キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)

朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長

 韓国と日本は古代から同じような文化を持ち、特に宗教においては古くから仏教・儒教を受け入れ、両国の文化は今もこの二つを抜きにしては話せないほどです。近世においては、両国はともに、鎖国によって西洋文明の受け入れを拒否し、堅くなに東洋文明の伝統を守ってきたといえます。そして、キリスト教を禁止し大弾圧を加え、多くの殉教者を出した歴史を共有するにもかかわらず、近代・現代特に現代におけるキリスト教にたいする受容に大きな差が出ています。
 現在、新旧合わせたキリスト教信者の数は、勿論信者数の統計は不確実なものではありますが、韓国文化部の90年の統計では、韓国には1450万人、圧倒的にプロテスタンの方が多いのですが、これは韓国全人口の約3分の1です。ところが日本はどうかというと、91年の朝日年鑑によると896,282人となっています。120万人とも140万人とも書かれている本もありましたが、ともかく全人口の1%にしか過ぎません。何故このような差が生じたのかは非常に疑問の残るものです。過去においてもそうでしたし、近代においても、韓国より日本のほうが西洋文明の受け入れにむしろ積極的であったはずで、そして、その西洋文明の基調がキリスト教のはずなのですが。
 このようにキリスト教受容における両国の差が何故生じたのかを解明することによって、韓国と日本の宗教性の違いが分かるはずです。そして、日本というものがもっとよく理解できるのではと思われました。
 といって、一朝一夕に解決できるものではなく、考えあぐねていたところ、去年の6月の終わりに、東京で「韓日文化の同質性と異質性」という主題でもって韓日フォーラムが開催されました。ここに韓日を代表する学者の方々が集まり発表する中で、国際日本文化研究センター教授の山折氏が(1)政治・社会システムの圧力(2)日本人による外来宗教の受容の仕方に独自の個性があった(3)日本宗教の根底を規定していると考えられる「祖先崇拝」に係わる問題の三つの観点から「キリスト教が何故日本に定着しなかったか」を発表されました。内容は、非常に簡潔明瞭で、良く理解でき納得の行くものでありました。
 ここで、興味を引いたのが日本と全く逆の立場が韓国ではないかということです。山折氏の説を自分なりに消化し、それと韓国でのキリスト教受容状況を比較すれば、韓国日本両国の根本的な違いが見つかるのではないかと考えた次第です。
 そこで、本来日本文学をやっていて、宗教に対して全くの素人であるにもかかわらず、お叱りを承知で「キリスト教における韓日の比較」というような題でお話を進める次第であります。

一、日本の宗教状況

 日本の宗教を考える場合、日本神道と仏教の存在が他のものを圧倒していることは、ここで改めて私が述べるまでもないことですが。
  その中でも、教理教典が無いだけに日本神道は非常に分かりにくいものです。日本神道という名は、イスラム教がインドに入った11世紀に、インドの伝統的宗教習俗をヒンドゥー教と命名したように、仏教が韓半島から日本に公式に伝わった頃、日本人の宗教習俗を「神道」と名付けたようです。大体6世紀のことです。ですから、 日本神道は古くからの日本の固有宗教と言えます。
  仏教公伝の数百年も前から、日本人は神々への信頼を生活の根幹に据えていました。例えば、日本人の生活の 基底を支える食物は、神々の御加護なくしては、収穫さえないと確信していたからです。そのために、日本列島のいたるところに神を祭る聖地を定め、春・秋に村人こぞって祭りを厳修していました。つまり春には祈年祭といって、神々に五穀の豊穣を祈り、秋には新嘗祭と称し、神々に五穀の豊作を感謝するお祭りを営んでいました。
  そして、時代をもっと逆上れば、採集狩猟生活をしていた縄文時代は汎神論的なアミニズムで、山の神森の神 を中心に多くの神々を祀っていました。そして、これらの神々は、天皇家が勢力のあった8世紀、記紀神話の成立とともに天皇家の正当性を実証するため、皇祖神天照大神を中心に体糸化され、日本神道の中に組み込まれていったと言えます。さらに、その後も怪傑した人物の多くは、神と祭られ信仰の対象となっています。私達韓国人にとっては余り有り難い名前ではありませんが、豊臣秀吉(豊国神社)、また楠正成(湊川神社)というように、死んで神になっています。
