二十一世紀の漢文−死語の将来− (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )

Jean-Noel A. ROBERT (ジャン−ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授

其の一

はじめに

 パリ大学をはじめとして、のち国立高等研究院の宗教学部でフランス人の学生たちに漢文入門講座を担当しだ してから、早くも十五年以上になる。一年間で終わるこの入門講座は、大学で「日本文学」という専門コースを選んだ学生にとって必須科目なので、パリ東洋語学校の学生を含めて、毎年十人位を相手に講義する。
  担当者として、日本語の学生に漢文を教えることの主な困難は、まず漢文の勉強の必要性を理解させることで ある。ここで漢文というのは、いうまでもなく中国の古語(中国語では「文言」と呼ばれるもの)を指すだけでなく、歴史を経て日本語の発音と文法に順応させられた、「返り点」を使っての「訓読」を中心にした日本独特の言語現象を意味するので、この言語現象に対する一般学生の反動はもっとも当然であろう。つまり「日本語を専攻している僕等がいったいなぜ漢文のようなややこしいものに煩わされなければならないのか。つまり古典中国語を読みたいなら、中国語を直接に勉強した方がずっと分かりやすいのではないか」等の意見がしばしば聞かれる。長年の経験から、私は最近、まず講義を始める前に「漢文の弁護」とも名付けられる短い話をすることにした。
  そこで、誰でも分かる簡単な譬喩で説明する。もし日本歴史の初期から明治時代まで文字で表記されたすべての文章を、漢文か仮名まじり文で書かれたものによって二つの部分に分けた上、それぞれを天秤に乗せるならば、漢文の塊の方が仮名書きの塊よりはるかに重いという事実に注目させる。ということは、広義の文学、すなわち詩や美文だけでなく、医学、数学、工芸などの技術と科学に関する文章や古文書と碑文の様な史料を含めた意味の日本文学を顧みると、漢文で書かれたものがその大部分を占めていることがわかる。それが故に日本人が作った漢詩、歴史、美文の漢文文章はともかく、一般の明治以前の社会の勉強を目指す学生にとっても、漢文の知識が不可欠だということで話を結ぶわけである。
  今日でもフランスの中学校でラテン語の教育が行われている。十七世紀までのヨーロッパに於ける学問の共通言語としてのラテン語と東亜に於ける漢文の位置を比較すると、学生たちは何となく漢文学習の重要性を納得するのであるが、なぜ「訓読」というとんでもない読み方に従ってそれを解読せねばならぬかという理屈を分からせるのはなかなか困難である。そこで、私は次の三つの理由を並べて、訓読の価値を説明する。
  第一の理由は、日本語学の範囲を超えた一般的な学問上の論拠である。すなわち、寡聞ながら、返り点による 日本式の漢文訓読に類した言語現象は東西にわたってどこにも存在しないものである。朝鮮半島とベトナムで漢文が存在していても、その読み方はむしろ日本でいう素読や棒読みに似たものであり、朝鮮漢文の場合、送り仮名に近いものがあるが、返り点は使わない。また返り点の起源について、確かに古代朝鮮説が有力であるが、それがかなり早い時期に放棄され、より簡単な仮名まじりの棒読みが広がったために、返り点付の訓読を現代まで生かしたのは日本だけだという事実は否定できない。したがって、その言語現象は唯一無二のものであるだけに学者の注意を引くに充分である。いわば、一つの文法に随う書面言語(古典中国語)が、もう一つの、文法的には完全に違う口頭言語(日本語)で表現されるという不思議な工夫が日本式の漢文である。類似した現象を全ユーラシアに探してもなかなか見つからない。敢えてそれに近いものを見出だそうとすれば、古代中近東のヒッタイト文字と、中世ペルシャのパフレビ文字の例が挙げられる。前者の場合、セム語族が表記するアッシリア・バビロニアの楔型文字を借りて、インド・ヨーロッパ語族に属しているヒッタイト語の言葉でそれを口頭で読んでいた。日本語でいえば、漢字で「山」と書き、読む時は「やま」と発音する習慣に非常に近いと思われる。後者の場合、やはりセム語族が普段表記するアラム文字をインド・ヨーロッパ語系の中世ペルシャ語に当てはめられたものであるが、先の楔型文字と違って、アラム文字がアルファベットであるにも関わらず、パフレビ語話者がそれを表意文字として利用することはなかなか興味深いものである。平たく日本語でいえば、ローマ字で 「mountain」と書いて、それを「やま」と読ませる様な工夫と変わらないのである。その二つの場合も、日本語の漢字の音読と訓読の方法に酷似しているが、日本式の漢文訓読、すなわち漢文の「読み下し」とは本質的に違うことに留意しなければならない。
  もう一面から見ると、蒙古の仏教寺院で行われていた僧侶の教育方法には、日本漢文の訓読に漠然と似た練習 があったそうである。二十世紀の蒙古の偉い学僧の回顧録を読むと、子供時代の仏教経典が読めるまでの勉強を描写する場面が出てくる。蒙古人にとって聖語だったチベット語を把握することが優先であったので、その目的に達するためにかなり有効な練習法を発展させた。初心者の小坊主が先生のもとで、まず経典の原文をチベット語で一句ずつ読み、次にその一句を蒙古語に翻訳させられる。また逆に蒙古語訳を読み、それをもとのチベット語に直させる。そういう集中的な訓練をして、蒙古の学僧たちが自分の母国語より、学問の聖語だったチベット語で驚くべき量の論文を数世紀かけてしたためた。奈良時代の大学寮で行われた漢文教育がその方法に近かったのではないかと、私は時々想像するのであるが、蒙古寺院の場合、漢文訓読との著しい相違は蒙古語(蒙古文字)とチベット語(チベット文字)がはっきりと区別されていることである。日本の漢文では、完全な二重的構造を有する一つの言語であることを強調しなければならない。奈良時代にはまだそうでなかったと思われる。古典中国語で書かれた文章をまず当時の中国の発音になるべく近い音で読み、次に当時の日本語に口頭で直す習わしであったそうであるから、蒙古の僧侶の練習に似たものだったかも知れないが、後期に行われた日本式の漢文訓読とは非常に違う。そういう理由だけでも、言語学、文字歴史、あるいは広く人間の精神史、文化史に興味のある人ならば、独創性の強い日本式漢文を一応勉強する甲斐があることが明白になる。
  二つ目の理由として、より直接に日本文化史と関係している。日本の古典の文化を支えてきた古代中国人によ る古典中国語の「四書五經」などは中国語のままで読めば忠実な理解が得られると常識として考えがちであるが、そこでもヨーロッパ文化史と實相を比較すると、その常識だけでは足りないということが分かる。たとえば誰か がプラトン哲学を真面目に勉強しようとする。もしその人が古典ギリシア語を知っているならば、プラトンの作品を直接に熟読し、あらゆる資料を参考にすることによって、プラトン自身とその時代についてできるだけの知識が得られる。それはもっとも効果的な方法であろう。もしギリシア語の知識が皆無であれば、フランス語、ドイツ語、英語などで出版された翻訳を集めたり、それを比較しながら自分なりの解釈を立てるのも、現在の哲学の一段階としては、それだけの価値を有するもう一つの方法として可能性がある。それに対して、ルネサンス時代のヨーロッパにおけるプラトン哲学の受容と展開を研究しようとするものであれば、前の二つの方法はどちらも無駄になる。この場合、まず不可欠なのはフィレンツェのマルシリオ・フィチーノによって十五世紀に行われたプラトン全集のラテン語訳を熟読する事である。現代的な方法に随う校訂者が出版したプラトンのギリシア語原文も、またその原文を基準にして行われた現在の翻訳もそういう勉強にはあまり役に立たない。ルネサンスの当時に流布した写本を使い、当時の理解に基づいたフィチーノのラテン語訳か、また当時その翻訳からヨーロッパの話し言葉(イタリア語、フランス語など)に直されたプラトンの重訳を参考にしなければ、目指している研究を有意義的に果たせないことは論を待たない結果である。
  日本式漢文もまたしかりである。例えば江戸時代の儒教史を勉強しようとする学生にとって、春秋時代の古代 中国語をなるべく忠実に訳述した英・仏語の現代訳や古代中国の歴史と言語を標準にする解釈だけを利用するだけでは、江戸時代の儒教者の解釈が分からなくなる。簡単な例を挙げると、論語の最初にある名文「孝弟也者其為仁之本與」の後半を「それ仁のもとたるか」または「それ仁をおこなうのもとか」のどちらかの訓読にしたがって読めば、意味が多少変わってくる。江戸の儒教者の注釈史を目指す人は、まず顧みなければならないのがその人の訓読の仕方である。論語の場合、前漢の時から出来た集成の原文が一方に存在する。それを早く言えば永久不変の文章であって、それをなるべく正しく理解しようとすれば、春秋時代の中国語から漢朝の思想史までの研究をもとにして勉強を進めなければならない。もう一方、日本の思想史に包摂された論語の受容に重点を置こうとすれば、ある程度まで(あくまでもある程度までであるが)原文中心主義的の「偏見」をさて置き、その代りに歴史を経て変遷した日本人的な訓読(読み下し)を重視しなければならないのも最も当然である。
  普通子音だけで表記するアラブ語やヘブライ語では、母音を言葉の上下に小さな点と線で書き加える。アラブ の文法学者はその母音の役割を、骨である子音に対して血か魂に例えるそうである。骨の間に血が流れるとようやく言葉が生きてくる、という象徴に富んだ譬喩である。日本式訓読の場合、日本人にとって漢文の原文を生かしている力は返り点と送り仮名である。まさに漢文の血または霊魂に喩えられる。中国人、少なくとも古典的な教育を受けた中国人にはもちろん白文で充分であるが、日本人にとって訓読という媒介がなければ、文章が死んでいるとも言えよう。それ故に、一定の時代の日本における中国文化の影響を理解しようとする人には、その時代の訓読をも顧みる必要がある。

  第三の理由は日本人によって作られた漢文の作品に関するものである。いわば、第二の理由の対称と言っても良い。元来中国人の頭でしたためられた文章を日本人の語感に移す過程としての訓読に対する段階、日本人の頭でできた文章を今度は古典中国語に直す段階である。漢文から訓読への移行が逆に訓読から漢文への移行となる。この場合、日本式の漢文訓読を充分に勉強する必要はそれ以上論ずるに及ばないが、日本語の読み下しでなければ、その文章のリズムや余韻などを味わうことが不可能になり、また、和臭漢文、変体漢文になると、日本式訓読が第一の条件になってしまう。私のように、日本天台宗の論義に興味のある人ならば、数多い論義集を正しく理解するために、日本語で読まなければならない。私の講義に出席する中国語の学生にとって、古典中国語の知識だけで、日本の資料を読もうとすれば必ず誤解が生じる。例えば、室町時代の『柏原案立』という論義集の冒頭にある句を引用してみると、「二佛並出不可有云事」(二佛並出あるべからずということ)の前半には「不可有」まで中国語で解読しようとすれば、あまり問題はないが、後半の「云事」が前半にどういう風に連なるかと正しく判断するために、日本語の訓読「ということ」にしなければ、とんでもない意味になってしまう。無理に「二人の佛陀が同時に出てもいうことができない」というようなわかった様なわからない文になる。正しい漢文では、この文は「所謂二佛不可並出者」のようなものになると思う。弘法大師の美文「三教指歸」はもともと何語で読むべきだったかさだかでないが、かなり早い時期から日本の僧侶が漢文の原文に素晴しい読み下しをつけたので、その日本訓読をもって読まなければ、文学的にも、思想的にも誤解の生ずる恐れが大きい。
  以上の三つの理由を並べて、漢文入門の講座を受ける日本語科の四年生に日本漢文の重要性を心得させる。ほかにもいくつかの理由が上げられる。特に平安時代からはやりだした和漢混淆文から、第二次世界大戦まで学問、歴史、法律などの専門分野に認められた「普通文」に至るまで、また場合によって幸田露伴のような大作家の文 体を充分に鑑賞し分析するために漢文訓読の基本知識が非常に重要な道具であることを理解させ、講義中に文例(たとえば露伴の「運命」の初頭の部分)を見せる。

 前にも書いた通り、学生たちに東亜に於ける漢文の地位と、欧州に於けるラテン語の地位とを比較してみせる と、一見してごく不自然に見えた日本漢文の現象が初めてより広く、ユーラシア全体の枠に位置付けることができる。極東の漢文=欧州のラテン語という簡単な方式が成立した以上、やはり比較を他の文化圏に広げようとしてみるのは、おのずから合理的な方法と思われる。言語文化史の観点よりユーラシア大陸の文化の歴史的展開を一瞥すれば、興味深い事実が目につく。非常に古いスメル文明やエジプト文明の時代から、現代のアラブやイスラムの世界に至るまで、そのもろもろの文化圏はみな、普段の話し言葉と相当離れた形をもち、どんな民族にも属していない伝統的なまたは聖なる性格を有した言語を専ら使用してきた。ヨーロッパでは十七世紀から、東亜では二十世紀に入ってからようやくその情勢が変わったため、わずかにこの二、三世紀の新しい状況に慣れてきた多くの人々が、五千年間ユーラシアを支配していた文化情勢をあたりまえと思わなくなった。五千年の間、司祭、学者、文人、官吏は自分の民族の話し言葉とは直接関係のない言語を採用して、大事なことをつづるためにそれを使用してきた。その文化現象を、私は敢えてhieroglossiaと呼ぶことにして、日本語では「聖語制」と呼ぶことにした。必ずしも適する呼び方でないかも知れない。「聖」と言えば、宗教的な次元と密接につながりすぎる嫌いがあるが、ここでは「俗」の反対語と考えていただきたい。
  このような「聖語制」という現象を出発点として、ユーラシア全体の文化をより総合的に考えられるのではな いかと私は思う。特に俗語と聖語の関係、後者の前者における影響とその逆の影響を調べると、いろいろな共通点が現われてくる。言わば、仏語、英語、独語に於けるラテン語の影響と、日本語(韓国語、ベトナム語)に於ける漢文の影響が立派な比較研究の対象になりえると私は確信している。
  残念なことに、その聖語制はいまだに総合的な研究の対象になっていない。なぜ無視されていたか、その理由 は非常に簡単である。そのような研究を行うはずの言語学者が原則として、生きている言語のみを研究の対象としているという方法的前提なのである。「自然言語」、すなわち生まれながら両親とまわりの環境から身につけた言葉だけが科学的な研究の価値があるという妙な偏見が言語学の方法論に強く傾いているのは否定し難い事実である。古代から生存し、豊富な文化上の役割を果たしてきたもろもろの古典語(聖語)が「死語」という呼び方で侮られて、文献学者の専攻に任せられるようになった。最近の言語学において、確かにラテン語の研究が盛んになってきたように思われる。学会、論文集、単行本でもラテン語を扱う研究活動が少なくないが、そういう研究は飽くまでもラテン語がまだ生きていた時代の現状しか顧みないものであり、むしろ言語学の新しい学説を、 そしてラテン語を実験台として試してみるのが目的である。中世、近世のラテン語を蔑ろにするものである。が、それと対照的に、インドのある言語学者が現代サンスクリット語を調査して、それについていくつかの研究報告を発表したが、まだまだ限界のある傾向を見せているのである。「死語」の中で、現代サンスクリット語だけが特別に言語学者の注意を引いた理由として、インドの人口調査に依ると、今でも数千人のインド人(主にバラモンのカースト出身)がサンスクリット語を母国語と申請した事実があるかも知れない。この様な統計はどこまで信頼できるか疑わしいが、現在に於いてもサンスクリット語を現代語の如く話す人がいることは正当な言語学研究にふさわしい対象と言えよう。
  二十一世紀の漢文の可能性を述べる前に、東亜に於ける漢文というもの自身がいかにも独立した、いや変態な 文化現象ではなく、ユーラシア全体に広がる「聖語制」の一角とみなさねばならないということを改めて強調したい。また面白いことに、数百年、場合によって数千年もの伝統を保ってきたその「聖語」の中には、最近驚くべき復活過程を経ているものもある。この復活過程を一番忠実に反映している情報手段は他でもない、インターネットである。たとえば、英語でOld Tongues Revived(復活された古代語)という単語で検索してみると、世 界中の学者や愛好者が普通「死語」とされているいくつかの言語に新しい生命力を与えようとする努力が明らかに存在しているのである。インターネットという最も現代的な手段が古代言語の復活に利用されるという意外な展開であるが、無視することのできない事実である。
  これからいくつかの「死語」の生存と復活の諸相を調べた上、その復活運動の中で漢文が国際的にどんな役割 を果たしているのであろうか、そしてインターネットという革命的な新情報手段がどういう風にその復活を助けることができるかという問題に言及したいと思う。

