社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って―(Sumo as a Social Construction)

Francisco Javier Tablero(フランシスコ・ハビエル・夕ブレロ) 慶応義塾大学総合政策学部訪問講師

 何よりもまず、今日、私が日文研フォーラムで話す機会をつくって下さった、尾本さん、準備をして下さった臼井さん、そのご尽力に深く感謝いたします。

 相撲は、時代の変遷、社会的変化、政治的影響に従います。
  この明白な観察は、ほとんど認識されてきませんでした。相撲は、その周囲との依存関係から離され、純粋で自然、かつ不変な対象として、文献資料の中で理解されてきました。相撲は、太古の昔に由来する《隕石》のように、存続したものとして研究されてきたのです。
  独立した存在としての相撲を維持するために、重要な概念は、伝統です。伝統文化としての相撲は、それを推進する関係者だけではなく、相撲研究者、学術研究者、マスコミや外交関係者によって、明示されてきました。
  無論、この考え方は、政治的意味合いにおいて、非常に有益です。連続性の考えを強固なものにするだけではなく、支配的文化とのあらゆる共犯関係を隠すためです。伝統は、変化の重要性を軽視し、相撲を揺るぎない位置に置き、社会的現実とのつながりに関する研究を断念させます。
  この流れは、日本における相撲についての文献作りを完全に支配し、政治・文化的ナショナリズムの必要性と融合します。
  とはいっても、相撲が、古い伝統であったことはありません。その出自は、都市文化における、社会の最下層の娯楽です。鎌倉時代では、盗人、子女誘拐者、浮浪者、恐喝者と同列の扱いです。
  伝統は、現存する資料や、既に存在しなかったり、想像された資料を駆使した選りすぐった過程において、獲得されました。その昔からの性格を強調するために役だつものすべては、はっきりと目に見える形で、授けられました。
  選択の過程にはまた、意図的な忘却も含まれていました。理想像と矛盾するものや、新しいアイデンティティを強調するのに役立たないものすべては、視界から消され、忘却のかなたに追いやられました。
  明治42年(1909)、国技という新しい役割において、相撲はその出自を切り捨てる必要がありました。もし、伝統となりたければ、その起源をどこか別の所に求めなければなりませんでした。豊作を願う清めの儀式に、頃合な起源が見つかりました。皇室との提携は、社会の底辺とのつながりを、永遠に浄化してくれます。
  相撲を取る者は、《怪物》でも巨人や女であるわけがなく、横綱の位置づけに見られるように、神であり、最低限《強い武士》か《力・士》でなければなりません。
  その実践は、勝負を単に見せるのではなく、神聖なる儀式となります。ゆくゆくは、娯楽の世界に別れを告げることになるのです。現在では既に、伝統文化となってしまったのですから。
  私の最初の観察もまた、道具、飾り、紋章、服装、儀式、清め、数え切れない身体的な動きを検証することに、知らず知らず向けられました。その他に、あまたの《通》たちが、相撲の謎に関して、微に入り細にうがった多くの説明を無償で提供してくれました。その様々な解釈は、時間がたつにつれ、不信、深い疑惑の念を誘発していきました。その一例は、これから私が申し上げたいことの中で、浮かび上がってきます。

手刀

 私はフィールド・ワークをしている時、手刀にまつわる情報を入手しようとしました。私は、こうしたことに 最も通じていると言われる、親方の一人を選びました。
  私が受けた説明は、概ね次のようなものでした:「相撲界で、とても古くからある感謝の形である。右手の動きは天、大地、最後に懸賞を受け取る人間を示す」。
  それから、相撲記者クラブに属する新聞記者は、それとは異なる説明をしてくれました。彼の説は、「手の動きは、四つの方向を示す」というものでした。また、刀で切ることを表す、との説明をしてくれた人もいました。
  私は、同じ質問に関する説明内容の違いに納得がいかず、相撲の歴史の権威に相談をしました。それによりますと、手の動きは、勝利の三神、つまり、中央の天御あめのみ中主神なかぬしのかみ、右の高皇産巣霊神たかみむすびのかみ、左の神皇産巣霊神かみむすびのかみに捧げられる、とのことでした。その他にも、こうした動きは、農耕に関わる他の神々に捧げられる、とする別の説もあります。古い儀式であることには、皆、同意するものの、その意味を巡っては意見が多岐に分かれています。
  私は研究を続けていくうちに、『手刀』はごく最近になって導入されたことを発見しました。ある力士が昭和17年(1942)に、非公式に始めたとされています。その様が優雅で、威厳に満ちているということで、その力士を真似するようになりました。しかしながら、昭和41年(1966)まで、それが義務づけられることはありませんでした。昭和41年とは、あまりにも最近のことで、過去から神々がやってきて、Hobsbawnの有名な言葉を思い起こさせてくれます。彼はこう述べています:『古くからの伝統と呼ばれるものの中には、かなり新しく、時として作られたものもある』。