  さらに人々は、それぞれ地縁的結合を成す神社を持っており、そしてこれらの神社に祀られている神は、その地域社会に住む人々にとっては共通の氏神であり、人々は何か祝い事があればその神に報告し、また何か願い事があればその神に祈りを捧げました。この神の祭祀である“祭り”は、人々に地域共同体意識を持たせ、町や村を発展させて来たと言えるでしょう。これは、現在まで守り続けられています。
 これに対し、仏教は6世紀に韓半島から伝えられ、初期の頃は別として、日本の土着信仰と対立せずむしろ調和し、特に日本神道との習合は平安時代から始まり、日本神道と共に着実に発展して来ました。平安時代を代表する僧である空海・最澄は、共に神道を尊重し、自らの信仰に取り入れています。そして、法然・親鸞・日蓮などによって開かれた、所謂鎌倉仏教の発展により、仏教は民衆の中に深く根を下ろし始めたといえるでしょう。
 江戸時代になり、キリスト教禁制峙代を迎え、宗門改めに続き檀家制の確立によって、全ての日本人はどこかの寺の信徒になることが義務付けられ、檀家帳が戸籍の役割まで果たすに及で、日本人総仏教徒の時代が始まったと言えます。仏教はさらなる土着化とともに日本神道との一層の習合化を進め、日本人の宗教を統一していくのです。この時、寺の中に神社を、反対に神社の横に寺を建て、明治以後の神仏分離後の現在にいたっても、寺と神社が一緒になっているところが多くみかけられます。今、私が住んでいる近くに東寺がありますが、その境内しかも正門とも言える南大門を入ったところに八嶋神社が祀られています。私達外国人には奇異に感じられても、これを気に留める日本人にお目にかかったことがありません。
 仏教の役割は主として「死」を担当することで、身分地域差を越え全国的に葬式また祖先の供養を一手に引き受けました。神社の神主(神官)の葬式も担当したのですから、徹底したものといえるでしょう。これが、今日葬式仏教といわれる所以です。仏教の中でも奈良仏教は今も葬式を取り扱いませんが、これは例外中の例外です。このような死者を巡る仏教儀礼は、その死者の属する「家」つまり檀家とその家を保護する菩提寺の関係を絶対的なものとし、寺による民衆の支配を確立させたと言えます。
 このように仏教は葬式・祖先祭祀をとおして、血縁関係という集団の信仰を、また日本神道は神社の祭祀を通して地域集団の信仰を得ることに成功しました。さらにともに、現世利益を求める個人的な信仰をも得ています。このように、仏教・日本神道という二大宗教は、対立することなく習合することによって、日本人の信仰生活を完全に支配し得たといえます。
 キリスト教禁制が解け、西洋文明とともに多くの宣教師が日本に入ってきた明治以降も、仏教と神道によるこの構造は変わらず、キリスト教が日本人の信仰生活の中に入る余地がありませんでした。
 しかし、現在は人々は激しく流動し、故郷を遠く離れ、すでに菩提寺や地縁的関係のある神社という感覚のない都市庶民が多く、そして最近外人は勿論のこと、日本人の口からも「日本人には宗教的意識が観られない。」と良く言われています。確かにそうかもしれません。
 日本人に「貴方の宗教は?」と聞けば、大抵「別にこれと言って、ないですよ。」という答えが返ってきます。それでも、もう一度念を押して聞けば、「そうですね。どちらかと言えば、仏教でしょうかね。」と言った答えが帰ってくるのが落ちです。
 しかし、宗教的意識のないままに、今も家に仏壇や神柵を祀ったり、仏教式の葬式をあげ、盆にはお坊さんに来ていただき、神前結婚を挙げ、初詣でを欠かさず行うなど、生活全般において、熱心に宗教儀礼を行っています。また、ビルの屋上に行けば間違いなく、片隅に神を祀る場所が設けられています。このように、揚げれば切りがありません。さらに、まったく宗教とは無縁であると思われている若者たちでさえ、昨年プロ野球で阪神タイガース・フィーバーがありましたが、その主役である若者たちが集まって、なんと神社に優勝祈願をおこなっています。また、修学旅行で京都に来ている中学生や高校生たちが、今までバスの中で寝ていたのに、神社や寺にくると、突然起き出し、その前で何か真剣に願っています。