「死語」の生存と復活

 先ず蛇足かも知れないが、誤解を避ける為、「死語」の定義について一言述べておこう。今の日本語、特に新聞、雑誌、テレビでは、「死語」を「昔はよく使われて、現在は流行らなくなった単語または表現」という意味だけでとらえ勝ちである。たとえば、「文化包丁」、「モボ」、「モガ」、「アドバルーン」というような単語がこの定義に応じる狭義の死語である。その意味では「廃語」という単語を使った方がよろしいのではないかという気がするが、習慣に逆らうことは難しい。それに対して、広義の方が西洋語(仏 langue morte, 英dead language)の直訳として、恐らく「死語」の本来の意味であろうが、「現代使われていない言語」である。もちろん、ここでは後者の意味で「死語」を使うことにする。
  もう一つの区別を加える必要がある。「死語」の範囲には二種類の言語が入る。古代に開花した文明、文学の 言葉として盛んに使われた言語が、その文明の滅びるとともに消えてしまった死語である。先に言及したスメル語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語等々が第一種類であり、文字通りの死語に違いない。現代人には、その諸文明の末裔と自称するものがおらず、だれもその言語を自分の伝統的な財産として生かしたり、復活させたりしない。たまたま風変わりな学者が遊びとしてその種類の言語を現代的に生かそうとしており、たとえばあるフィンランド人の言語学者がエルヴィス・プレスリーの歌をスメル語に翻訳して、CDまで出したという話があるが、それはあくまでも学問上の奇癖にすぎない。そのたぐいの死語にはここで触れないことにする。
  第二種類は、もう普通の話し言葉ではなくなったと同時に、ある形では現代人によってまだ言語として使用されるものである。その使用にもいくつかの違う形があると注意しなければならないが、その点はあとに論じることにする。先にも述べた通り、この場合には死語という名前は適していない、ただ一般の人(言語学者を含めて)がその単語を使っているのでここで使うことにした。皮肉的な呼び方とみても差し支えがない。特にヨーロッパで死語と呼ばれているのは古代ギリシア語とラテン語であるが、あとで示す通り、ラテン語が「死語」の中で一番生命力を有している言語である。そういうことから見ると、この第二種類の死語が、むしろ「ほとんど文章だけに使用される古代言語」と呼んだ方がいいと思う。しばしば(特にサンスクリット語、ラテン語の場合)その書き言葉専用語が会話、講義、宗教論の為、口頭上の役割を果たしているが、この口頭の形が書面の言葉を標準にしているので、口頭言語の次元が完全に二流的である。現代に生きている「死語」がほとんど書き言葉であることに注意されたい。
  また注意したい点がある。「死語の復活」という現象をそれぞれ特別な形で代表する二つの言葉にはここで言及しないことにするが、それはアラブ語とヘブライ語である。周知の通り、ヘブライ語は今世紀の一種の言語的奇蹟としばしば言われてきた。二千年以上前から言語学者の定義に従えば「死語」と呼ばれるべきこの言葉が、二十世紀に入って、政治的、文化的にも多様多彩な過程を経て復活し、イスラエルという新国家の国語となった。国語になってから、世界の各国からイスラエルに移住してきた人々の話し言葉として使用され、二、三世代だけで、生まれてから両親と周りの環境の中で学んだ他の国の言葉並みにその人々の母国語になり得た。生語になったので、現代ヘブライ語がこの話しの枠外にあるが、これだけ注意しておきたい。一般人の話し言葉でなくなった(正確にその時代がいつだったのか定められないが、大体の学者は紀元前後を指している)ヘブライ語は口頭言語でなくなっただけで歴史から消えたという妙な(言語学的な)偏見のせいで、この二千年の間の発展が無視され、いかにも晴天霹靂のごとく死語の状態から蘇って、紀元前後に消えてしまった言葉が三百万人の日常言語に変身したという錯覚に陥る人が少なくない。ありていにいえば全然違う。まず現代ヘブライ語は聖書に使われた古代ヘブライ語とずいぶん違うものである。その違いを浮き彫りにする為、ある人が現代言語を「ヘブライ語」でなく、「イヴリット語」と呼ぶ程である。ヘブライ語からイヴリット語への変化過程を理解しようとすれば、ヘブライ語がもっぱら書面言語であった二千年の歴史を無視することができない。中世時代のユダヤ人の宗教家、哲学者、詩人の功績を経て、十九世紀になってヘブライ語を自分の作品に選んだ学者、小説家、新聞記者の業績に至るまで、普通の言語学の観点から「死語」と呼ばなければならないこの言葉が驚く程の生命力を顕わした。宗教儀式以外にほとんど口頭には使用されなかったこの言葉が普通の話し言葉並みの変化を示していたと認めざるを得ない。文法から見ると、動詞の活用(特に時制)も、所有代名詞の系統も、名詞の限定の系統も、聖書のヘブライ語と比べるとたいへん変わってきた上、語彙の面も、新語、外来語、意味展開のいろいろな発展が、「生きている言語」とまったく同様に、その長い歴史を経て示された。二十世紀の話し言葉としてのヘブライ語の復活が奇蹟的に見えたのは、この二千年の書面言語としての歴史が無視されたからである。しかし、現代のヘブライ語が話し言葉のイヴリット語としてまた言語学者の研究の対象になったので、ここで触れないことにした。
  アラブ語も立派に生きている「死語」だと言わなければならない。周知の通り、アラブ語の世界は二つの次元 を含む。一方は日常会話の手段となっている、アラブ各国でそれぞれ互いに違っている諸方言である。大雑把に言うと、シリア、レバノン、アラビア半島、エジプトなどの東の方言群と、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、すなわち北アフリカの方言群との二大部分に分けることが出来ると思う。アラブ人の本当の母国語であるもろもろの方言は比較的に少ない例外を除いて、文面に表わされていないものである。もう一方、日常の生活を超えた次元の話題について、例えば宗教的、学問的、哲学的な問題を口頭で扱う時には、同じアラブ語と言いながら、違う次元の言葉を使用しなければならない。それは古典アラブ語、または筆記アラブ語、書面アラブ語などと呼ばれ、コーランが出来た七世紀から数世代の間に文学言語として開花した古代アラブ語とさほど変らない言語である。いくつかの発音上の習慣が十三世紀の間に変転したとはいえ、文法的にも多少簡単化されたが、数多い現代用の新語を除けば、今日刊行されているアラブ世界の新聞、雑誌、書物のすべての文体は古代のと大同小異である。またアラーの神の言葉そのものとされているアラブ語は、アラブ諸国を超えてイスラムの布教により、非アラブ語圏の国々にも波及し、そこで本当の意味の聖語制hieroglossiaが支配したと言える。アラブ語が聖語であり、その国の本来の言葉、すなわちペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語等々はアラブ語を最終的指南にしている俗語である。
  アラブ諸国で見られる言語状態は明白に英語でいうダイグロシー「二重言語制」という現象に当たるので、私のここで扱っている「死語」の生存とはかなり違う気もする。日本と比べると、二十世紀初期まで使われていた書面言語としての文語と口語の違いと見た方が適当である。もう一面、加えて述べてみると非アラブ諸国で行われているアラブ語の使用が私の対象にしている「聖語制」に当たるとは言え、他の場合よりかなり複雑、かつ曖昧なので、アラブ語の専門家に正確な評価を任せた方がよろしい。
  ヘブライ語の二千年の歴史を無視して、あたかも二十世紀に話し言葉として突然復活したごとくが奇蹟と看做されたように、今日行われた数多い古代言語の復活の試みにしかるべき注意を払わなければ、将来起こりうる幾つかの「奇蹟」に驚かされるかも知れない。
  次に、日本でもいろいろな角度から批判の的となっている漢文、特に日本式の漢文訓読はより広く、全ユーラシアに渡っている文化現象の一面に過ぎないという事実を明らかにしたいと思う。

 現在観察されうる古代言語の復活運動は、その性格と原因によって区別して次のABC三組に分けることができるのではないかと思う。
A.昔、他の民族と言語の政治的、文化的な圧迫のため完全に消えた言葉が、その話者の子孫によって、主に自己意識を元に現在復活させる。そういう言語は完全に断絶されたために、滅びた時から再び使用される時までの間、筆記言語としても使われたことがなく、その場合全くの復活とみなしても良いと思う。その点では他の二種類と性格が多少違う。また、政治的な動機も無視してはならない。この種類の言語として、次の二つだけ挙げておこう。

1.コーンウォル語(コーニッシュ語)は、英国のコーンウォル地方に一八〇〇年頃まで話されたケルト系の言葉で、現在数万人の話者を有しているフランスのブルターニュ地方のブルトン語に非常に近い。中世時代に話されたようであるが、文学作品は非常に少ない。英国の他のケルト系の言語、すなわちスコットランドのゲール語とウェールズのウェールズ語が(後者の方がコーニッシュ語に比較的近い)古い文学(ゲール語の中世文学がアイルランドで黄金時代を迎えた)を誇り、現在でもそれぞれ違う形で生きているのに対して、コーンウォル語を母国語にしていた最後の女性が十八世紀末になくなった時、この言葉が本当に死語になってしまったといってもいい。しかし、今日のインターネットを参考にすると、コーンウォル語の復活に関するサイトが数十箇所あるという驚くべき事実がわかる。その他にも、コーニッシュ語でしか書かれていない月刊誌が一つ、多数の教科書と書物が出版され、いくつかの会話クラブもできた。
  コーニッシュという死語の復活運動がより広く、ケルト文化の復興という一般的な枠に位置付けなければならないと言っても、その復活運動に参加している人々の動機について決定的な原因を指定することは難しい。漠然ながらも、自分がケルト人の末裔の意識をもっている人であるならば、なぜ生きているケルト系の言葉を勉強して、それを復興することに全力を捧げないのであろうか。たとえば、消滅する寸前のスコットランドのゲール語をなるべく生かした方が文化上に役に立つのではないかという気がする。一種の流行の影響はコーンウォル語の場合には否定できない。また、合衆国の市民でありながら、コーンウォル出身者の子孫という自己意識のある人々が、インターネットのサイトから見ると、その復活に有意義な力を加えているようである。思うに、その復活活動の動因が文化的、知識的、精神的であり、またある意味の自己意識(アイデンティ)の象徴と言えるであろう。しかし政治的な要素が少ない。インターネットのお蔭か、昔の言語学の教科書で滅びた言葉の例としてよく挙げられるコーニッシュ語が、かなり限られた規模であるが、復活することのできた死語の例としてこれから挙げられるのであろう。

2.古代プロシア語。この言葉はリトアニア語、ラトビア語とともに十六世紀から筆記されている所謂バルト系 語の一つであるが、最近旧ソ連から独立したリトアニアとラトビアの言葉が数百万人の話者を誇っているのに対して、ゲルマン族、そしてスラブ族の侵略を受けたプロシアの言葉は十八世紀からこの世から消えたので、それは古代プロシア語と呼ばれるものである。周知の通り、バルト系諸言語、特にリトアニア語は、スラブ語系に非常に近くありながら、古代インド・ヨーロッパ語と多くの共通点をもっている。ルーテル教の教理問答集やいくつかの語彙集でしか知られていない古代プロシア語がリトアニア語よりもたいへん古い単語と文法を伝えている。有名な例として、サンスクリット語のkrsna「黒」とほとんど同一の単語kirsnaを保ったヨーロッパ言語は古代プロシア語だけである。古いプロシアの地方に住んでいたバルト系の民族がゲルマン人やスラブ人と次々と混じってきたので、現在プロシア人であることがいったいどういう意味を有するのか分からないが、先のコーンウォルと同様に、その地方に住んでいる何人かの人々が古代プロシア語を復活させることに自分の使命感を抱いた。インターネットで調べると、PRUSAという会がそういう計画を実現するためにできたということが分かる。この会の会員の大部分の人々が言語学に従事しているらしくて、まずプロシア語の現代用語を作ろうとしている。プロシア語の現代語彙を成立させるために、一番近いリトアニア語をある程度まで見本にしているが、この二つの言語の間になるべく区別をしようとして、言語学の原則にしたがって「プロシア語らしさ」を忠実に伝えようと努力する。古くから数百単語しか伝わらなかった古代プロシア語に、他の言語並みに現在の世界に対応する数万語の語彙を作り上げることはいかにも風変わりな学者たちの遊びに過ぎないとかたづけられがちであろうが、この運動にも無視することのできない政治的な次元がある。インターネットのサイトを見ると、プロシア民族の国土として、ロシアの領土でありながらリトアニアを真ん中に挟んで地理的にロシアから切り離れているカリニングラード(カントの故郷として有名、戦前のケーニヒスベルク)の地方を要求していることが分かる。学問上の遊びと見なさず、ロシア、ドイツ、ポーランド、バルト諸国間の複雑な領土・文化紛争の一面として古代プロシア語の復活運動と看做した方がふさわしいかも知れない。今日カリニングラード地方をめぐって強まってきたドイツ人とロシア人の対立を突破するために、プロシア語復活運動ができたとも言えるが、所詮コーニッシュ語ほどに成功するかどうか疑わしい。

B.前の範囲が政治的、民族の自己意識を中心にしている現象であったのに対して、第二のはむしろ純粋な学問 上の関心からできた「死語」の復活運動を含む。学者の遊びか、語学実験とそれを呼んでもいい気がするが、この方面の試みが飽くまでも書面またはインターネットの枠を出るはずはなく、政治的、民族的な動きに連なる見込みはまったくない。興味深いことに、インターネットができたからこそこのような実験ができたのである。インターネットがなければ、世界中に四散している当言語の専門家たちがおそらくそれほど簡単につながり、即席に自分の提案を実現させることもできないであろうし、また専門家以外の人にも彼等の業績に注目させることはできなかったであろう。非常に限られた範囲であるので、ここで短く二例だけを挙げよう。

1.一番驚くべき例がゴット語の復活運動である。この言葉がゲルマン系諸言語の中で歴史上最も古い跡を残し たもので、はやくも四世紀にウルフィラという人物によってなされた新約聖書の翻訳が残された外、十八世紀に東ゴット族の末裔がまだ生き残っていたクリミア半島でしたためた語彙集によってしか知られていない。最近、主に合衆国とスカンジナビアで活躍しているゲルマン語学専門の少人数の学者がインターネットでサイトを作り、それを通じてかなり面白い実用語学の実験が行われつつある。特に注目されるのは、この動きの裏には学問上の動機しかないということである。どう考えても、ゴット語を復活させて得られそうな政治的効果がないので、純粋な語学実験とみなすしかない。電子メールのことをsprautme、ljan、コンピューターをgarahnjaと訳して、現代生活を反映する多数の新語をつくる事は、その語学的遊びの楽しみの一つらしい。

2.1に酷似している古代英語(Old English)の場合もある。インターネットに古代英語の日常会話(挨拶など) を教えるサイトが現われた。イギリスらしいユーモアをおびるもので、かなりアングロ・サクソン語の知識を必要とする言語遊びのようであるが、ある程度まで十九世紀で始まった英語の本来の語彙から、十一世紀のノルマン侵略とともに渡来したラテン・フランス語系の単語を淘汰する試みとつながっているのではないか。そういう意味で、世論調査に依る二十世紀の最大英人作家J・R・R・トルキーンの言語思想とは切り離せない、いかにも文学的、いや時代小説的な娯楽とみなした方が適すると思う。

C.第三種類は前の二者と比べてはるかに広いものである。これをより正確に分析するのに、幾つかの下種類を 区別する必要があるが、まず共通の定義を試みるなら、前両者との主な相違は、第三種類の言語が古代に遡る豊富な文学をもっているとともに、現代に至るまで絶えることのなかった伝統を特色としている。これらの言語は聖語として、文化集団の中心になっていると言ってもいい。聖語としては宗教礼拝の専用語の役割を果たしている限り、保存されてきたのに疑いない。たとえばソ連が滅びた後、古代スラブ語(教会スラブ語とも呼ばれる)が東欧のギリシア正教のスラブ言語圏で復興過程を歩んでいるように、また古代アルメニア語(グラバル)が二十世紀初期までアルメニア文化の中心地であったウ[ンとベニスで書面言語として盛んに利用されて、アルメニア文化の現代化のため大いに活性化し、二十世紀に地中海のほとりに離散されたアルメニア移民がいわゆる西アルメニア語と、本場のアルメニアに残った民族が東アルメニア語の両方言を使う様になり、古代語が今日ほとんど新作品と翻訳のために使用されなくなってしまったが、礼拝式用語としてアルメニア内外の教会に保存されてきたようである。それにもかかわらず私の知っている限りを述べると、次の二言語と違って、教会スラブ語と古代アルメニア語が復活の対象となっていないのである。

