『菊と刀』 のうら話(Behind the Scenes of “The Chrysanthemum and the Sword”)

Pauline KENT(ポーリン ケント) 龍谷大学助教授

はじめに

 私が初めて『菊と刀』を読んだのは大学四年生の時でした。西洋社会の「罪の文化」と日本社会の「恥の文化」の比較をしたらどうかと指導の先生に言われて、『菊と刀』を卒業論文の出発点にしたのです。卒業論文では宗教および文学の観点から罪と恥の比較をし、大学院では中世イギリスにおける罪と恥の意識を調べましたが、『菊と刀』はメインテーマではありませんでした。
  しかし、日本では「恥の文化」といえばどうしても『菊と刀』を連想してしまい、「それじゃ、ルース・ベネ ディクトってどんな人でしたか」とか、『菊と刀』について質問されても返答できないことが恥ずかしく、ルース・ベネディクトや『菊と刀』について研究するようになりました。調べていくうちに『菊と刀』の裏にある研究状況もわかってきましたので、ここではベネディクトという人を紹介しながら、彼女が戦争中にどのように日本のことを研究したかをクリアにしたいと思います。

ルース・ベネディクト

 資料 (付録一) には、ベネディクトの経歴と主な研究業績が書いてあります。それを見ていただきますと、ベネディクトは文化人類学者で、名門コロンビア大学でずっと教えていたことがわかります。日本ではほとんど『菊と刀』を書いた人としてしか知られていないのですが、実は文化人類学者として大変な影響力のあった人で、 それだけ活躍していたからこそ『菊と刀』を書く機会が与えられたとも考えられます。この点が日本ではあまり知られていませんので、ベネディクトという人をまず紹介しましょう。
  ルース・ベネディクトは、一八八七年六月五日、ヴィクトリア時代に生まれた女性です。日本で言うと明治二〇年生まれの女性です。こんなに有名な著作だからベネディクトというのは、当然男性であると考える日本人が多いのですが、これは偏見です。また、家柄がよく上品な人だったようです。祖先はメイフラワー号でアメリカに最初にわたってきた熱心なバプティストの一人でした。祖父やおじは牧師でしたが、幼いルースにとって、この人たちがあれだけ熱心に説教するわりに、やることと言うことが時々一致しないのは何故だろうかと考えることがあったようです。
  母親は当時の女性としては珍しく、名門ヴァッサー女子大で大学教育を受けています。この大学では多くのアメリカのお嬢さんたちが教育を受けてきました。元大統領夫人のジャッキー・ケネディから女優のメリル・ストリープまで最近だけでも多くの有名人が卒業生にいます。また日本とも縁がありまして、津田梅子とともに明治時代最初の女子留学生だった山川捨松(後の大山巌夫人)がこの大学を卒業し、日本の女性として初めて海外で学位を取っています。後にルースも妹と共にヴァッサーで勉強するようになりますが、これについては後でふれます。母親はこのように大学を出ていましたのでインテリとも言えるし、教育熱心な人でした。母親は結婚して二人の子供をもうけ、また父親は当時の医学界 (ホミオパシー) で若きホープとして期待され実験的にいろいろな手術の可能性を探っていました。しかし、当時は手術技術やその衛生状態についてあまり知られておらず、ある時、注射針から逆に傷を負い細菌体に入って父親は病気になり、カリブ海の暖かい島へ行ったりした保養のかいもなく、ルース二歳、妹マージェリー生後二ヶ月の時に亡くなります。
  父の死後、幼い子供二人は母親とその実家で生活します。これはニューヨーク州の北の方にある牧場でした。そこに祖父母、母の兄姉など親戚が大家族で生活していました。後にルースは学校に入る時に身体検査を受け、初めて難聴ということがわかるのですが、それまで家族の中では、あまり返事をしないむずかしい子だと思われていました。それと比べて、妹のマージェリーの方は明るく、お手伝いもよくするかわいい女の子だったようで、ルースとは対照的な存在でした。耳がよく聞こえないルースにとって大家族は非常にうるさいもので、誰が何を言っているのかよく区別のできない環境でした。彼女はなぜ自分が悪いのか、どうして妹だけがかわいがられるのか、などの疑問を小さい時から抱くようになります。
  母親がインテリだったことが救いになったのかも知れません。母親は再婚せずに自分の家族を養おうと決め、子供を連れて実家から離れ、教員や図書員をして生活費を稼ぎました。そしていい学校を選んで働きましたので、子供たちはそこに安く入れてもらえました。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、いわゆるお嬢さん学校に通うことができました。また、難聴の問題がわかると母親はルースに作文を書かせ、それを読んだ母やおじが誉めたことで、ルースは書くことによって自分を表現できることがわかってきます。作文の他に彼女は詩にも興味を持ち、心の本質的な部分を文章で表現して聞こえないフラストレーションからある程度解放されるようになります。このようにルースにとって文章で情報の本質を正確に伝えることが大変重要で、若いときから「書くこと」の技術にも気を配りました。これは後の研究の成果に大きな影響を与えることになります。たとえば、『菊と刀』は翻訳ではわからないかも知れませんが、原文の文章、それから構成が非常によくできています。やはり、難聴というハンディを抱えていたので書くことに大きな力を入れ、そのために文章がコンパクトで読みやすいものになったのではないかと考えられます。
  母親のおかげでルースとマージェリーはよい学校でよい教育を受け、優秀な成績で高校を卒業し、二人同時に 奨学生として一九〇五年にヴァッサー大学に入学します。転校しているうちに年齢の異なる二人は同学年になっていたのです。ヴァッサーでルースは文学を専攻し、ファイ・カッパ・ベータ(最優秀の成績) で一九〇九年に 卒業します。妹は大学で社会活動 (ボランティア) によく参加し、活動中に若い牧師さんと恋をし卒業後すぐに 結婚してカリフォルニアに引っ越します。ルースは卒業後一年間二人のお金持ちのお嬢さんとヨーロッパを旅行することになります。これは成績優秀なルースに「足長おじさん」が留学とホームステイの十二ヵ月旅行をプレゼントしたもので、相変わらず裕福でなかったルースには貴重な機会となりました。ヨーロッパでルースは初めて異文化と出会います。小さい時から自分の行動がいけないとか、いろいろな悩みを抱えていたのですが、ヨーロッパに行ってみたら、違うやり方や価値観など自分が育った環境とは異なる文化があることがわかりました。それまで他人と自分が一致しないことになんとなく負い目を感じていたのですが、必ずしも間違っているわけではないということに気づき、自分に自信をもてるようになってアメリカに帰ってきたのです。
  帰国後は社会活動などをしていましたが、母親と共に妹のいるカリフォルニアに引っ越し、文章の好きな彼女は高校の英文学の先生になりました。そして、一九一三年の夏休み、久しぶりに祖父母のいるニューヨーク州の牧場に帰ったとき、ヴァッサー大学時代の友人のお兄さんだったスタンリー・ベネディクトに紹介されて恋に落ち、翌年結婚しました。彼はコーネル大学の優秀な化学研究者でした。二人は新居をニューヨーク市郊外におき、彼女は専業主婦になります。しかし、子供を作るとルースの体に危険があるとわかり、スタンリーは子供をあきらめました。ルースも専業主婦だけでは満足できず、再び「書くこと」に挑戦し始めます。詩はもちろんですが、当時のフェミニストについても研究し、出版はかないませんでしたが、かなりの成果をおさめています。さらに勉学への意欲をわかせて、当時開講されたばかりのニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチ(社会科 学系の大学) に聴講生として通い始めました。そこで彼女は人類学という当時の新しい学問を学ぶことになります。彼女のすばらしい才能に気づいた教師は、さらにルースを、コロンビア大学教授で後に文化人類学の父とも言われたフランズ・ボアズに紹介しました。ルースは彼のもとで大学院生として研究を続け、なんとわずか三セメスターというはやさで博士論文を書きあげたのです。