 このように、宗教意識のない中で熱心な宗教儀礼が、老若男女を問わず、またすでに菩提寺や地縁的関係のある神社との構造がくずれている現在においても、続けられているということは、ある意味において、日本人は非常に根深い信仰心を持っていると言えるでしょう。
 しかし、ここでいつも考えてしまうのですが、特に私が京都にいる関係上、いろいろな寺や神社を御参りしている多くの観光客にでくわしますが、例えば四条通りを真っ直に鴨川を越えて東に行きますと、八坂神社に行き当ります。その横は知恩院です。ともに日本人ならだれでも知っている有名な神社仏閣で、いつも観光客で賑わっております。外国人観光客なら、ただ見物だけで終わりますが、日本人の場合は、老若男女を問わず、必ず神仏に参ります。そして、神社でしたら、必ずあの鈴を鳴らしながら何かを願っています。その瞬間は非常に真摯な態度です。
 しかし、京都の方ならご存じでしょうが、八坂神社に誰が祀られているのか、また知恩院は何宗の寺なのか、このような非常に基本的な知識もなく参っている観光客が、ほとんどではないかということです。説明書を読むか、説明を聴いて納得をしますが、その後すぐに忘れてしまいます。参る人にとって、何の神だってよく、ただ「神」に願い、そして仏様に祈りを捧げているのです。
 すでに、無意識の信仰と申し上げましたが、今回は無知識の信仰とでも申し上げましょうか。しかし、何ら宗教的強制も受けずに、熱心に信仰しているのですから、不思議なかぎりです。
 となると、日本人の信仰として仏教とか神道を一般に取り上げていますが、そうではなく、日本人の信仰には仏教・日本神道以前の問題があるのではないかと考えざるを得ません。そして、これが今も、キリスト教の日本への定着を阻止しているのでないかと考えられます。たとえ、仏教・日本神道によって日本人の信仰生活が支配されていても、宗教の自由が保証されている現在、キリスト教が日本人の宗教意識とマッチするものであれば、もう少し日本にキリスト教徒が増えるはずです。
 これにつきましては、あとでお話申し上げることにして、次には韓国へのキリスト教伝来時の政治・社会情勢についてお話申し上げることにいたします。

二、韓国の伝来宗教の盛衰

 キリスト教伝来前に韓国民衆に支持され、理想を与えた宗教として、仏教・儒教の二つが代表として揚げられます。
 仏教は、三国時代(韓国における三国時代と申しますのは、668年に新羅が韓半島を統一するまでの、高句麗・百済・新羅三国の時代のことです。)、まず最初に高句麗に372年、次に百済384年、新羅は一番遅れて528年、次々と韓国に入り急速な成長を遂げ、統一新羅・高麗時代と受け継がれ、千年以上もこれといった妨害を受けずに発展し続けました。この間、元暁(612〜686)・義湘(617〜686)などの高僧を輩出し、韓国の理想を提示し民衆の湘持を受けるとともに、民衆の心の支えとなってきました。
 さらに護国仏教として発達し、国家からは手厚い保護を受け、高麗時代におきましては、僧の官職化を計り科挙制度に僧科を設けるまでにいたり、これを利用して僧は合法的に中央政界に進出していきました。しかし、この時僧たちは、残念ながら、政治に理想を追求し民衆の救済に努力したのではなく、権力欲に目がくらみ政界を混乱させ、高麗王朝の崩壊に拍車を掛けたのです。このため、次の王朝李朝時代にはいると、韓国伝来以来千年の間国家に保護され発達し続けた仏教は、ついに国家によって弾圧され、民衆から見捨てられるという結果を招くこととなりました。高麗仏教は、こうして与えられた自由と機会を乱用することによって、病み滅亡したと言えます。
 高麗の次の王朝である李朝(李氏朝鮮、1392年の建国)時代の五百年は仏教弾圧に終始しました。市街地にあった寺はことごとく破懐され、僧は賎民階級にまで落ちぶれ、都である漢陽(現在のソウル市)に入ることさえ許されず、また、官職に就く者の寺院参拝も禁止されました。このため、僧たちは山に入り、そこでやっと自已の命脈をつなぐという状態であったとは言え、現在も寺のほとんどが山や人里はなれたところにあり、韓国民衆は寺と言えば、すぐに山を連想するのが常です。
 世祖(在位1455〜68)やそれと明宗(在位1545〜67)の母文定王后等によって、衰退した仏教の復興が試みられましたが、また、壬辰・丁酉倭乱(文緑・慶長の役)の時国家の危機を救うべく、西山大師休静(1520〜1604)や泗溟堂惟政(1544〜1610)らが僧兵を率いて義兵に加わり目覚ましい活躍をし、一時的に、仏僧の身分が保証されもしましたが、やはり、李朝の体制は強力な排仏政策に終始したと言えるでしょう。
