ人が人類の一番優れた民族で、他の民族全てに戦いで勝ち生き残る。ヒットラーの第二次大戦中の民族政策はこの芬人論の一つの結果である。
  ヨーロッパとアジアの人種的な対立の議論は一八〇〇年代の終わりごろに一番激しかった。日本と中国に対する「黄禍論」はある意味で芬人論の続きであった。ヘルマン・クナックフス(Hermann Knackhu■)が一八九五年にウィルヘルム二世独国皇帝が日中戦争の時想像した黄禍(die gelbe Gefahr)という絵を描き、そしてウィルヘルム二世がそれをいとこのニコライ二世露国皇帝に送った。仏像の形をした日本が脅威としてヨーロッパの東の地平線の上に上がるという、この絵はヨーロッパでとても人気になり、幾つかの新聞記事となり、また模倣された。
  アリアン論の中にはアリアン人は美しく、亜細亜人は醜い。民族学論文でこのことを写真で証明した。つまり亜細亜人の場合には仕事の途中で撮ったなるべく汚い恰好をした肉体労働者の写真を本に入れた。日本の場合にはこのやり方は日露戦争で変わり、上流階級の若くて美しい女の子の写真を使い始めた。日本人は美しい民族としての印象に戻った。軽蔑されたアジア人種としてヨーロッパにいるのは難しかったので、フィン人もヨーロッパに帰りたかった。ヨーロッパに帰る為にボルドもビューティフルでなければならなかった。フィン人の場合には適当な戦争まで時期を待つのは日本よりもっと時間がかかった。一九一七年の独立戦争は影響なかった。ロシアにはもう実際の中央権力はなかったので、大体フィンランド国内の白軍と赤軍の戦いだけだった。一九二〇年代のフィンランドでどんなところがビューティー・コンテストに進み始めたかというと、外務省だった。その外務省が美しい芬女の写真をヨーロッパ中の新聞と雑誌に送った。結局一九三九−四〇年の冬戦争でフィンランド がソ連と共同で、十分な戦力を示したのでこの別嬪外交はもう必要なくなった(19)。
   民族学的なアジア論の中でアジアの西の境は幾つもあった。つまり、「アジア的」ということに幾つかのグレイドがあった。北西ヨーロッパ、つまりノルウェーとスウェーデン人はほとんど純血なアリアン人として認められた。フィンランドととスウェーデンの間にあるボトニア湾が北欧でのアジアの西の境であった。イギリスも割とピュアーであった。今でもイギリス人は「The WOGS begin at Calais」という表現を知っている(20)。フランスとドイツ、ドイツ・オーストリアとポーランド・チェコ・ハンガリー等、それらの国々とロシアの間、そしてまたロシアの国内にある程度のアジアの西の境があった。