マーガレット・ミード

 博士号を収得した後、ルース・ベネディクトはボアズの助手になりました。となりのバーナード女子大でボアズが非常勤講師をするのを手伝いに行くことになり、そこで授業をとっていた若いマーガレット・ミードと出会います。ミードはやがてコロンビア大学の大学院に進み、博士論文のためにサモアで調査を行い、その研究で一気に有名な文化人類学者になりました。当時の一九二〇〜三〇年代のアメリカにおいて「セックス」というトピックはタブーで、セックスを初めて意識するようになる思春期は青年にとって葛藤の時期と考えられていました。しかしミードは、サモアの若者が自由にセックスに慣れる環境におかれ、アメリカの若者のようにセックスや結婚について罪の意識や悩みを抱えることがないことを報告しました。これはアメリカ中で話題になり、ミードはよく講演を行ない、また研究の一環として女性の社会的地位についても論じ、初期のフェミニストとして大変な活躍をしました。
  結果的に、ミードは大変有名になりましたが、そのミードはベネディクトとともに初期の文化人類学の発展に大きく貢献し、セットとして考えられているようです。後に、ミードはベネディクトの伝記を二冊書いており、それを読まなければベネディクトを語る資格はないといっても過言ではありません。二人は終生、同僚であると 同時に親友でもありました。しかし、ミードはベネディクトとあまりにも親しかったため、伝記にすべてを書くことができませんでしたし、個人的な情報をある程度避けざるを得ませんでした。その上、『菊と刀』の時代に関して言えば、ミードが子供を産み、さらに戦時中のイギリスに出張したり政府の委員会等の仕事で大変多忙な毎日を送っていたので、ミードはベネディクトの戦時中の研究についてそれほど詳しくないようです。したがって彼女が描いたベネディクト像には一種のバイアスがかかっているといわざるを得ません。
  ミードにとってベネディクトはあこがれの対象だったために、いいところ、特に詩人のベネディクトを強調する傾向がありました。ベネディクトは詩を書くのが上手で雑誌にも載ったことがありましたが、ミードは大学時代から詩を書くことが好きでもそんなに才能があったわけではないようです。それでも、伝記ではベネディクトの「詩人的」な才能を強調することによって、自分にも詩を書く才能が少しあったことをアピールしようとしています。やがてこの少しオーバーに紹介されたベネディクトの趣味が日本で誤解を招くことになります。
  一九八一年に津田塾大学教授ダグラス・ラミス氏が、ミードの伝記にもとづいて『菊と刀』は「詩人ベネディ クト」によって書かれたものだとし、直感的に書かれたとか政治文学だとかいって批判していますが、これは間違った解釈だと考えられます。残念ながら、彼の著書『内なる外国「菊と刀」再考』は多くの日本人によって読まれ高く評価されていますが、やはり元のデータを提供したミードにだまされていると私は思います。

