雷神思想の源流と展開−日・中比較文化考− (The Origin and Philosophical Development of Thunder God in Japan and China )

李 均洋(Li Jun Yang) 西北大学副教授 北京・首都師範大学外国語学院日本言語文学系副教授

一、 雷神像の変遷

 後漢の王充の『論衡・雷虚篇』は、雷公(神)の形状を次のように述べている。

図画之工、図雷之状、累々如連鼓之形、又図一人、若力士之容、謂之雷公、使之左手引連鼓、右手推椎、若撃之状。其意以為雷声隆々者、連鼓相扣撃之意也(図画の工、雷の状を図するに、累々として連鼓の形の如くし、又一人の力士の若きの容を図し、之を雷公と謂ひ、之をして左手に連鼓を引き、右手に椎を推さしめ、之を撃つ状の若くす。其の意に以為らく、雷声の隆々たる者は、連鼓相扣撃するの〔意〕なり)。

 長沙馬王堆前漢墓から出土された帛絵(絹織物の上に作った絵)には、雷神像がみえる(写真一)。「凸眼鳥嘴、左手は椎、右手はを持ち、腰は簾状の裙(すそ)を囲んでいる」(林河氏『《九歌》与湘民俗』、上海三聯書店、一九九〇年、一三四頁、参照)。
「■は鎌なり」(『説文解字』 巻一四上より)。
  一九八〇年、山西省考古研究所と太原文物管理委員会は、太原市郊南王郭村に北斉武平元年(五七〇年)頃の 東安王である叡墓を発掘したが、その中には大量の壁絵があった。東壁の青竜図の上方は雷公(雷神)図である。その形状は怪獣らしい、猿の顔、赤唇黄眼、赤い襦(はだき)と白い袴を着ていて、手足が槌を振る舞って太鼓を叩いている。周りは天鼓(天神の太鼓)が九つある。この雷公図と類似するものは、敦煌二四九窟の雷公図である。(鄂嫩哈拉・蘇日台氏『中国北方民族美術史料』、上海人民美術出版社、一九九〇年、参照)
 この幾つかの雷神像には雷斧はみられなかった。これに対して、民間伝承の雷神像には雷斧は登場する。壮族 の伝承がいう。

 天上に住んでいる雷王は、燈籠の眼が二つあり、まばたきすると、緑の電光が閃いてきた。背中に翼が二つ生えていて、振り揚げると、暴風が動いて通った。二つ足が非常に重く、歩くと、ガラガラと音をたてた。手が板斧と鑿(のみ)を持っていて、怒ると、こっちで掘ったりあっちで割ったりした。(『壮族民間故事選・布伯の故事』、上海文芸出版社、一九八四年、参照)

 この伝承は何時から起源したのか、はっきりわからないが、『旧唐書』粛宗紀・宝応元年(七六二)の条(1) の雷公石斧についての記載によると、少なくとも唐代までに雷公(雷神)と石斧(雷斧)とを結ぶ伝承が既にあったとわかる。

二、 雷斧考

1、広義の雷斧

 『和漢三才図会』天象類・雷斧の条にいう。雷斧、雷碪、雷槌、雷楔、雷鑽、雷環、雷珠、以上数種類があ る。
 『本草綱目』(石類・霹靂碪)は次のようにいう。雷斧とは、銅鐵でつくった斧のようなものである。雷碪は碪(きぬた)に似た紫黒色の石である。雷槌は重さ数斤ある。雷楔・雷鑽は長さ一尺、いずれも鋼鉄のようで、雷神がものを劈いたり、ものを撃ったりするものである。雷環は玉の環のようで、雷神が腰につけているもので、それの遺落したものである。雷珠は神竜が口に含んでいるもので、それの遺落したものである。夜になると光って、光は室に満ちる、と。『玄中記』に、「玉門関の西に一つの国がある。そこでは山上に廟を建て、国人は毎年、雷の用いる鑽を供出している」とある。これは誤りである。雷は陰陽の気が激しく迫って音響を発するとはいえ、実に神物がこれを司っているのである。だから万物と同じように啓蟄する。ところで斧・鑽・碪・槌などはどれも実際に鋳造したものである。たとえ天に在っては象を成し、地に在って形を成すとはいえ、それは星が落ちて石となり、あるいは金石や粟麦や毛血や諸々の異物を雨のように降らすものであって、地に在ってこのようにきちんと鋳造した形を成すものであろうか。必ず大虚の中に神物があって そうなるのである。鬼神の道は幽微である。誠に究めることは不可能である。(寺島良安著・島田勇雄等訳注 『和漢三才図会』、東洋文庫、一九八五年、一八二頁)
李時珍の『本草綱目』に対照すれば、『和漢三才図会』の引用は、原文そのままではなく、少し略したが、基本的に原文の意に忠実である、とわかる。
 山田慶兒氏によると、「明の李時珍(一五一八−一五八三)は、従来の本草では『草木玉石虫魚人部に散見』していた人工物七十九種を集めて、巻三八に器部を設けた。服帛類二十五種・器物類五十四種、うち三十五種が李時珍の増補にかかる。おなじ人工物でも、土部の白磁や古瓦磚などの焼物類、金部の古鏡、古錢をはじめとする銅鉄器類、それに食品の造釀類は穀部、乳製品類は獣部と、それまでどおりの取り扱いだから、とくに身の回りの衣服・調度類に独立の位置をあたえたことになる。服帛・器物は急場の間に合い、『奇功を奏す』るというのが、その理由であった。今日なら躊躇なく人工物に入れるところを、李時珍が唯一の例外として石部にそのまま残したものに、霹靂碪(および雷墨)がある。霹靂碪は雷斧と言ったほうが通りがいいだろう。もっともこの種のものは、その形によって、斧をはじめ鑽・楔・碪・丸・墨などの語を雷や霹靂の下に付して呼ばれた。李時珍はそれらをひっくるめて霹靂石と称しているが、ここでは雷斧と総称しておくことにしよう。こうした名称に対応する、一見して人工とおぼしい形をもつにもかかわらず、李時珍は雷斧をあくまで自然のはたらきによって生じたものと信じていたのである。李時珍だけではない。たしかに人間の関与を認める考えかたもないわけではなかったが、それでも雷斧は、時代と地域を超えて、ひろく自然に属する物と信ぜられてきた。」(『物に対する−牡蛎・雷斧』、『日本研究』〔国際日本文化研究センター紀要〕第十四集、平成八年七月、二三八・二三九頁)
 そうすれば、雷斧はただ斧形の道具だけではなく、鑽・楔・碪・丸・墨などを含んでいるのである。
 こういう雷斧についていろいろな記載があるが、例をみてみよう。北宋の科学者沈括(一〇三〇−一〇九四)も、『夢溪筆談』巻二〇・神奇に実見談を記し、雷州の雷斧をとりあげた。

 世人有得雷斧・雷楔者、云雷神所墜、多於震雷之下得之。而未嘗親見。元豊中、予居随州、夏月大雷震一木折、其下乃得一楔信如所伝。凡雷斧多以銅鉄為之。楔乃石耳、似斧而無孔。世伝雷州多雷、有雷祠在焉、其間多雷斧・雷楔。按図經、雷州境内雷・敬二水、雷水貫城下、遂以名州。如此、則雷自是水名、言多雷乃妄也。然高州有電白県、乃是隣境、又何謂也。(世人に雷斧・雷楔を得る者有りて有云う、雷神の墜とす所、震雷の下の於いて之れを得ること多し、と。而して未だ嘗って親しくは見ず。元豊中、予は随州に居り、夏月に大いに雷震して一木折れ、其の下に一楔を得たり、信に所伝の如し。凡そ雷斧は多く銅鉄を以って之れを為る。楔は乃ち石のみ、斧に似て孔無し。世に伝う、雷州に雷多く、雷祠焉こに在る有り、其の間に雷斧・雷楔多し。図經を按ずるに、雷州境内に雷・敬二水有り、雷水城下を貫き、遂に以って州に名づく。此の如くんば、則ち雷は自ら是れ水名にして、雷多しと言うは乃ち妄なり。然るに高州に電白県有り、乃ち是れ隣境なり、又何の謂ぞや。)