七 東

 「アジア」、「オリエント」と「東」は意味として似ている。一八〇〇年代の西ヨーロッパから見れば全部ある程度ヨーロッパの外、日の出の方にある地域を示している。しかし、意味が少し違った。民族学の「アジア的」は一番広い意味があったが、「アジア」の意味がそれより狭く地理学的な意味に限られていた。。「東」と「オリエント」の方が広かった。
  「東」と「西」の元々の区別はキリスト教内の区別であった。現在でもヨーロッパの中にその宗教と文化的な境が残っている。その線の両側に幾つかの民族が分かれている。北から言えばフィンランド人はまずスウェーデンからカトリック教とその後ルター派プロテスタント教を受け、「西」にいる。千年前のカトレア人は同じフィン人であったが、ロシアからオルトドクス教を受け、今「東」にいる。エストニア人とセテュ人は同じように分かれている。ポーランドとベラロシア、クロアチアとセルビアも同じく「西」と「東」の反対側にいる(21)。この境は宗教だけによるものではない。千年の間に元々の方言ぐらいの語学的な区別がやがて二つの違う言葉になった。家族の構造が変わり、「東」に大きい家族があり、「西」に核家族があるのが普通であった。現在の核家族とは違うが、昔から異る世代が近くにいても違う家に住むのが普通であった。農業のパターン、特に小作人が自由に経済活動を行い、自由に引っ越しが出来たか、或いは同じ土に束縛されていたかはもう一つの区別である。換言すれば、現在の「東」と「西」の区別は五〇〇年前の「ヨーロッパ」と「アジア」の区別と同じようなものである。
  「オリエント」という言葉にも宗教的な意味が強い。オルトドクスキリスト教も時には「オリエント」の中に入るが、特にイスラム教の場合には「オリエント」のイメージが強い。また、オリエントの起源はラテン語のoriens なので、ラテン系の言葉では、それを普通イスラム教に対して使うが、ゲルマニック系の国語でもイスラム教に対して「東」という言葉を使う。従って、英語の Near East’フランス語の proche-Orient とスペイン語のOrienteProximo―つまり近東、は普通北アフリカのイスラム教圏を示していた。中央ヨーロッパのドイツ、オーストリアとイタリアから見れば近東の場所が違った。ドイツ語の Nahe Osten と Nahost そしてイタリア語の Vicino Oriente は普通トルコ帝国の占領下のバルカン地域を示した。Middle East・フランス語の Moyen-Orient・スペイン語の Oriente Medio・そしてイタリア語の Medio Oriente―つまり中東、は場合によって地中海の東部からアラビア半島、ペルシア、アフガニスタンと時にはインドのことを示した。ドイツ語の Nahe Osten の意味にはバルカンからインドまでの地域が入っていた。「極東」は勿論「東アジア」と同じであった。第一次世界大戦の後トルコ帝国が潰れ、バルカン諸国が独立し、バルカンは少しずつオリエントの意味から外れていった。第二次世界大戦の後、北アフリカの独立した国々に対しても「近東」という言葉はあまり使われていない。それで、「近東」と「中東」の区別も意味なくなったし、「近東」がないと「極東」も意味がない。
  しかし、どんなヨーロッパの国語を見ても、一八〇〇年代の「中東」と同じ意味の言葉がある。地中海の東部からパキスタンにかけて使われている Middle East 一番普通のこの地域に関する地名である。「アジア」という地名をほとんどの場合に全く使わない。ある意味でこの地域はロシアと同じように「脱亜」をしたのだが、「入欧」はしていない。ヨーロッパでもなくアジアでもない特別なイスラム教の地域になった。ヨーロッパが弱くなってから一般のマスコミ等の分野で気がつかないうちにヨーロッパの地理学的な地名はもう大分変わってしまった。

八 日本のアジア

 南蛮のキリスト教を別にすれば、日本人がヨーロッパの世界観に興味を持ち始めたのは一七〇〇年代の始めからである。東洋における亜細亜の概念の歴史はほとんど全て日本だけにある。歴史的に見れば中国と朝鮮・韓国人はアジアに特別な興味を示していない。新井白石の「西洋記聞」は普通洋学とか蘭学の出発点として認められている。その関心の原因は脅威感ではなかった。出島の紅毛人を特別に危ない者として認めなかった。何故西洋の地理学に興味を持ったかというと、西洋地理学は中国地理学と違っていた。日本の国号は幾ら美しくても日本人は中国から見れば東夷とか倭人であり、儒学を幾ら学んでも文明化した東夷に過ぎない。一七〇〇年代のヨーロッパ地理学の中にこのような概念はまだあまりなかった。そして、亜細亜という漢字が悪いということに気がついた。その漢字はヨーロッパ人が付けた字だと思い、亜細亜を軽蔑的な地名と思った。亜細亜人になる気はなかった(22)。
  それにもかかわらず、西洋地理学に興味があった。鎖国時代に書かれた西洋式の世界図はけっこうある。普通はマッテオ・リッチの世界図を元にして描かれたものである。全部がそうではないが、幾つかの地図の特徴は亜細亜の西の境である。例えばこの一七八八年ごろに書かれた世界図にその日本的なアジア解釈が見える(図10)。もし日本がアジアの国であれば、アジアは他にどんな国々があるだろうか。アジアに日本、唐土、天竺、朝鮮等があると特別に書いてある。つまり、昔から日本と関係があった中国印度文化圏だけをアジアに入れている。ヨーロッパ製の地図にアジアとヨーロッパの境が北から南に走ったので、この地図にもシベリアが大きく入ったが、アラビア半島はヨーロッパの側に置いてある(図11)。自分に関係がないイスラム教の地域を自分の仲間に入れる意味がない。