ミードとベネディクトの関係

 ベネディクトとミードは対照的な二人で、まずベネディクトはミードより十五も歳上です。それからベネディ クトは背が高くスマートでスポーツも上手で、非常に穏和でシャイな性格の持ち主でした。いろいろな人がベネディクトについて書いていますが、必ず書くことは彼女が美人だったということです。これと比べて、ミードは背が低く、スポーツをできるだけ避けるタイプでした。出しゃばりで、話題の中心となることが大好きなタイプでした。また、私が読んだものの中では、美人の「び」の字も見つかりません。とにかく、二人の関係は非常に 面白く、最初は学生と先生の関係から始まり、次にミードもコロンビア大学の大学院に進み博士号をとると、ベネディクトと一緒に仕事をするようになります。博士号をとるまでミードはベネディクトのことを必ずミセス・ベネディクトと呼んでいましたが、学位を取ってからはファースト・ネームで呼び合います。友人それから同僚という関係になり、伝記ではミードも秘したままですが、一時的に同性愛の関係を結びます。ミードはいつでもいろいろな人と関係をもちたいタイプで、三角関係も少なくなかったようです(Caffrey, 1989 : 201-202) 。ミードは三回も結婚しましたが、ベネディクトの場合、スタンリーとうまく行かなくなり、一九三〇年に別居しますが離婚しません。やがてスタンリーは一九三六年に若くして亡くなります。生涯でベネディクトは二人の女性と生活を共にしますが、まず自分より若い人、そして別れてしばらく後には心理学の専門家と一九四〇年頃から一緒に住みます。これも次々とパートナーを変えたミードとは対照的に、長く安定した関係でした。
  五〇年代のアメリカで二人の同性愛を明らかにしたらミードの社会的評判はがた落ちだったに違いなく、ミー ドも秘密を明かさないように、たとえば詩によって結ばれた関係のみを強調しています。したがって、ミードが書いているものをそのまま鵜呑みにはできません。ミードの伝記を拠り所にするラミスの著書も注意して読む必要があります。ラミスの議論を要約すれば、ベネディクトは詩人と人類学者の二重人格者であり、優位となった「詩人の人格」がその理想を日本文化に投影しようとするあまり、データを操作して日本文化論をつくりあげた、それゆえ『菊と刀』は非学問的な、アメリカ流デモクラシーのプロパガンダにすぎないというのです。しかし、詩人の理想「日本文化」と政治的文学『菊と刀』との関係は不明確で、ラミスが根拠としているデータこそ、かなり恣意的に操作されています。そもそもラミスは、ベネディクトの残した一次資料を用いず、マーガレット・ ミードがベネディクトの遺稿を編纂したものを「孫引き」しているに過ぎません。彼は、ミードが強調したベネディクトの若い時代すなわち「詩人としてのベネディクト」に関する部分をピックアップし、『菊と刀』等を執筆した晩年のベネディクトに関する部分は無視しています。若い時代からベネディクトと同性愛を含めて親密な関係にあったミードによるベネディクト論のバイアスに、ラミスはまったく気づいている様子がないのです。

ベネディクトの業績

 ベネディクトの話に戻りますと、ベネディクトは小さいときから難聴などいろいろなことについて悩みました。そして、同性愛者に対する社会のタブーについても考えさせられます。また当時は女性であるだけで、仕事をもったり昇進することはむずかしかったのです。ベネディクトはさまざまな差別や価値観の違いに直面していたからこそ、文化人類学者としてさらに深い理解力を得たのではないかと思います。さて、ベネディクトは博士号を とってすぐにボアズの助手になりましたが、別居するまでは夫の収入があるということで、ボアズは彼女を専任教員として雇いませんでした。一九三〇年に別居して、ようやく専任講師になり仕事に拍車がかかります。論文を次々と発表し、一九三四年に文化人類学では古典となった『文化の型』を出版します。これは今でも人類学では大学のテキストとしてよく使われるもので、これは文化概念についての考えに大きな影響を与えました。
  やがて、ヨーロッパの方で第二次大戦が始まり、ヒトラーは人種主義的なプロパガンダをもとにユダヤ人や障害者、黒人、同性愛者を虐殺します。ユダヤ人のボアズはすでに一九三三年からいろいろな反対運動をやっていました。彼は人種とは何か、人種は文化とどう異なるかについて論文集『人種、言葉と文化』(Race, Language and Culture, 1940)を出版しましたが、これは学問の世界ではともかく一般読者にほとんど読まれませんでし た。以前より、彼は自身の限界とベネディクトの文章の才能をよくわかっていたので、誰でも読める人種に関するわかりやすい本を書くように頼んでいました。ちょうど大学の方ではすでに引退していたボアズの後任の主任教授の人事を行っている時でした。ベネディクトが二年も主任代理をやっていたのに、女性ということで、シカゴ大学からラルフ・リントン (男性) を迎えることになり、それに不満なベネディクトはサバチカル (研究休暇) を取り、『人種主義 その批判的考察』(Race:Science and Politics, 1940) を執筆したのです。ベネディク トは、主任代理になった一九三七年に準教授に昇進していましたが、主任のポジションを見送られた後、教授になるのは亡くなる二ヶ月前の一九四八年七月でした。優秀な学者として尊敬され、よく知られていたベネディクトでしたが、女性であるだけで大学内では業績に見合う地位を与えられなかったのです。