 そして仏教は、19世紀近代化を迎え国家の弾圧から解放されましたが、近代化の波に乗ることができず、国家の混乱の中で苦しむ民衆に希望を与えることができませんでした。つまり、高麗滅亡1392年以降仏教は衰退の道を辿るのです。
 高麗の滅亡とともに一部の信奉者を除いて仏教に期待を寄せるものはなく、新生李朝の民衆と国家は新しい指導理念を求めていました。この時、期待されて登場したのが儒教です。
 韓国の儒教は、仏教とともにその歴史は長く、仏教が千年にわたって韓国史に君臨する間いつも影のように存在していたと言えます。そして、仏教が堕落し衰退するや、時代の要求に応じて表舞台に登場したのです。特に、 李朝を建てた李太祖(李成桂)の革命主体勢力をなしていたのが鄭道伝などの儒者達でありました。さらに、儒教出身の三代目の太宗(在1400〜1418)と、世宗(在1418〜1450)韓国の文字ハングルを作り、韓国歴史上一番 尊敬されている王ですが、)の抑仏抑儒政策は、より一層儒教の復興をもたらしたといえます。
 しかし、李朝において儒教は国教と定められ、韓国人の生の意味と方向を与える究極的なものであったという点から、儒教は韓国人にとって宗教であったということには疑いはないのですが、いつも「儒教が宗教かどうか」問われているように、韓国民衆に対して宗教としての満足感を与えることができませんでした。何故なら倫理・道徳ばかり強調したため、これを信じることによって救われるという強い宗教意識が芽生えなかったといえるでしょう。
 さらに、本来儒教は治国政治に理念を持つ宗教ですので、政治的現実と関連して、常に政争に巻き込まれ続けてきたといえます。そして、李朝末期には保守化とともに形式主義に陥った儒教は、国の発達を遅らせ、民衆の辛抱を失ってしまいました。
 ならば、当時「困ったときの神頼み」は、何であったのかという問題になります。これは原始時代からの巫俗信仰、つまり巫教(シャーマニズム)です。一般民衆にとって、何かあると、巫堂(シャーマン)を尋ねるか、または家に呼び寄せ巫堂に祈祷を上げてもらうのが常でありました。巫堂の神通力に依存することによって、病気を治し幸運を呼び寄せ厄払いをし、生活に希望をもったのです。過去において、どこの町村に行っても巫堂の一人ぐらいはおりました。李朝時代には僧侶の数よりも多かったといわれ、正確な統計はありませんが、今でも2万人以上いると言われています。しかし、これは精霊との交流によって民衆を救うというもので、教理として体系化され、国家民衆に指導理念を与えるまでには発達していません。この時期多くあった韓国固有の民間信仰も同様であったと言えるでしょう。
 李朝末期、国内の政治・社会の混乱、そして列強の進出による日清・日露戦争、日本による植民地化と続く民族滅亡の危機において、強い指導理念を持ち国家民衆を苦しみから救い出す宗教が存在しないという宗教の空白状態に陥ったといえます。仏教・日本神道が国家宗教にまで発達していた日本の状況とは、正反対と言えるでしょう。こんな時、キリスト教が強い理念を持ち。韓国民衆の前に登場したのです。

三、韓国キリスト教の努力

 そして、この空白期間に、キリスト教が韓国定着のために行った努力も無視してはなりません。
 韓国とキリスト教との最初の出会いは、8世紀新羅時代に唐からの景教の伝来が考えられます。さらに時代は下って、壬辰倭乱(文緑の役)の時日本軍に従軍して韓国に来たセスペデス(Gregorio de Cespedes)神父によって直接キリスト教が伝播されています。しかし、これらは韓国民衆に何ら影響を与えるものではありませんでした。
 また、17世紀「洪吉童伝」の著者許■や当時の実学派のリ一ダー李■光等によって、天主教が西洋学問として紹介されており、そして丙子胡乱(清国の朝鮮侵略)の時に清国に人質として連れていかれた昭顕子世子(皇太子)の帰国によって、西洋文明とともに天主教が紹介されたこともありました。しかし、これらもやはり韓国のキリスト教史の出発点を形成するにいたりませんでした。