第10図(省略)長久保赤水の地球万国山海輿地全図説、1788年頃。京都大学図書館、室賀コレクション

第11図(省略)稲垣子■、坤輿全図、1802年。京都大学図書館、室賀コレクション

 日本は一八五四年に開国をして、一八六八年に明治維新を行い、一五〇年前のロシアと同じような脱亜入欧政策をしていた。アジアに関心が戻ったのは岡倉天心の時である。一九〇二年インドで書かれた「東洋の理想」の最初の文章は有名になった―アジアは一つである(23)。
  しかし、天心のアジアに何が入っていたか。ある意味で天心のアジアは非ヨーロッパであった。ロシアのシベリアを除けば全部入っていた。日本人もアラブ人も、モンゴル人もシャム人も。しかし、同じ程度では入っていなかった。西洋人がヨーロッパにプライドがあったと同じように天心もアジアのことを誇りに思った。西洋人がアリアン論でヨーロッパを格付けしたと同じように天心もアジアにグレイドを付けた。ある所にアジアの性質は強かったが、ある所に弱かった。天心のアジア論の中で一番アジア的な国はやはりアジアの博物館としての日本であった。その次が中国とインドであった。イスラム教について天心は次のように述べた。

イスラム文化自体、いわば騎馬にまたがり、剣を手にした儒教だと見なすことも出来る。

 この文章は美しいが、意味ははっきり分からない。イスラム教は剣を手に取ると、どうして儒教的になるか。実際にはこの文章は意味と関係がない。その例えだけが大事である。天心はその例えで儒教とイスラム教の間にレトリックなリンクを作り、イスラムもアジアの内に引っ張る。イスラム教はこの意味のはっきりしない文章の力で天心のアジアに入った。だからイスラム教はあまり強くアジア的ではなかった。一番弱いグレイドのアジアであった。
  天心は「東洋」と「アジア」を同じ意味で使った。本のタイトルはアジアの理想ではなく、東洋の理想だったので、東洋という意味の方が強かったと判断しても間違いではないだろう。同じ一九〇二年に同じインドで書いた「東洋の覚醒」でもアジアの西の境は地中海にあった。この本の中で天心は汎アジア同盟という表現も使った(24)。その同盟の中にヨーロッパと戦う為のイスラムの国々があってもいい。しかし、今回の話もまたそれで終わった。イスラム教はヨーロッパ的に見たアジアに入っても、日本から見た東洋に入れる理由はなかった。
  ボストンで一九〇四年の日露戦争の時に書いた「日本の覚醒」では天心の議論のしかたが変わった。アジアとヨーロッパの対立をなくして、文明と野蛮の対立を使い始めた(25)。この変化でイスラム教もモンゴル系人もアジアから落ちた。アジアと東洋の他に同じ地域に対して「仏教国」という言葉も使った(26)。仏教国は複数ではなく、単数の言葉である。元の英語の本ではBuddhalandという言葉を使った。仏教国は仏教の影響を受けた地域の意味を持ち、平和的な文化圏であった。イスラム教、モンゴル民族、そしてロシア帝国はこのアジアの文化圏の周りにある野蛮な性格を持った軍事的な脅威に過ぎなかった。アジアは一つといっても、天心のアジアはヨーロッパで想像していた非ヨーロッパとは完全に違った。日本人の立場から地域的な仲間の絵を描き、その絵の上にアジアという名を付けた。この解釈でアジアという隠喩にとても良い意味が入った。同時に、アジアの西の境がどんどん東の方に、つまり中国とインドの境のところに移った。或いは、鎖国時代の世界図を考えると、天心がインドに住んでいた間だけ西の方に広げ、インドを離れた時にまた仏教、儒教と道教の地域に戻った。