人種主義研究をめぐるトラブル

 著作『人種主義』の第一部で、ベネディクトは人種は単なる科学的分類にすぎないということを明らかにし、 第二部では人種主義というのは人種に対する差別というより、弱いものに対する差別、あるいは政治的にいじめたいものに対する差別だということを大変わかりやすく説明しています。そして、この著作が出版されると大変な評価を得ます。やがて、アメリカが第二次世界大戦に参戦することになり、人種主義問題は社会的にも大きくとりあげられます。一九四二年、コロンビア大学では人種主義対策の委員会が開かれ、パブリック・アフェアズという教育者と社会科学者の非営利組織が出版する月刊パンフレット・シリーズで、人種主義をとりあげること が決定されました。ベネディクトは同僚のジーン・ウェルトフィッシュ助教授と一緒にRaces of Mankind とい う著作を出すことになりました。それは翌一九四三年に出版され、十セントという安い価格で広く求められるよ うになりました。内容的にも、マンガ入りの口語体で書かれ、人種偏見は不安による恐怖から生まれ近代以降大きくなった社会病理であると説明されています。また、ユダヤ人やアジア人に対する偏見がおもに取り上げられていますが、アメリカにおける黒人差別にも注目しています。
  そこで彼女たちは、第一次世界大戦中、百万人のアメリカ兵を対象にした知能テストを例にあげ、黒人に対する差別の迷信を明らかにしました。テストの分析結果は白人より黒人の知能のスコアが平均的に低いことを示していましたが、その後、知能テスト自体に偏りがあること、環境によっては黒人のスコアが白人よりうわまわるケースがあることが証明されました。すなわち、教育機会のある北部の黒人は平均すると南部の教育水準の低い白人および黒人よりスコアが上だったので、人種による知能の差より環境による知能の差が示されたことになります。しかし、このパンフレットの内容が、後にベネディクトをトラブルに巻き込むことになります。発売後間もなく、米軍慰問協会(USO) はヒトラーのプロパガンダに対抗するため、アメリカの軍人にYMCAをつう じてこのパンフレットを配り始めました。ところが突然、USO会長のチェスター・バーナード (あの近代経営学の祖) が一九四四年一月、USOによる配布にストップをかけたのです。バーナードによれば、USOは国民 の税金によって運営されているのだから、このようなマイノリティーに偏向したパンフレットは配布できない、というのです。本当は内容よりその政治的影響を懸念したのでしょう。しかし彼のコメントが伝わると、マスコ ミはじめ世間に疑問の声があがりはじめ、二月には事態を重くみた陸軍省情宣局 (War Department, Army Morale Division) が、USOをつうじて陸軍の教育将校に配布する予定だったパンフレット五万五千部をワシントンの倉庫に引っ込めてしまったのです(Edwards 1945 : 167)。
  いったん収まりかけた騒ぎに再び火をつけたのが、下院軍事委員会の委員長でケンタッキー選出のアンドリュー・メイ議員です。三月六日、彼は南部選出議員の声に押され、改めて陸軍への配布を全面的に禁止するように訴えました。しかし、彼の行為は逆効果を生んでしまい、反対に四十あまりの学術団体が、パンフレットの内容は客観的事実を述べておりデモクラシーに貢献する内容だと反論したのです。マス・メディアも、メイ議員の行為は自由や真理を妨害隠蔽するものだと全国に報道した結果、さまざまな団体がパンフレットを大量に買い上げ、陸軍のみならず国会議員、市民一般にも配布することになりました。特に教会関係者は南部各州に集中的にそれを配布しました。おそらくメイ議員はパンフレットを詳しく読まず、配布中止になった理由もよくわかっていなかったに違いありません。あわてた彼は三月中に配布を止めなければ、パンフレットが書かれた政治的背景を 暴露すると脅迫めいた発言をしています。選挙を目前に控えていたメイ議員は、白人有権者にアピールしようと必死でした。実際には前の選挙で黒人から七千票を得たおかげで当選したにもかかわらず、追い詰められた彼はどうしてもパンフレット配布を禁止する理由が欲しかったのです。そこで軍事委員会の小委員会で、南部選出の同僚ダラム議員にパンフレットについての秘密審議を要求させ、パンフレット作成の意図が不明確で配布に値し ないという強引な報告を引き出しました。誤解、中傷だらけの報告であったにもかかわらず、メイ議員は南部選出の議員を代表して、このパンフレットは「共産主義のプロパガンダ」だと決めつけたのです。
  『人種主義』の方は高く評価されたにもかかわらず、同じ内容がパンフレットになっただけでなぜこれほどまでに非難されたのでしょうか。南部の議員たちの不満は北部の黒人の知能が南部の白人と変わらないという分析内容にありました。彼らはさまざまな反論をしてみました。たとえば、このパンフレットの内容は同棲や異なった人種間の結婚を拡大させるであろうとか、著者は共産主義者がよく利用するトピックス、たとえば政治、社会学、労働組合にとらわれて客観性をなくしている、などと難癖をつけ、あげくの果てに挿画のアダムとイブの二人の姿にへそがあるからけしからんなどと「反論」しました。この一見他愛もない苦情のかげには、さらに合理的な動機が隠されていました。それは、知能の差は環境の問題だとはっきりいわれると、北部に比べて南部では教育費をはじめとする福祉予算が少ないという印象をパンフレットが与えることになりかねず、結局は議員の能力が問題にされることになり困るというものでした。結局、Races of Mankind のパンフレットは百万部以上売 れ、広い範囲での知識の普及を達成することができました。そして後にマンガ、教育用の映画、子供の絵本、高校のテキスト、新聞や雑誌の短い記事などとしてこの内容が活かされました(Edwards 1945 : 168)。
  しかし、皮肉なことに、ベネディクトはそのために逆に差別の根強さを知らされることになりました。憎しみいっぱいの手紙が届き、ユダヤ人やニガー (黒人を指す差別用語)びいきだと非難されたり、国会では共産主義 の布教者と呼ばれました (Congressional Record ≪米国の連邦議会議事録、上院≫一九四四年、四四九五〜四五〇〇頁)。パンフレットで述べられた、不平等による恐怖とスケープゴートづくりから人種差別が起こるとの指摘が、見事にベネディクトとウェルトフィッシュにはねかえってきました。共産主義への「恐怖」が政治的に利用され、彼女たちが非難されました。ベネディクトは一九四三年六月から合衆国戦時情報局につとめ、そこで『菊と刀』のベースとなる研究を行うことになるのですが、着任後まもなく政治信条に関するさまざまな調査がおこなわれ、数ページにわたる回答を求められました。客観性を守ったベネディクトは最終的に信頼に足りる人物と保証されましたが、偏見に真正面からぶつかっていく彼女の勇気は一部の人々には恐怖でさえあったに違いありません。
  しかし、ベネディクトに関するでっちあげは終わりませんでした。戦後、マッカーシズムのもとで反共感情が 高まった一九五二〜五三年、共著者のウェルトフィッシュは二回も上院国家保安委員会で「破壊活動のプロパガンダ」と烙印されたパンフレットに関する審議に応じなければならず、すでに亡くなっていたベネディクトの政治信条までも問題にされたのです(Pathe1988: 377)。このような出来事は差別を支える迷信の強さを象徴して います。ベネディクトが明快に説明した迷信そのものが、彼女を叩くために使われてしまいました。しかし彼女の科学的なアプローチへの強い信念は、戦後に日本研究の古典となった『菊と刀』を生む原動力となるのです。以上のようなトラブルが起こっていた時、ベネディクトはもうすでにアメリカの戦時情報局(Office of War Information) で働いていました。大学でのぎくしゃくもあったため、一九四三年に情報局での文化研究を依頼された際にはすぐイエスと返事しました。しかし、戦時情報局員が「赤」といわれることは重大と受け止められました。先に述べたようにベネディクトの潔白は証明されましたが、国のためにできるだけ科学的で客観的なパンフレットを出したのに、政治的な理由で迫害を経験し、改めて差別やデタラメのプロパガンダの恐ろしさを知ったのでした。