 科学者としての沈括は、自らの所見で雷斧の材料が銅鉄ではなく石であることを強調していた。
 雷州の雷神廟については、清の屈大均(一六三七前後在世)の『廣東新語』巻六・神語・雷神が詳しい記述を残してあとで引く。

雷州英榜山有雷神廟。(中略)堂後又有雷神十二躯、以応十二方位、及雷公・電母・風伯・雨師像。(中略)  六月二十四日、雷州人必供雷鼓以酬雷。祷而得雷公之墨、光瑩如漆、則以治邪魅驚癇、及書訟牒得雷屑、或霹靂碪、則以僻嬰子驚、以催産。霹靂碪、一名雷公石。(雷州の英榜山に雷神廟有り。(中略)堂の後に又雷神十二躯有り、以って十二方位に応じ、雷公・電母・風伯・雨師像に及ぶ。(中略)六月二十四日、雷州人は必ず雷鼓を供して以って雷に酬む。祷りて光瑩たる漆如し雷公の墨を得れば、則ち以って邪魅驚癇を治し、訟牒を書くに及べば雷屑を得、或いは霹靂碪は、則ち以って嬰児の驚を僻け、以って産を催す。霹靂碪は、一に雷公石と名づく。)

 雷斧は「邪魅驚癇を治し」、「嬰児の驚を僻け」、「産を催す」などの効用がある、と廣東雷州の人々は信じている。南宋の李石(一一六二前後在世)の『続博物誌』巻一は、人間往々見細石、形如小斧、謂之霹靂斧、或謂云霹靂楔。(人間に往々細石を見る、形は小斧の如し、之れを霹靂斧と謂い、或いは霹靂楔と謂云う。)として、『玄中記』を引く。南宋の洪邁(一一二三−一二〇三)の『夷堅志』支戊・巻九・雷斧には、次のような小説がある。

 黄宋泳甫田人、師憲状元之従兄也。幼時戯於庁。正昼雲雨晦冥、雷振轟轟、繞柱穿屋壁而過。家人意其驚怖、争出尋之、元在戯処、端坐無所覚也。得一斧、長三寸、非鉄非石、鑿小孔而無柄。蓋雷神所執、而誤堕者。諸人伝玩未巳、黄持入内蔵之。雷復至似訪其物、不可取。俄頃開霽。宣和間、黄以童子入京、蒙召対、賜五経。及第仕、止郢州通判。斧至今存。(黄宋泳は甫田の人、師憲状元の従兄なり。幼時庁に戯る。正昼に雲雨晦冥し、雷振轟轟として、柱を繞り屋壁を穿ちて過る。家人、其の驚怖を意い、争い出でて之れを尋ぬるに、元のごとく戯処に在り、端座して覚る所無し。一斧を得たり、長さ三寸、鉄に非ず石に非ず、小孔を鑿つも柄無し。蓋し雷神の執る所にして、誤ちて堕ちし者ならん。諸人伝玩して未だ巳らざるに、黄、持して入りて之を蔵す。雷復た至りて其の物を訪ぬるが似く、取る可からず。俄頃にして開霽す。宣和の間、黄は童子を以(ひき)いて京に入り、召対を蒙り、五経を賜わる。第仕するに及び、郢州の通判に止る。斧は今に至るも存す。)
 雷斧が知恵の神力を持っているという民間信仰からなってきたこの小説は、ただの虚構的なものとは言えないであろう(2)。

2、 雷斧の起源

 甲骨文字には斧を「■」と書く。『説文解字』には「斧は斫なり。斤に従ふ、父の声。」とある。
 「■」は甲骨文字の斤である。斤とは、「木を斫るなり。象形。」(『説文解字』)許慎のこの説について現代の古文字学者も認可している。つまり斤が斧の形状であるが、このもっとも古い斧は石斧しかない。なぜならば、「斫、撃なり」(『説文解字』)甲骨文字に「■」とあり、斤と石に従うのである。言い換えれば、斫とは、石斧を持って撃きるの意である。
 注目したいのは、甲骨文字の「斤」の先の「■」と「斫」中の「■」なのである。「■」(石=石刀)の甲骨文字からわかるように(徐中舒氏『甲骨文字典』、四川辞書出版社、一九八九年、一〇三三頁、参照)、「■」(斤)は錐体の石斧、「斫」の中の「■ 」は三角形の石斧の象形である。
 それでは、「斧」の中の「父」はどうであろう。
 甲骨文字に「■」(父)とある。郭沫若氏によれば、この甲骨文字は、「金文にとある、乃ち斧の原型である。石器時代の男子が石斧〔原注によると、「■」の形即ち石斧の象形〕を持って操作する。この故に、孳乳が父母の父となる」(郭氏『甲骨文字に所見した殷代社会』、参照)。この説は古文字学者に一般的に認められているし、人類学の世界中の実際調査と考古学にも証明されていた(3)。
 衆知のように、石斧は上古の労働道具であるが、また祭器としてもっとも重視されたのである。
 佐原真氏によると、ニューギニア東部高地のハーゲン山近くにあるワギ谷・チムブ谷の石斧には、「祭りの斧」・「日常の斧」・「花嫁代償の斧」の三種類があり、現地の言葉でも、それぞれをよび分けている。「ハーゲン山の石斧」とよばれるのは、このうちの祭りの斧である。祭りの斧は、激しい仕事には使えない。しかし、サトウキビの茎を切る前に、その上下に刻みを入れるくらいのことには使うこともある。祭りの斧は、殺人、暴行などの不祥事の償いにも使う。祭りの斧は注意深く作り、派手に飾る。パプア=ニューギニアにおいては、石斧を祭りの斧としていた社会が、鉄斧を用い始めてからしばらくは、鉄斧を祭りの斧として使った。しかし、鉄斧が普及すると、鉄の祭りの斧を用いなくなった。祭りの斧は、太平洋の島々にも広く分布し、美しい半透明の大きな斧身にきれいな柄を付け、飾のふさを付けるなどしている(図一)。一方、パプア=ニューギニアでは、手で持てないような重く大きな祭りの斧を作ったり、斧身のためによい石の材料が入手できないため、代わって木で斧身をつくる例もある。北ヨーロッパでは、青銅器時代の遺物として、先の粘土を芯とした青銅の祭りの斧 と同じ形の斧を持つ左右相称に二人並んだ男の小像(図二)が知られている。二人とも長い触角のような左右一対の飾りを付けたかぶとをかぶり、右の男は左手に、左の男は右手に祭りの斧を持って坐っている。北ヨーロッパで神を人の姿として表現した最古のものともいわれる。とすれば、斧を持つことが、特定の神を示していることになり、斧は神の象徴ということにもなる。ギリシアのクレータ島のミノス文明(前二〇〜一五世紀)では、金・銀の双刃斧を祭壇に祭った。その祭壇も社も、また斧をたてる台も見つかっており(図三)、またミノアの王ハギア=トリアダの石棺には、双刃斧を祭った情景(図四)を描いている。西アジアでは、ギリシア神話のゼウスに相当するラブランダ神を象徴している、という。民族例によれば、祭りの石斧には、いろいろのものがある。1、斧の身には、実用の斧には利用しない美しい石を使う場合、実用の斧にも通ずる石を使う場合、実用の斧にはむかない軟らかい石を使う場合、石に代わって木を使う場合がある。2、斧の身には、実用の斧と変わらない形・大きさをそなえる場合と、扁平に作る、特に長大に作るなど、実用には向かない身をそなえる場合とがある。3、祭りの斧として大切にあつかい、実用には使わない実例のほかに、実用にも使う場合もあるので、使用痕跡をとどめることもありうる。4、柄に付け、その柄をにぎやかに飾ることが多い一方で、柄には付けずに、斧身のみを祭りの斧として用いることもある。このように見てくると、縄文時代の石斧の中から、祭りの斧を探すことも、そう難しくはない。有力候補の第一にあがるのは、秋田県上掵遺跡でみつかった四本の磨製石斧(図五)である。これと似た巨大な石斧は、岩手県日戸遺跡(四七・一p)や北海道函館市内(三九・七p)から もみつかっており、共に祭りの斧の候補である。これらの大きな石斧で想いおこすのは、朝鮮半島の石器文化(櫛紋土器文化、櫛目紋土器文化)の共同墓地に数多くの大きな石斧が捧げられている事実である。韓国慶州に近い蔚珍郡厚浦里遺跡では、円い穴(径四)に人骨に重なって石斧(長さ二〇〜五〇p)一三〇点がみつかっている(図六)。縄文の祭りの斧のもう一つの候補は、新潟県三仏生遺跡(縄文時代後期)の双刃石斧(長さ二三・二p)である(図七)。これは、柄を付けない祭りの斧ではないか。(佐原氏『斧の文化史』、参照)
  中国の場合、祭りの石斧と副葬品の石斧は、約六〜七千年前の新石器時代に遡ることができる。
  一九七八年十一月、河南省臨汝県の閻村の仰韶文化晩期にぞくする遺跡から、すぐれた彩陶器絵(図八)が発見された。考古学者はこの彩陶器絵を『鸛魚石斧図』と名付けている(『中原文物』一九八一年第一期所収『臨汝閻村新石器時代遺址調査』、参照)。鸛と魚の祭祀の意義は別論に触れたいが、この中の石斧は祭祀の道具であるにまちがいない。陜西省の仰韶文化前期(約七千年前)にぞくする北首嶺遺跡では、一九七七年の調査で発掘した二一の墓のうち四号墓から、四十才前後の男に鉞とみられる有孔石斧と八十六本の骨製の矢尻(骨鏃)が発見された。また、中心広場にある墓地を部分的に発掘した三十九の墓のうち、十一号墓の二十五才前後の男に、同じく有孔石斧と二十八本の骨鏃が副えてあった。(中国社会科学院編『宝鶏北首嶺』、文物出版社、一九八三年、参照)こんな石斧は、すべての男ではなく、村の指導者とよぶにふさわしい限られた男だけが持ったらしい。陝西省姜寨遺跡では、一五九号墓の八〜九才の男に同種の有穴石斧を副えており、幼くして、すでに将来を約束されていたことを推測させる。(岡村秀典氏「中国新石器時代の戦争」、『古文化談叢』第三〇集下、参照)
 柳湾馬場類型(西北の青海と蘭州のあたりに分布していて、約四千年前の新石器時代の遺跡)の墓葬の統計によると、五十三所の男性墓主は、四十五所の副葬品が斧・■・鑿であり、紡績用の紡輪が八所しかない。これに対して、三十一所の女性の墓主は、二十八所が紡績用の紡輪である。当時は男性が農耕、女性が紡績という「男耕女織」社会分別がはっきりしたということがわかる。また長江流域の新石器時代遺跡の調査からもわかったように、南京北陰陽営一四五号墓の副葬品の総数は二五件であるが、その中に石斧は一八件を数えた。(中国社会科学院考古研究所編『新中国の考古発見と研究』、文物出版社、一九八四年、参照)
  石斧は祭祀の道具であるとともに、男性を祭祀する或いは男性のシンボルでもある。これは中国新石器時代の石斧を検討するとき、忘れてならないポイントである。