九 汎アジア同盟

 天心が英語で書いた本を日本語に訳したのは一九二二年だった。そして「東洋の覚醒」は皇紀二六〇〇年、つまり西暦一九三九年に日本語で出版された。だから一九〇〇年代の初め頃には天心の影響は日本であまりおおきくなかった。にもかかわらず、天心と同じようなアジアの評価を高め、アジア人の交流を促進させる意見と運動は特に日露戦争の後発生した。特に大事なのは亜州和親会であった。中国、朝鮮、ベトナム、フィリピン、インドなどのアジアの国から留学生が日本に流れて来た。日本の経済発展、ヨーロッパ帝国主義の扱い方、技術などを熱心に勉強した。亜州和親会の中でヨーロッパ帝国主義に抵抗するアジアのリーダーとして日本という概念が発生した(27)。この時始めて「アジア人」は自分の地域に対して「アジア」という地名を使い始めたが、実際には他の地名はなかった。フィリピンからインドまでという地域はここまで協力をしたことはなかったので、自らの地名もなかった。ヨーロッパ製の地名だけが存在していた。日本も欧米に対して何かの同盟を作りたかったので、「アジア」という言葉を使い、「脱欧入亜」の方向に動いた。
  中国の孫文、そしてインドの独立運動リーダーのラシュ・ビハリ・ボゼ(Rash Bihari Bose)が日本で過ごした。フィリピンの独立運動も同じように個人的に日本から支持された。亜州といっても、天心のアジア観と同じように、この頃の具体的な交流はあまりイスラム圏まで達しなかった。大東亜戦争の時日本軍が汎アジア同盟のスローガンをうまく利用した。ヨーロッパの国々の植民地軍のアジア人兵士は日本軍にあまり抵抗しなかった。少なくともヨーロッパ反対の意味で精神的な汎アジア同盟は存在したし、日本軍はその利益を受けた。しかし、大東亜共栄圏の暮らしは大変苦しかった。そして日本は結局戦争で負けた。それでこの日本がリードしたアジア同盟の過程が終わってしまった。特に日本占領下にあった国々にとって「アジア」という言葉の意味は悪かった。