米国戦時情報局

 ベネディクトは戦時情報局でまず東ヨーロッパとタイ、ビルマを調べて、その文化的特徴のレポートをまとめ ます。彼女は日本という敵国を研究するために情報局に雇われたのだとよくいわれますが、これは間違いです。おそらく、本人は局に入った時、そのうちに日本文化を研究対象にするなどとは予想もしていなかったでしょう。最初の一年間、彼女は敵国と味方の文化を研究しました。何故、味方のことを調べる必要があったのかといいますと、アメリカの軍隊がいずれその国にお世話になる時、文化的な違いによって変なトラブルが起こると必然的に「国際問題」になるからです。例えばオランダでアメリカの兵士がかわいい女の子を気軽にデートにさそうかも知れません。当時のオランダでは彼女の家まで迎えに行ってご両親に挨拶をすれば、たいてい結婚を申し込んでいるように受けとめられ、大きなトラブルにエスカレートする可能性がありました。だから、このような基本的な文化知識を軍隊のリーダーと兵士のために用意する必要があったのです。
  当然、戦争中なのでベネディクトはそれぞれの国に行って調べることができません。そこで彼女は、オランダ やルーマニアについて調べる際には、その国で育った人、あるいはその国で長く生活をしたことのある人に面接をしたり、アンケートに答えてもらったりして、できるだけ「生」に近いデータを収集しようとしました。もちろん、それぞれの国について参考文献を読み、歴史、習慣、制度、儀礼、文学等も調べながら調査に挑みました。だから、ベネディクトは現地でフィールドワークができなくても、かなりよいデータを集めるコツをこの仕事の間に覚えました。その後の研究対象には、ルーマニア、タイ、ビルマ、北欧、ドイツ、オーストリア、中国、ポーランドなどが含まれました。

海外戦意分析課 (Foreign Morale Analysis Division)

 一九四四年に入ると、戦争の中心がだんだんヨーロッパから太平洋の方へ移ります。そこで日本という敵国に ついて情報を集める必要性が生じ、夏から海外戦意分析課が設立されます。ここでは日本の軍隊と市民はいつまで戦う気かを予想することが仕事の中心で、文化人類学以外にも、政治学、社会学、心理学、日本のことをよく知っている日系人などの専門家三十人ぐらいが集まって課が構成されました(付録二)。ですから、ベネディク トが一人で日本のことを調べていたのではなく、大きな研究チームで行いましたので、早いペースでたくさんの情報を処理することができました。
  海外戦意分析課では、主に海外で捕虜となった日本の兵士の面接データを分析して日本人の考えていることを想定しました。例えば、日本人は天皇についてどう考えているかということも大きな課題でした。何千人のデータのうちの三千人ぐらいが天皇について何かをコメントし、そのうちたったの七人しか悪口を言っていません。ここから日本人にとって天皇が大変重要な存在であることが判明しました。連合軍にとって天皇はヒトラーのような存在で、当然死刑にすべきだと信じていました。しかし海外戦意分析課では、天皇を死刑にすれば日本の社会的秩序が一気になくなるだろうと予測しました。ちょうど終戦前、天皇の問題をどう扱うかを決める会議が行われ、情報局の代表として出席したのがレナード・ドゥーブ(Leonard Doob) という人だったのですが、彼女はベネディクトのことをよく知っていたしその判断力を尊敬していましたので、ベネディクトに相談しています。ベネディクトは、天皇を死刑にすれば日本人は絶望的になる、ヒトラーと同じように扱うことは事実の単純化にすぎない、などとアドバイスをしました。結局、会議ではプロパガンダで天皇の悪口を言ってはならない、天皇の死刑は占領に悪影響をもたらすだろうという方向づけがなされ、天皇を特別扱いにする結論となりました。戦後『タイム』誌にベネディクトの記事が載せられた時、見出しは「彼女が天皇を救った」(She saved the Emperor)となっていました。ベネディクトがどこまで決定に影響を与えたのかはっきりしませんが、そのアドバ イスが何らかの形で高いレベルに届いたに違いありません。海外戦意分析課には捕虜の面接以外にも、日本の新聞やラジオ放送、兵士から没収した日記や手紙、あるいはときどき入ってくる軍事機密などの情報が、連合軍の最新情報とともに入ってきました。課では「日本人はどこ まで戦う気か」を分析しながら、日本の兵士に「早く降参しよう」というパンフレットやチラシをまきました。日本人に最も説得力のあるメッセージとはどんなものかを探るのも海外戦意分析課の仕事でした。そこでベネディクトは主に新聞報道やラジオ放送を担当していました。アメリカでは日本人はわけの分からない人たちで、天皇のために自分の命がなくなるまで戦う恐ろしい敵だ、というイメージが非常に強かったのです。この「わけのわからない日本人」を説明するために、他の研究者は日本人の性格が強迫的なので攻撃的になる(Gorer 1942; LaBarre 1945) とか、アメリカの十代の青年と同じぐらいの精神年齢なので、十代の青年として調べたらわかるだろうとか、暴力団の心理に似ているからギャングと比較できるだろう(Mead 1944) とか、まさに「訳の分からない研究方法」を用いて日本人の性格を解明しようとしました。つまり、西洋社会で発達した理論や方法を、西洋社会で適用する心理学的な方法と同じように、日本社会に適用しようとすれば、当然、結果的に日本人は 「アブノーマル」に見えてきます。しかし、ベネディクトは自分のそれまでやってきた文化人類学の研究から、日本人には安定した文化的なパターンがあるとわかっていたので、日本人の行動をアブノーマルなものとして受け取るのではなく、日本人にとってその行動にどのような意味があるのかということを探ろうとしました。