3、 男性器と石斧と雷神

 次の図九をみてみよう。
  これは河南省の安陽(商・殷代の遺跡?)に出土された玉製の男性器である。この中の底辺頂上の三角形と回形紋の模様に注目したい。
  一九二〇年代、スウェーデンの考古学者安特生(中国名)は河南省池県仰韶村に五千年前の陶製男性器を四つ発見した。二つは椎体(図十)であるが、もう二つは底辺頂上の三角形(図十一)に似ている。(葉舒憲氏『詩經の文化闡釋』、湖北人民出版社、一九九四年、六一〇頁、参照)
 前述したように、甲骨文字の 「■」(斤)は錐体の石斧、「■」の中の「■」は三角形の石斧の象形である。そうすれば、玉製男性器の中の三角形はまちがいなく石斧の象形であろうが、その中の「■」(回形紋)は雷(神)のシンボルである。(拙文「『回』・『S』・『瓠』の神話学と宗教学の考察」、上田正昭氏編『古代日本と渡来文化』所収、学生社、一九九七年五月出版予定、に詳しい)。
  これはほんとうに意味深い問題である。というのは、男性器と石斧と雷神とはここに一体になったのである。
  後漢の劉煕の『釋名・釋用器』に「斧、甫也。甫、始也。凡将製器、始用斧伐木、巳乃製之也(斧は甫なり。甫は始めなり。凡そ器を製すなら、始めて斧を用いて木を伐る、巳に乃わち之を製すなり)。」これに対して、畢が『士冠礼』鄭玄の注を引いていう、「甫、今文作斧、斧甫字通(甫を今文によって斧と作(さ)れる、斧と甫の字は通じる)。」(王先謙『釋名疏証補』巻七の引、上海古籍出版社、一九八九年、参照)
 清の懿行(一七五七−一八二五)の『尓雅義疏』には「甫者、男子之美称、美大義近、故又為大(甫は男子の美称なり、美と大の義は近い、故に又、大と為る)。」とある。『詩經・大明』の「維師尚父」について、『詩經正義』は前漢の劉向の『別録』を引いていう、「師之、尚之、父之、故曰師尚父、亦男子之美号(師に之き、尚に之き、父に之き、故に師尚父と曰う、亦た男子の美号なり)。」  

 さらに、近人王国維はつぎのようにいう。

  女子之字曰某母、犹男子之字曰某父。案『士冠礼』、「男子之字日伯某甫、仲叔李惟其所当。注云、甫者、男子之美称。」『説文』甫字注亦云、男子美称也。然経典男子之字多作某父、彝器則皆作父、無作甫者。知父為本字也。男子字曰某父、女子字曰某母。蓋男子之美称莫過于父、女子之美称莫過于母。男女既冠笄、有為父母之道、故以某父某母字之也。漢人以某甫之甫以且字。(女子の字は某母と曰う、男子の字は某父と曰う犹く。案ずるに『士冠礼』、「男子の字は伯某甫と曰う、仲叔季惟其の所に当たる。注云う、甫は、男子の美称なり」と。『説文』甫の字の注は亦た云う、「男子の美称なり」と。然し経典に男子の字多く某父と作す、彝器に則ち皆父と作す、甫と作す者無し。(故に)父は本字と為るなりと知る。男子の字は某父と曰う、女子の字は某母と曰う。蓋(おもう)に男子の美称は父に過ぎる莫し、女子の美称は母に過ぎる莫し。男女は既に冠笄をして、父母の道と為す有る、故に以某父某母の字を以て之(よ)ぶなり。漢人は某甫の甫を以て且の字と以す(『女字説』、『観堂集林』巻三所収、中華書局、一九五九年、一六四・一六五頁)