神前結婚

 相撲以外で、別の例を挙げましょう。神前結婚は、私の論点を説明する一例です。
  神前結婚は、日本では伝統的な結婚式だと考えられています。(千年以上も続く儀式であると思われています)。しかし、日本の結婚式のスタンダードとなるのは、かなり新しいことです。神前結婚が行われるようになったのは、明治33年(1900)、当時の皇太子が神前結婚をしてからです。明治時代以前には、めったに神社で結婚式が挙げられるようなことはなかったとされています。相撲におけるように、こうした儀式の革新の裏には、新秩序の象徴として、皇室制度を使いたかった、明治政府の政策が存在していたのです。神前での儀式は、キリスト教の結婚式のアナロジーとして役立ちました。天皇を神道の伝説の中に決定的に位置づけることで、何世紀もの間、隠れていた日本の《真実の》秩序を回復させたのです。

古式大相撲

 同じような目的を持つ、シンボリズムや文化的装飾の使用は、相撲の中では多く見られます。ここでは、平成 7年(1995)2月5日に行われた《古式大相撲》での儀式の事例を取り上げたいと思います。その分析は、シンボルをいかに操り、存在しない過去との虚構のつながりを拡げていったのかを、理解させてくれます。その目的は、目に見える形で、連続性を想起させることです。(写真・1 古式大相撲と相撲節会(省略))
  古式大相撲は、昭和天皇に捧げる、『報恩古式大相撲』の儀式として開催されました。昭和天皇は、20世紀における相撲の合法化にとって重要な存在でした。主催は、報恩大相撲実行委員会、協力は、財団法人相撲協会、昭和天皇崇敬会でした。1200年前に行われていた相撲の再現として、マスコミに伝えられました。
  ここでは、古式大相撲が行われた舞台の全体が見えます。この古式大相撲は、平安時代の相撲節会はこうであったのではないか、と描かれた絵巻をもとにしています。
  しかしながら、この絵巻は明治時代に作られため、平安時代の相撲節会の忠実な描写であるのか、または、相撲の歴史を明治時代の先入観で変えてしまったのか、正確に裏付けすることはできません。(相撲を題材にした版画の中には、明らかに想像の産物であったものもあります。)
  古式大相撲と一致しない点が、二点あることに、すぐ気づきます。まず、とりおこなった期日です。相撲節会は7月、七夕の日に開催されたのに、古式大相撲は2月に行われました。
  次は、平安時代に行われた相撲節会が宮廷内の庭で行われたのに対し、古式大相撲は国技館で開かれました。古式大相撲の観客の存在は、相撲節会が平安時代の天皇と宮廷人のためだけであった、その閉鎖性と矛盾するものです。
  全般的に言って、古式大相撲は、現在の相撲と相撲節会の儀式を一致させようとする、多大な努力の結晶です。その結果、現在と古いと想定される様相が混成されています。相撲節会の舞台を手本にしているにもかかわらず、現在の相撲をそのまま残した部分もありました。例えば、平安時代には土俵は存在しなかったのに、古式大相撲では存在します。どうしてでしょうか?
  国技館では、土俵は床の下に収納することができます。国技館が相撲以外の他の催し物に貸し出される時には、土俵は収納されてしまいます。古式大相撲の場合もそうしたら、より相撲節会に近づいたことでしょう。しかしながら、実際には土俵は、まるで平安時代にも存在したかのように、そのまま残されました。というのも、土俵は、現在の相撲において、最も神聖なるものを象徴する要素の一つであるからです。現在のところ、靴を履いて土俵に上がることはできません。女性に至ってはもう、土俵を触ることすら許されません。神聖なる土俵が汚れてしまうからです。
  そうはいっても、土俵は比較的新しいものです。相撲を取る場所は、江戸時代初期の頃は、明確に定まっておらず、偶発的なものでした。基本的には、《人方屋(ひとかたや)》と呼ばれる、相撲を見物しようとする人たちが周りを囲んで作る人垣が、現在の土俵の代わりでした。(写真・2 土俵の変遷(省略))