レポート二五号

 情報やプロパガンダについてベネディクトは多くのレポートや覚え書きを書きましたが、戦争が終わりに近づくと、戦後の日本の占領政策についても考える必要があることが明らかになりました。そこで海外戦意分析課では日本人の基本的な文化的行動、あるいは文化的パターン、価値観についてのレポートがあれば大変役に立つだろうと考え、その専門家として認められていたベネディクトにレポートの作成を指示しました。レポートは最終的に五七ページとなり、「レポート二五号―日本の行動パターン」(Report 25: Japanese Behavior Patterns) というタイトルがつけられました。そこでは恩と義理、義務、人情というキータームについて論じられていますが、このレポートが後に書かれる『菊と刀』の原型となります。ベネディクトが海外戦意分析課に入ったのは一九四四年九月上旬で、このレポートが提出されたのは終戦前でした。つまり、ベネディクトが日本文化を研究できる期間はたったの一年間、しかももっと驚くべきことは、このレポートがわずか二カ月ぐらいで書き上げられたことです。レポートの日本語訳は最近出版されましたが(『日本的行動パターン』NHKブックス、一九九七年)、 今までその存在についてはあまり知られていなかったのです。ヴァッサー大学の図書館とアメリカの国立公文書館に今でも保存してありますが、『菊と刀』の完成度が高いので調べる必要はないと多くの人が思ってきたようです。しかし、この資料が掘り起こされたことによって、『菊と刀』がさらに面白く読めるようになったと感じます。
  情報局で、ベネディクトは限られた情報で、短い間に、様々な文化の特徴を分析する「練習」を重ねていきました。情報を理解するために、まずいろいろな文献で調べてから面接調査でその情報を確認しました。日本文化を研究する際に、彼女が特に頼りにした日系人がロバート・ハシマ(Robert Hashima) です。同僚のハシマはベネディクトがなくなってからその追憶を書いています。それによると、ベネディクトは夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ時に日本人の文化的な特徴についてヒントを得たそうです。彼女は日本人の倫理システムを明らかにしようとしていましたが、そのベースとなっているものは、恩と義理と義務の複雑な関係だと考えついたのでした。彼女は早速ハシマにいろいろ具体的な質問をしました。まず、彼女はカギとなる概念について日本語で何というのかと聞き、その言葉がどのような文脈において使われるかを確かめました。彼女は英語に訳された、英語の意味のままで受け取らないで、日本語とその言葉の意味を日本人と同じように理解しようとしました。そして、ハシマ自身の体験の中で、この恩と義理と義務関係に関するエピソードがあればそれを教えてくれと頼みました。ハシマだけでなく、他の日系人や日本に住んだことのある人にもこのような質問をしました。『菊と刀』を読むとたくさんの具体例がでてくることに気がつくでしょう。また、彼女は日本の映画を資料として利用することもありました。映画を見る時に日系人と一緒にみて、彼らが自分と違った反応をする箇所があるとそこをマークし、後で何故日本人がそのような反応をしたのかを探りました。それで、日本人とアメリカ人との根本的な違いについていろいろ理解することができました。ベネディクトはたえず情報をできるだけネイティブに近い人に確認し、あるいは海外戦意分析課の専門スタッフと相談しながらこのレポートを書きました。だから、レポートはチームによって書かれたと言ってもいいでしょう。『菊と刀』の下書きを見ますと第一章ではまず「I」(私) とタイ プしてありますが、彼女はその第一章のすべての「I」を鉛筆で「WE」と書き直しています。つまり、このチームで書いたよということを示したかったのだと思いますが、最終的に出版社は「I」のままにしておくことにしました。
  この「レポート二五号」と後に書く『菊と刀』には異なるところがいくつかあります。まず長さがずいぶん違いますので、同じものではないことがすぐわかります。『菊と刀』では、最初の部分、研究方法と歴史的背景という部分、それから最後の子供のしつけに関する「子供が学ぶ」の各章と最終章を後からつけ加えています。それは一般読者のために日本の歴史的な事情や子供の性格形成などを示そうとしたのです。そうすることによって、今まで恐ろしい敵だった日本人は、「訳の分からない奴」ではなく理由があって行動をする人間なのだ、という説得力のある説明が可能になりました。『菊と刀』を書いた目的は、敵の日本人が実はアメリカ人と同じような人間だということを普通の人に理解してもらうことでした。アメリカの文化的行動についてもたくさんの例をだ し、アメリカ人に訳の分からない習慣が多くあっても自分たちの文化的文脈内で矛盾がないように、日本人の一見不可解な行動も日本人にとっては合理的なのだということを知らせたかったのです。
  これと比べてレポートの目的は違います。レポートは終戦前に書かれていますので、二つの目的がありました。まず、できるだけ早く戦争を終わらせること、それはもちろんできるだけ人が殺されない方法で。もう一つは、占領軍が日本に入った時に日本人とどのように接したらよいかを明らかにすることでした。そのためには、プロパガンダによって描かれていた日本人像はどこが間違っていたかをはっきりさせる必要がありました。つまり、日本人はサルだとか、精神的年齢が低いなどのイメージが強かったのですが、そのイメージで終戦後に日本人に接したらトラブルが起こるだけだからです。そこで彼女が強調したのは日本人の責務体系でした。つまり、その恩、義理、義務などの倫理システムを説明して、ほらこれだけ日本人はモラルの高い国民だ、とアピールしようとしたのです。そして、日本人は状況に応じて行動を変えることが得意なので、きっとこれから平和な世界をつくるために働いてくれるに違いない、とレポートの最後で主張しています。つまり、ベネディクトが言いたかったことは、日本人は一応、理由があって戦争を起こしたのであり、それに対して「アメリカが正しい価値観を教えてやる」という態度で占領したら、何も改善されないということで、できるだけ日本人の立場を理解した上で改革などをめざすべきだということを占領にかかわる人々に印象づけたかったのです。結果から言うと、レポートのメッセージはアメリカ側にもうまく受け入れられ、日本でも『菊と刀』が今でも読まれ続けられているところをみれば、ベネディクトが日本人の行動についてカギとなるところをついていたと言ってよいでしょう。