 それに対して、シリア語とコプト語は生命力を取り戻しつつあると言える。両方とも非常に古い言葉である。紀元後二、三世紀に筆記される様になったシリア語が東アラム語の方言であり、その時から十三世紀の蒙古侵略まで、キリスト教に染まり豊富な文学を生みだした。七世紀のイスラム台頭により徐々に中近東の話し言葉としてアラブ語が押しつけられたが、十三世紀の博学作家バル・ヘブレウスがシリア語文学の最後を遂げたと一般に考えられていたが、旧東ドイツの学者マクッフ氏の研究によると、古典シリア語の文学が二十世紀まで存続してきた事実が分かる。この半世紀にシリア語研究家として有名だった故アブロホム・ヌロ神父が古典シリア語で詩を即興的に作り西洋の学者を驚かせていた。それに加えて、最近の中近東における政治状態のため、レバノンのキリスト教信者による、古典シリア語が見直されるようになった。イスラム教徒とキリスト教徒との関係が悪化すると同時に、アラブ語がますますイスラムの専用言語とみなされるようになってきた。十八世紀に始まったアラブ文学のルネサンスではレバノンのキリスト教の学者の果たした役割が非常に大きかったが、中近東のキリスト教信者の自己意識の象徴としては曖昧になってしまったと言える。また、レバノン人が好んでフランス語をつかっていたにも関わらず、植民時代が終わった後、ヨーロッパの言語としてのフランス語が中近東の民族に適しないという反感が強くなってきた。レバノンのキリスト教信者が非回教徒として自分が一応アラブ語の世界から排除されると感じるようになった(またイスラムの原理主義者がイスラム以外の人によるコーランの聖語であるアラブ語の使用禁止を主張することもある)。一方、非ヨーロッパ人としてもっぱらフランス語に頼ることも物足りないと思うのであろう。そういう両刀論法に挟まれるレバノンのあるキリスト教信者が古典シリア語に戻ることを主張しだした。特に八十年代に戦争のためレバノンから亡命してアメリカなどに住み着いた集団の中に、アラブ語圏と縁が疎くなったので、シリア語を自分の言語にする傾向が目立つ。興味深いことにインターネットでは古典シリア語の会話講座が流されることがある。また、その運動における復興されたヘブライ語の成功の影響を無視することはできない。
  シリア語はレバノンをはるかに超える広い地帯に渡る。カトリック(マロン教)、ヤコブ派、ネストリウス派などの色々なキリスト教の宗派の聖語となっている。非常に古い時期から南インドのケララ州に住んでいるキリスト教信者(昔は聖トマスのキリスト教徒という名で知られていた)の話し言葉がタミル語と同系であるマラヤラム語なのに、聖語は昔と変わらず古代シリア語に他ならない。最近までその地方の聖職者は、少なくとも礼拝式に参加する程度のシリア語の知識を身につけなければならなかった。学問を修めた僧侶たちがシリア語で自由に文章を書いたり、会話をすることもできた。そのため、十九世紀になるとマラバル(ケララ州の別名)のキリスト教信者をわが宗派に改宗させようとして西洋からインドに派遣させた。そのカトリックやプロテスタントの宣教者たちには古代シリア語の知識が必修であった。しかし、ケララ州の本来のキリスト教集団の間では、礼拝と神学の用語としてその聖語を、州の公用語であるマラヤラム語に取り替えようとする運動が非常に強くなったため、限られた学僧と研究者の間だけにとどまり、シリア語の知識とその重要さの認識が徐々に減ってきたのは事実である。代々宗教を異にするゆえに、同じシリア語を聖語として使っていながら、相互関係がたいへん悪かったこの諸々の宗教集団が、かなりの親近感を抱く様になったことはこの時代の特徴と言えるかも知れない。特に欧米に亡命した人々の場合はそう言える。
  コプト語は国際的な聖語とも称するシリア語とは対照的に、一つの民族と一つの宗派に限られていて、現代エジプト人の一割に達している。周知の通り、コプト語は聖刻文字で表記されていた古代エジプト語と根本的には違わない、聖刻文字からギリシア系のアルファベットに表記法を替えた言語である。紀元後二、三世紀ごろに流布されたこの言葉は、古代の多神宗教の象徴であった聖刻文字から完全に切り離され、そしてキリスト教徒の特別言語となった。文法上、古代エジプト語の最後段階を表記したデモチック文字の言葉に最も近い。三世紀から七世紀にかけて、ギリシア語のキリスト教文献の翻訳を中心として、豊富な文学が生まれた。また、コプト人自身が作った教会歴史、聖者伝に関する文献も多かった。七世紀のイスラムの侵略のため、シリア語の場合と同じく、アラブ語が政権の言語となった後、次第に日常の話し言葉の役割も奪われた。多くの言語学者に依ると、コプト語が息絶えたのは十七世紀ごろであろうが、何人かの学者やコプト人の証言によると、コプト語をまだ話していた農村や家族が二十世紀まで生存していたそうである。いずれにしても、古代エジプト語からのコプト語は、 四十六世紀という世界一の長い生命をながらえた言語である。十九世紀に、コプト教会はコプト語の知識を神父と僧侶の間に再び広げようとし、今世紀の七十年代から積極的な復活運動が生まれた様である。勉強用の録音テープも作られたし、コプト学の国際会議に於いて、コプト語で発表するエジプト人も現われた。イスラム化が過激化したためエジプトから脱出するコプト人が増加し、欧米の国々に住み着くようになった為に、エジプトの国語であるアラブ語との縁が疎くなると同時に、コプト人の自己意識の柱石となるコプトのキリスト教とその聖語なるコプト語がおのずと重視されるようになってきた。コプト人の文化復興の大なる記念ともいうべき、アラブ語、仏語、英語の「コプト百科辞典」が出版された。
  思うに、シリア語とコプト語の現状はイスラエルの国家成立以前のヘブライ語の状態にかなり似ている。母国 の政治・経済的条件のために亡命し、西洋に四散した中近東のキリスト教徒にとって唯一の繋がりを象徴として残すのは聖語しかない。これからこれ等両言語がヘブライ語と変わらぬ素晴しい宗教的、哲学的、詩歌的な文学を生みだすか、あまりにも昔との条件が変わったとはいえ、インターネットで調べられたところでは、曾てなかった大規模の活躍が行われていることは否定できない。それにひきかえ、生存している古代言語の中でサンスクリット語は特別な地位を占めている。ここで挙げる言葉の中で国家によって正式に認められたのはサンスクリット語だけである。戦後、独立したばかりのインドがまず直面しなければならなかった問題の中で、言語問題が決して末梢的だったとは思われない。言語学者によって数百種類の言語を誇り(?)とするこの国に一つの公用語を決定させようと計画しいち早く断念せざるを得ないと見た政府は、ヒンディ語を一応国語と指名しながら、言語的に統一される国家ができるまで十五ケ語を公用語にした。ヒンディ語、ベンガル語、タミル語、テルグ語など、インド・アーリャとドラヴィダの両系統に属している現代言語が主に代表される中で、驚くべきことにそれらと肩を並べて入っているのがサンスクリット語である。なぜ新しい国家がこんなに歴史の逆方向に向かう政策に乗ったかという疑問をインド内外にたちまち生じさせた。その決議の原因として、インドに於ける非常に複雑な言語状態が挙げられる。北方のインド・アーリャ系に属しているヒンディ語を国語にしようとする政策がドラヴィダ地方の南インドを中心に強い反対運動が起こり、その言語の対立を突破する言葉を探さなければならなかった。全国の具体的な用を足すため、止むを得ず植民主義の形見として残っていた英語をしばらく公用語として利用する他に統一する方法がなかったので、政治的にも文化的にも独立した新インドを統一するための要素を三千余年まえ印欧民族がもたらしたサンスクリット語に求めたのは実に珍しい発想であった。しかし實のところ、植民言語の英語と平衡をとる役割を果たす唯一な言葉がサンスクリット語だったことは確かであった。インド学者のピーエル・シルヴァン=フイリョザの言葉を借りると、「サンスクリット語はインドの統一された文化伝統を最もよく象徴するものである」。
  サンスクリット語の現代的発展を遮るいくつかの困難がある。イスラムの侵略から比較的に守られた南インドのタミル地方には話し言葉としてサンスクリット語がバラモン族の間で最も流布されていたが、独立後に台頭してきたタミルの民族主義がまず批判の的に選んだのはタミル民族のサンスクリット化の前衛隊とみなされたバラモン人であった。また、タミル語に入っている数多いサンスクリット語を追い払おうとしている。その新しい過激主義によって、サンスクリット学問のとりでであったタミル州に於いて現在サンスクリット語の状態が危うくなっている。また、各州の学校教育に於いてインド政府は「三ヵ国語制」を実行しようとしている。その政策に随うと、インドの子供たちは学校で三つの言語を勉強しなければならない:すなわち、第一にその母国語(大体の場合、その州の言語にあたる)と、第二に臨時公用語の英語、第三に本当の国語にならんとするヒンディ語の三ヵ国語を学ばなければならない。もしカルカッタの生徒の例をとれば、彼等は英語とヒンデ黷xンガル語を身につけなければならない。こういう「三ヵ国語制」の下では、サンスクリット語はどうしても第四位しか占められず、 その立場が非常に弱くなり、充分な勉強の対象になり難い。
  そういう困難にもかかわらず、サンスクリット語の復活は意外な方面で目に留る。以前から、インド国営放送 局オール・インディア・ラジオが毎日サンスクリット語のニュースを流している上、一社の新聞と児童月刊誌を含めて数多くの定期刊行物も出版され、新しい演劇作品も上演され、流行歌も作られている。現代生活に応じる日常会話を中心とする教科書も編集されている。最近では、ヒンズー教系の過激派が発展するにつれて、宗教象徴としてもサンスクリット語が政治家に重視されてきた。
  インターネットにも関連のサイトがいくつか作られたが、次に言及するラテン語と比べると、サンスクリット語の復興過程はまだまだ初段階にあるとしか言えない。
  現在の段階で、「死語の生存」という現象を最も明らかにするには、敢えて言うならば、間違いなくラテン語 である。インターネットでラテン語のサイトを調べると、他の「死語」とは比較できない程その言葉に捧げられたところが多い事実は否めない。数十箇所のサイトがラテン語で作られている上、独語、英語、仏語で古代ローマの歴史と文化を詳しく紹介するところも非常に多い。同様に出版物になると、ラテン語の定期刊行物は全ヨーロッパで五つぐらいしかないが、詩集は頻繁に出版され、諸国の文学からの翻訳も多い。「死語」の中では、ラテン語が「生きている」話し言葉に最も近い生命力を示していると言っても過言ではあるまい。いわば、話し言葉になる前の段階のヘブライ語の状態にあると言えよう。
  次にラテン語の復活活躍を三種類にしたがって区別することにする。「復活」という言葉自身にもすこし反感 がある。ありていに言えば、ヘブライ語と同様にラテン語の伝統がローマ帝国、いやローマの共和国の時期から絶えることなく一貫して続いてきた。昔から注意された通り、現在イタリアやフランスの中学校でラテン語を勉強する生徒たちは大学で学んだ教授にそれを教わる。その教授にラテン語を教えた教授自身もまた二世代前に学校と大学でラテン語を勉強した人である。また、そういう風に教授と学生の線を遡れば、ルネッサンスや中世を超えて一直線にローマ帝国の時代に至るものである。中国、韓国、ベトナム、日本に於ける漢文教育ももちろん同じく遠い昔に遡れる伝統を保っているが、フランスの場合、十二歳から十五歳までの生徒の四分の一はラテン語を選択するので、まだまだ多かれ少なかれその長い伝統を汲むひとが多い。次ぎに三種類に分けてみる。

a 宗教的な復興

 六〇年代初期に行われた第二バチカン会議の名で知られるカトリック教会の宗教会議のおり、典礼の言語としてのラテン語の使用を廃止したとよく報告されるが、その言いかたは正確ではない。あの当時の決定は、ラテン語の使用と同時に、現在まで原則として望ましくないと見られていた「俗語」、即ち話し言葉の使用をも許すおもむきを示しただけである。ラテン語の使用を廃止する話はまったくなかったのだが、その決定に基づいて、諸国のカトリック教会がだんだん急進的な方向におもむき、俗語を優先的に使うことにした為に、六〇年代から七〇年代にかけてラテン語が教会の典礼からほとんど姿を消してしまった。私の経験から言うと、現在パリではラテン語で行われるミサを聞くことは不可能に近い。ただ第二バチカン会議の決定と現在ローマ法皇の権威を認めない旧派の唯一の教会だけが旧式の典礼を行っている。大衆の目に一番入りやすい儀式の面ではカトリック教会がラテン語を捨てた如くに見えるが、典礼ほど目立たない学問の面では教会におけるラテン語の立場が意外にまだ強いことがわかる。たとえばカトリックの根本的な教義を明確にするように、最近出版されたカテキズム(公教要理)の決定版がラテン語である。ローマ法皇の教書や勅書をしたためる神学者たちのため、現代社会を論じるのに不可欠なラテン語の新語を大幅に紹介するイタリア語・ラテン語辞典の上下巻もまた二三年前にバチカンのラテン・アカデミーの保護下に出版された。
  一九九九年六月に出たアメリカのタイム・マガジンの記事に依れば、合衆国のカトリックの世界では、驚くべきラテン語典礼の復興が行われつつある。九〇年代の始めごろ、全国のカトリックの司教区の中、六つだけがラテン語のミサを許可していたが、現在一三一の司教区がラテン語のミサを行っている、すなわちゼロに近いところから、全体の七〇%がラテン語にもどったことになる。

b ラテン語教育者における復活

 周知の通り、ルネッサンス時代が古典ラテン語に戻ろうとする言語純化主義の下では、なるべく文法的に正しいラテン語を会話にも使う努力がなされるという特徴を示している。その結果、学生を対象にラテン語の対話集が頻りに上梓された。中でも最も有名なのはエラスムスの著わした対話集『コッロクィア』であろう。その後もラテン語教育を中心に組織された耶蘇会の学校でもラテン語の戯曲が一七世紀中に盛んに作られる様になったが、一七世紀以後ラテン語を日常会話に使う習慣を少しずつ失っていった。その変化の一つの理由として、ラテン語教育の言語学化と文献学化を挙げることが出来る。黄金時代(紀元前一世紀)のローマ文学の文体を標準としたラテン語学者は話し言葉としてのラテン語の利用を益々いぶかしく思う様になった。毎日の会話では、言語学者が要求していた高い文法の標準が守られなく、かえって間違いの源泉になる危険性が強いと思われたからであった。故に、現在に至るまで、職業的なラテン語学者の世界では、教育方法としてのラテン語会話がほとんど皆無になってしまった。
  二〇世紀の後期になると、数少ないラテン語の教授と学者がようやく教育の方法としての会話を見直してきた。一番組織的にそれを発展させたのが、疑いもなくドイツのザール大学の学者を兼ねカトリックの神父でもあるC・アイヒェンゼール(Caelestis Eichenseer)先生であろう。先生は長期間かけて企画された「全ラテン語辞典」(Thesaurus Totius Latinitatis)の編集を長年担当しながら、二十五年程前から毎年夏休みにヨーロッパ の二三ヵ国で「生きたラテン語ゼミナール」を組織して、集中講義の形で年齢を問わず全ヨーロッパから集まった二十人ぐらいの出席者に朝から晩までラテン語会話を訓練させる。アイヒェンゼール神父の革命的な方法が少しずつラテン語の会話の復活に貢献しラテン語の専門家の注意を促して、今やヨーロッパの数ヵ所、たとえばドイツ、イタリア、スペイン、ベルギー、スイス、チェコ、ハンガリーなどでも類似したラテン語会話ゼミナールが催される。参加者の数は合わせて毎年二百人を超えるであろう。
  アイヒェンゼール神父の活動は欧州だけでなく、アメリカにも影響を及ぼして、四、五年前から合衆国のケンタッキー大学とミシガン大学で同じ様なゼミナールが組織されるようになった。特にケンタッキー大学のラテン語会話ゼミナールを担当しているT・タンバーグ(Terentius Tunberg)教授は最近の情報技術を巧みに生かして、独創的かつ画期的な雑誌を作った。それはレチアリウス(Retiarius)という題の世紀初めてのラテン語だけのインターネット・マガジンである。「レチアリウス」という題を選んだこと自体もまた非常に面白い。インターネットの「ネット」のほうが英語で「網」を意味するのは言を俟たないものであるが、ラテン語ではインターネットが「インテルレテ」とよく翻訳される。なおレテ(網)を語根にして、「網投げ闘士」という意味の「レチアリウス」をとったのは、インターネットでラテン語のために戦うという気持ちを含むのであろう。この電子雑誌が年に一度ネットに流されて、色々な分野にわたる内容の豊かな記事を流暢なラテン語で全世界に流すのである。ここでは渡部アキヒコ(ラテン語名はAccius)という若い日本人による芥川龍之介の短編「煙草と悪魔」のラテン語訳を記載するに止める。

c ラテン語学者以外の活動

 教会と大学の枠を超えて、目立つラテン語の復興活躍が多くの分野で行われることが「死語復活」の重要なる一面と見られる。特にヨーロッパ共同体が具体化されると同時に、早い段階から現われた共通言語の問題を解決するためのラテン語のもう一つの得点が浮き彫りにされてきた。共同体の参加国がまだ少なかった時代、スイスなどのような多言語国の組織の規模を拡大するだけで間に合うと思われたが、十一ヵ国語が欧州議会で使用されている現在、唯一の通用語の必要性が痛感されてきた。ヨーロッパ以外の世界でも流通語になった英語の力が他の言葉を遥かにぬきんでている今日、欧州共同体も共通語としてそれを選ぼうとするのは当然な傾向と見えるものの、実際はそんなわけに行かない。欧州議会がもともとフランスとドイツの国境にあるストラスブールから、言語対立の激しいベルギーのブリュッセルに移された時、以前の通用語だったフランス語から概ね英語に取って変わってしまった。しかし多くの人には、英語をヨーロッパの公用語にすることがあまりにも合衆国の支配への降伏を象徴しているかのように見えるのを恐れて、最悪の政策として拒否される。それに対して本来のヨーロッパの共通語としてのラテン語に戻ろうとするかなり強い動きが注目される。その動きの源にはラテン語の教授以外の人が多い。たとえば、今ヨーロッパの首都とも言われるブリュッセルには、ギー・リコップ(Gaius Licoppe)という医者が非常に活動的にラテン語を活性化させようと文化センターを成立して、それを「ラテンの家」(Domus Latina)と名付けた(後 Fundatio Melissa)。このセンターはメリッサ Melissa(蜜蜂)と題する季刊誌を出版している。その内容は多様多彩であり、投稿者はディルク・サクレのようなルネッサンス文学の専門家がいれば、ラテン語を愛好する神父、公務員などもいる。ページ数は少ないが、普通の現代語のマガジンを思わせる活発な雰囲気の読み物に違いない。通信購読でしか手に入らないが、全ヨーロッパに読者がいるだ けでなく、インターネットのサイトも作った。
  もう一つの独創的な復活活動として、フィンランド国営ラジオに毎週一回ラテン語のニュース番組がある。十五分間だけの短い番組であるが、現在の世界を反映するのに必要な新語を広く伝える面から見ると、非常に重要な実験となっている。少し性格の違うアラブ語を除けば、ラジオ放送に通常使われる「死語」は恐らくサンスクリット語とラテン語だけであろう。その番組を作った人々の中に、ツオモ・ペッカネン(T. Pekkanen)教授が いる。彼は古代歴史の専門家である上、フィンランドの国家叙事詩カレヴァラを見事なラテン語に翻訳した人で ある。この翻訳は恐らく二十世紀のラテン文学の傑作と呼んでも過言ではなかろう。一九九八年には、スペイン文学の象徴ともいえるドン・キホーテの全文もラテン語に翻訳した。また、パリのあるラテン語の教授がこれからマルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』をラテン語に直す意図を述べた。
  ラテン語をより一般的に広げるため、読み易い読み物をなるべく多く翻訳するのがいい手段と見られた。中には年少者にも親しみやすいのが漫画である。ピーナツのスヌーピー(Snupius)、ミッキー・マウス(Michael Mus)、ドナルド・ダック(Donaldus Anas)の漫画がかなり面白く翻訳されただけでなく、タンタンの冒険が二冊とガリア人アステリックスの冒険が二十冊ほど見事に翻訳されたことも注意されたい。後者の翻訳者は、なるべく楽しい方法で中学生がカエサルの『ガリア戦記』をたやすく原文で読める程度まで導くことが目的で、カエ サルの文体を模倣してその漫画をラテン語に直したわけである。ヨーロッパ中の中高生がその翻訳を読んでいる。むしろ、先生や親が子供に無理にそれを読ませようとするといった方が正確かも知れないが、いずれにしても他のラテン語の書物よりはるかに読まれている。
  最後にエルヴィス・プレスリーの名曲をスメル語だけでなく、ラテン語にも直して、CDに録音したフィンランド人のことを挙げるだけに止めよう。

其の二

東亜の諸言語と漢文

 今までの話では、古典中国語(漢文)を含めて、いわゆる死語の生存と復活というものが一見珍しい文化現象に見えるが、かいつまんで言えばユーラシアの東西両端に渡る文化の一面に過ぎないという事実を明らかにしようとした。西から東へと順に、ラテン語、シリア語、サンスクリット語の諸言語が、規模において多少の相違があるにも関わらず、類似する復興の姿を現しつつある。これから、話の後半では、焦点をしぼり日本における漢文の地位と可能性を考えて行きたいと思う。
  前文に挙げた諸々の例から見て、日本文化の中における漢文、そして韓国・ベトナム両文化における古典中国語(韓国ではハンムン、ベトナムではハンヴァンと発音する)を代表として、一般的に言えば極東における中国の「文言」の過去の普及と現在の生存は世界的に珍無類な現象でなく、ユーラシアの諸文化圏にて通常に現われた文化生活の不可欠の一面と認められていいものである。ユーラシア文化の一面として見られるようになれば、漢文の復興と教育が新しい意味を浴びると私は確信している。又、今までの長い歴史の延長で、未来のために漢文の果たせる役割を改めて文学、学問、国際関係の諸分野においてかつてなかった新しい活動範囲に進む方法を敢えて紹介したいと思う。