 王氏の言った「漢人は某甫の甫を以て且の字と以(な)す」の「且」をみてみよう。甲骨文字に 「且」 を「■」、「■」、「■」、「■」と書いている。
 『説文解字』に「且、所以薦也。従几、足有二横、一其下地也(且は所以に薦なり。几に従う、足二つ横あり、一つは其の下地なり)。」清の段玉裁の注はいう、「所以承籍進物者 」(所以に承籍(うけか)りて進物する者なり)。
 徐中舒氏は『説文解字』を受けて、『上古、肉を且の上に置いて、祖先を祭る。故に祖先を且と称する。あとは祖になった。」という。(前出、徐氏『甲骨文字典』、一四九〇頁)
 これに対して、郭沫若氏は「且」の本義が男性の性器である、と認める。(『釋祖妣』、『郭沫若全集・考古編』第一巻所収、参照)
 フランスの漢学者葛蘭言氏(中国語訳名)や高本漢氏、中国の凌純声氏なども漢字の「祖・社」の初形が性器 崇拝の直接な表現である、と認める(津田逸夫氏訳『中国宗教』、河出書房、昭和十八年、凌純声氏『中国祖廟の起源』、台湾中央研究院『民族学研究所集刊』第七期、一九五九年、参照)
 どっちがただしいのか。結論を出す前に、「且」と相関する考古実物と民俗調査の例に触れてみよう。
 前文に挙げた安陽で出土された玉製の男性器と河南省縄池県仰韶村の五千年前の陶製男性器を見ると、あまりにも甲骨文字の「■」「■」(且)に似ているが、日本の石器時代の石棒(図十二)や神社の男性器に象徴する実物(図十三)なども、「且」即ち男性器の象形の説を証明していた、と言ってよいであろう。とすると、

            「且」(祖)=男性器=父
                  ↓
                斧=父
                                 ↓
             斧=甫=始

 とまとめることができる。
 なにゆえ「且」(祖=男性器)と斧(=父)とは一体になったのか。
 前述したように、上古社会では石斧は男の特有のものであるから。しかしながら、玉製の男性器の中の「■」(回紋模様)=雷は、「且」と父=斧との関連を解明しなければ、問題は解決できない、とおもう。
 原始民の「神」という概念は、雷神を「世界と万物を創った」(フレイザー氏『金枝』より)最高の天神として祭祀することとともに出現した、と考えることができる(詳細は拙文『日中両民族の雷神思想の源流』その二〔『日本研究−国際日本文化研究センター紀要』第十五集〕に述べた)。
 孔子の作と言われる『周易説卦伝』はいう、「帝は震に出て(中略)万物は震に出づ。」震は即ち雷(『説文解字』に「震は霹靂の物なり。■は籀文震なり」)。帝は即ち上帝・天神である。
 「■」が甲骨文字の帝である。この字について諸説があるが、葉玉森氏の「■」は〔燎〕の形である」(『殷虚書契前編集釋』、一九三二年、三二頁、参照)説に注意したい。
 『周礼・春官・大宗伯』はいう。
 以煙祀昊天上帝、以実柴祀日月星辰、以燎祀司中司命、風師、雨師(煙を以て昊天上帝を祀る、実柴を以て日月星辰を祀る、燎を以て司中司命・風師・雨師を祀る)。「煙之言煙。周人尚臭、煙氣之臭聞者。■ 、積也。詩曰、『■■■朴、薪之■之。』三祀皆積柴実牲体焉。(煙を煙と言う。周人臭さを尚す、煙氣の臭さを聞く者故なり。■は積なり。詩曰く、『■■■朴、薪之■之。』と、三祀皆積柴実牲の体なり焉)」と、鄭玄は注した。「■、積木燎之也、従木火、酉声。(中略)■、■或、従示、柴祭天神也。」(木は、木を積みて之を燎する也、木火に従ふ、酉の声。(中略) 酉、木の或なり、示に従ふ、柴して天神を祭る也。)と、『説文解字』 (段玉裁注『説文解字』より)は言う。
 実は燎祭を行なったのは周人ばかりではなく、殷人も燎祭を盛んにやった。

(?)子卜、(?)貞、王令河、沈三牛、燎三牛、卯五牛。王曰、丁其雨。
九日丁酉允雨。(甲骨・一二九四八・正より)
既川燎、有雨。(甲骨・二八一八〇より)
癸巳貞、其燎十山、雨。(甲骨・三三二三三・正より)
己亥卜、我燎、有雨。(甲骨・一二八四三・反)

  甲骨文字には殷人の燎祭をこんなにはっきり記載している。
  青銅器の牛尊 (写真二、上海博物館蔵) は殷人の燎祭の祭器であろう。
  この燎祭は人を犠牲として行なったこともある。有名な「商(殷)湯乞雨」『呂氏春秋・順民』)の記載から その残酷な人祭が推知できる。
  晋の千宝(?〜三一七)の『捜神記』巻十三には燎祭をも記載している。樊東之口有樊山。若天旱、以火焼山、既至大雨。今往有験(樊東の口に樊山有り。若し天旱りなら、火を以て山を焼く、既に大雨至る。今往験有る)。
 帝はいろいろな神力があるが、降雨はそのひとつの、人間社会と密接な関係がある神力である。「帝不令雨 (帝は雨〔が降ること〕を令せず)」(『卜辞通纂』、三六五)、とすれば、旱魃になる。このとき、燎祭を行なって、帝に雨が降ることを令するのを祈る。甲骨文字の記載からわかるように、燎祭はすくなくとも殷代から始まったのである。
  なぜ燎祭を行なうと、「今往験有る」、帝は雨が降ることを令するのか。周代の中・後期に編纂され、その前 すでに流行っていた、もっとも古い伝承である『易』は、つぎのようにいう。
  「■■」(震下震上)震、亨。(略)
  震は即ち雷、亨は即ち通順、これは通説の解釈である。
  『説卦伝』はいう。
  震為雷、為龍、為玄黄、(中略)離為火、為日、為電、〔略〕(震を雷と為し、龍と為し、玄黄と為し、〔中略〕離を火と為し、日と為し、電と為し、〔略〕)  
  これは「八卦」(天・地・山・澤・雷・風・水・火八種類の物のシンボル)の出たまでに、原始人の世界本源 についての認識論といわれるものである。中国古代哲学者厖朴氏はこれについてつぎのように論じていた。

 

 この八種類の物(八卦)中、火と雷はもともと互いに通じているのである。『左伝・僖公十五年』につぎの記事がある。晋献公が伯姫を秦に嫁ぐことを占うとき、『帰妹』(卦五十四)「■■」は『癸』(卦三十八)「■■」に行き、『帰妹』の上卦「震」は『■』卦の上卦「離」に変わったことに会ったが、史蘇が占って曰く、「震之離、亦離之震、為雷為火(震、離に之き、亦離、震に之く。雷と為し火と為し)」と。つまり卦名からいうと、震は震(震=雷)、離は離(離=火)であり、両者は相違しているが、両者の象徴している物即ち卦像から見れば、「震之離、亦離之震」、違うことはとんでもない、「為雷為火」、基本的に同じものである。(『八卦卦像と中国上古万物本源説』、周振甫氏『周易訳註』の引、中華書局、一九九一年、七頁)

 この説は正しいとおもう。中国神話中の雷神と火神は分けられず、同一性を持っている。つぎの古典の記載をみてみよう。

 炎帝氏以火紀、故為火師而火名(炎帝氏は火を以て紀す、故に火師と為りて火もて名づく)。(『左伝・昭公十七年』)
 炎(ある底本に黄とされる)帝作鑽燧生火。炎〔黄〕帝作り燧を鑽りて火を生じ(『管子・軽重篇第八十四』)
昔少典娶于有氏、生黄帝・炎帝。黄帝以姫水成、炎帝以姜水成(昔少典は有氏に娶りて、黄帝・炎帝を生(うめ)り。黄帝は姫水を以て成り、炎帝は姜水を以て成り)。(国語・晋語四)

 黄帝と炎帝はみな中国西部黄土高原の部落の首領である。これは史学界に一般的に認められているが、神話・伝説中の黄帝と炎帝は兄弟とされている。黄帝は雷神であり、炎帝は火神であるから、雷神と火神は兄弟の内性を持っているようになった。
 神話・伝説中のもっとも典型な雷神である祝融はどうであろう。