(付録一) Ruth Fulton Benedict の経歴

経歴
父 Frederick S. Fulton, 外科医 (1857−1889)
母 Bertrice Shattuck Fulton, 教師、後に司書 (1860−1953)
1887・6・5 ニューヨーク市に生まれる
1888−1894 Shenango Valley, ニューヨーク州、 母系の祖父・祖母<John Samuel Shattuck (1827−1913)and Joanna Terry Shattuck (1827−1909)>のShattuck Farmで生活する
1889・3・26 父の死
1894−1895 Norwich, ニューヨーク州、母は教師になり、Hettie Shattuck (母の姉)が家庭の世話をし、二人姉妹が学校に通い始める
1895−1897 St.Joseph, ミズーリ州、母の仕事でミズーリ州に引越、Aunt Hettieも一緒
1897−1899 Owatonna, ミネソタ州、母はPillsbury Academyの「婦人校長」になり、ミネソタ州に引越、Aunt Hettieも一緒、二人姉妹がPillsbury Academyに転校
1899−1911 バッファロー、ニューヨーク州、母はBuffalo Public Libraryの司書になりバッファローに引越、 Ellis Family (Aunt Mamie, 母の妹とそのご主人 Uncle Will) のアパートの上に住む
1900 Aunt Hettieの死
1902−1905 二人姉妹がSt.Margaret's School for Girlsに転校
1905−1909 二人姉妹がVassar Collegeに通う
1909−1910 ルースはKatherine NortonとElizabeth Atsatt (カリフォルニア州出身)とヨーロッパの旅行、妹のMargeryがRobert Freemanと結婚
1910−1911 バッファロー、ニューヨーク州、ルースは母と生活し、Charity Organization Societyに勤める。
1912 ロス・アンジェルス (カリフォルニア州) ルースはWestlake School for Girlsで教え、母は次女のMargery FreemanとPasadena (カリフォルニア州) で生活する
1912−1914 パサディナ(カリフォルニア州)ルースはOrton School for Girlsで教える
1914・夏 Stanley R. BenedictとShattuck Farmで結婚式をあげる
1914 ニューヨークに住み、後にルースはボランティアとしてState Charity Aid Associationで働く
1919−1921 New School for Social Researchの聴講生になり、人類学者のElsie Clews ParsonsとAlexander Goldenweiserの授業を受ける
1921−1922 コロンビア大学に編入、人類学のPh.D.を3セメスターで収得
1922−1923 ボアズの助手としてBarnard Collegeで教える
1923−1931 コロンビア大学で人類学の非常勤講師になる (ずっと一年単位での契約)
1923−1924 コロンビア大学Extension (サマー・スクール) でFine Artsを教える
1926・夏 Stanleyとヨーロッパを旅行する、International Congress of Americanists in Romeにも出席
1926−1927 Barnard Collegeで人類学の非常勤講師を務める (Gladys Reichard の代わりに)
1930 Stanleyと別居
1931−1937 コロンビア大学、人類学科の専任講師
1932・6 『サイエンス』誌はベネディクトをアメリカでのトップ5人の人類学者の一人として選ぶ
1933・3 『タイム』 誌はアメリカのトップ科学者の三人の一人としてベネディクトの名前を挙げる
1934・10・11 Patterns of Culture (『文化の型』) が出版される
1934・12・18 The New York Academy of SciencesのFellowとして選ばれる
1935・9 Zuni Mythology が出版される
1936 Stanley Benedictの死
1936・7・1 人類学科の主任代理になる (一年間)
1936・11・2 コロンビア大学の哲学・政治学部でテニアを得る
1937−1948 コロンビア大学、人類学科の助教授
1937−1939 人類学科の主任
1938・夏 Guatemalaへの旅
1939・9 Ralph Linton は人類学科の主任教授になる
1939−1940 サバチィカルをとり、パサディナ、カリフォルニア州でRace: Science and Politics (1940) (『人種主義その批判的な考察』)を書く
1941 Bryn Mawr College: Anna Howard Shaw Memorial 講師 (6週間、シナジー(synergy)についての講義)
1942 Shattuck Farmのほとんどを売り、所有していた牧場の家を改築し、そこでAunty My (Myra Shattuck,母の妹) が住み、ベネディクトはそこで休みを過ごす。
1943 パンフレット Races of Mankind が出版される
1943−1945 ワシントン、戦争情報局、海外情報部、基礎分析の長
1944−1945 戦争情報局、海外戦意分析課、社会科学分析者 併任、Washington School of Psychiatryの非 常勤講師
1945・8 Aunty Myの死
1945−1946 休暇を取り、パサディナ (カリフォルニア州) でThe Chrysanthemum and the Sword, (1946) 『菊と刀』を書く
1946 コロンビア大学に戻る 1947 Columbia University Research in Contemporary Culturesの所長(Office of Naval Research Contract for Cultural Study of Certain Minorities of European and Asiatic Origin in New York City)
1948・7・1 コロンビア大学、人類学科の教授になる 夏 UNESCO Seminar at Podebrady Czechoslovakia; ヨーロッパ旅行
9・17 ルース・ベネディクトの死、ニューヨーク市

学位、賞、役職
1909 B.A., Vassar College, Phi Beta Kappa
1923 Ph.D., Columbia University
1927−1929 President, American Ethnological Association
1934 Fellow, New York Academy of Sciences
1944 Award of the C.I.O. Committee to Abolish Racial Discrimination
1945 Fellow, Washington School of Psychiatry
1946 Vice President, American Psychopathological Association American Design Award for War Services Achievement Award, American Association of University Women
1947−1948 President, American Anthropological Association
1947 Fellow, American Academy of Arts and Sciences D.Sc., Russell Sage College
1948 Award of the New York Committee of the Southern Conference of Human Welfare
1952 Posthumous award of the Institute of Design of Illinois Institute of Technology (for film Brotherhood of Man, based on pamphlet Races of Mankind, written with Gene Weltfish.)