現代日本語のジレンマ

 本題に入る前、現代日本語についての一考察を述べたい。
  現代日本語、特に二十世紀末の超現代日本語の現状を論じ出したら話が長くなる恐れがあるので、それを避けたくも、これからの漢文教育という問題とは無関係でないので触れざるを得ない。日本の評論家、作家、国文学者、場合によって言語学者にも国語の現状についての意見を聞いてみると、皆口を揃えて「日本語が乱れている」と忽ちにその言葉が返ってくる。言葉が乱れるという表現がいったい何を意味するのか私にはよくわからない。文法上の問題であろうか。よく挙げられる例を顧みると、「見られる」か「食べられる」の代りに「見れる」、「食べれる」というのは、果たして言葉が乱れている証拠と云うべきであろうか。どちらかというと、受動態と可能態を区別するのが、言葉が乱れるよりも正確になると言ったほうがいいのではなかろうか。また、「犬に餌を上げる」という言い方が誤りであり、「餌をやる」といった方が正しいとよく言われるが、会話上の調子の変化に過ぎないので、決して文法上の混乱とみなすことはできない。一番厳しく批判されている敬語の現代的使い方もどうしても文体上の問題だと思える。生きる言葉は当然なこととして常に変わりつつあるものである。ただその変わり方の規模と速度には多少の相違があるのみで、変化することだけは確かである。「死語」も変わるものである。八世紀、十三世紀、十六世紀、二十世紀に書かれたラテン語の文章を比較してみれば、それぞれの特徴と相違が著しい。サンスクリット語、ヘブライ語、漢文でも同じである。「乱れる」という、強い非難の色を浴びた単語を口にする前に、どういう角度からこんな判断を下すかということを充分に意識する必要がある。
  ここで現代日本語に関して、確かに「混乱」という単語を使ってもいい一面を少し念を入れて考えてみたいと 思う。それは外来語の問題である。新語を作るため、また新しい技術品を名付けるため、ある言語が他の言語の語彙を借りるという現象は文字の歴史が始まって以来常に行われたものである。また先にも書いたように、「聖語」という現象と密接につながっているものである。ラテン語はギリシア語から、ペルシア語はアラブ語から哲学、宗教、科学に関する単語をたくさん受け入れた。現代の諸言語は新しい発明を名付けるために、最初はそれぞれの文化圏の「聖語」に当たる言葉に求めた。ウルヅ語はアラブ語やペルシア語にたよるのに対して、ヒンディ語はサンスクリット語を拠り所にしてきた。また東南アジアのもろもろの言葉、タイ語、カンボジア語、ラオス語、ビルマ語、ジャワ語などもサンスクリット語(パリ語とならんで)を指南にしたと同様に、日本語、韓国語、ベトナム語は古典中国語・漢文を新語造りの拠り所にした。
  漢語を以ての新語造りが明治維新のころから始まったとよく言われるが、実際のところ早く江戸時代、蘭学、即ちヨーロッパ医学が輸入される時から始まった。さらに一九世紀の終から、日本で作られた漢語の新語が中国を始めとして極東大陸の全部に普及したという事実はよく知られている。「電話、経済、癌」などの新語彙の大部分がまだ使われているということ自体はその単語造りの成功を物語るものである。そういう画期的な業績は、日本文化と漢文の長い共存をないがしろにすれば理解しがたい。
  ここでR・A・ミラー氏の指摘した日本語と古典中国語の関係の特徴を挙げる必要がある。氏の意見によると、日本語彙における中国語の借用語の歴史的関係が「全面的な活用性」(total availability)という一言で総括される。中国語のどんな時代のどんな単語も日本語、特に日本語の書き言葉の中に取り入れられる可能性があるという意味である。極端に言えば、日本人にとって中国語からの借用語が本当の意味の外来語でなく、また中国語そのものも外国語と見られるというよりも、(中国語の話し言葉は別として、圧倒的に書き言葉に限られるが)むしろ中国語は日本人が自由に汲める無尽蔵であり、日本語の上層次元であるからである。古典中国語の作品に出る単語ならば、日本語で書く人がそれを自由に使えると自覚している。その単語が分からなければ、書いた人が難しい語彙を使いすぎて悪いということでなく、その難しい単語を知らない読者自身が悪くて、自分の勉強不足を恥じるべきなのだということであった。これは正に「聖語制」なのである。ある言語の上に、もう一つの言語があって、後者を熟知するのが本当の学問とされているような文化関係を特徴とする。
  日本語と漢文の従属関係については、先にも見た通り、他にもよくある現象である。政治的な従属でなく、文化的な従属を反映するものである。ある程度までギリシア語とラテン語の関係によく似ている、すなわち政治的にローマに降伏したギリシアが文化的にローマを支配するようになった。ホラチウスという詩人が書いたように「征服されたギリシアが獰猛な勝者を征服してしまった」。ローマ帝国の時代、ヨーロッパの指導階級がみなラテン語の傍にギリシア語を身につけていた。もはや権力がまったくなかったギリシアの言葉の知識は高い知的、社会的身分の象徴であった。数世紀が経ってから、同じ古代ギリシア語の単語を使って、新しい科学上、技術上、思想上の観念を名付ける過程に大いに役に立った。Telephone, telegram, antibiotics, psychoanalysis(ここ で日本人読者の便宜をはかるため英語の綴を使う)等々は皆ギリシア語の語根を基本にした新語であり、それは古代ギリシア人の科学と技術を遥かに超えた発明であった。ラテン語も同様に生かされた。たとえばvitamin, informatics, subconscious, computer 等はその類である。こういう新語彙の大部分はギリシアとイタリア以外 の国の学者が考え出したものであり、現代ギリシア語とイタリア語に再輸入されたものであるので、その国とその言葉がそれぞれ全く離れて独立したものになってしまった。新語造りの為ならば、ギリシア語とラテン語が西洋全体の共有財産になってしまったとも言える。最近は英語(米語)の話し言葉も科学的新語を生みだす様になった(Big Bang, by-pass, software)が、ギリシア・ラテン語程他のヨーロッパ言語に簡単に移行しない。たとえばフランス語はビッグ・バンを受け入れたとは言え、バイパスをpontageにし、ソフトウェアをlogicielに直して、本来の英語単語がほとんど使われない。
  日本語の場合、二十世紀の後半には規模として珍しい現象が目立ってきた。中国語(漢文)に替って英語の語彙が全体的に利用される様になった。昔の漢語と同じく、現在英語のどんな単語もそのまま(片仮名を通じて)日本語として利用される可能性を得た。それを知らない人は憤慨するどころか、むしろ自分の知識不足を恥じる、という妙な状態になってしまった。一九八〇年、早稲田大学にいた頃、私はそこで日本語を勉強していた二人の中国人の通訳者と知り合ったが、二人とも口を揃えて、これから英語も身につけることを決心したと言った。何故なら、もっぱら中日通訳・翻訳の訓練に没頭していた彼等は、英語の知識なしでは普通の日本語の文章、演説も完全には理解できないという事実に悩んでいたからであった。日本語における英語語彙の全面的活用性(さきに言及したtotal availability)のせいで、現在日本語を熟知するのに、英語も充分に知る必要があるという珍しい状態になってきた。恰も昔の漢文の代りに英語が移ってきたと言える。
  こういう妙な状態は、植民時代の名残として英語を公用語に指摘したインドやフィリピンを除けば、東アジアには珍しい。現代中国語の新語の大部分がいまだに「文言」を拠り所とする。「リモコン」を「遥控機」、「コンピューター」を「電腦」、「ロボット」を「機械人」、「ヴァーチュアル・リアリティー」を「虚擬實景」等々と呼ぶのはなかなか想像ゆたかな工夫であり、中国語の常識だけで誰でも意味が分かる。また、明治時代の日本人が英語のclubの様な単語をそのまま借用した時でも、片仮名の代りに何となく意味のある漢字を当てて「倶樂部」(倶に楽しめる部屋)を造ったと同じ様に、現代中国語の舶来語もなるべく中国語なりの意味を伝える漢字を使おうとしている。有名な例には「ミニスカート」を「迷■裙」(君を迷わせるスカート)や、「ウイスキー」を「威士忌」(威厳のある紳士が忌むもの)が挙げられる。
  世界的に恐怖を起こしたエイズの借用の仕方も中国語と日本語は対照的である。英語のAIDS(実は頭文字の組 み合わせ)は日本語ではとても不充分な片仮名で表わされている。特に[dz]という子音連続を正しく表わすのが不可能なので、翻訳した方がよかったと思えるが、中国語でも同じくその英語の音を正確には写せないのに、その不便を漢字の巧みな使い方で補い、「愛滋病」という新語が使われた。最初の二字が音を表わすと倶に、「愛の繁盛から起きる病」というような意味を伝えることもできる。擬日本語の「エイズ」が前もって説明されないと一般の人には不透明で理解されない、それにひきかえ中国語の新語はそれを初めて見る人にとってもかなりの程度までその意味の範囲を直接に伝えることが出来る。
  二〇〇〇年のオリンピックの折に気がついたもう一つの例を挙げたい。「アーチェリー」という様な片仮名語 が頻繁に使われることが気になって、周りの日本人に(確かに運動に疎い人が大多数を占めたが)意味が分かるかどうか聞いてみた。教育の程度を問わずに(むしろ年齢による差があるようであるが)まったく分からない人が意外に多かったことに驚いた。いったい何故「洋弓」という単語を利用しないのか分からない。「要求」と混同される嫌いがあるからであろうか。しかし、話の内容から(特にオリンピックの報告の場合ならば)また文法構造から見ても、両単語を間違える危険性が非常に少ない上、新聞や雑誌の書面報告なら、誤解の可能性が完全になくなってしまう。もし同音異義が本当に問題であり、音でも区別する必要を感じるならば、「洋弓術」か「西洋弓術」というだけで困難は解決するであろう。ついでに申し上げると、韓国のテレビや新聞ではやはり「洋弓」(ヤングン)を使う。
  日本の漢語の代りに外来語を片仮名で使う傾向が同音語を避ける、という合理的な意図にもとづくものと反論する人もいるので、次の例を取り上げて考えてみる。

  1. エアコン > air conditioner
  2. ボディコン > body conscious
  3. リモコン > remote control
  4. ロリコン > Lolita complex
  5. パソコン > personal computer
  6. クルコン > cool conservative
  7. コンカジ > convenience-store casual (clothes)
  8. アイコン > Private Eye Writers' Convention(アメリカの推理小説作家大会、日本人の推理小説の好事家が使う言葉)

 以上の八カ例のほかにまだまだたくさん並べられるが、今のところこれだけに止める。この八単語に現われる 「コン」の一節はそれぞれ違う、「コン」という接頭辞を含む八つの言葉の略号であることは一目瞭然である。極端に言えば、立派な日本語になったこの諸単語は漢字の意味上の便利さを捨てて、アルファベットの便利さも捨てられた舶来語に過ぎない。それを半分以上冗談として作られた新語とみなした方が適当かも知れないが、もし同じ原則に従って新語を造ってゆけば、日本語の語彙がどれほど曖昧で二流的なものになってしまうか想像できる。

 話を少し広げてみよう。現代日本語に溢れている英語(片仮名語)の借用ぶりがほかの文化国と比べて異常と言ってもいいほどの現象が見られるという事実の裏には、一種の論理があるのではないかという問題を考えてみたい。代表的と思われる三つの例から話を進めたい。
a シビリアン・コントロール。正直に言えばこの言葉を初めて日本で聞いた時、私は意味を完全に誤解してし まった。何となくシビリアンの音がシベリアと関係があると思い込んだので、昔シベリアで醸された陰謀かなんかのことなのではないかと思った。映画かスパイ小説にはいかにもふさわしいタイトルのようにそれをとらえた。シビリアンが英語のcivilianを表記したものとわかった時、まず可笑しく思った。日本語に書き表せない三つの音(国際音標文字で書くと[si],[v][l])を含んでいる単語をなぜわざわざ片仮名に直す必要があるのであろうかと不思議に感じたからであった。「市民管理」が果たして何故いけないのであろうか。数少ない新聞記者、評論家、知識人などを除けば誰もわかるはずもない「シビリアン・コントロール」という抽象的な単語が使われる理由は非常に単純なのではなかろうか。「市民管理」と書けば、誰でもその観念の内容がわかる恐れがあるためそれを避けようとするのではなかろうか。すなわち、一般の市民たちが「市民管理」を真面目に実現しようとするのが望ましくないから、不透明な片仮名語を利用して、それを弄ぶのが安全だという潜在の意図があるように思えてならない。「市民管理」と書けば、具体的な提案をする必要になるので、面倒くさい、と思うので あるが考え過ぎであろうか。
b プライバシー。前に述べた例よりも「プライバシー」の場合が率直である。テレビなどでタレントか俳優の プライバシーが侵害されたとの記事を見るにつけ、常に浮かんでくる疑問がある。日本人の判事たち自身が本当に片仮名語の「プライバシー」そのままを使うかどうか。英語のままそれを使うならば、その法的内容はいったい誰が決めるのであろうか。アメリカ英語の意味をそのまま受け入れると理解してよいのであろうか。アメリカは州ごとに法律が多少違うので、日本法律のプライバシーの定義はどこの州に随うのであろうか。なお、日本語では「私生活」という非常にわかりやすい熟語があるのに、今流行しているその言葉はもっぱら不透明な「プライバシー」である。これも私の早合点かも知れないが、マスコミの観点から見れば、日本語の「私生活」は日本の一般人には分かり易過ぎるという嫌いがあるのではないかと思う。なぜならば、個人の私生活を守ることが絶対不変の権利であるとすれば、日本のテレビや週刊誌が毎日のように犯している私生活の侵害は直ぐさま中止しなければならないということになるであろう。そういう点から見ると、イタリアとフランスの対比を考えると面白い。イタリア語とフランス語が非常に近いにも関わらず、フランス語が日本語の「私生活」に文字通りに近いvie prive・を前から使い続けてきたのに対して、イタリア語にはフランス語の直訳としてのvita privataがあるのに、最近は英語のままprivacyが著しくはやってきた。なおフランスでは情報手段における私生活侵害の法律は他の国に比べて非常に厳しい。アメリカの大統領や日本の首相が嘗めたような、不倫関係に基づいた醜聞事件はとても起きそうもないのであり、またイタリアや日本のように俳優、女優、歌手などの離婚騒ぎのニュースは本人の許可なしでは報道されない。まさしくはっきりした「私生活」という単語が生きている国では、個人の生活の権利が一番厳格に守られていて、「私生活」の代わりに、漠然とした外来語の「プライバシー」が流行っている国では、私生活そのものが特別に尊敬されていないといっても過言ではない。誰でも理解できる「私生活」 の権利を主張するならば、一九九九年の春から夏にかけてテレビや週刊誌でいやになるまで報道された「熟女合戦」を想像することができる。「プライバシー」と抽象的観念から「私生活」の次元にもどれば、マスコミだけでなく、それを味わう一般の大衆、すなわち市民たちがその権利の本当の意味を改めて考えるのではないかと思う。
  ついでに、アメリカでもプライバシーの観念がさほど古い伝統に基づくものでなさそうである。一九六五年出 版のWebster's Seventh New Collegiate Dictionaryという辞典でprivacyを引くと、今日いちばん流行っている 「私生活」の意味が全く載っていない。
c セクシュアル・ハラスメントという片仮名語も典型的な語彙上の悪用の見本の一つである。先の「プライバシー」と同様に、この単語の法律上の内容はどこで決められるかという問題がおのずから起きる。合衆国で発生したこの観念と言葉は果たしてそのまま他の国に移せるのであろうか。日本で流行った「セクハラ」という略語は確かに面白いが、一般的に冗談に用いられがちなので、「セクシュアル・ハラスメント」よりも曖昧であり、むしろ事実上のいやらしさを隠すためには逆効果になる。ここにも、日本語の「性的嫌がらせ」という熟語を利用する方が適当と思える。日本人なら誰でもわかるという利点を有する。「セクシュアル・ハラスメント」や「セクハラ」が日本人の語感から意味的には内容が乏しいからこそ、誰でも想像逞しく自分なりの意味と解釈を加えたりする傾向が自然に現われる。たとえば、ある日本人から聞いた話であるが、男が女性に対して「あんた」という言い方を使えばセクハラとされるそうである。その話が本当かどうか分からないが、もし正確な日本語を使って、人を「あんた」と呼ぶのが「性的嫌がらせ」という違法行為になると言えば、それほど簡単に納得できないと思える。
  ここで片仮名語の妙な例を三つだけ挙げたが、他にもたくさんある(モラル・ハザードなど)。それで外来語 の使用がより正確な表現を与えるためでなく、むしろ曖昧な、漠然たる、意味のない言葉を使うことによって、本来の観念をぼかすために選ばれる可能性が強いことを証明しようとした。
  残念ながら、そういうような説明があまりにも合理的なので、日本語における外来語の氾濫を完全に理由づけるには足りないということを痛感せざるをえない。理性がなかなか届かない動機も潜んでいると思える。京都の市バスで、年寄りや身体の不自由な人のために、町の中を簡単に動き回ることの出来るよう新しい施設を紹介する宣伝に気がついた。その新施設の全体を「タウン・モビリティという名前で呼んでいるらしい。私は日本人でないからそれに当たる上手な日本語表現を考え出せないが、「動きやすい町」の様な意味だろうと思う。なお「タウン」はともかくも、「モビリティという単語をいったい誰が分かるのであろうか。そのキャンペーンのおもな対象であるはずの老人は中高年時代に英語を勉強した人が多いかも知れないが、日毎にそれを練習するわけにも行かないので、大部分の語彙を忘れて「モビリティの意味をすぐには理解できないかも知れない。片仮名で書いていることから見ると、まさか外国人の観光客のためでもなかろう。
  そこで微妙な比較がふと頭に浮かんでくる。カンボジア文化史の専門家を久しく悩ませてきた謎がある。それ はなぜ数多い古代カンボジアの史跡に刻み込まれた石碑がカンボジア語でなくて、サンスクリット語で認めてあるのか、という疑問である。極く限られた人数を除けば、カンボジア人は遠い国インドの聖語であったサンスクリット語に不案内であった。その石碑の文章を作ったのがカンボジア人でなくて、朝廷に招かれたインド人のバラモンであった可能性が強い。もし当時(紀元後六〜八世紀)の東南アジアではサンスクリット語が国際語だったことが原因であると言えば、なぜインドの文字でなく、カンボジア人にしか通じないカンボジア文字で表記されたのかという疑問が生じる。カンボジア人のためでもなく、インド人のためでもなければ、その石碑文は誰を相手に刻まれたのであろうか。ある学者に依ると、誰もわからないその文章の目指している相手はほかでもなく、 ヒンズー教の神々(デヴァ:諸天)、すなわちこの世を超えた存在者であった。こういう超自然的存在にふさわしい表現がサンスクリット語にしかないという考えから発生した現象である。おそらく、「タウン・モビリティという、日本人が分からなく、外国人が読めないスローガンが選ばれたのは、プロテスタントの神様「ゴッド」の注意を引くためであったのではないかと考えたくなる。
  同じ発想から生まれた習慣かどうか決定し難いが、最近妙な傾向がはやってきた。日本文化風俗の非常に代表的と思われるもの、それも昔から日本語で名付けられたものをますます英語に基づく片仮名語で呼ぶ癖が頻繁になってきた。たとえばあるところでは武道が「マーシャル・アーツ」といわれ、華道が「フラワー・アレンジメント」といわれるようになった。なかにはたいへん逆説的としか思われないものもある。この二十年にわたって欧米に普及した日本の漫画の流行りには驚く程の風雲の情勢を示している。英語とフランス語を始めとして、ローマ字のmangaを国際語にしたのである。同時に、漫画の本場、日本の書店を訪れてみると、不思議な発見をする。「推理小説」、「時代小説」云々の名札の内では、もう「漫画」という単語が見えなくなって、ほとんど全部「コミック」に変わったということである。全世界が漸く「漫画」という日本語を覚えて自由に使う時期に、日本人の方がその単語を捨てて、代りに英語にしてしまった論理はどうしてなのか分からない。国際化の独創的な理解に基くものであろうか。
  時々、その不条理としか思えない言語政策を次の理屈を以て説明しようとする人がいる。日本人の大部分が英 語に疎いので、なるべくたくさんの英単語を日本語に無理に入れれば、日本人が無意識にも少しずつ英語を身につけるのであろう、とのことらしい。その理屈が根本的にまちがっていることを証明するに及ばないと思うが、敢えて証明する必要があるならば、ここにそれについて一言をいっておこう。
  まず音声学上の問題がある。日本語と英語の間では、完全に合致する音がほとんどないと言ってもいいすぎで はないと思うのだが、母音の場合みなそれぞれ違う。英語音声の特長である二重母音化のせいで、日本語かイタリア語の純粋母音の様には、共通なるものはあまり存在しない。また、英語に溢れている子音連続(cl,pr, ct, blなどの類)は仮名を以て表記できない。もし片仮名語の「トラブル」を、日本語の分からない英米人に向かって言ってみれば、彼が本来英語のtroubleのことだと気がつく可能性は少ない。若し正確な英語を覚えようとすれば、偽りの共通感を与える片仮名語を避けることを第一条件にする。その錯誤を超えて、英語が日本語と関係のない外国語だと覚悟してから初めてその勉強に正式に着手することができると思う。
  一方、外国語を覚えるのはただ単語を連ねることだけではない。語彙よりも、文法と構造を正しく理解する方 がはるかに重大である。片仮名語をたくさん知っている日本人が、それを並べる(しかも日本語の順序にしたがって並べる)だけで何とか英語らしくなるだろうと思うらしくて、とんでもない文を組み合わせてしまう。テレビで、あるアメリカ人の教授が取り上げた例をそのままここで繰り返すが、車やトラックに張ってあるもので、「アイドリング・ストップ」というスローガンがよくある。その文を作った人の意図がはっきりしていて、「エンジンの空転を止めましょう」というつもりなのであろうが、実際の英語から言えば、まるで反対の意味になってしまう。"Let's stop idling"のような言い方が適当だと思う。「アイドリング・ストップ」は変な英語だが、確かに「空転しながら止まっている」という意味にしかとらえられない。
 以上の二つの理由だけでも、片仮名語の理不尽な舶来が英語の習得にも、日本語の表現力においても害しかも たらさない習慣であることが明白であると思う。日本語と比べて外来語の使用を自動的に制限している中国人と韓国人は平均的に英語が上手という話をよく聞くが、その理由はまさに自分の母国語と英語との差異を明晰に意識しているという事実にあるのではないかと思う。逆説的に言えば、英語の習得への鍵はほかならぬ自らの母国語の熟知である。その熟知に達するため、漢語と漢文が今でも不可欠である。