 禳火于回祿(回祿に禳りて火〔事を払う〕)。(左伝・昭公十八年』)
 回祿、火神也(回祿は火神なり)。(『国語・周語』韋昭の注)
 祝融亦能明顕天地之光明、以生柔嘉材者也(祝融も亦能く天地の光明を明〔昭〕 顕して、以て嘉材を生柔する者なり(『国語・鄭語』)
 孟夏之月、(中略)其帝炎帝、其神祝融(孟夏の月、〔中略〕其の帝は炎帝、其の神は祝融なり)(『礼記・月令』)
 南方之極、自北戸孫之外、貫之国、南至委火炎風之野、赤帝・祝融之所司者万二千里(南方の極、北戸孫の   外自より、■■の国を貫き、南のかた委火炎風の野に至る。
 赤帝祝融の司る所の者にして万二千里なり)。(『淮南子・時則訓』)
 赤帝・炎帝、少典之子、号為神農、南方火徳之帝也(赤帝炎帝は少典の子、号を神農と為す、南方の火徳の帝なり)。(『淮南子・時則訓』 高誘の注)

 史學者張正明氏によると、回祿は祝融の別称である。炎帝は関中(陝西省の中心部)に起源したが、西周中期と晩期、姜姓の周人が多く南方に移民した。申・呂・許・励国などはその移民からなってきたのである。彼らは 祖神炎帝をも南方に移してきた。戦国中期以降、五行が五方・五色と組み合って、炎帝は赤色でもあり、別称は赤帝でもあるから、南方の火の位置に定位された。祝融は雷神であり、楚人に始祖神としてもっとも崇拝されていた。(『楚史』「司天・司地の遠祖」、湖北教育出版社、一九九五年、参照)
 祝融同じく雷神、これは神話学界の通説であるが、張正明氏は、民族の移動と融合によって炎帝と祝融は組み合わされ、同じ雷神になった、とおもしろく指摘した。神話や伝説の歴史的変遷から考えると、同一神性を持っている神話人物の融合はあたりまえのことである。つまり炎帝と祝融はもともと南北相違であるが、同じ雷神・火神であるから、あとの融合は別に不思議ではない。
 震=雷=火という古い世界本源説と「帝出乎震(帝は震に出で)」、「万物出乎震(万物は震に出づ)」(『周易説卦伝』)という古代神話観及び宗教信仰とは、古文字や中国の少数民族の伝承などにも証明された。
 前文に挙げたように、『説文解字』に「は籀文震なり」とある。籀文は大篆ともよばれ、周代の書体である。この籀文の下部は両側の「火」と真ん中の「鬲」からなってきた。なお、『説文解字』に『辰、震也、三月陽気動、雷電振、民農時也、物皆生(辰は震なり、三月陽気は動きて、雷電は振るふ、民は農時なり、物は皆生える)」とある。言い換えれば、震同じく雷は火・陽気に属している(4)。
 中国の廣西自治区の壮族神話『布洛陀』と雲南省の族神話『吾ら人間は如何にいままで生きてきたのか』はともに雷の火を持ってきたテーマである。前者はいう。火は雷公が稲妻で大きな榕樹を撃って発生したのである。後者はいう。雷神が人間に藤と木による摩擦出火の方法を教えた。そこで、人間は火を得て調理した物を食べるようになったのである。
 日本では有名なお花祭りの中、雷神と火の一体性の場面もあり、赤鬼みたいな格好の神様は、巨大な斧を持って燃えている柴火をかかげ、祭りの雰囲気は最高潮になる。これは雷神同じく火神崇拝であろうかとおもう。
 神話文献『山海經・大荒東經』には雷神像を描いて、「其光如日月(其の光りは日月如く)」はその一つの特徴である。『山海經』の編纂年代はいままで依然と謎であるが、前漢の大学者劉秀(■)以来の正統な言い方によって、夏代の大禹・伯益の作とされている。現代の学者はこの説に疑いをもっている。にもかかわらず、この本の内容は上古から伝承してきた、と認められる。そうすれば、雷神の「其光如日月」から、上古の雷神信仰が 日神信仰と関連している、とわかる。
 『説文』はいう、「日、実也、太陽之精不虧。(日は実なり、太陽の精虧けず。)」太陽は即ちもっとも大きな陽氣である。
 『周易説卦伝』はいう、「乾、天也、故称乎父(乾は天なり、故に父と称(よ)乎ぶ)。」とすると、つぎのようにまとめてみよう。

日=太陽→震=雷=火 (太陽の精) 
          ↓
  乾=天=父
          ↓
        「且」(祖)=男性器=父
               ↓
                        斧=父
                 ↓
                    斧=甫=始

 つまり雷神信仰は日神(太陽神)信仰と密接な関係があるので、雷神は太陽の性質を持つようになった。新石器時代になって、男しか石斧を持っていないことを象徴として、男女の社会分別(男性は戦争や狩猟など力型の逞しい仕事に従事する)がますますはっきりとなってきた。そこで、「始」・「祖」即ち集落や部族の創始者を男性器や石斧とつなげてきた。「甫」という男性に対する美称あるいは男性としての英雄観や傲慢観も出てきた。これは、前述した玉製の男性器と、その中の「■」(回=雷=雷神)と、三角形模様(石斧の象形)との一体になった内因ではないか。換言すれば、「■」模様の象徴している雷神崇拝と、三角形の象徴している石斧崇拝と、玉製男性器の象徴している祖先崇拝とは、火・陽気・威力・万物の起源・人類の繁殖・集落あるいは氏族の創始者(創始神)などの意を持っている。この三者は進化の前後順序があるが、すくなくとも新石器時代の中・後期(農耕文明の芽生えから)では融合して一体になった、と言ってよいであろう。
 甲骨文字にはつぎの記事がある。

己亥卜内貞王侑石在?北東作邑于之。(董作賓氏『小屯・殷虚文字乙編』三二一より貞侑石一?(林泰輔氏『亀甲獣骨文字』一・二五・一二より)「『侑石』即ち石を拝む祭祀」、と徐中舒氏がいう。(『甲骨文字典』一〇三四頁 この「侑石」(石を拝む)祭は何のためなのか。