 キリスト教が韓国に最初に伝来されたのは、赴京使一行について行った李承薫が北京で神父グラモン(M.de Gramonto)から洗礼を受け、1784年帰国した時です。李承薫は帰国後すぐに、資格のないまま自らが洗礼を施した李蘗・権日身と一緒に布教活動を開始しました。ここで注意すべきことは、これは韓国キリスト教伝来の特徴でもありますが、外国人宣教師が入って来る前に、韓国人独自の布教活動が行われていたことです。つまり、この時期の韓国人は衰退した韓国伝来宗教・理念に変わる新しい宗教・理念を積極的に追い求めていたのです。
 しかし、キリスト教が急成長するとともに、韓国民衆に深く根を下ろすのは、改新教の伝来後です。天主教がそうであったように、改新教もまた宣教師が先に入ったのではなく、韓国人自らが積極的に受け入れています。義州の李元賛・白鴻俊・金鎮基・李成夏らの4人は、満州において改新教の宣教師ロス(John Ross)とマッキンタイヤー(John Macintyre)に出会い,牛舎で韓国語を教えたりして協力する課程で、1876年洗礼を受けました。これが、改新教信者の始まりです。その後、除相が洗礼を受け、先の4人とともに二人の宣教師を助け、『新約聖書』を韓国語に翻訳し始めました。1882年に初めて「ルカ伝」・「ヨハネ伝」が満州で韓国語に翻訳され出版され、1887年には、『新約聖書』全体が『イエス聖教全書』という名で出版されました。これによって、改新教は宣教師がいなくても、文章による韓国での布教の基盤を築いたと言えます。
 韓国人はその後、宣教師との接触をもたずに、ただ聖書や文章のみを通じてキリスト教の教理を会得し信仰の道に入って行きました。このため、1884年にロス一行が満州の韓国人村を訪問した時、彼等はすでにキリスト教 を信じていた韓国人75人に洗礼を施すことができたのです。つまり、宣教師の福音を聞いたのではなく、聖書その他の文章を読むことによってすでに神を信じ、宣教師を待ちわびていたのです。
 1885年4月5日、韓国監理教の開拓者アッペンツェラー(Henry G.Appenzeller)牧師夫妻と、韓国長老教を開拓したアンダーウッド(Harace G.Underwood)牧師が初めて、韓国の仁川に上陸し、すぐに教会をたて宣教活 動を活発に開始しました。その後、1896年に百年にわたる西教禁圧令が解かれ、信教の自由が公布されると、アメリカを中心として改新教の宣教師たちが波を打ったように押し寄せてきました。
 彼等は単に教会拡張運動だけを行ったのではなく、全般的な文化活動をも行うことによって、韓国の近代化に貢献しました。(1)YMCA(1903)YWCA(1922)の青年運動(2)女性解放運動(3)新教育運動(4)医療事業(5) 文章運動、1900年までの20年間で聖書の領布数だけでも約700万部に達しており、韓国の固有文字ハングルを広く普及させたのは、キリスト教の聖書と賛美歌だともいわれています。
 以上のような広範囲の文化活動を展開する一方で、勿論のこととして信仰活動も活発に展開しています。1903年と1906年元山で宣教師の査経会の開催を契機として、全国に一大復興伝道運動が展開されました。これは、1910年の韓日合併直前という不安な時代の中にあって、韓国民衆に心の安定と平和と慰安を与えるものでありました。韓日強制合併のあった1910年には、百万人の救霊運動を展開し、監理教と長老教がこれに積極的に参与しました。当時20万人にしかすぎなかった信徒が、百万人伝道を目標に総決起したのです。その時の方法として、大々的な復興会、伝道文書の領部、戸別訪問でした。目標は達成することはできませんでしたが、キリスト教の理解がなかった一般民衆にキリスト教が何であるかを伝えた意義は大きいものでした。このようにキリスト教は、韓国の時代的風潮に乗じて驚くべき速度で、全国に発展していったのです。
 日本植民地時代には、全国的に独立連動を展開した1919年の三一運動にキリスト教信徒は積極的に参加して、日本官憲に2,000名を越える(総数7,509名)信徒が虐殺され、2,033名(総数9,458名)が起訴投獄、47の教会が破壊されました。また、第二次世界大戦中に逮捕投獄された教会指導者は約2,000名、獄死者も50名に及び、神学校とともに200余りの教会が閉鎖されました。
 こうして、キリスト教は韓国民衆と苦難をともにすることによって、西洋人の宗教でなく韓国人の宗教としての立地を確保したのです。