日本式漢文に対する批判

 日本漢文独特の訓読みが原文漢文を翻訳するどころか、むしろ本来の意味を曲げてしまうという嫌いがあるので、それをあっさりと捨てて、中国の古典文学を直接に現代中国語で読んだ方が正確に意味をとらえるという批判をしばしば耳にする。それに対して、二通りの注意をしたい。
  まず、この批判は日本において日本人によってしたためられた漢文文学にはもちろん当たらない。この場合、 日本式の訓読みで読まれた方がふさわしいと言わざるを得ない。それを現代中国式で読むと大きな誤解を招く恐れがある。ただし、先にも述べたように、明治時代まで日本でも漢文で書かれた文章が少なくとも仮名で書かれた文章と同じ量であるので、日本文学の一部分として漢文を扱わなければならない。日本文学を勉強しようとすれば、漢文訓読の知識が必要なので、自国の文学を正しく理解するだけでも、欠かすことのできない準備知識である。
  日本の読み下しは非常に古い注釈に基づいているものとして、それなりの価値を有している、言わば即席解釈 法とみなしてもいい。現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない。この事実を無視して、北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読対北京語である)。それは間違っている。実際はどこの音読でもよい。日本語の語順による訓読、読み下しはある程度まで一種の翻訳とみなしても良かろう。音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、 日本の呉音と漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある。
  また厳格に言えば、北京語に依る音読は他の発音に依る音読と比べると、古典中国語の正しい理解のためには特別な欠点をいくつか示す。その欠点は発音や文法に関するものである。
  発音上の問題は皆北京語の音声磨滅に依るものである。現在生きている多数の漢字の発音の間では、いちばん 極端な磨滅を被ったのは異論の余地なく北京語である。典型的と思える例には「易」という字をここで挙げるに止まろう。その発音(または音読)は意味を区別するにしたがって二通りある。日本語の場合、「容易」の熟語の様に、「やすい」という意味を示す「イ」と読ませる。また「貿易」の様に、「かえる」の意味を表わす「エキ」(それは漢音であり、呉音は「ヤク」になる)とも読む。なお日本語以外の漢字文化圏の言語と方言を調べると、皆がその音読の区別を厳密に守ってきたことがわかる。たとえば韓国語のiとyeok、ベトナム語のdeとdich(便宜上、ベトナム語の声点と韓国語の区別符号などをここでは省略する)は日本語の「イ」と「エキ」の発音をきちんと反映するものである。広東語、台湾語なども同様である。驚くことに、その区別を完全に失った漢字文化圏の唯一の言語はほかでもない北京語そのものである。
  若し中国古典文学をできる限り元来の音に近い発音で読んで鑑賞しようとすれば、現代の北京語に頼るのは決 して正しい方法ではない。むしろ、前の例で分かるように、北京語を除けば漢字文化圏のどんな音読を使ってもよいが、一番ふさわしくて忠実な方法は一つしかないと思う。それは中国語学者が数十年をかけて、細かい音声学的調査の結果復元した古代・中世の音声系統に従って読むことである。もはや欧米の専門家だけでなく、中国・ 日本の学者の間でもその学問的な習慣が広がってきた。若し文学的な趣味を持ち、学問的、歴史的な関心を元に、中国古典を読もうとする人であれば、それらの学者と同様に復元された発音に従い口述するのが大切である。さもなければ、北京語と異なり語尾の子音をしっかりと表記すればどんな発音でもよろしい。言うまでもなく、日本語の呉音と漢音も他の発音に劣らない一つの音声系統である。ただ肝心なのは旧仮名使いを拠り所にすることである。何故かといえば、旧仮名使いだけが昔の大陸で流行っていた発音を正確に反映するからである。たとえば「立」の字は音読が現代の発音では「リュウ」なのに、旧仮名使いは「リフ」である(「リツ」は慣音だからここでは言及しない)。語尾の「フ」が[p]を表すものとして、韓国語の[r]ip、ベトナム語のlapという発音ときちんと相応する。北京語のliはまた系統外である。「法」や「業」等々の場合もそうである。それらの例から見れば、古代中国音声学の専門家でない人には、日本の旧仮名使いに依る読み方が復元された発音にかなり近いものとして非常に貴重なヒントを与える。
  中国人も好んで言うことであるが、漢詩の音を充分に味わうのに、北京語でなく、今でいう「方言」の発音に 従って詩を読むべきである。更に進んで、唐詩ならば広東語、六朝詩ならば台湾語(閔南話、即ち福建語)で読む方が最適だと強調する人もいる。
  こういう考えを元にして、今は亡き吉川幸次郎先生の玉書「漢文の話」で挙げられた例を改めて論じたいと思 う。杜甫のかの有名な絶句を日本式の訓読と北京語の両読み方を対照させて、後者の方が詩のパトスを深く把握 させることを述べる。ここでこの詩を日本式の漢音で読んでみよう。

江碧鳥逾白     カウ ヘキ テウ ユ ハク
山青花欲然     サン セイ クヮ ヨク ネン(ゼン)
今春看又過     キン シュン カン イウ クヮ
何日是歸年      カ ジツ シ キ ネン

 もはや北京語に現われない微妙な響が目立ってくる。起句の「碧」と「白」(北京語のbiとbai)が実は近い音であり、冒頭音のb(即ち日本語のハ行)だけでなく、語尾音のk(日本語のキとク)の音でも相応していることが興味深い。両字を呉音で読めばなおさら近い。すなわち「ヒャク」と「ビャク」になるのである。また、 「燃える」意味の「然」の字を元来の音読「ネン」(呉音でもある)で読むと、承句の「然」と結句の「年」は、北京語と違って、両字の音韻が完璧になる。ついで述べてみると、「鳥」の旧仮名使い「テウ」が(現代北京語のniaoに対して)古代発音teuをそのまま顕わしていることも注意に値するものである。
  そういう数々の点から見ると日本式の漢音と呉音と、北京語の発音を比較してみれば、日本の音読がいろいろ の細かいニュアンスを顕わすもので、古典文学を鑑賞するのに決して見逃すことが出来ない。
  中国古典の『文言』を現代北京語で読むべしという、日本で定説になりつつある意見には、もう一つ、文法上 の困難がある。北京語で読めば文言の文法構造が分かりやすくなるというものの、やはりもう一つの錯誤というしかない。北京語の音声系統と同様に、歴史的情勢を考えてみると、北京語の文法構造が他の中国系の「方言」と比べて、厳しい変化過程を経て非常に遠ざかっていたと認めざるを得ない。
  この点についてはオカダ・ヒデオ氏(原文はローマ字)のような言語学者の意見が代表的と思われる。オカダ 氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は一七世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。二百年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する。オカダ氏の言葉を借りると、清朝の北京の話し言葉であった北京官話が「ほかならぬ強くアルタイ化された中国語の一形であり、北京官話にさかのぼる現代中国標準語がアルタイ諸民族のいちばん重要な遺産である」また、「今日の中国標準語は実のところアルタイ系満州人の言葉である」。言語学者でない私には、こういう風に表現されるオカダ氏の意見がやや強すぎて、言語上の事実をどこまで正確に反映するか疑わしいが、他の数人の専門家がそれに近い説を支持しているということから見ると、 討論せずにそれを拒絶するのは全く許されないかも知れないが、所詮、現代北京語と文言が歴史的、言語的につながっている事実は否定し難い。また音声上満州語の影響があったかも知れないが、文法上のアルタイ的要素はあまりない。特にアルタイ語系の特徴がやはり文における動詞の位置にある限り、その観点からすれば、北京語がアルタイ系言語とされにくいのではないかと思える。
  ただ、このような言語学者の意見が、文言(漢文)と現代中国の諸方言の間では非常に大きな溝があるという 事実を意識させる役割を果たすだけでもよかったと思う。文言との差異から言えば、北京語、広東語、上海語、台湾語などさほど違わないかも知れないが、文言の勉強にはよい結果をもたらす方法が一つしかない、すなわち文言として、後期の諸方言から独立した文法系統としてそれを習得するという方法。先に言及した音声の問題と一緒に、文言は文言の枠内で研究されるべしという結論を繰り返した。
  ここに上海で出版された非常に便利な『文言読本』の前書きの一、二行を引用したい。まず中国語の原文: 「…我們認為、在名副其實的文言跟現代口語之間已有很大的距離。我們學習文言的時候應該多少採取一點學習外国語的態度和方法、一切從根本上做起、處處注意它踉現代口語的同異…」、敢えて日本語に翻訳すれば、次の意味になる:「本物の漢文と現代口語のあいだにはたいへん大きな距離があるとわれわれは思う。漢文を勉強する時、外国語を勉強するような態度と方法を取らねばならないものであって、すべて基礎より初め、ところどころ現代口語との相違に注意するべきである」。現代中国語と漢文(文言)を別々のものとして勉強するのは一番確かな方法である。
  これまで、日本式漢文を排して、現代中国語を媒介にして古典中国語(文言)の勉強を進めることに反論したのである。
  また、日本でよく耳にする、もう一つの観点から起きる批判がある。日本式の訓読、いわゆる読み下しの文体 が聞き辛くて、現代日本人の趣味に向かない、という意見である。論語を読む時、「マタヨロコバシカラズヤ」、「ソレコレヒトノコレヲモトムニコトナルカト」、「シラザルベカラズナリ」のような台詞にぶつかって歯痒い感じがする現代読者も多かろう。逆に、懐かしく思う人も少なくないということも想像しやすい。客観的に判断しようとすれば、私としてはその独特の漢文調子に少なくとも一つの利点を認めざるを得ない。書面では漢字が仮名まじりなしで並べてあるのを見ると忽ちにそれが日本語でなく、漢文だということが分かると同じく、耳で聞く読み下し文調子の日本語がすぐ漢文の文章の引用であることを明白にし非常にありがたい。北京語で文言を引用すれば、違う語彙と文法がはっきりと文言の文言たらしめることを示すと同様に、日本語の口語と文語とはっきり区別される漢文調子のため、漢文の独創性が文字だけでなく音でも浮き彫りにされるものである。何と言っても、現代人にはくどく響く読み下し調子が漢文を日本人に親しませた貴重な道具であるから、気軽にそれを捨てるわけにいかない。一般人が慣れていないから変に聞こえるだけで、漢文文章を好んで読む人ならば、その文体を可笑しく思わないことは言うまでもない。
  また、訓読というのは固定されたものでなく、日本語の文体の一面として歴史のなかで長い道程の後発展した 結果、現代の形になったということを繰り返す必要がない。大ざっぱに言えば、訓読の歴史は二つの極端な困難を避ける過程とみなしてもいい。一つは逐語的な直訳である。その典型的な例はやはり「文選読み」という方法であろう。漢文を原文の二字ずつで読んで、二字の音読を挙げた直後、同じものを訓読で読むという習慣が平安時代では『文選』を始めとして、いくつかの古典で行われたので「文選読み」と呼ばれた。この読み方は後期の漢文学者の批判を浴びてからあまり使われなくなったが、時々『千字文』の様な、文法的に比較的簡単な文章を解読する場合、まだそれに頼る古風好きの人もある。たとえば『千字文』の冒頭の文「天地玄黄」を「テンチのあめつちはコウコウにしてくろきなり」云々と読むのはそれである。訓読として文選読みの価値が非常に低いのは論を待たない判断である。
  文選読みの正反対の方法は意訳としての訓読である。一定した数個の語句を繰り返して使い、熟語を常に音読 で読むという、普通の日本語から見てやや無理な句形としか感じられない読み方を避けて、なるべく自然な文語体に漢文の読み下しを選ぶことである。漢文の「意訳訓読」の一番有名な例はおそらく大江匡房の語る逸話であろう。菅原道真の漢詩の二句「東行西行雲眇眇、二月三月日遅遅」には満足のできる訓読が見つからないところ、 誰かが北野天満宮で夢によって次の読み方を教える:「とさまにゆき こうさまにゆき くも はるばる、きさらぎ やよい ひ うらうら」。その句があまりにも美しく思われたので、現代に到るまで決まって訓読とされてきた(日本古典文学大系の『菅家後集』#四七七、四八〇頁)。この逸話はよく聞く一つの例であるが、しかし、それがいかに例外的な話であるかはあまり意識されていない。この二句を除いて菅公の他の詩句が後期の漢文訓読とさほど変わらない調子で読まれているのが面白い。その二句がいかに奇蹟的なものに見えたことかをよく物語るのである。当時の意訳がよく伝えられなかったので、それを徹底的に行うのは不可能に近い理想というものである。ただ限られた場合には真似しやすい規則を見いだせる。例えば「應」や「當」の訓読は多くの現代人にくどい「まさに…すべし」と読ませる代わりに、簡単に推量形を使った方がはるかに自然な日本語に聞こえる。「まさに読むべし」をやめて、「読まん」にするのが適当であろう。問題点は意訳そのものの定義である。多く機械的な決まり文句と句形に頼る普通の訓読よりは創造的な活動に等しく、文学的翻訳と見なしてもよい。その点からいえば、漢文の読み下しが完全に性質の異なる練習となってしまい、漢文教育の方法を根本的に変えなければ実現できない。