十 アジア協力

 しかし、アジア同盟、或いはもっと小さな意味でいえばアジア協力の概念は消えなかった。日本は合衆国占領下にあり、中国は内戦の方向に向かっていたので、インドが新しいアジアのリーダーとしての役に上がった。第二次世界大戦後アジアとヨーロッパはある意味で二百年ぶりに同じ位置にあった。どちらも貧乏で飢えに苦しんでいた。国連が一九四六年に合衆国の食糧援助を分配する為にThe Economic Commission for Europe(ECE、欧州経済委員会)を設立した。インドはアジアにも同じような委員会を作る為にアジアにディプロマティックな力を注いだ。同じ一九四六年に国連が The Economic Commission for Asia(ECA、亜州経済委員会)を設立する決定をした。アジアとヨーロッパは同じレベルの地域として認められた。しかし、幾つかの国が「アジア」の地名を嫌っていた。特にフィリピン、中国と韓国の代表者がアジアではなく、極東(Far East)の方が自分の国に対 して好ましい地域名だと発表した。それで結局一九四七年に上海で集まった委員会の名は The Economic Commission for Asia and the Far East(ECAFE、亜州極東経済委員会)になった(28)。アジアの意味は悪かったので、その地名だけを使って必要な経済援助の為の委員会は作れなかった。
  一九四七年から激しくなってきた冷戦のせいで地名の使い方がまた変わった。資本主義側と社会主義側は別なキャンプになり、別な用語を使った。社会主義圏の国々、特に中国と北朝鮮はアジアというよりも社会主義圏の一員になった。ヨーロッパでは冷戦のせいでECEの活動の場がなくなった。それで一九四七年にパリで Organization for European Economic Cooperation(OEEC、欧州経済協力会議)が設立された。インドはアジアに同じような会議を作りたかった。一九五五年に結局アイゼンハワー合衆国大統領がアジアのマーシャル・プランの提案をした。それでインドが速く Organization for Asian Economic Cooperation(OAEC、亜州経済協力会議)を設立する為に共産主義でないアジアの国々の代表者をシムラという町に誘った。しかし、OAECは作れなかった。会議に参加した国々の意見がアジェンダの一つのことについても一致しなかった(29)。アジアは地域的なユニットではなかった。お互いにけんかをしていた国々に対する地名だけであった。
  この時期のアジアの西の境を探すのは難しい。アジアの意味ははっきりしていなかったし、地域名に対する関心が低かったので、その境も不明だった。その地名を強く使った一つの国際会議が一九五五年に開かれた。インドだけではなく、他の国にもヨーロッパと競争する態度があった。そして、一九五〇年代に独立したアジアとアフリカの国々に欧米の新帝国主義反対の議論も増えて来た。シムラ会議が駄目になったので、インドネシアのバンドンという町で新しい非欧米・非軍事大国の会議が開かれた。この会議の準備の中心にインドとエジプトがあった。エジプトはアフリカの国なので、アフリカ全体の独立した国々を会議に誘った。それで、アジア・アフリカ会議が行われた。全部の国々が非大国・非帝国主義の態度を取っていたので、会議は割とうまく行った。お互いにアジア・アフリカ人同士で貿易圏を作り、経済、技術と文化の協力を行い、自分の力で経済発展に向かおうというような意見が強かった。しかし、工業技術を持たず、経済力もほとんどなかったので、この会議の具体的な成果はあまりなかった。そして、アラブ・イスラム教の人々は自分のことをアジア人でもアフリカ人でもないというふうに考えている。この後も幾つかの会議があった。