 衆知のように、甲骨文字の時代つまり殷代は既に青銅器時代に入り、金属器具は石斧や石鎌など石器具を替えて使い始めた。しかしながら、新石器時代の、祭り石斧を象徴物としての雷神(=帝=万物の創造神)・男性器・石斧(後両者は祖先崇拝と関連している)この三者一体の崇拝は、そのままに残ってきた。これは「侑石」(石を拝む)祭の本義である。換言すれば、「侑石」祭は即ち前文に言及した民族例のいろいろな石斧祭祀の一つである、とおもう。
 こういう石斧祭りは現在でも中国の少数民族の中に伝承されている。
 雲南省西双版納曼達郷の族では、多くの家庭が男女性器の模型を大切に保存している。■語が男性器の模型を「坐記布」(漢語の音訳)とよび、本物は瀾滄江畔から持ってきた赤色あるいは赤土色の卵石である。女性器の 模型を「坐記米」とよび、本物は樹枝に巻き付いている藤条である。また男女性交の模型もあり、「郎嗄」とよび、本物は樹枝に巻き付いている藤条と樹枝の、互いに結合している男女性器に似る一段である。平日はこんな性器模型を室内に隠れて女性はみることや触ることを禁止する。戦時に男性がそれを身に付けると、力や勇気が増えてくると信じられる。
 瀘沽湖畔にある達孜村の一方の格母山腰には、一本の自然石柱があるが、当地の摩梭族と普米族はこの石柱を 男性生殖器神として崇拝している。多くの子供を生むことや早く子供を生むことを祈るため、男女ともこの男性生殖神を拝んでいる。少女らも例外ではない。
 麗江の象山の山元には、圓錐状の石崖があり、この地方の白族と納西族の女性は石崖を男性器として崇拝している。結婚後子供ができない女性や性欲が弱い男女は、みなこの石崖を祭祀する、目的は早く子供がほしい、性欲が強くなりたいのである。
 漾鼻県城の南に江があり、江の真ん中から一つの尖状の石が露出して、形状が男性器に似ている。当地の白族は子供を求めるためにそれを祭祀することがある。
 路南彝族にぞくする撒尼人の村にはみな一軒の小部屋があり、内に一塊の石を供えている。これは山神・保護神であるから、病気があるとき、巫師に願ってこの石を祭る。村民の中、石を自分の子供の義父母として崇拝していることもある。哈尼族にぞくする葉車人の村の入口に、みな一面の林があり、これは村の「根」と言われるが、林の中からもっとも大きい樹を選んで、この樹元には一塊の石を立てて、これを「塞心神」とよんで村の保護神として祭祀している。布朗族や景東彝族も類似の石崇拝・儀式を持っている。
 納西族の『東巴経』はいう、納西族の最初の造物の神が「東」と「色」である、即ち陽神と陰神である。石は「東」、木は「色」を象徴している。つまり石は陽(父)神である。東巴(巫師の意)が祭祀儀式を行なうとき、米で一塊の神石を祭り、陽氣の強さをくれることを祈る。納西族はまた石を家庭の保護神として崇拝している。家の玄関の両側には、直径二〇センチぐらい、高さ七〇センチぐらいの錐形石を立てて、左側の石を「東阿普」、右側の石を「色阿主」とよんでいる。
 普米族・摩梭族・羌族などは石神が生きている人々を保護できるだけではなく、人々の死んでからの霊魂をも 保護できると信じている。屍体を火葬して、骨灰を陶器缶に入れ、缶を氏族墓地の山地の常緑樹の下に埋める。埋めるとき、四つの石塊を持ってきて、三つを樹の回りに寄り掛けて、一つを缶の上に置く。この四つの石は死者霊魂の保護神であるから、こうして、死者霊魂はいつでも滅びない、と信じられている。
 雲南省中甸三区白地には白水台(滝)があり、その頂上に一つの巨石がある。毎年農歴二月八日、この辺りの納西族がここに集まって祭典を行なう。儀礼の初めは神石(巨石)を拝む、つまり神石の前に鶏を殺して供えあげ、線香を立てたり頭を叩いたりする。後ほど、鶏血と鶏毛を神石に貼り付けて、神石が献物を享受した意を表す。もちろん神石から保護を賜わる、と信じられる。
 雲南の多くの少数民族は隕石や石器をも崇拝している。とくに石刀・石斧・石鑿・石錐などを神様として崇拝している。現在でも依然こんな物を家に供えて「雷斧」あるいは「神器」として祭る。人や家畜が病気のとき、石器を焼いて水の中に入れ、患者がこの石器水を飲んで、元気になる、と信じられている。また、石器は風雨を止める神力を持っている、と信じられている。巨風や豪雨あるいは淫雨をやめさせたいとき、石器を焼いて庭の 真ん中に置いて、石器に水を掛ける。すると、石器からの水蒸気が徐々に天空に上がっていくから、目的が達成できると信仰している。
 哈尼族・■族・基諾族・彝族・布朗族などはみな雷を祭る風習を持っている。彼らは石器時代から伝えられて きたという石斧や石杵を雷神の偶像として祭っている。(楊学政氏『原始宗教論』、雲南人民出版社、一九九一年、参照)
 甲骨文字の「侑石」(石を拝む)祭や少数民族の広義の石斧崇拝を、玉製男性器の中の「■」(=雷)と三角 形(石斧の象形)と、一緒に考察すると、雷神と石斧(=父=権威と男性器=祖先崇拝)との一体性がもう一歩明瞭になる。これは雷斧が雷斧としての神話学と宗教学および民俗学の深層意義である、と言ってよい。というわけで、雷斧は王権と生殖と豊穣とに関連するようになった。

4、 雷斧と王権

 前漢の賈誼(前二〇一?〜前一六九?)の『新書・産子』に「黼綉是古者天子之服也」(黼綉は古者むかし天子の服なり)」(図十四と写真三、参照)とある。黼綉とは、礼服の模様であり、黒と白の糸で背中あわせの斧の形を刺繍するものである。
 『儀礼・覲礼』(周代の士階級の冠・婚・葬・祭など種々の礼儀を述べたもの。周公旦の作と伝えられるが、 春秋時代からしだいにつくられたものと学界に認められる)に「天子設斧依于戸之間、左右几、天子袞冕負斧依(天子は戸の間に斧依を設ける、左右几、天子袞冕斧依を負る)」とある。鄭玄の注によると、「依、有繍斧文、所以示威也(依は繍あり斧文なり、所以に威を示すなり)。」斧依は斧・黼依ともよばれる。
 『周礼・春官・可几莚』(周公旦の作と伝えられる)には黼依について詳しく述べていた。

凡大朝覲、大饗射、凡封国、命諸侯、王位設黼依、依前南向設莞莚紛純、加巣席画純、加次席黼純、左右玉几(凡そ大朝覲、大饗射、凡そ封国、命諸侯、王位黼依を設ける、依の前に南向け莞莚紛純を設ける、巣席画純を加える、次席黼純を加える、左右玉几)。

 後漢の鄭玄の注によって、「斧謂之黼、其繍白黒彩、以絳帛為質。依、其製如屏風然(斧を黼と謂う、其の繍は白黒彩、絳帛を以て質と為る。依其の製は屏風然たる如く)。
 なお、孫詒譲の『周礼正義』はいう。

 『画貴職』黼為繍采、鄭『覲礼』注亦以斧依為采繍斧形。古書多云画斧、蓋所聞之異。(中略)依者屏風之名、唯其飾為斧形。賈(公彦)以斧為屏風之名、『書』及『詩・大雅・篤公劉』孔疏説並同、誤也(『画貴職』に黼を繍采と為る、鄭『覲礼』注は亦た斧依を以て采繍斧形と為る。古書多く画斧と云う。蓋ては聞く所の異なり(中略)依は屏風の名なり、唯だ其の飾を斧形と為る、賈(公彦)斧を以て屏風の名と為る、『書』及び『詩・大雅・篤公劉』孔(唐の孔頴達を指す)疏説並んで同じ、誤りなり)。

 『礼記・曲礼下』に「天子当依而立、諸侯北面而見天子曰覲(天子は依に当たりて立つ、諸侯は北面むけて天子を見ることを覲と曰う)」とある。
 以上の文献は多少の相違があるが、「黼綉是古者天子之服也」、「凡大朝覲、大饗射、凡封国、命諸侯、王位設黼依、」「天子当依而立」という記載はみな漢代あるいは漢以前の書物より出たから、こういう儀礼はすくなくとも周代ではすでにあったとおもわれる。言い換えれば、こんな記載は三つのポイントがある。一、天子の礼服には斧の模様がある。二、大朝覲など正式の儀式を行なうとき、天子は斧が描かれた屏風の前に立って、朝拝者に会う。三、礼服と屏風の上の斧模様は「威」つまり最高の、絶対な権威を示す。この発想は神話中の雷神の威厳性から伝えてきたのである(5)。
 というのは、前述したように、孔子の作と言われる『説卦伝』の「帝は震に出で(中略)万物は震に出づ」、『説文解字』の「震は霹靂の物なり」(震は即ち雷)からわかるように、雷神は帝(上帝=天帝=最高の天神)として上古の原始民に信仰されたが、夏・商(殷)・周の王朝時代に入って、この信仰は続いて残ってきた。そこで、天子(帝・天帝の子)は自然に雷斧を権威の象徴としたのである。
 さらに、帝王の「王」も雷斧と関連している。
 『説文』はいう。