 以上言及した現代日本語と漢文の問題点は非常に重大であるけれども、中国以外の漢字文化圏の諸国の中で日 本における漢字と漢文の地位が一番しっかりしていると断わっておこう。書籍、雑誌、新聞などではまだまだ漢字の数を減らそうとしない上に、むしろ常用漢字の数を増やそうとする傾向がある。毎年行われる漢字検定試験は数万人が受ける。毎月出版される、子供、中高生、大人を対象とする漢字遊びの雑誌の数も実に印象的である。テレビのクイズなどにも四字熟語に関する問題が頻繁に出されるようになったので、その知識を若い人の間に広げるのに効果的である。
  その上にまた、かつてなかった情報学の進歩が漢字の存在には思いがけない援助を齎したという事実に注目し たい。コンピューター技術がまだ今日のように発達し普及されない時代、即ち六十・七十年代のころ、日本、韓国、中国における漢字の将来は非常に暗澹たるものに見えた。多くの欧米の東洋学者が漢字を捨てて、その代りにローマ字を使用することをあらわに進めていた。漢字の放棄を進める理由として、論拠がそれぞれ学者によって違っていたが、主に漢字がアルファベットに比べて言語の音を表わすのに不便だという、伝統的に漢字に向けられる批判を繰り返すだけでなく、また(当時の)現代の情報処理の技術に向いていないという新しい批判も付け加えられた。そういう批判を口にするのは欧米の東洋学者だけでなく、一般の日本人にとっても毎日の仕事の関係で漢字処理の難しいことを嘆いていた。むかし風のタイプライターが日本語、中国語のためにも作られていたが、どれほど不便であったか今の若い人には想像しにくい。英語やフランス語でタイプするより、漢字でタイプするのは十倍ぐらいの時間がかかったといっても過言ではない。日本人の作家たち、特に推理小説作家は、タイプライターをいとも簡単に、いとも早く打ちまくっていたアメリカの小説家を羨ましそうに見ていた。日本の新聞雑誌の在外記者たちもなかなか大変であった。欧米の新聞記者たちは記事などをテレックスで母国に送信していたところ、日本人だけがローマ字で書いた記事を日本に送り、本社ではそれを漢字まじりの仮名に書き直していた。七十年代には確かに「漢テレ」と言って、漢字をテレックスで伝達する機械が発明されたが、それほど便利でなかったせいか、あまり使われなかったようである。中華人民共和国では毛沢東政権が漢字を簡略化することを、中国語の完全なローマ字化への一段階と呼んでいたころであった。まだ七十年代なかば頃、中国では中国語を習う外国人のためでなく、中国人の読者を相手にローマ字の印刷物がたくさん出版された。益々漢字というものは過去の別名となり、歴史の進歩を阻止する障害物としての反感を生み出した存在に過ぎなかった。
  そこで、八十年代中、漢字文化圏の諸国にコンピューターとワープロの使用は予想以上の規模で発達して普及 してきた。新しい電子技術のお蔭で、漢字という文字の処理がアルファベットと同じく簡単で便利になってきた。また十九世紀に発明されたブラン式電送写真装置が同時代に新しい技術に改良され、ファックスという名前の下で蘇った。ファックスは特別に漢字を伝達する為に新しく開発されたようであるが、漢字文化圏以外にも便利な機械とされて欧米にも普及した。情報学の面では、漢字という複雑な文字を扱う必要を理由に、極東の研究が特別高度に達したのではないかとさえ思われる。数年前にフランスのラジオでフランス国立科学研究所の情報学の専門家がインタビューでその意見をはっきりと示したのを聞いて、私は驚いた。彼はさらに一層驚くべき忠告を与えた。欧米でもコンピューターと情報学関係の研究に携わる人ならば皆漢字を覚えたらよい、と断言した。結局、十年ほど前は西洋の知識人が口を揃え漢字放棄論を唱えていたところ、漢字優勢論に変化してしまった。今日の情報学者の考え方がどんな方向に進んだかわからないが、漢字と現代が互いに相容れない観念を失した好例としてこの逸話を述べたまでである。
  中国でも旧字体を新字体に、新字体を旧字体にキーを一つ押すだけで変えられるようになってから、旧文字と 新文字の対立が昔ほど激しくなくなった。漢字だけでなっている中国語をコンピューターで直接にローマ字(ピンイン)を打って漢字に転換できるので、漢字と仮名をまぜる日本語より中国語の方が簡単にコンピューター化させられるとさえ言える。
  こういう思いがけない援助を新しい情報学から直接に受けたのは漢字であったが、漢字を通じて漢文の方もそ の新技術から恩恵を蒙ることは大いに想像できる。

韓国とベトナムの現状

 話はわき道に逸れるが、ここで漢字文化圏の二ヵ国、韓国とベトナムにおける漢字と漢文の現状に少し言及しなければならない。漢字両強国である中国(ここで「中国」の名称は政治的でなく文化的であるので、人民共和国、台湾、香港、シンガポール、そして全世界に散らばっている華僑の集団も総括する)と日本を比べて、韓国(情報がないため北朝鮮を論じることはできない)とベトナムでは漢字の地位ははるかに弱いと言わなければならない。この両国はもともと日本と、文化上の共通点が多い。古典中国文化を中心とした国として漢文を「聖語」にしているだけでなく、それぞれの国語にも中国語からきた語彙(漢語)が非常に豊富である。面白い現象に、 三ヵ国語における漢語と土着語彙の比率が近い:三ヵ国語の場合、六十から七十%の語彙は漢語が占めている。その語彙(特に現代観念に関するもの)は主に抽象的である、文化、科学、政治、思想、社会に渡るもので、多く漢字で書いてあれば他の国の読者はたやすく読めるのである。技術、日常生活に関する語彙も少なくないが、漢語をつかっても皆それぞれ違う単語を選んだ場合が多い。たとえば日本語と韓国語が同じく「時計」を使うのに対して、現在中国語では「鐘表」、ベトナム語では「銅壷」が通用された。
  漢語とは別に、成語と四字熟語というのも漢字文化圏諸国の宝物と呼ばなければならない。その多くも四ヵ国 に共通している。多少の変更があっても(例えば日本で「不入虎穴、不得虎子」の第二句は中国では「焉得虎子」とされる)、根本的にそういう言い方が普及している地域が明白に独立している一つの文化圏とみなしてもよい。表現が変わっていても、考え方が同じ中国の成語から発したものはすぐ目立つ。例えば大陸では「不可同日而語」というのを、寺田寅彦の随筆には「日を同じゅうして語るべからず」と書き下されていて、普通は「同日の論(談)ではない」となっているが、もともと同じ発想による言い方に違いない。
  漢字で表記されなくても、漢語、熟語、故事成語は東アジアの知識の統一に大きな役割を今日でも果たしてい る。たまたま私の学生でも自らその事実に気がつく人が現われると、非常に喜ばしく思う。例えば私の漢文入門の講義に出席していたある学生で日本語と同時に韓国語を勉強する人がいた。ある日、彼が同級生と立ち話ししていたのを耳にした。韓国語の教授を感心させたと自慢しながら語っていた。ある韓国の新聞記事を読ませられて、「人間万事塞翁が馬」という表現にぶつかった。みな翻訳に戸惑ったところで、彼は少し前に漢文の講義で覚えた説明を繰り返して、教授に褒められた。日本語の講座で習っていたものをそのまま韓国語に当てはめることが出来た事実を発見してたいへん喜んでいた。彼は日本と韓国の経済関係について修士号論文を準備していたので、実際には古典にはあまり興味がなく、専ら現代語の習得を目指していてこんな事を口にした:「今年は実 に役にたてそうなものを漢文の講義からやっと見い出せた」と。
  漢語と漢文の遺産を日本と同じ程度に受け継いだ韓国語とベトナム語は現代、その遺産をずいぶん異なった形 で受継ついでいるようだ。以下は、たいへん大雑把であるが両国の現状を論じてみたいと思う。

韓国と漢文

 一九九四年の夏、私はソウルの近くの韓国精神文化研究院に三ヵ月の短い滞在をした折に、一端であるが当地で韓国人と漢字の関係を観察する機会を得た。パリ大学の私の講義に韓国人の学生が出席する年もあるので、それぞれ若い人が漢文をどこまで解読できるかだいたい見当がつくと思う。
  ソウルの町を歩く観光客が先ず気づくのは、中国や日本の大通りと違って看板などには漢字がほとんど見えな いことである。どこを見ても韓国のお国自慢のハングルが目に入る。視覚の印象ではまるで日本語の片仮名だけが並べてあるかのようであろう。もし東京の下町で片仮名の看板や広告しか目に入らなければ、日本人はどう思うのだろうか。やや単調な幾何学的な形の連続に、多様性に富んでいる漢字を少しでも挿入してあればいいのではないかとしばしば考えたものである。テレビのニュースの大見出しにはハングルしか使用されていないが、新聞と雑誌には、やはり市民の実用的な関心を呼び起こすためか、漢字まじりのハングルを昔のまま生かしている。日本より常用漢字の数が少なく、千三百字を超えないが、漢字に慣れていない人の解読を助けるため、同じ記事の中で一つの単語を漢字とハングルを交互に書く習慣らしい。たとえば一行に「運河地帯」と書けば、次の行に ハングルで「ウンガチタイ」と表記する。自信のない読者が、その工夫のお陰で漢字の読み方を確かめられる。私の目で見た限り、韓国の大新聞の中で一紙だけが漢字を完全に廃止して、専らハングルを使用している。面白いことに、このハングル専用新聞は主に知識階級の読者を対象にしているらしく、漢字のたくさん読めそうな人は、漢字を拒否しているという意味なのであろうか。キリスト教の聖書も漢字交じり版とハングル版の二種類が広く書店に売りに出る。話に依ると、漢字交じり版は主に年寄りが読むということだったようであるが、これもこれから徐々に変わるかも知れない。
  定期刊行物以外の出版物を見ると、現代の韓国は多彩な状態を見せている。大衆文学(例えば韓国人が愛読す るアガサ・クリスティの推理小説、西洋文学の翻訳など)は一切漢字を使わないものが一番多い。韓国人作家の純粋文学ではハングル専用のものが圧倒的に多い気がする。なお、話の内容によって変化があるというのはいうまでもない。金聖東(一九四七年生まれ)の例を挙げると、『曼荼羅』という、仏教的背景の小説には(括弧入りの)漢字書きの仏教述語が非常に多いのと対照的に、『家』(チップ)という小説には漢字が非常に少ない。また大衆向きの東洋歴史、仏教、哲学などに関する本は止むを得ず漢字を使うが、日本式の様にルビを付けないので、小説と同様にハングルで書いてある漢語の後に漢字を括弧に入れて載せられている。ただ、学術書になると、日本の単行本とまったく変わらない様相を見せる。漢字が頻繁に使用されるが、括弧に入れない上に、ハングルの表記がないので、千三百の常用漢字しか知らない人には読めないのではないかと思う。
  大雑把な紹介であるが、ハングル専用の大衆文学から、難しい漢字だけを並べている専門書までの韓国の出版 物を見ると、現代韓国語の状態が二重言語ではなく、二重文字的であるという印象が強い。言葉は統一されているけれども、ハングル専用と漢字交じり文の間の溝があまりにも広いので、この現象を描写するのに二重文字制度があると言っても過言ではないと思う。教育程度の高い人は一般文学が読めるが、漢字の受動知識しかない人には日本並みの漢字交じりの文が非常に読みにくい。同じ言葉が表記制度にしたがって一部の人には読めないという状態は二重文字制と呼べるのではないかと思う。
  なぜ数十年の間に韓国人が漢字にこんなに疎くなったかという質問には私ももちろん答えようがないが、門外 漢でも分かるような原因を一つ挙げられるのではないかと思う。韓国が独立して以来九十年代半ばまで、一種の「脱亜時代」を過ごしたと言える。政治的な原因のため、韓国の二つの隣国である日本と中国とは文化交流が殆どなくなったと同時に、主な政治、文化に対する興味は、米国に向けられ、そして米国の後かなり遅れてドイツやフランスというヨーロッパの国になった。西洋が主な相手になったため、韓国の一般市民と知識人が東洋の文化を無視すると同時に、植民地時代の象徴となっていた漢字交じり文字に強い反感を抱くようになった。共産主義強国の中国とも縁が遠くなったので、日本語の代りに隣国の言葉として流行りそうだった中国語の勉強も殆ど行われなくなった。その両国に対する文化や政治の象徴であったハングルが当然韓国の貴重な文化財産となり、文化上の自給自足を意味するものであった。もっぱら英語(また、少し限られた程度であるがフランス語とドイツ語)の勉強を重視してきた韓国人の学生たちには漢字の知識はまったく無用の長物となってしまった。
  八十年代に、韓国の経済が発展するとともに、経済強国だった日本との関係がだんだん復興され、日本語の勉 強も広がってきた。また九十年代、中華人民共和国と外交関係が結ばれるようになって以来、中国語の勉強もたいへんな人気を博した。ソウルの書店では日本語と中国語の入門書と辞典が山となって店頭に並んでいた。しばらくの間、ローマ字で表記されていた言語にしか興味を示さなかった韓国人は突然漢字文化圏の言葉と再び出会う機会を得た。その子供達は中国と日本の小学生と異なり子供時代に漢字の勉強で煩わされなくてほっとしていたところ、学生や社会人になって已に身につけるはずだった漢字を慌てて実用のために習得する必要に迫られてきた。当然な反動として今までの漢字抜きの教育制度にあらたな批判の声が聞かれるようになった。脱漢字化の道に深く入っていた韓国が国際政治・経済関係のため心ならずも漢字文化圏に戻ったために、中国人や日本人よりも倍ぐらいの勉強をしなければならない苦境に陥った。
  同じく八十年代から九十年代の初期にかけて、韓国にパソコンとワープロが普及した時、漢字文化の隣国との 交流をあまり考えずに韓国語処理のために作られたソフトウエアは、アルファベットを中心にしていたために、用意された漢字の数が非常に少なくて、二・三千字しか処理できなかった故に、両隣国との文化交流の要求にはとても応えられない事実がだんだん明らかになった。電子情報学について全く不案内の私にはよく説明できないが、すでに決められた標準が容易に変えられないので、日本と中国の関係が盛んになればなる程、ソフトウエアの物足りなさが、益々使用者をいらいらさせていた。ちょうど私が韓国に滞在していたころ話題になっていたのである。その後まもなく問題は何とか解決されたと思うが、これももう一つの、現代情報学の影響で開発された漢字知識と漢字文化統一意識の好例となる。
  この二十五年間、仏教は韓国で復興されたといっても過言ではない。歴史的な事情のため、地方の寺院に遁世 していた僧侶たちは都市に戻って、修行生活だけでなく、仏教の学問的な研究も重んじるようになった。仏教学問が僧侶の集団に広がると同時に、経典の言語である漢文も自然と再重視されてきた。また最近になって東洋思想の代表とされる儒教に対する関心も高まってきた。それを通じて李朝に開花した諸思想家が再評価されてきた。彼等の膨大な作品はすべて漢文で書かれ、その大部分は現代語に翻訳されていないので、その研究には漢文の該博な知識が不可欠である。
  今までの韓国の街道での道路標識はハングルと英語でしか記されていなかったが、先に言及した新政治情勢の ため、中国と日本から来る観光客は益々多くなってきた。中国人であれ、日本人であれ、英語より漢字で書かれた標識の方が非常に分かりやすいので、韓国の観光当局は漢字の道路標識を設ける意図を発表した。漢字まじりの標語の場合と同様に、その提案を猛烈に拒否する国家主義者の分子もいるが、一般の対中・日の感情は変わり つつあるので近い将来に実現されるのではないかと思われる。
  その反感を和らげ、また漢字文化圏に属する傾向を強めるため、中学高校で漢文の教育を一般化すれば、語彙 の七十%が漢語に占められ、韓国語自身の理解力も深くなり、両隣国との文化交流が豊富になるという二重の効果を得られる。

ベトナムと漢文

 韓国において漢字がいまだに全く生命力を失っていない現状であるのに対して、ベトナムでは一世紀ほど前から、漢文を全くの死語に陥れた主な原因はフランス政府の植民政策であったことは言うに及ばない。数年前に『ル・フィガロ』という新聞に発表されたフランス外務省の十九世紀末の報告書に依れば、植民政権が漢字・漢文を排し、クォック・ングー(ローマ字)を推薦したその原因は、中国を源泉とした文化圏からベトナムの民族を切り離してフランスの社会と文化に近づかせようという意図にあった。一八七〇年代まで中国式の科挙制度を遵守してきたベトナム人は、二十世紀まで漢文の四書五経を基礎にした理想的な教育に影響された。ローマ字教育も意外な効果をもたらしたのである。広い漢字の知識を基礎にしているベトナム文字(喃ノム)よりも早く習得ができたので、早くから中国古典文学だけでなく、『三国志演義』、『紅楼夢』を初め、無数の白話小説がベトナム語に翻訳され、大衆に広く読まれるようになった。ノム文字は非常に複雑であり、多くの漢字を覚えてから漸くして解読するのであるから、子供の初心教育には全然向いていない事実は否定できない。それをローマ字に代えたということはよかったと言えども、漢字・漢文教育を完全に廃止したことは決してベトナム語の知識そのものに有意義ではなかった。
  私がまだ学生の頃漢字無知から起きる間違いに気がついて驚いた。日本語一年生の時、ベトナム人の友達と話 していた際、彼はこういうことを説明してくれた:「植民主義というのは文字通り翻訳すると、人民を食う主義だ。『植民』の『植』は『食事』の『食』と一緒だから」。すでに漢字をいくつか知っていた私は反論せざるにはいられなかった:「いや、漢字は違う、植民の場合、『植』は植える、または殖える、養うという意味で、食べるということじゃない」。今度驚いたのは彼であった:「でもベトナムの学校ではそう教えられたのだよ」と。考えさせられた話であった。数年間中国語を独学で勉強してきた知識だけで、ローマ字教育で伝わった間違いを指摘することができるならば、ベトナムの国語の教員にもそのぐらいの漢字知識があった方がいいと思われる。フランスにおけるラテン語、又日本における漢文のように、中学高校で漢字・漢文を必須科目にすれば、自分の母国語に関する知識と理解が高まるはずである。
  最近のベトナムでは、漢字を中心とする旧文化に対する態度が変わりつつある兆候が見えてきた。内外の学者 が数世紀の間ベトナム人によって書かれた漢文文学を本格的に研究し始めた。フランスの極東学院では八十年代に越南人著作漢文小説集八巻が刊行され、最近またベトナム地方別の漢文碑文集の出版も始まった。十八・九世紀に開花した喃字文学に対するベトナム人の興味も高まってきた。パリでは個人の喃文学研究会が月に一回集まって在仏のベトナム人が趣味として、ローマ字に直されていない喃文の古書を解読する。ハノイでは学者たちが パリの国立図書館に多く所蔵されている稀覯本を対象にして研究する喃文研究会を正式に設立した。
  また韓国と同様に、ベトナムにおける仏教の復興が漢字・漢文だけでなく、喃文をも推薦するのに大いなる役 割を果たしている。私が最近見たベトナムの寺院で、法事の折に配られる小冊子などの文章はローマ字と喃字の両方で表記されている。普段では廃止物とされているノム字が仏教のためにわずかではあるが蘇ってきたと言える。
  ベトナムでも、越僑(ベトナム系の移住民)の間でも漢文(ハン・ヴァン)の教科書、あるいは独学のための 案内書がかなり出版されている。中国古典文学(論語、道徳経、荘子、漢詩集など)の対訳も数多く刊行され、対訳書にも二種類がある。一つは漢字の原文と、ローマ字の音読と現代ベトナム語訳の三段を並べるもので、漢字を知っている読者を想定している。もう一つはベトナム独特なものらしく、漢文を載せず、ローマ字の音読と現代語の翻訳だけを並べる。日本語で杜甫の「国破れて山河在り」という有名な詩句を「国破山河在」と書かずに、音読の「コク ハ サンガ ザイ」と現代語訳「国が敗北しても、山と川はちゃんと残る」とを並べている対訳に等しいものである。日本では漢字抜きの片仮名「コク ハ サンガ ザイ」を読むだけで直ぐ何の話だか分かる人は少ないと思うが、そこにはベトナム語の素晴しい特徴が現われている。中国語(普通話)、日本語、韓国語と異なり、ベトナム語は非常に豊富な音声系統の持ち主であるので、ほかの漢字文化圏の言語に比べて、漢字の本来の発音のニュアンスを明白に表わせるのである。語頭の子音、語尾の子音、母音、声調はみな他の言語と比べられないほどベトナム語はちゃんと区別している。それが故に古典中国語の文章をそのまま声を出して読めば、耳で聞くだけである程度まで内容が通じるのは恐らくベトナム語だけであろう。その特徴は十九世紀末のフランス人のベトナム語学者デミシェルがすでに認めていたもので、彼のベトナム漢文文典の前書きに記してある。漢詩の場合、その特徴は非常に有利である。普通話(北京語)よりもベトナム語読みの漢詩が声だけで鑑賞できる。漢字文化圏の諸言語を音読の理解性に従って位置付けようとすれば、ベトナム語は異論の余地なく一位を占めるであろう。その次は広東語と台湾語であり、普通話が中ぐらいに当るであろう。韓国語は普通話と日本語の間にあり、日本語は音声が一番少ないものとして(特に旧仮名使いによらない場合)最後になるであろう。文法構造の違いを別にすれば、ベトナム語の音声が漢文の理解には一番便利な言語に見えるので、中高生が少しでも漢字を勉強すれば、ほかの国の生徒よりも早く漢文を身に付けることができるのではないかと思う。