最初はアジア・アフリカ・アラブ会議という名を利用しようとしていたのだが、結局地域名を使うのを全くやめた。最初の会議のことを今ほとんど誰もアジア・アフリカ会議として覚えていない。バンドン会議という名に変わった。会議の過程でどんどん新しい国も参加した。一九六〇年代になると、ヨーロッパのユーゴスラビアとアメリカのキューバが入ると、世界的な会議になり、非同盟運動として知られてきた。一九七〇年代にヨーロッパのフィンランドとスウェーデンもニュートラルなオブザーバーとして参加した。だから結局この会議はアジアに特別な関係がなかった。冷戦下のこの運動の中のアジアには境はなかった。境なしで全世界に溶け込んだ。
  欧米日の一九五〇−六〇年代の学問的な論文とマスコミの印象を読むと、アジアの意味は何かというと、大体東南アジアと同じだった。フランスの地理・民俗学者コンラード・マルテ・ブルーン(Conrad Malte-Brun)が 一八三七年に南東アジア(Asie du Sud-Est)という地名を作った。この地名には文化的意味があった。つまり、インドと中国は自立した文明圏として認められたが、中国の南とインドの東にある地域には特別な自分の文化はなかった(30)。一八〇〇年代にそれはあまり使われていなかったが、一九四三年に大英軍がセイロンに南東アジア司令部(South-East Asia Command)を対日戦争の為に作った。これで東南アジアの西の境は不明になった。司令部はインド圏にあり、目的も主にインドの防衛であった。そして、アメリカのマスコミが第二次大戦の時に一般に知られている地名にした。戦後のイギリスの前植民地に対する経済協力を管理する会議もセイロンにあり、この会議はコロンボ・プランという名前であった。アジア自身の経済協力がうまく行かなかったので、結局一九五〇年代にコロンボ・プランが経済発展援助の中心部になった。合衆国もお金を出し、イギリスに関係がない東南アジアの国々も参加した。地理学的にはインド、パキスタンとスリ・ランカは南アジアだが、この頃南アジアと東南アジアの区別ははっきりされていなかった。国建ての問題と経済発展の問題は同じだったので、一つの地 域として考えられた。一九五四年に合衆国の指導で設立されたSoutheast Asia Treaty Organization(SEATO、東南アジア条約機構)の参加国はタイ、ラオス、カンボジア、南ベトナムとフィリピンであったが、パキスタンも加盟国であった。南アジアと東南アジアはあまり区別はなかった(31)。
  この頃の一番有名なアジアに対する表現はスウェーデンのグンナル・ミュルダール(Gunnar Myrdal)という 経済学者が一九五〇年代の終わりに作った「アジアのドラマ」であった(32)。ミュルダールのアジアはやはりイ ンドと東南アジアを一緒にした地域であった。とての貧しくて、経済発展をしようとしても進歩はほとんどなく、暗い将来しか持てないので、アジアのイメージはとても可愛そうであった。日本の経済学者の意見はそれほどペシミスチックではなかったが、日本人にとってもアジアは貧しい後進国の地域であった。地名の使い方も欧米と同じで、日本の東南アジアはインドネシアからパキスタンとアフガニスタンまであり、韓国と台湾もよく東南アジアの内に入れた。日本自身はアジアの国よりも「西側の一員」であり、アジアの国々とあまり関係がなく、アジアから遠く離れた国であった(33)。
  一九四〇−一九六〇年代の地域協力の面でアジアの境がはっきり見付からなくても、イメージの面で一つの解釈が出来る。アジアはイメージが悪い可愛そうな地域なので、先進的な国にはアジアでないという自己意識を使った。だからアジアは非ヨーロッパ、非社会主義、非中近東、非日本というユーラシア大陸の喧嘩っぽい部分であった。ユニットではなかった。