 しかし、江戸幕府が再三に渡って相撲を禁止したため、見物人と相撲を取る者たちを離す境界線の設置は、必要に迫られました。相撲を取る場所は、当局に認められるために、統制され始めました。俵を間に置くようになり、17世紀後半には最初の土俵が生まれました。
  18世紀には、様々な形態の土俵が試されましたが、確固たる均一な土俵ができるのは、江戸末期まで待たねばなりませんでした。卑俗な出自を忘れる必要から、寛政3年(1791)吉田追風に、当時の将軍・徳川家斉の上覧相撲のために、《方屋開》を考案させることになりました。
  この儀式は、その後、明治天皇臨席の下での儀式の中で、また作り上げられ、後年写真で見るように土俵祭りとして、さらに作り上げられることになります。
  神聖性は、江戸幕府による禁止令を乗り越える必要性から生まれました。宗教の中に何かを発見することは、相撲を行う許可を得、禁止令を受けずにすむ合法的な手段となりました。古式大相撲において、土俵をそのまま残すことは、やっとの思いで獲得した神聖不可侵の雰囲気を保証することにつながりました。(写真・3 館から吊り屋根へ(省略))
  吊り屋根もまた、古式大相撲の儀式の間ずっとありました。もちろん吊り屋根も取り外すことができるのですが、そのまま残しました。どうしてでしょうか?土俵と同じように、吊り屋根も宗教性と古さの雰囲気を醸し出すのです。
  もちろん、この吊り屋根は相撲節会においては存在しませんし、明治時代に描かれた絵巻にもその存在はありません。
  吊り屋根の出現は、かなり新しいことです。20世紀の前半、《館(やかた)》または屋根は、次第に関心事となっていきました。その形式も変遷しました。
  簡単なもの(小屋根)から、より洗練され東洋色が際だつ《入母屋(いりもや)》のようになりました。
  昭和6年(1931)以降、皇室との決定的な提携を模索し、伊勢神宮の屋根を模倣する、吊り屋根に変わりました。
  昭和28年(1952)、観客やテレビ・カメラの邪魔にならないよう、ケーブルで天井に吊り下げられることになりました。
  また、古式大相撲では、土俵や吊り屋根だけがそのまま残されたのではありません。現在の職業相撲における構成員である、力士、行司、審判、呼び出しが相撲節会を模倣した役割を果たし、そこにまるで歴史的な連続性があるかのように見せました。雅楽演奏だけが唯一、相撲協会の関係者の手によるものではなく、専門家の助けを借りました。
  まず、現在の力士達が相撲人を模倣しました。(写真・4 古式大相撲での取り組み(省略))
  しかしながら、相撲人は、相撲を職業としてはいませんし、相撲部屋に住んでもいませんでした。彼らは毎年、強制的に徴発されたのでした。それにまた、取り組みは、現在の勝負制度に沿うものでもありません。当時は、仕切りも立ち会いもありませんでした。現在のようなまわしをつけておらず、《とうさぎ》と呼ばれる、形も素材も異なるものでした。その結び方もまちまちでした。それにもかかわらず、古式大相撲では、過去に存在していたかのように、そのまま使われていました。そしてまた、明治42年(1909)に義務づけられた大銀杏髷もそのままで、相撲節会の時代の髪型を尊重していません。
  相撲節会では、取り組み時の進行役に当たる人物がいませんでした。先に倒れた者が敗者となりました。しかしながら、古式大相撲の取り組みでは、現在に倣って判定が行われました。行司が、現在幕内で行われているように、立ち会いを指揮しました。(写真・5 行司の装束の変遷(省略))
  しかし、明治42年(1909)に国技館が建設された後、皇太子の訪問を前にして、行司の役割に威厳を与えることになり、それにふさわしい装いを探しました。