現代中国語における漢文

 先にも示した通り、異論はあるが、何といっても現代中国語が漢文(文言)と同系統の言語であることから見て、両言語は特別に近い関係を保ってきた。その上に、漢字文化圏では漢文と同じく漢字だけの表記法に頼っているのも中国語しかない。目で見たところ、文言と現代語はさほど違わない(旧字体と新字体の食い違いはパソコンのお陰であまり問題にならなくなった)様相を見せる。仮名混じりの日本語、ハングル専用の韓国語、クォック・ングー(ローマ字)のベトナム語とは一見で区別がつくが、言葉を知らずに中国語の文章を見るだけでは文言か現代語か判断しにくい。同じ表記法を使っているため、確かに他の漢字文化圏の言語より文言と白話(口語)間の連続感が強い。また、中国語の文法構造のため、文言体の文句はごく自然に口語体の文に挿入できる。中華人民共和国では八十年代中に、久しく無視された文言と古典の教育が少しずつ復古されて、また社会の雰囲気が自由化されるとともに新文学作品の文体が再び文言的要素を自由に含むようになった。
  例えば一九八三年に発表された陸文夫著の話題になった短編小説『美食家』を当時読んだ私は、著者の文語体 の文法、表現の自由な使い方に気がついた。「饕餮之徒」(食いしん坊め)、「賓至如歸」(お客さんが気軽にくる)、「戛然而止」(かちっと止まる)等々の文言体の表現はページ毎に現われる。「與我有渉」、「鳴鼓而攻」、「化險爲夷」などの章名も多い。四字熟語は非常に頻繁に使われているだけでなく、文章のリズム自身も自然と古風の四文字の調子に戻るところが多い。純粋文学以外にも、文言と現代語の併用は新聞・雑誌で目立つ。日本で出版された中国人の『留学生新聞』(九九年六月号、二二頁)から例文を採ると、「回國上学、柳暗花明」(ここでは日本語の「美しい景色」または「色里」の意味と違って、「窮しても将来が輝かしい」という意味)や「素質培養、不容輕視」などの四文字の見出しが深い文言の影響を顕わす。記事を読むと、「望子成龍的父母」(子が龍に成らんことを望む両親)、「毎天玩得不亦樂乎」(論語の冒頭の引用、「毎日の様にはげしく遊んでいた」)のような、整然とした文言と純粋な北京語を巧みに融合する文がいたるところ見つかったものである。
  二十世紀の中国語作家の中でおそらく大陸、台湾、香港、シンガポール、そして東南アジアと欧米の華僑集団 において一番多くの人に愛読されている小説家は恐らく一九二五年浙江省生まれの、武侠小説で有名な金庸氏であろう。彼の作品は最近ようやく日本語に翻訳されたので、日本の読書界にも以前より親しい存在になってきた。金庸の文体は非常に面白く、確かに文言ではないけれども、「普通話」とも呼べないと私は思う。むしろ明・清朝の大小説の伝統を汲んでいるもので、現代的白話といった方がふさわしいと思える。彼の文体はまったく文・口混淆文と呼べるのではないかという気もする。例文として、人気のある作品「射鵬英雄傳」の冒頭の文を挙げて見よう:「錢塘江浩浩江水、日日夜夜無窮無休的從臨安牛家村邊繞過、東流入海」。この文の文体を何と名付ければよいか。普通話と呼ばれないことは誰にも自明であろうが、「的」のような虚詞を使う限り文言とも言えない。やはり「白話」と呼ぶしかないと思う。
  金庸(また武侠小説作家として彼の第一の競争相手は古龍氏)は中国文化圏では誰にでも読まれている、まさしく大衆作家と形容することのできる人物であるから、文言に近い文体を使用していることは確かに読書力を妨げないのはわかる。金庸の文章を少しだけ変えれば、立派な文言体になるけれども、完全な口語体にするためには文章をかなり書き直さなければならない。その現象は金庸、古龍のような作家に限らず、陸文夫などにおいても著しい。また一般的に、中国人が文章を書く時、言文一致の現代語で書こうとして、複雑な文を作ろうとすると、文体は自ずから文言に近づいてくる。これについて私の個人体験を挙げてみると、十何年前、私が中国現代語の作文力を磨くため、中国人に個人教授を頼んだことがある。週に一回二人で会って、私が前もって中国語に翻訳した仏文中訳の文章を見せて、間違いを直して貰った。文章は主に新聞の記事や現代小説の抜粋であって、なるべく現代語の文法にしたがって翻訳するのが条件であった。個人教授はちゃんとした大学教育を受けた三十代の台湾人であったが家族がもともと大陸北部出身であったため、完璧な「国語」(普通話)を話す人であった。練習は無事に進んだが、現代語優先という規則にも関わらず、彼は口語体に翻訳するのをあまりにもくどい文章になると言い、文言に訳するのは一番簡単で中国語らしい文になると強調した。そこでやはり四文字律の文になってしまう。数ヵ月の間、この様なレッスンはわずか四、五回で終わったが、私にはよい勉強になった。中国人にとって書き言葉になると、言葉がごく自然に文言を帯びるようになることは明らかになった。
  この事実はある中国語学者には納得の行かない事と評価されていた。ロズナーというドイツ人の学者は一九九 二年に『文言:中国語の二重言語制』という題の本を著した。豊かな文例集をともなうこの本の基礎的な説は現代の中国語(普通話)が一般に宣伝されているのと違って言文一致の原則を拠り所とした言葉でなく、二重の言語的次元を見せるものである。口語の傍らに文言がまだ昔とさほどかわらない地位を占めているのを証明するため、『人民日報』の新聞記事を始め、現代中国の刊行物から例を選び出している。彼はそういう現象を二重言語制(diglossia)と呼ぶが、その単語が果たしてふさわしいかどうか疑わしい。現代の世界では、本当の二重言語制の例はアラブ語ぐらいであると思う。書き言葉と話し言葉が文法・語彙・発音などで明白に分かれていて、話し言葉がいくつかの例外を除いて書き言葉として利用されていないという、はっきりした状態を指すものである。一九七〇年ごろまでギリシアでも明らかな二重言語制を示していた。小説と詩では口語体しか使われなかったのに対して、科学と人文科学関係の刊行物は殆ど文語体で認められた。アラブ語の場合でも、ギリシア語の場合でもある文章が文語体かあるいは口語体で書かれていることは一目で分かる。ロズナー氏の引用する中国の新聞などはそういう意味の二重言語制ではない。一般口語体の枠の中に文語体の要素が挟まれるというのを特徴とする混淆文と呼んだ方が適当だと私は思う。また換言すれば、文語体と口語体の二面を持つ混淆文である。その両面の間には無数のニュアンスが示されて、完全な口語体と完全なる文語体が普通は見られない。文法と語彙が異なっても、作文の習慣として両文体が併用されるというのは普通話だけでなく、中国語の他の方言においても同様である。
  語彙も文法も異なるにも関わらず、文言と中国のもろもろの口語が相即不離の関係にあるのはこれからも永遠 に変わらない事実である。それが故に中国現代語の中で、口語に保護されている形で漢文は著しい生命力を保ってきたと認めなければならない。

其の三

これからの漢文のために

 先の二章に渡って、漢文は独立した、異常な現象でなく、ユーラシア全体に普及されている「聖語制」の一面 であることと、漢字文化圏の諸国語のためにも漢文の勉強はまだまだ無意味な勉強になっていないことを明らかにしようとした。
  これから、東アジアの新しい社会条件と新技術がもたらした情報交換手段をどのように生かして、より有意義な漢文教育と漢文文化を発展させることができるかという問題を考えてみたい。
  先ず漢文教育をより面白くして、文法分析を漸進し、国内・国際の学校間の交流を推進する。
  二十一世紀の漢文の新しい生命力の秘訣を一言で括ろうとすれば、「国際交流」という言葉を使いたい。漢文というのは東亜諸国のそれぞれの文化遺産になっていることは繰り返すまでもない。国によって多少条件が異なるが、それぞれの国語の根本的な要素としてこれから消滅する心配はないと思われるが、これは消極的な勉強の態度と言わなければならない。既成の文化を守って伝えるだけの課題とする教育である。これを積極的、活動的な教育に変えて、一つの国の文化の枠を超えて、国と国の間の繋がりを重んずる文化活動にすることが重要である。
  一九九九年の秋ごろ、テレビのニュースで次の報告を聞いたことがある。日本の文部省が日本の教育方法を三 つの課題を中心にして改革する方向を示したいという報告であった。その課題が一つに教育水準の向上、二つ目に国際交流の発展、三つ目に現代情報手段の利用の三つであった。まったく偶然であったが、これから述べたいと思う漢文教育についての提案は文部省の一般教育に関する提案と全く一致するものである。
  パリで日本漢文入門講座を担当して十五年以上、フランス人だけでなく、韓国、ベトナム系の学生を相手にす ることもしばしばある。漢字に疎いベトナム人の学生たちが、日本語とベトナム語の音読があまりにも違うので、説明しない限り、例えば日本語の「ジンミン」がベトナム語のnhan danと等しく「人民」という漢字の音読であ ることが分からないが、教えられると新世界を発見したように喜ぶ。日本で行われる漢文の授業でも、旧仮名使いを説明する時、生徒の年齢が許す場合、漢字文化圏の諸言語と比較して見れば旧仮名使いの価値が分かってくるのであろう。たとえば同じ「法」であっても、呉音の書き方「ホフ」が、現代韓国語の「ポップ」に相応するが、漢音の「ハフ」がベトナム語の「ファップ」と呼応しているものである。「業」も呉音の「ゴフ」の場合韓国の「オップ」と変わらない、漢音の「ゲフ」がベトナム語の「ンギエップ」(nghiep)に当ることを生徒に注意させると、東亜の国々に対する親近感が強くなると同時に、旧仮名使いの具体的な背景を学ぶのである。
  最初の一、二年の間、普通の訓読と返点に依る教育を行えばよいが、漢文の原文に親しむのにもっと有効な方 法があるのではなかろうか。前にも述べた様に、日本語そのもののために、漢文の訓読みは文語体(漢文調子文)の文学の鍵としてなかなか捨てられないものである。「平家物語」や「方丈記」を正しく理解するのに、伝統的 な漢文訓読の習得は一番よい準備勉強に決まっている。また、ベトナム語と違って、漢文を声に出して読むと、音読だけに依れば理解性が非常に低いので(北京語の場合もそう言えるが、日本語の方がもっとわかりにくい)、やはり訓読が漢文を日本語化するのに不可欠の手段としてこれからも長く残るであろう。日本人にとって漢文=訓読という勉強法を変える必要はない。また平安時代に行われたような、意訳に近い訓読を発展させるのも難しい。意訳というのは個人的な創造活動なので一人の意訳を教科書を通じて全国の中高学生に押し付けるのも不可能であろう。漢文調子が完成された日本語の一文体として成り立った表現手段である限り、それを尊重しながら生かす方法を探さなければならない。
  ここであいにく今は絶版となった安達忠夫氏の玉書「素読のすすめ」の説を少し取り上げたいと思う。氏は漢 文教育、なかんずく子供向きの漢文教育における音読み訓読み並読法を、説得力のある言葉で唱える。もし漢文の習得を受動的な読書力に止まらず、活動的な作文力の程度にまで進めようとすれば、安達氏の強調するような並読法も第一条件だと強調したい。音読を唱えたり暗唱したりすることによって、訓読の段階以前の文言の構造を記憶に刻むという大事な役割を果たせるからである。音読、すなわち漢文の白文を頭に入れておけば、初めて訓読の方を文法的に分析することが可能になる。ただし私としては安達氏が勧めるように、素読という方法を他に生きている現代語の学習に普及させる必要性は非常に疑わしく思える。むしろこの話の主題である「聖語」の勉強に限るものとして活用させる方が効果的である。中国語、英語などのように、会話力を中心とする現代外国語を身につけるためならば、素読はさほど役に立たないと言わなければならない。三カ月の現地滞在が学校で行う三年間の勉強よりも効果的だといっても過言ではない。それに対して、読書と作文を中心とするはずの古代語(聖語)には音読が基礎的で重要な勉強法である。漢文には母国語の話手を見つけることが出来ないので、講師の代わりになりうるのは原文だけである。故に素読によってなるべく多くの基礎句形を覚えなければならない。
  そこで訓読みに新しい意味が与えられる。それは原文の文法的理解を強める役割である。例えば、訓読みを口にする前に、音読した原文を文法的に説明すれば、主語、補語、副詞、動詞がどこにあるかと皆で探して、どんな字に「ヲ」をつけて、どんな字に「ス」か「スル」などがつくかと決めたりするのは教室全体の練習になるわけである。部分否定、使役形、受動なども細かく説明しなければならない。生徒の程度が比較的上級ならば、場合によって意訳の試みを普通の訓読みに並行して行うと授業が面白くなる。
  音読み訓読み並読法によって、伝統的な訓読が保たれていながら、生徒の漢字知識の水準も高まり、文語体の 理解力も強まり、現在ほとんどなくなった漢文作文力も復興されるという、国語教育にも多方面における効果が生まれる。
  戦後の漢文教育で行われていたように、学校で読ませる文章は当然中国の古典を中心として、同時 に必読文章の範囲を広げれば日本の漢文文学も見直せるだけでなく、中国以外の東亜文学にも新しい発展の窓が開ける。時々韓国かベトナムの漢文文学から漢詩一、二首を選んで読ませると、今、相互交流の不自由な現代語の境を超えて、共通な遺産の存在を意識できるのである。
  また、中国における文学の表現手段としての漢文(文言)は二〇世紀初期までその生命を保ってきた。欧州文 学がその晩期の漢文(文言)文学に影響を及ぼしている。一九世紀の終から二〇世紀の初めにかけて、翻訳だけでなく創造的な新文学が開花したが、もっとも現在においても漢文(文言)文学専門家にほとんど無視されている。なかには恋愛小説、冒険小説、推理小説にも、漢文で書かれた「大衆文学」と呼べる作品等がある。高校三年または大学程度の授業ではまだ訓読されたことのない清朝末期、又は共和国初期の漢文の推理短編を選んで、一学期でも音読み、文法分析、訓読み、現代日本語訳の四つの段階を経て創造的な勉強が進められたら、既成古典文章とは違う、新しい味の漢文講座が生まれるのではないかと思う。またそれを共同の作品としてインターネットか大学雑誌で公開すれば、いまだ研究されていない中国文学の一分野が少しずつ再考されるようになる。
  ここで、この練習の一例として、一九一五年の天白という筆名の作家(詳細不明)の推理短編小説の冒頭の数 行を私の訓読と現代語訳を加えながら挙げておこう。非常に単純な書き下しであるが、漢文専門家の皆様の添削を待ちながら、臨時な提案としてここに載せることにする。

東方之亜森羅萍

(東洋のアルセヌ・ルパン)
『清末民初小説書系・偵探巻』ヨリ(一九七頁)

一夜、天陰如墨。
東長安街上、萬戸沈沈、悉入夢境。
街燈暗淡、亦似含倦意。燈柱下矗立一警士、森如石人。
忽聞機聲軋軋、一摩托車電掣風馳、穿横街而過。
警士略挙首、微作噫気、旋就燈光下出時計諦視之、長針已指一點四十五分。
倦瘁之容、立欣欣有愉色。
蓋知再閲一刻鍾、即可下直尋好夢也。
(できる限り、略字の原文を旧字に直した。原則として、文言の文章を新字で印刷するのはまったく不条理である。)