 解放後南は、米国軍庁時代それに続くアメリカ帰りのキリスト教信者である李承晩大統領のもとで、勢力を伸ばしていきました。6・25動乱(朝鮮戦争)時に、教会は多大の被害を被りましたが、その後の復興には目覚ましいものがあり、1952〜1954年は一大復興期といわれています。物質的には外国宣教会から莫大な援助があり、精神的には全国的な復興会を進行させました。教会は動乱前の2倍に増加し、1955年までに新設された教会数は約2,000余りにもなります。
 外国、主としてアメリカの宣教会からの援助物資はすべてその関連教会に送られ、そこから人々に物資が配られました。教会のない村では援助物資が得られないので、どんな山奥の村にも教会が急造されるという異常現象が起きています。日曜日礼拝に参加した子供にはお菓子が配られ、クリスマスにはプレゼントが送られたので、 その当時の子供は競って教会通いをしました。キリストはまさにサンタクロースであったと言えるでしょう。そしてこの時代に育った者にとって、援肋物資を送ってくるアメリカは、冷蔵庫・自動車・ステーキと豊かさの象徴であり、このアメリカがキリスト教とオーバラップし、キリスト教は当時の韓国人にとって豊かさを保証してくれる宗教にも映りました。
 しかし、ここで考えなければならないのは、宗教的空白期間が生じ、そしてそれに合わせてキリスト教が努力したからといって、無条件にキリスト教が歓迎されるというものでは無いということです。確かにこれはキリスト教が韓国において急成長する大きな要因にはなったでしょうが、空白期間が生じなかっただけで、日本にキリスト教が定着しなかったことを証明するのと同じで、少し無理があるでしょう。日本人の宗教意識の中にキリスト教を受け入れない何かがあるように、韓国人の宗教意識の中にキリスト教を歓迎する何かがあったと考えられます。

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。このため、改新教の宣教師たちは、H.B.ハルバート(1863〜1949)・C.A.クラークに代表されるように、巫俗信仰の研究を熱心に行っています。
 儒教・仏教・道教が韓国に伝来される前の在来宗教は、シャーマニズムだけです。これは、ここで改めて申し上げるまでもないことですが、韓国固有の宗教ではありません。シベリアを中心として、広く蒙古・満州・韓国・日本、そしてアルタイ諸種族間に共通な原始宗教です。しかし、元来が一定の教理や組織という体系を持ち得なかった原始宗教なので、それはそれぞれの民族にしたがって、それぞれの特徴を異にするにいたっています。韓国においては、シャーマニズムが韓国の宗教的基盤を成しつつ、外来宗教を受容しましたので、その外来宗教との混合を通じ、さらに変形されつつ歴史の底流を成してきたといえます。
 韓国の建国神話である壇君神話自体がシャーマニズムの所産であるといわれている点からも、シャーマニズムがいかに韓国の精神的基礎になっているかを容易に理解でき、これは常に民衆の生活を支配し、他宗教との混合 のうちに文化の命運を左右してきたと言えます。現在もこのシャーマニズムが韓国の民衆の生活に深くかかわっており、巫堂が個人的なことから海開きビルの新築など、いたるところで活躍しています。
 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。
 そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。
 さらに、韓国シャーマニズムにおいては、宇宙を上界・中界・下界の三階層の構造に分けています。上界は、光明に満ちた天上世界で、最高神と善霊たちの居場所。中界は人と生物の住む世界。下界は悪霊が住む地獄といえ、これは、キリスト教の世界観を理解する基礎となっています。また、シャーマニズムの主要な関心は、人間の倫理ではなく、霊界がかもし出す災厄からの人間解放でありますが、シャーマニズムにおいても、人々はこの世の所業のいかんによって、死後上界にも下界にも行くと信じられています。このような面からシャーマニズムにも若干の審判思想と倫理思想があるとみることができ、これは、キリスト教での最後の審判を理解させるのに役だっています。