十一 太平洋のアジア

 一九六〇年代に新しい種類の地域協力運動が少しずつ出てきた。一九六七年に Association of SoutheastNations(ASEAN、東南アジア諸国連合)が設立された。参加国はタイ、マレーシア、フィリピン、シンガポールとインドネシアであった。その頃はあまり大事な連合体として認められなかったが、少なくともこれで東南アジアは南アジアから概念的に離れた。アジアは駄目なイメージがあったので、アジア協力の話は全て消えた。代って、太平洋協力が新しい話題になった。韓国は一九六六年に Asian and Pacific Council(ASPAC、アジア・太平洋協議会)というものを日本、台湾、タイ、フィリピン、南ベトナム、オーストラリアとニュージーランドで作ったが、冷戦に参加する協議会であったので、日本とオーストラリアはあまり興味を示さなかった。特に日本はアジアよりもはるかに太平洋n方に向かっていた。一九六七年の三木武夫外務大臣が発表した Pacific Free Trade Area(PAFTA、太平洋自由貿易地域)の提案は日本のオリエンテーションを示した。日本はどんな国と自由貿易をしたかったかというと、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアとニュージーランドであった。PAFTAは結局作れなくてもその概念は強く一九七〇年代にいわゆる環太平洋の国々の学者と官僚の間で議論されていた(34)。
  日本はその頃高度経済成長であった。香港、台湾、韓国とシンガポールも経済成長を進めていたし、東南アジア地域でも一九七〇年代に成長率が少しずつ上の方に向かっていた。この経済過程の上に一九八〇年に Pacific Economic Cooperation Conference(PECC、太平洋経済協力会議)が設立された。参加国は日本、韓国、合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドとASEAN諸国であった。西太平洋の国々という言い方もあった。同時にとてもオプチミスチックな「太平洋時代」と「二十一世紀は太平洋の世紀」というようなスローガンが論文とマスコミの中で流れていた。ASEANの場合にも「東南アジア」というイメージが弱まった。「ASEAN」とカタカナの「アセアン」が地域名としても使われていた。一九四六年に設立されたECAFEも名前を変え、Economic and Social Commission for Asia and the Pacific(ESCAP、アジア太平洋経済社会委員会)になった。日本はもう前から太平洋の国で、そして韓国とアセアンも十年間ぐらい「脱亜入太平洋」の傾向を示していた。時間として短かったが、イメージ的に南アジアとの関係は切れてしまった。経済的にはとてもダイナミックな明るい将来のイメージに変わった(35)。
  しかし、成功と一緒に自信も出てきた。そして自信だけでなく、域外からの賞賛と批判も出てきた。雁行形態発展論的な「アジアの新工業化国」、「アジアン・ニックス」、「アジアン・ドラゴン」、「アジアン・タイガー」等のような表現は特に一九八〇年代の終わりころに欧米から飛び始めた。同時に合衆国との経済摩擦が激しくなり、色々な経済に関する衝突があり、労働者状態等についても批判が欧米から出た。また中国も一九八〇年代に強く地域的な経済協力の中に入り、高度経済成長の波にのり、地域のオプチミスチックな雰囲気に加わった。しかし、中国は西太平洋という地域名には乗らなかった。自己意識は「海国」ではなく「陸国」であった。そして、経済成長、先進国からの直接投資等を求めてもアメリカとかオーストラリアとは同じ運命圏の仲間であるという意識はあまりなかった。太平洋よりも中国の運命圏は東アジアの隣国であった。第二次世界大戦の前の日本と同じように欧米ソ連圏と違う仲間を作る為に中国、そして中華系の学者が「西太平洋」の代わりに「アジア」という言葉を使い始めた。欧米との経済摩擦中のアニックス、アセアン諸国と日本もアジアに新しい興味を示していた。それで一九八〇年代の中旬ころから西太平洋という呼び方は静かに消えてしまった。この地域の国々はアジアに戻った。
  しかし、同時にアジアという隠喩の意味がまた大きく変わった。素晴らしい経済発展のダイナミックはイメージが隠喩に加わり、貧しく可愛そうなイメージがインド圏だけに残った。従って、アセアンも簡単に東南アジアだけに帰ったわけではない。日本も一九八〇年代に同じアジアの船に乗り始めた。一九八六年安部晋太郎外務大臣がアセアン訪問中の発表で「東南アジア」という地名を止め、「東アジア」を使い始めた(36)。換言すれば、安部がこの隠喩でアセアンを日本と同じ仲間に入れた。その後他の日本の政治家も同じ表現をアセアン訪問中に使った。
  一九九〇年代は一九九七年まで特にアジアの時期であった。マハティール・マレーシア首相が一九九一年にEast Asian Economic Group(EAEG、東アジア経済グループ)の提案をし、アセアン、日本、中国と韓国だけの経済協力圏を作ろうとしていた。太平洋時代は一九九四年からアジアの時代とアジアの世紀に変わった(37)。この経済発展の勢いと、とても面白い議論の中で研究者もマスコミも南アジアの可愛そうな話を出来るだけ避け、東アジアだけに興味を示した。だから今日のアジアのイメージは主に東アジアにある。日本にとってこれはある意味で自然な話し方である。日本の外務省は一九九〇年の「我が外交の近況」にこのようなアジア図を使い始めた。これは鎖国時代のアジア図と岡倉天心のアジア観にとても似ている。パキスタン、インド、中国、フィリピン、マレーシアとインドネシアと共にイスラム教も少し入っているが、それほど強くは入っていない。モンゴル民族も少ししか入っていない。経済と外交の面で見てもアジアは日本の解釈で昔の中国とインドの文化圏と同じである。二〇〇年が経っても大して変わらない。オーストラリアもニュージーランドも西太平洋の国なので同じアジア図の中に入っている(図12)。一九九五年にガレー・エヴァンス(Gareth Evans)オーストラリア外務大臣が「アジアの国としてのオーストラリア」という政策さえ出した。だから、この日本の解釈ではアジアの西の境は中国とパキスタンの西の国境である。