[訓読み](便宜の為、ここでも漢語を新仮名使いで書くことにした)
イチヤ、テンのくらきことすみのごときなり。
トウチョウアンガイジョウ、バンコチンチンにして、ごとごとくボウケイ(ムキョウ)にいれり。
ガイトウアンタンにして、またケンイをふくむににたり。
トウチュウのもとにイチケイシチクリツして、シンなるはセキジンのごとし。
たちまちにキセイのアツアツきこゆるに、イチモーターシャデンテツーフウチし、オウガイをセンしてすぎぬ。
ケイシほぼかうべをあげて、かすかにイキをなし、トウコウのもとにめぐりついて、とけい(シケイ)をいだし てこれをテイシするに、チョウシンすでにイッテンシジュウゴフンをさす。
ケンソツのヨウ、ただちにキンキンとしてユショクあり。
けだししる、ふたたびイッコクショウふれば、すなはちカチョクしてコウボウ(コウム)をたずぬべきことを。

[現代語訳]
空が墨の様に暗かったある夜のことであった。
東長安通りに、家々は皆静かであり、住む人もぐっすりと寝付いていた。
街灯の薄暗い光もいかにも倦怠そうに見えていた。
灯柱の下に、ひとりの警官がぽつんと立っていて、立像の様にしんとしていた。
突然、ガーガーの音で、一台の車が稲妻の様に横町を通り抜けて行った。
警官は少し頭を挙げて、軽くため息をついた。街灯の下にたどりついて、時計をだしてよくよく見たら、長い針がもう一時四十五分を指していた。
彼の疲労の様子は直ぐ様愉快の色を見せた。
思うに、あと十五分したら、当直が終わって、やっと楽しい夢が見られることを知ったからだった。

 音読みにはあらためて重点を置くことと、文章の範囲を広げること以外、今までの漢文教育法を変えない方がよいと思うが、実は新しい方法をインターネットの使用に求めなければならない。最近、関連のものをよく読むことがあるが、もし中国の現代化、特にインターネットの発達率が今日のリズムで続くならば、これから数年すれば、インターネットで一番使われる言葉は英語でなくなり、中国語になるそうである。数年先の事情を予想しようとすると、鬼は数倍ぐらい笑うであろうが、仮にそういう可能性さえあるとすれば、インターネットがアルファベットでなく、漢字に支配されることになるという意味である。多くの西洋人の言語学者と社会学者の観点からは、こういう発展が彼等の決め込んだ現代世界の方向に反するものとして憤慨されるかも知れないが、漢字文化圏のためには思わぬ好機会である。
  余談になるが、これを因みに最近気になったことについて一言述べたい。フランスのテレビで、日本で行われた世界ドミノ大会の中継を少し見たことがある。中国人、韓国人、日本人が一組みとなって、オランダ人の作ったドミノ倒しの世界記録を破ろうとしていた。漢字文化圏の三大国が集まったところに、共通表記法は言うまでもなく漢字であろうと期待して見たが、漢字は一つも見当たらない。大見出し、応援、スローガンなどは皆英語であった、しかもそれは誰でもわかるような、幼稚な英語であった。その大会の目的がオランダ人の記録を破ることであったので、東亜以外のテレビ観客に対する思いやりから英語表記を設けたのは大変いいことだが、いったいなぜ東亜三国の特別な文化関係を象徴する漢字を一つも見せなかったのであろうか。英米人を笑わせるような幼稚園向けの英語の傍に、なぜ普通の漢字を並べなかったか分からない。「ドミノ」に当たる漢字がないと弁解する人もいようが、「骨牌」か「牙牌」を使えばいいと思う。三カ国の代表者が前もって集まって「ドミノ」の漢字訳を相談で決めたら、漢字文化圏の未来の推進力の兆しになっていたであろう。これほどの素晴しい機会を見逃したのは遺憾としか思えない。
  余談はさておいて、インターネットと漢文教育の話にもどる。早くから、漢文を一年間ぐらい勉強した後で、ある学校の漢文教室が中国、台湾、韓国の同じ学年の学校の漢文の生徒とインターネットで連絡し合い、週に一回ぐらい三ヵ国間の漢文「会話」を行えば、漢文の生徒は想像もしなかった漢文を活躍させる手段を見つけて、漢文に対する興味が深まるのではないだろうか。昔中国に渡った日本人が漢文で筆談して普通の他国の旅行者よりその国の事情に関する深い理解を得られたように、インターネット(中国語で因特網というが)で「網談」(ネットでの対話)を学校時代から進めると、活動的な漢文の実力が普段の勉強より早く身につくであろう。
  そこで、日本人は必ずこういう反論をする。日本人の漢文が中国人、韓国人の漢文より劣っていて、「和臭漢文」か「変体漢文」という程度の文しか作れない、と。その謙遜に満ちた態度も結構であるが、それを支えている理屈が成り立たない。では日本人の漢文が駄目なら英語で言ってみる。日本人の英語が完璧だということを意味するのであろうか。いな、ならば、どうして英語で許されていることを漢文でしないのであろうか。思うに、その意見の裏には漢文に対する深い尊敬と理想が潜在している。英語ならば情報交換が第一であるから、正確な文法や洗練された文体は二の次の問題になる。漢文ならば、書けること自体はその人の学問の深さの証拠になる。そういう文体では内容より形が重んじられることは、戦前の日本漢文教科書に載せられる美文の抜粋を一瞥してすぐ分かる。高等学校、大学程度で漢文の作文はまず簡単にして正確な文章を第一にしなければならない。句形、 即ち構造をしっかりと習得して、簡単な語彙をもってその句形を生かすことを作文の目的にしなければならない。なるべく多くの難しい漢字をみだりに使うことを避けなければならない。吉川幸次郎先生が指摘なさるように、「論語」の使用字数が一五一二字しかないので、常用漢字より少ないということを顧みると、孔子の諸弟子と競争する必要は全くない。もう一つの例を挙げれば、平安時代の有名な漢文日記、藤原道長『御堂関白記』では、それをフランス語に翻訳したフランシーヌ・エラーユ先生に依ると、千四百字しか使われていない。インターネットの「網談」でもその数ぐらいの漢字を使って、文法的構造さえしっかり把握しておけば充分である。
  インターネットで東亜の学校を漢文の筆談で結ぼうという提案であるが、ここで断わって置きたいことがある。原則として、インターネットは教室の枠内ではなるべく使わない方がいいと思う。特に漢文教育の場合、文章と作文を中心とする伝統的な教え方が重要である。インターネットの使用はなるべくクラブ活動にした方が効果的ではないかと思う。そういう「網談」に参加する生徒が実際に興味がなければ、退屈な宿題になる恐れがあるから、自分から進んで学校と大学ごとに「漢文クラブ」を作った方が勉強よりも、娯楽に近い活動になりうる。漢文の指導教授がクラブに参加しても、その役割は言葉の指導に限るだけでいい。ただ、インターネットで行われた漢文の筆談をプリントして、漢文教室でほかの生徒と一緒に読んでも差し支えはない。
  インターネットを上手に生かすことに依って、日本だけでなく一般の漢字文化圏諸国に久しく忘れられていた国際言語としての漢文の役割が再発見されることとなる。

漢文文学賞の設立

 「日本文学賞事典」数版を調べてみたが、日本で設けられた数多い文学賞の中には、特別に漢詩か漢文の作家に賞を与えるものが毫もないことが分かって驚愕した。文学賞大国である日本では漢文で書かれる文章が全く無視されることを明白に証明している。
  今日では、漢文を用いる文学的表現として、ある程度の生命力を保ってきたのはおそらく漢詩だけである。日本の仏教月刊誌『大法輪』は長年を経て短歌と俳句の傍に読者の投書する漢詩に二ページを捧げる。主に日本人の作った詩であるが、時々台湾から送られる詩も載せられる。パリの華僑を相手にする中国語とフランス語月刊誌『華報』(仏名Le Journal Pacifique)では、欧華詩人協会が編集する「世華詩苑」という漢詩欄が一九九六年に創刊されてから毎月全世界から送られる詩か詞数首を載せる。私の目の前に置いてある第四七期(二〇〇一年一月二十二日)では、新加坂(シンガポール)、マレーシア、広東、成都、巴黎(パリ)からの投詩があり、中国人がいかに漢詩の伝統を大事に持ち続けているかを顕わしている。学友のフランソワ・マルタン氏が一九八〇年ごろ韓国中に散在している漢詩会を調査して語ってくれたことに依ると、組織的な漢詩会が韓国では日本より古風の面影を守っているようであるが、最近の状態はわからない。日本では、『大法輪』が示すように、漢詩はまだまだ廃棄されない文学活動であるけれども、短歌や俳句よりはるかに無視されてきた。日本最後の漢詩人と言われていた阿藤伯海先生が一九六〇年に亡くなられて以来、漢詩を作ることを専門とする日本人のことを久しく聞かない。全くいないというわけでもない。全国で自費で出版される漢詩集が明らかにするように、娯楽としての漢詩はまだ行われるが、現代詩か和歌のように本格的な文学活動として認められるかどうか疑わしい。
  どうすれば漢詩文の創作がほかの文学的範疇並みに再重視される様になるのであろうか。漢詩文の作品に与えられる文学賞を設立するのは一番たやすく目立つ方法として進めて欲しい。
  先ず市か県の段階で弁論大会のように高校生と大学生を相手にする漢詩、漢文大会を設けること。私の思うのに、漢詩より、漢文の作文に重点を置いた方が大事である。なぜかといえば、漢文の作文の方が独創性を必要とする活動であるだけでなく、文法構造の正しい把握がなければ成り立たないものである。そういう漢文大会の審査員には当市か当県の漢文の教授以外に漢文の国際性を強めるため、できるだけ中国か韓国からの賓客審査員の参加もいいと思う。
  本格的な漢文作家に与えられる文学賞。言わば芥川賞か直木賞の漢文版である。毎年漢文で書かれた一冊の小説、エッセー、漢詩集の作家に与えられる賞である。作家は日本人、あるいは日本に住んでいる人であった方がよいが、まず漢文の創作を自分の主な文学活動の手段とする人でなければならない。前条と同じく、審査員は日本人の漢文教員、漢詩の名人、文学者と、漢字文化圏の漢詩文の名人が選者となればいい。
  日本を超えて、国際的な漢文文学賞を設立するのもいいと思う。やや大袈裟に言えば、漢文のノーベル賞を設けなければならない。東亜の文化史から見て、象徴的な場所を選んで設立すればよい。例えば日本で設立するならば奈良か京都を選べばいいのではないかと思う。そのたびに場所を変えて、北京、漢城(ソウル)、河内(ハノイ)も交代に選んでもよい。最初は毎年これほどの賞が与えられそうな作家が現われるわけでもないので、まず三年おきか四年おきに授賞する方が有利であろうが、受賞者は国籍を問わず、漢文で重要な作品あるいは幾つかの作品を書くことだけを条件とする。審査員は国際の漢文文学の専門家と作家から選ばなければならない。
  日本漢文文学賞と国際漢文文学賞は金銭面でも受賞者に有利なものでなければならない。それを受けた人があとしばらく漢文創作に専念することを許す位の金額であれば理想的であろう。また大学では、英米で流行っているcreative writingの講座を見本にして、漢文創作講座を設け、指導教員として漢文作家を任命すれば、斯学に専念するもう一つの可能性になりえる。

学者同士の伝達手段として漢文を推薦する

 先に引用した『文言読本』の「前言」からまたこの言葉を借りる:「寫作文言的能力決不會再是一般人所必須具備的了」(漢文で書く能力はけっして一般人の身につけるべきものでなくなってしまった)。確かに一般の人の場合、漢文で書けることが再び出世の不可欠な条件になる可能性は薄いが、現在でも漢文を普通の文体として使う人がいる。政治的、あるいは社会的な原因で現代中国標準語(普通話)の教育を受けられなかった世代の学者、また普通話圏外で生まれて育った華僑出身の学者たちが自分の研究を公開する段階で、普通話(台湾では国語というが)で書くのにあまり自信がなく、あるいは反感があるゆえに、専ら文言体を使う。仏教学、歴史学、文学史、民族学等々の学問の諸分野では術語が決まっていて、現代語と文言に共通しているので、文法だけが違うと言える。また先にも言及したように、文言の構造が簡潔であるので、そういう文言で書かれた専門文章が案外普通話よりよく読めるものが多い。特に他国の同じ分野の専門家には分かりやすい。その上、現代の観念に応じて文言の文体に口語の要素を進んで入れる学者が多い。一番目立つのは「政治的」などの「的」という虚詞の使用である。
  東亜だけでなく、全世界の東亜歴史、文学、仏教学、儒教、道教、哲学、の何千人もの専門家が皆漢文を研究の日常道具にしているので、漢文の造詣が深いことはいうまでもない。けれども皆それぞれの母国語、現代中国語、韓国語、日本語などで論文を出版する。あるいは東亜出身の人でも今、国際学問語英語、あるいはフランス語で論文を著す学者が多い。同じ中国仏教を研究する学者間の共通な言語が英語しかないというのは遺憾に思う。二〇世紀の前半にはしばらく違う考え方が現われそうであったが、長続きしなかったのは残念である。日本では一九一八年(大正七年)大村西崖が『密教発達志』を漢文で著したが、この本が密教に関する基礎的な入門書として今でも示唆する。著者が前書きで説明するように、この研究論文を漢文でしたためた理由は日本語が日本以外の国ではあまり読まれないのに対して、密教に興味のある人ならば皆漢文が読めるはずである、ということであった。また奇遇にも、ちょうど同じ年、戦前の朝鮮では李能和という学者が『朝鮮仏教通史』上下二巻を著した。彼は序文で大村西崖と大体同じ理由を挙げて漢文を選んだ意図を説明している。もちろん当時の政治状態から見て、彼が日本語で書く気にならなかったのは自明である。同じ年に、日本人と朝鮮人の学者が仏教学論文を同じく漢文でしたためたことに大きな意味があると思う。新しい学問と伝統的な知識が睦まじく融合して、極東の学問の新時代の濫觴と思えたであろう。また馮友蘭という有名な中国の哲学者が『中国哲学史』上下編(一九三〇、一九三四年)を大変正確な、読みやすい文言体で出版した時、文言体でも新しい学問に応じた標準にしたがって研究を進めることができる、もう一つの輝かしい証拠を世に見せた。
  残念ながら、その学者の漢文文化圏の発展は続かなかった。今日では、意義のある学問的な漢文の出版物が台湾と香港にしか殆ど見られない。けれども東亜の国々だけでなく、欧米を含めて、現代ほど漢文資料を専門に研究している学者が多くいるのは曾てなかった。職業的に漢文を専攻している人は国境を超えて、大勢の言語集団をなしている。なぜ彼等は自分の全ての研究を漢文で書かないまでも、その総合的な部分だけ時々漢文で著さないのであろうか。あるいは中国学などの学問誌の論文に簡単な漢文の要約をつけたら専門家には英語より読みやすいのではなかろうか。
  またここでもインターネットをより有効に使用してほしい。インターネットは世界の東亜文化の学者たちのため、曾てなかった情報交換の広場とすでになっているが、漢文を使えばより深い交流ができるであろう。特に専門用語をそのまま使うことによって遠回りをせずに直接資料扱いが許される。
  もし実際にインターネットで漢文の筆談を行おうとすれば、何よりも簡潔な文体が必要である。自分の博学を見せびらかす機会にするのでなく、有意義な交流を第一の条件にすべきである。漢文関係のフォーラムを設立して、それぞれの研究専門について簡潔な漢文で筆談(網談)をすれば、斯界の国際関係に今までと異なった側面を見せそれに光をあてるのではないかと思う。
  将来の「網談」の可能性を具体的な例を以て明らかにするため、ここに江戸初期の儒者、藤原惺窩全集に収まっている「朝鮮役捕虜との筆談」の抜粋を紹介したい。豊臣秀吉の朝鮮役(慶長役)の時、日本に朱子学を伝えたことで有名な惺窩は朱子の教えを、捕虜になった朝鮮の知識人(姜■)から習った事実は広く知られている。二人の初対面の記録は幸いに現代に伝わっていて、筆談の素晴しい例文となっている。ここで最後の一部分を引用する。この文章の書き下しがないので、私の知っている限り、自分の下手な訓読みを加え、現代語の略訳も試みてみた。

朝鮮役捕虜との筆談

(『藤原惺窩集』巻下、思文閣、三七四ー五ページ)

(現代語訳)

惨めな境遇でありながら、人情に溢れるこの筆語は現代のインターネットで「網談」の見本になりえるのではなかろうか。時代が変わっていても、東アジアでは漢文は理想的な情報交換と文化交流の手段となり続くのであろう。

結論に代えて

 いったい何故ひとりのフランス人が漢文の存続をこんなに熱心に奨励し弁護するのであろうか、という疑問を発する読者も多くいるのではないかと思う。おせっかいと思われるかも知れない。日本人、韓国人、中国人が快く漢文を棄てていく時期に、言葉の自然な成り行きに、なぜまかせず無理に反対するように復古を望み、さらに激励する必要があるのであろうか。私は学生時代から日本漢文に親しんできた、それが日本で軽視されているのを見るにつけていたたまれず、と いうだけでは説得力が乏しいが、むしろ漢文を復興する理由は二通りあるという事実を明らかにしようとした。漢文は数千年前からユーラシアに通じる「聖語」(hieroglossia)という全体的現象の一面として重視に値す るものである。ほぼ四千五百年前から(メソポタミアにおけるスメル語の時代から)現代に至るまで(アラブ語とイスラム文化圏)続いているこの歴史を消滅させてしまう理由はない。かつてなかった新しい条件の下で古代 言語の使用がどのように発展するか、という実験を試してみたいのである。漢字という文字を共有していながら漢字文化圏の国々には、いまそれぞれ文化的に大きな壁がある。英語を共通語にすれば、いわばその遺産を取り消すことを意味する。しかし、漢字だけではどうにもならない。漢字を生かす唯一な方法は漢文にある。漢字文化圏を漢文文化圏の次元まで進めなければならない。もちろん、東アジアの人口が皆漢文を習得しなければならないといっているのではない。話を日本にだけに狭めてみると、二十年前に行われたように漢文教育の範囲を、高等学校の必須科目に戻すぐらいで充分だと思う。ただ、教育の内容をもっと積極的、活動的にすることだけをすすめたい。一億二千五百万人の日本人に皆漢文で 書けということではない。十万人に一人が漢文で書く意志を抱くようになれば、全国で一千二百人ぐらいの人が活用できる。全東アジアを含めれば、大体一万五千人にはなる。一万五千人もいれば、二十一世紀に入ってからでも、長い漢文の歴史の新しい一章を書くことも出来るのではないかと思うのである。

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