 次は、韓国シャーマニズムにおける依他性です。全ての生活現象は超越的な神霊界によって支配されていると考え、天地神明が人間の運命と生活を左右すると信じ、それらに自己をゆだね、吉凶禍福はもっばら運命的なものになっております。従って、自己の生活と運命に対して、自己自身が主体的な責任を負って決断しようとしません。ここには倫理的契機がなく、ついには霊界に対する自己の信仰までも巫堂(シャーマン)に一任してしまうのです。自己の信仰決断ではなく、仲介者である巫堂(シャーマン)が自己の運命のために霊界と交際してくれることをひたすら願うのみです。ここには徹底した韓国的依他依存主義がみられます。「信仰によって救いに至る」という根本教理を持つキリスト教は、韓国民衆の依他信仰と完全に一致を見るのです。信じさえすれば幸福を受けることができるということは、韓国の民衆を魅了し、韓国人はだれよりも容易に受容し得る素養をもっていたと言えます。だから、韓国人のキリスト教に対する信仰の概念が、どの程度主体性をもった実存的決断と関連しているかということが問題となってきます。これを一つの安易な衣他主義に還元してしまうところに、今日のキリスト教信仰の問題点があるといえます。最後に、韓国のシャーマニズムの現実主義的性格です。韓国のシャーマニズムは、あらゆる欲求は現在に集結しており、今、どのようにしてあらゆる災厄と不安から逃れ安心立命の生活、幸福な生活を営むことができるかに全関心の焦点があります。このため、新羅・高麗の仏教は現実主義的な護国仏教に変質し、民衆には除災招福の祈祷仏教に終始したと言えます。キリストの神に対してもやはり同じく、現世利益を求めて祈祷しています。そして、キリスト教もこれに答えるために、現世利益的奇跡を布教の道具として使っています。
 これは、韓国で市販されている「ひとすじの道を歩ませ給え」(ビデオ・テープ)を見てもらえば一番よく分かって頂けるのですが、これは、ソウルのハレルヤ祈祷院において、神の恩赦を受け金桂花執事が、癌・脳性麻 痺・ディスク・皮膚病などありとあらゆる患者を、彼女の聖霊化した手で揉んで治療するという記録映画です。つまり、キリスト教の奇跡を見せるものです。
 このような祈祷院は全国各地に見られるもので、筆者も訪問した経験があります。私の教え子の一人が、癌で医者からも見放されて、最後の救いを求めて祈祷院に入った時のことです。私の住んでいます韓国の全羅道の裡里市の郊外で、近かったものですから、暇を見つけてその祈祷院に彼を尋ねていきました。頭の毛は抜け落ち、身体は痩せこけていましたが、目だけはギラギラ輝いていたのが妙に印象的でした。しかし、そこでの光景は、天に召される日を静かに待つキリスト教者とは似ても似つかぬもののように感じられました。病を治すという一念で行われる牧師との祈祷会、参加者全員が何かに取り憑かれたように声を上げて身体全体で祈る光景は、凄まじいの一言で表現できます。その場にいたキリスト教を全く信じない私も、幻想の世界に引き込まれそうになりました。正に巫堂の世界です。結局、彼はその後しばらくして息を引き取りましたが、聞くところによると、不思議にも末期症状の癌患者特有のひどい苦しみはなかったそうです。
 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
 以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

五、韓国におけるキリスト教とメシア思想

 もう一つ、キリスト教を受け入れるにあたって、韓国のメシア思想が大きな力となったことを忘れてはなりません。
 韓国の建国神話に「檀君神話」がありますが、この「檀君神話」というのは、韓国の始祖とされている古朝鮮を開いた檀君王倹の話です。桓因と称する天帝に桓雄という息子がいましたが、この桓雄は毎日地上を見つめ人間を哀れに思い、これを救いたいと思っていました。そうして、父の天帝桓因に自分を地上に送ってくれるようにお願いしたところ、父桓因は息子桓雄が地上にいくことを許し、桓雄に天符印を三つ与えました。それで、恒雄は風伯・雨師・雲師を率いて太白山の神檀樹のもとに降り立って神市をつくりました。その後、人間に成りたがっていた熊を人間の女にしてあげ、そしてその女と結婚し檀君王倹を生みました。これが檀君朝鮮(古朝鮮)の始まりです。