編集
1925−1939 編集者、Journal of American Folk−Lore.
1936−1940 編集者、Columbia University Contributions to Anthropology.
1937−1945 編集委員、Character and Personality.
1941−1942 編集委員、Frontiers of Democracy, P.E.A.
1942−1944 編集委員、American Scholar.
1946 編集者、Psychiatry.
編集委員、William Alanson White Psychiatric Foundations.

フィールドワーク
1922 Serrano.
1924 Zuni.
1925 Zuni and Cochiti.
1926 Pima.
1931 Mescalero Apache, student training direction under auspices of Southwest Laboratory of Anthropology, Santa Fe.
1939 Blackfoot, student training direction under joint auspices of Columbia University and University of Montana.

著書とモノグラフ
1923 “The Concept of the Guardian Spirit in North America,” Memoirs of the AmericanAnthropological Association, XXIX: 1-97.
1931 Tales of the Cochiti Indians. Bureau of American Ethnology, Bulletin XCVIII.Washington.
1934 Patterns of Culture. Boston and New York, Houghton Mifflin. 『文化の型』
1935 Zuni Mythology, 2 vols., Columbia University Contributions to Anthropology, XXI. New York, Columbia University Press.
1940 Race: Science and Politics. New York, Modern Age Books. (Rev. ed. with Races of Mankind, New York, Viking, 1945.) 『人種主義その批判的考察』
1946 The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture. Boston and New York,Houghton Mifflin.『菊と刀』
(Mary E. Chandler for “Ruth Fulton Benedict, 1887-1948,” by Margaret Mead,American Anthropologist, Vol. LI, No. 3 (1949): 457-68; Margaret Mead, An Anthropologist at Work, Greenwood Press, 1977参考)

(付録二)
Office of War Information, Bureau of Overseas Information,
Foreign Morale Analysis Division (FMAD)
戦時情報局、 海外局、 海外戦意分析課のメンバー

Sponsoring Committee
Dr. George E. Taylor (Historian, Far East) Deputy Director for the Far East, OWI
Colonel John Wesley Coulter (Human Geography) Chief of the Sociological Branch,Military Intelligence Service, War Department General Staff
Colonel E. W. Gibson (Lawyer/Republican Senator) Supervisor of Research, Military Intelligence Service, War Department General Staff
Dr. Harold M. Vinacke (Historian, Far East) Chief of the Japan Section, OWI

FMAD Members

Personnel from the OWI
Dr. Clyde Kluckhohn (Anthropology)  Co-Chief of the Division
Dr. Morris Edward Opler (Anthropology) Assistant Chief
Dr. Ruth Benedict (Anthropology) Senior Analyst
Dr. John Embree (Anthropology) Senior Analyst
Dr. Frederick Hulse  (Anthropology)  Senior Analyst
Dr. Dorothea C. Leighton (Psychiatry&Anthropology) Senior Analyst
William M. Doerflinger (Journalism) Editor
Dr. Katherine Spencer (Anthropology)  Analyst, Supervisor of Processing
Royal Hassrick (Anthropology) Analyst&Processing
Iwao Ishino (Community Analysis, Public Opinion Surveys, Japanese Culture) Analyst&Processing
Dr. Herman Spitzer (Psychoanalysis) Analyst
Dr. Elliot Fisher (Sociology) Analyst&Processor
Yoshiharu Matsumoto (Community Analysis, Japanese Language&Culture) Analyst&Processor
Tom T. Sasaki (Community Analysis, Japanese Culture) Analyst&Processor
Toshio Yatsushiro (Community Analysis, Public Opinion Surveys, Japanese Culture) Analyst&Processor
Robert S Hashima (Japanese Language&Culture) Translator, Analyst&Processor
Rose Matsumoto (Japanese Language&Culture) Translator,&Processor
Florence Mohri Division Secretary&Stenographer
Frances Payne Division Secretary&Stenographer
Atsuko Aoki Translator, Typist
Helen Holt Clerk, Typist
Mrs. Edna L. Quillin Clerk (Research Assistant to RFB)

Personnel from Sociological Branch, Military Intelligence Service, War Dept. General Staff (MIS)
Lt. Col. Felix E. Moore, Jr. (Sociology&Statistics)Chief, Japan Section, Sociological Branch
Tech. Sgt. David F. Aberle (Anthropology) Propaganda Analyst
Tech. Sgt. Y. B. Goto (Japanese Language&Culture) Translator/Analyst
M/Sgt. Keith Kaneshiro (Japanese Language&Culture) Translator/Analyst
Agnes W. Brewster (Sociology) Propaganda Analyst
Mary E. Maltman (Sociology) Propaganda Analyst(Part-time)
Dr. George D. McJimsey (English Literature) Analyst&Processor
Edward K. Merat (Political Science) Propaganda Analyst
Jerodene E. Tuck Clerk,Typist (Part-time)
Roberta Garner Clerk,Typist (Part-time)
 
Personnel from the Navy
Commander Alexander H. Leighton*Chief of Division  Psychiatry&Anthropology
Lt. Marion Levy, Jr. Sociology
Commander George Townsend Lodge Psychology
Special Consultants (Sponsoring Committee)
Dr. Owen Lattimore Far East
Dr. Charles Hepner Japanese Language& Culture
John M. Maki Japanese Political Affairs
Liaison
Dr. Florence Kluckhohn(Sociology) Liaison with Office of Deputy Director for the Far East in the OWI