  それ以来、行司は足利時代の烏帽子や直垂をつけることになりました。その結果威厳あるものとはなりましたが、時代考証で何世紀かの誤りが生じました。古式大相撲では、これを訂正することになりました。行司は、相撲節会における近衛次将の立ちを真似ていました。しかし、行司は、近衛次将の装いを特徴づける、弓も矢も持っていませんでした。その代わりに、その手は、江戸時代に大分入ってから導入された軍配団扇を持ったままでした。
  そのあいまいさの極みとして、手刀がそのまま行われました。古式大相撲の時には懸賞のためではなく、橘と夕顔の花を受け取るためでした。しかし、相撲節会の描写においては、相撲人たちは立ち去る時、その花を髪に挿して行きました。それも、行司から手渡されたのでもなければ、ましてやそれを受け取る際、現在、行われている手刀を切ったわけでもありませんでした。
  また別の問題は、審判にありました。過去に復活・・させるために、審判の問題はどうしたのでしょうか?その答えとして、彼らに烏帽子をつけさせました。相撲節会には審判に当たる者がおらず、唯一真似できる人物は、宮廷の庭に座っている《出居(いでい)》でした。(写真・6 古式大相撲での審判の装束(省略))
  審判はえんじ色の《すおう》をつけ、いつもと同じように土俵下に陣取りました。審判の人数は、江戸時代に審判が生まれて以来、変化してきました。昭和5年(1930)審判が土俵下に座り始めるようになった頃、その人数は5人と定められました。この規定が最も新しく、古式大相撲でも、この人数が採用されました。
  相撲における呼び出しもまた、比較的新しい役割です。呼び出しという言葉が最初に記録されているのは、江戸末期のことで、最終的に確立されたのは19世紀後半のことです。江戸時代初期の頃のその役目は、行司の役目と区別がつきませんでした。(写真・7 現在と古式大相撲での呼び出し(省略))
  タッツケ袴と呼ばれるその興味深い服装は、江戸時代には専ら旅装として用いられたり、動きの多い下人が着けたもので、ポルトガル語のカルサオに由来するとも考えられます。しかし、古式大相撲では、呼び出しは烏帽子をかぶり、白い服装で現れます。
  呼び出しの誕生は、土俵の出現と共にやって来ました。つまり、力士の名を呼び上げたり、土俵を作ったり、 その世話をしたり、太鼓を叩いたりする人手が入り用だったのです。
  こうした役目は、相撲節会においては何ら必要ありませんでした。しかし、古式大相撲では、呼び出しは相変わらず土俵の掃除をし、塩と力水のそばを離 れませんでした。古式大相撲では、呼び出しは、相撲節会における《唱名ふしょう》と名を変えました。結局のところ、相撲人の名前をどうやって天皇に伝えたのかは、はっきりとわかっていませんが、古式大相撲において、力士の名前は、行司によって大きな声で呼び上げられました。
  この日には、また別の儀式がとりおこなわれました。例えば、三段構え、神相撲などですが、これらもまた同様に、今まで申し上げたように、非連続性の観点から分析することができます。
  古式大相撲は、新しい儀式を設定するための実験でした。この分析を通してみると、相撲における多くの儀式は、実質的に、望ましいものの集合体であり、望まないものを消去することで生まれました。出羽海理事長は当時、こう述べています。
  「色々説はあるのですが、それを取捨選択して、一つの形にしたわけです。これを今後の基本にするつもりでいます」。

結論として

 相撲節会を思い起こすことと、それを現在の相撲と合体させるために、混合させることとは別問題です。まず、相撲協会が独占している相撲は、国技の名称を継承していくためにも、『古くからのものであること』を必要としています。しかしながら、もし相撲節会を、従来語られてきたように表現すれば、そこから得るイメージは現在の相撲とはかけ離れてしまいます。その代わりに、常に現在から端を発しながら、相撲節会との虚構のつながりを探すのです。様々な儀式と結びつけ、色々なシンボルを挿入し、登場人物を他の登場人物にすり替えたりすることで、現在の相撲が古来から存続しているように見せるのです。こうして混成された儀式に、《古い》または《古式》という冠がつけられます。