 王、天下所帰往也、董仲舒曰、古之造文者、三画而連其中、謂之王、三者天地人也、而参通之者王也、孔子曰、一貫三為王、(中略)、古文王。(王、天下の帰往する所也、董仲舒曰く、古(いにしえ)の文を造る者は、三画して其の中を連ね、之を王と謂ふ、三なる者は天・地・人也、而して之を参通する者は王也、と、孔子曰く、一、三を貫くを 王と為すと、〔中略〕、古文の王。)

 許慎に引かれた孔子と董仲舒の説とも抽象的な哲学意味に傾いているから、わかりにくいが、「皇」についての『説文』の文はわりあいにわかりやすい。

 皇、大也、従自王、自、始也、始王者三皇、大君也、自讀若鼻、今俗以始生子為鼻子(皇、大也、自・王に従ふ、自は始也、始めて王たりし者は三皇なり、大いなる君也、自は讀みて鼻の若くす、今の俗に始めて生まるる子を以て鼻子と為すは是れなり)。

 「雷於天地為長子(雷、天地に於いて長子と為る)」(『華陽国志』より)、「雷、陰陽薄動生物者也(雷、陰陽薄り動くて物を生じる者なり)」(『説文』より)、「乾、天也、故称乎父。坤、地也、故称乎母。震一索而得男、故謂之長男(乾は天なり、故に父と称す。坤は地なり、故に母と称す。震は一索して男を得、故に之れを長男と謂う)」(『説卦伝』 より)。

 こんな説によると、董仲舒の「王」についての「天地人也」説は、ただ上古の神話信仰を少し改造したにすぎない。つまり「天地人也」の人は雷(=天地の長男)を替えての董仲舒式のよび方である。
 「王」の甲骨文字(図十五)がたくさん出土されるとともに、この文字についての論議もたくさん出てきたが、まとめてつぎのように挙げる。
 1、男性器の象形説(郭沫若氏『釋祖妣』、『郭沫若全集・考古編』第一巻、科学出版社、一九八二年、参照)。
 2、火の象形説(王国維氏『増訂殷虚書契考釋・中』、呉大澂氏『字説』、台北芸文影印本、三頁、朱芳圃氏『甲骨学文字編』、一九八三年、等参照)。
 3、斧の象形説。林氏・呉其昌氏・白川静氏などはこの説を持っているが、呉と白川両氏の論を挙げてみよう。

 王字の本義は斧である。(中略)古代の王者は皆武力で天下を征服したから、遂に傲慢事大になって、諸侯より上の地位を持っている王と称する。王の本義は斧であるゆえ、斧の武器を以て天下を征服する。そこで天下を征服した者は王と称する。斧の象形すなわち王字、ゆえに斧を(屏風)に絵する(略)(呉其昌氏『金文名象疏証』、周法高編『金文詁林補』巻一、香港中文大学、二〇三頁より)
 呉氏の黼説は王の声義とほとんど関するところなく、斧は字の示すように父権を象徴するものであった。父の初文はその斧身をもつ像で、ときには鉞をもつ像にかかれていることもある(師寰殷銘)。王権の象徴としての鉞は、儀器であるから忍部に摩礪を加えず、器の安定を保ちうるようにしてこれを王位の前に奠置したものである(中略)殷周革命のとき、武王が黄鉞・玄鉞を揮って紂王やその諸臣を斬った話が、逸周書の克殷・世俘の諸篇に記されている。字形が玉座に奠く鉞の形であるのみならず、王鉞の音も近く、声義の上にも関連するようである。字はまた皇字の構造と相通ずるところをもっている。(白川静氏『説文新義』巻一、白鶴美術館、一九六九年、八四・八五頁)

 「王」の甲骨文字の本源についてのこの三つの説は、文字学からみて互いに独立しているらしいが、文字の発生学と進化論から考えると、「王」という甲骨文字のいろいろの象形は、ちょうど前文に言及した、玉製男性器が象徴している「回紋」(=雷神の象形)・三角形(=斧の象形)・男性器との三者一体の上古信仰に照合している。つまり、「王」の甲骨文字の発生は雷神(=火、火と雷はもともと互いに通じている)信仰から始まって、 男性社会地位の高まりや部落権力及び早期国家・王朝権力の形成とともに、「王」の甲骨文字は斧・男性器(両者とも始・祖・陽気の象徴)と関連してきた。だからこそ、古典に雷と斧を古代帝王とともに記載する例がたくさんあるのである。

 附宝見大電光繞北斗権星、照耀郊野、感而二十五月、而生黄帝於寿丘(附宝は見ると、大電光北斗権星を繞りて、郊野を照耀す、故に感ず而して二十五月、而して黄帝を寿丘に生る)(『玉函山房輯佚書』輯『河図稽命微』)
 黄帝置斧鉞。『内伝』曰、黄帝将伐蚩尤、玄女授帝金鉞以主、此其始也。以銅為鳳首銜刀(黄帝は斧鉞を置もうける。『内伝』曰く、黄帝将(もち)いて蚩尤を伐つ、玄女、帝に金鉞を授くるに以てを主す、此れ其の始なり。銅を以て鳳首銜刀と為る)。(陳元龍『格致鏡原』巻四十二引、『四庫全書・子武三三七』)
 『逸雅』云、斧、甫也。甫、始也。(中略)鉞、豁也、所向莫敢当、前豁然破散也。(『逸雅』云う、斧、甫なり。甫、始なり。(中略)鉞、豁なり、向く所敢て当(お)うぜ莫(な)し、前に豁然たる破散すなり)(同右)偉大な史學者司馬遷の『史記』には黄帝は五帝の第一帝として記載されていた。