第12図(省略) アジアおよび大洋州外務省(1999)外交青書、1頁。

十二 終わりに

 この四五〇〇年間にアジアという隠喩は世界中に広がり、色々な意味を含んでいた。アッカド帝国の「日の出」からギリシア地理学の大陸名に移った。アリストテレスのペルシャに対する政治論から中世キリスト教の一番尊敬された神聖な方向に。イエズス会員の文明圏から中国地理学の夷が放浪する狭い地帯に、そしてアリアン論のモンゴル黄禍の発生地区に。天心の文明圏から大東亜共栄圏に。貧しく可愛そうな後進国地帯から今日の経済危機から再び立ち上がろうとするダイナミックな経済発展の協力圏に。
  隠喩の内容によってアジアの西の境も激しく動いた。アナトリアから神話の川に、ポーランドの国境からウラル山脈に、民族学的にはイギリス海峡まで広げ、日本的な解釈で東洋と同じ文化圏になった。アジアは色々である。
  これからの変化も激しいかもしれない。一方、アジアの意味が広がる傾向が見られる。つまり十五年前にほとんど使われていなかった中央アジアは今日普通の言葉になっている。ロシアの国内政治がうまく行くかどうかということによって北アジアと西アジアが見えて来る可能性もある。ロシアが小さな部分に分かれれば、ロシアという国号が使えなくなるので、アジアの名を使う可能性が高い。
  他方、アジアの意味が狭くなる傾向も考えられる。ヨーロッパ地理学では昔の地中海に意味があったが、今のユーラシア大陸に対してその地理学の地名はあまり意味がない。二〇〇年前、一〇〇年前ヨーロッパが強かったころヨーロッパ人が自分の地理学を力強く世界中に広げたが、その後はヨーロッパは比較的弱まりの道を歩いていた。人口のことだけを見れば、国連の数字によると、ユーラシアで今五人の中の一人がヨーロッパ人であるが、二一五〇年には十人の中の一人だけがヨーロッパ人ということが予想される。中近東のアラブ・イスラム地域はもうあまりアジアの概念に入っていない。ロシアが大国として生き残ればアジアの意味を広げる必要はない。東アジアではアジアの概念はそんなに深くはない。中国人は今でも「亜細亜」にあまり興味がない。
  柳、杉、楢、山桜、檜、榛の木等が沢山あれば「林」とか「森」という言葉が必要である。そのような上のレベルのよりアブストラクトな言葉がないと、樹木名を会話にならない程沢山箇々に言わなければいけない。同じように、東アジアに地域的な国際協力の過程があれば何かの地域名が必要である。アジアは今そのアブストラクトなカテゴリーとして使われている(38)。この意味でアジアは掛け布団である。この地域の国々の上に置いてある薄いカバーだけである。しかし、「東土」、「東洋」、「仏教国」、「西太平洋」、「文明圏」、「中原」等のような色々な地域名が歴史の中で見られる。欲しければ新しい地名も簡単に作れる。換言すれば、掛け布団を替えることが出来る。どんな隠喩を選んでもその中に入る仲間がいつも違うし、それによって政治的な問題も起きる。にもかかわらず、今から一〇〇年後に「アジア」は普通の言葉かあるいは歴史学者だけが使う言葉かということは分からない。全く不明である。

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