近年の考古調査も黄帝という人物が早期国家の元首であった事実性を提唱している。

5、雷斧と生殖力

 中国の陜西省・甘粛省・河南省など広い地域では、子供特に男の子を生んでから、お祝いとして、近隣の人々が鍋墨をかき落としてその家の大人の顔に付ける。この風俗はいつから始まったのか、はっきりわからないが、古い伝承らしい。現在も依然と残っている。
 静岡県のお花祭りにも類似の風俗がある。祭りをやっている当地の人々は互いにあるいは観客の顔に墨や味噌を付ける。これはなにを意味しているのか。
 中国語の中に、「煙火旺盛」という流行りの俗語があり、多子多孫・人口旺盛の意であるが、逆に「断了煙火」すなわち子孫断絶という俗語もある。いずれも「煙火」は子孫・子供を表わす。というわけで、鍋墨づけの方式 を用いて子供を生んだ家にお祝いをする。静岡県のお花祭りは子供を生むことと直接の関係はないらしいが、終始火と関連している。日暮れどき、石鎌を使って点火儀式を行ない、祭り部屋の真ん中に置いてある鍋でお湯を沸かす。これから続いて夜の一連の行事を行なうが、夜明けどき、前述した鍋墨や味噌付けの行事を行なう。なお、夜半ごろの、赤鬼の恰好の神様(雷神の模様だとおもう)が巨斧を用いて火をかかげることと一緒に考えると、この祭りは正に火の祭りではないか。前文に言ったように、雷と火は同性、つまり雷同じく火であるから、この祭りの深層は雷神信仰と深く関連している、といってよいであろうか。当地の人の話によると、戦前は男しかこの祭りを行なわなかったが、戦後以来、女性も出てきた。男性しか行なわなかった歴史を考察する必要があるが、もしずっと前からそうならば、この祭りの雷神信仰の内性は一層確認できる。というのは、前文に触れた ように、雷神は父祖・陽性神であるから。
 「煙火」の話題に戻る。中国の広い地域では、「煙火」崇拝は誕生・婚儀・葬式などにもみられる。新生児は一カ月(中国語で「満月」という)の誕生日になると、大人は新生児を抱えて家の玄関前の火堆(この儀式のためにわざわざ用意したもの)を通る。婚儀のとき、新郎新婦は玄関前の火堆を通る。葬式のとき、行列は村の出入口の火堆を通る。
 雲南西双版納の克木族と布朗族は火塘と火塘用の三脚を祖先神として祭っている。彼らの家には三つの火塘があり、一つ目は家神の火塘、二つ目は父母の火塘、三つ目はご飯を作る火塘である。父母の火塘とこの火塘用の 三脚は三代近祖の象徴であるから、父母が亡くなったなら、三脚を火塘の上に倒置しなければならない。父母の一方が亡くなったなら、三脚を火塘の上に十日間倒置してから、改めて点火使用を始めることができる。子供は 結婚すると、新しい火塘を作らなければならない。なぜならば、新しい火塘は新しい人口の生まれと子孫の繁栄を意味しているから。ようするに、彼らの信仰では火塘と三脚が祖先神であり、家庭人口を繁栄させる生殖神でもある。
 雲南省滄源地方の族では、春節(農暦の元日)期間、「達改」(巫師の名前)は竹を摩擦して火をつくる。そして、四つの茶碗に水を入れてこの火種を祭る。同時に村中に「土砲」(火薬装置の自家造の大砲、礼儀用)を鳴らし祝賀を表わす。祭祀終了後、村の人々は松明を挙げて巫師の家に新しい火を迎えに行く。この新しい火を自分の家に持って帰って、二つの餅を新しい火に供える。この儀式の目的は火神に祈って新年の人畜旺盛や穀物 豊饒を賜ってくれるのである。
 雲南の摩梭族と普米族は、十三才の男の子が袴、十三才の女の子が裙(スカート)をはく成人式を古くから行なってきた。この儀式は火塘のそばで行なわねばならない。
 雲南西双版納猛海県では、ある族頭領「窩朗」(名前)の家の中、火塘の上方に男性の五官と男性器を特に誇張した木製の裸人形が掛けられている。注目したいのは火塘と男性器との関連である。
 確かに六世紀南北朝時期、教(拝火教ともよぶ)はペルシアから中国に伝わってきて、北魏・北斉・北周の皇帝はみな自ら教を信仰していた。隋唐兩代は東京の洛陽と西京の長安に教の祠を建てて祭祀官を設置していた。北宋末南宋初、江梁や鎮江などには教の祠もある。『東京夢華録』はいう、「教本出西域、蓋胡神也。(中略)俗以火神祠之(教は元々西域より出づ、蓋に胡神なり。(中略)俗にして火神を以て之れを祀る)。」
 にもかかわらず、前述したように、教は伝入前、もっとも古い信仰である雷神同じく火神信仰は中国の広い地域に存在していた。六世紀以降の火崇拝の民俗は固有の雷神同じく火神信仰と教の火神信仰との融合かもしれないが、固有の雷神同じく火神の父祖神・陽性の生殖神という本来の性質は依然と残っている。前文のいろいろな民俗の例はその通りである。

『華陽国志』はいう。雷於天地為長子、以其万物為出入。雷二月出地、百八十日、雷出則万物出。八月入地、百八十日、雷入則万物入(雷は天地に於いて長子と為る、其の万物を以て出入りと為るなり。雷は二月地より出づ、百八十日、雷出づ則ち万物出づ。八月地に入る、百八十日、雷入る即ち万物入る)。(『芸文類聚』巻二より)

 「雷出則万物出」すなわち春の雷に従って万物は芽生え、出てきたというわかりやすい意であるが、「雷入則 万物入」はなんなのか。
 この古典の記載に対応しているのは、中国の春と秋両季節を婚期としての古い風俗である。
 近代中国神話学と人類文化学の創始者の一人である聞一多氏はいう、「原始民は感応巫術原理から、夫婦性交を行なって五殻の成長を助けることができると考える。そこで、婚期を二月農事のときに行なう。(中略)もう 一つの婚期は秋すなわち一部分の穀物が種蒔のときである。故に結婚の事は春あるいは秋に行なう。(『詩経通義』、『聞一多全集』第二巻、三聯書店、一九八二年、参照)

 偽家語・本命解』王粛の注に「秋季霜降、嫁娶者始于此。詩(詩経)曰『将子無怒、秋以為期』也(秋季霜降、嫁娶す者は此れより始まる。詩(詩経)曰く、『怒らないでね、秋にはきっと』となり」)とある。后漢の 張衡の『定情賦』に「秋為期兮(秋を期と為る兮)」とある。
 なるほど、「雷入則万物入」の本義は雷の入地に従って、万物(人間を含む)は懐胎する時期に入るようになるのである。
 古文の「■ 」(雷)真ん中の「回」について、清人段玉裁が「回生万物者也(回、万物を生じる者なり)」と注釈した(『説文解字注』)。「回」すなわち甲骨文字の雷の象形である。
 陳炳良氏によると、「伐其条枝(其の条枝を伐る)」、「伐其条肆(其の条肆を伐る)」こんな文は、『詩経』の中に男女婚姻を象徴している。例えば『小雅・小弁』の「伐木矣析薪也(木を伐るのにもをかけ、薪をさくに もを見る)」、『風・七月』の「取彼斧、以伐遠揚(桑の枝切り、斧で打ち下ろし)」、『風・定之方中』「伐琴瑟(やがては伐りて琴瑟とせむ)」、『鄭風・将仲子』の「無折我樹杞(植えた杞を折らないで)」、『斉風・ 南山』の「析薪如之何、匪斧不克(薪たき析ぎさくには何で伐る、斧でなければ伐れはせぬ)(6)などは、みな婚姻配偶の象徴として表現したのである。(『神話・礼儀・文学』、台湾聯経出版公司、一九八五年、参照)
 というのは、斧(雷斧)信仰の影響なのである。
 前述したように、ニューギニア東部高地のハーゲン山近くにあるワギ谷・チムブ谷の石斧には、「祭りの斧」・「日常の斧」・「花嫁代償の斧」の三種類があり、この花嫁代償の斧は斧(雷斧)の父(男)性生殖力の信仰で あろうか。中国及び東南アジアでは、鋏を枕に入れてプレゼントとして花嫁に贈る民俗がある。この鋏は雷斧信仰の変身であろうか。いずれも早く子供を生む、多く子供を生むという祈願である、とおもう。
 ギリシア神話の中には、雷斧が象徴している男性生殖力を喝破した例がある。つまり最高天神ゼウスは斧を振り動かして「黄金雨」が降った。この「黄金雨」は美人王女ダナエに妊娠・出産させた。(M.Grant『Myths of the Greeks and Romans』, New York,一九六二年、二一三頁、参照)
 要するに、雷斧の生殖力信仰は火崇拝同じく雷神崇拝と繋っている。言い換えれば、雷神同じく火神は陽気の本源であるから、神話の進化に従って父祖神・男性生殖神の信仰と一体になってきた。雷斧は雷神の象徴として 帝王の権威を表わしていると同時に、父(男)性生殖力をも表わしている。

【あとがき】

 古代文化特に神話は、まもなく二十一世紀に入る我々に対して、依然と魅力一杯の領域であるとおもう。というのは、国際化・情報化的な現代国際社会では「実事求是」という学風を用いて無偏見・無蔑視・公正的・平等的・お互いに勉強的に学術研究を行なう與論や技術条件はますます成熟してきたのである。誰か、またある国、ある民族の文化を中心・優越と提唱すれば、いうまでもなく現代国際社会は認めることができない。一言で言えば、国際交流的な学術研究は、ある国・ある地域・ある集団に限らず、人類の平和や共同共生な未来に向けて行 なわねばならない。この前提に立っていて、古代文化を研究すれば、「其楽融融」であろうか。
 小生の「雷神・龍神の研究」はこの視野と発想から出発して、続いて進んでゆこうとおもう。このフォーラム報告書の公刊の際に、コメンテーターの有名な中国専門学者、井波律子国際日本文化研究センター教授、フォーラムの優れた企画、司会者、臼井祥子女史同センター研究協力専門官に国際的な感謝を申し上げる。