 これは、日本の記紀神話に出てくる天孫降臨と良く比較されますが、両者には根本的な違いがあります。日本神話の場合は、高天原(天)の神が、葦原中国(地上)の支配者大国主神を征服するというかたちで建国しますが、檀君神話は、地上の人々の苦しみを救うために降臨し、また人々もこれを喜んで迎え入れるという形をとっています。これは、正にメシアの到来神話といえるでしょう。
 現在も檀君王倹をメシアとして崇拝している檀君教団が10以上あります。一般に韓国で言われている「三神」を、檀君神話に出て来る桓因・桓雄・桓倹(檀君)であると解いて、さらにこの三神を「三神一体説」で説明する者もおります。この「三神一体説」は、キリスト教でいわれている「三位一体説」とほぼ同じもので、つまり、一つの神が造化・教化・治化の機能を持っているのであり、また一つの神が天・地・人の性格を持って分離しているだけであるとしています。
 このメシア思想は、仏教伝来後も仏教のメシアである弥勒信仰へと受け継がれていきます。三国時代の新羅においては、花郎の中に弥勒信仰が盛んであったことが「願我大聖化作花郎出現於世」(「三国遺事」弥勒仙花の條)から分かります。また、百済第30代武王(600〜641)の時に、首都扶余の南にある全羅北道の益山の地に巨大な弥勒寺が創建されています。その石塔は現在も残っており、その規模は韓国第一を誇っており、そして韓国全土に、弥勒菩薩像が造られ弥勒信仰が盛んであったことを物語っております。さらに、新羅時代末期の後三国時代、後百済を率いた弓裔は自らを弥勒仏と称しています。このように混乱期になると決まって自称弥勒仏が登場してきます。
 仏教の衰退期である李朝時代においても、民衆の弥勒信仰は根強く残っておりました。そして、民族存亡の混 乱期の李朝末期に、民族宗教として民衆から多くの支持を得た新興宗教であります東学・山教は、先天世界の終わりと、後天開闢を唱えて多くの支持を得ました。これは、メシアの降臨を予言するものでありました。
 また、キリスト教も布教活動において、メシアの再臨を強調しております。1990年でしたか、年度は定かではありませんが、100万人集会が、首都ソウルにある国会議事堂の近くのヨイド広場でもたれました。本当に100万人集まりました。キリスト教者の集まりとしては、過去世界最高の動員数です。100万もの人が天を仰ぎ祈っている光景は、今にもメシアが降りてきそうな幻想を抱かすのに充分です。
 このメシア思想は、今自らメシアと称する統一教会の文鮮明氏、また個人崇拝を強めている北韓の独裁者金日成主席を容易に生み出す土壌となったと言えるでしょう。
 このように、李朝末期の混乱期に係わらず韓国伝来の宗教は衰退し、宗教としての役割を果たすことができずにいた宗教的空白期にキリスト教は伝来し、期をのがさず布教活動に努力し、急速に韓国民衆の中に浸透していきました。そして、何より重要なことは、原始社会の時代から韓国人の宗教を左右していた巫俗信仰とメシア思想が、キリスト教とマッチし、韓国民衆から歓迎されたということです。過去に、仏教がこの巫俗信仰を取り入れることによって発展したのと同じですが、仏教はこれを取り入れるのに教理的な矛盾から、多くの困難があったのに対し、キリスト教はその困難は余りなく、むしろ教理的にマッチするところが多く、比較的楽に韓国民衆の心を捕らえることができたと言えます。
 韓国キリスト教は、当然のようにして韓国に定着することができたと、いってもいいのではないかと思われます。
 次に、キリスト教の日本定着を阻止している日本人の宗教観はないかということについて、話を続けさせていただきます。

六、日本人の外来宗教受容方法

 日本において、キリスト教が定着するのを阻止した要因として、山折先生は三つ挙げています。それは、日本人の山岳信仰・他界観・遺骨信仰です。仏教は、これを受け入れることによって、日本への定着に成功したと言えます。
 まず山岳信仰でありますが、これは日本人の信仰の原型とも言えるものです。民俗学者の柳田国男氏は山と里に分け、里を人間社会そして山を神が住む聖なる地としています。そして、猟師やきこりは、今でも山の神に祭祀を行ってから山に入る風習を残しており、どこの山に行っても、山の精霊を祀っている神社が存在します。
 ならば、「山」とはどういう存在なのか、天と地の中間に位置し、天と地との橋渡し的存在で、天孫降臨の時天津神であるニニギノミコトが日向の高千穂のてっぺんにおりたつように、天の神が地上と関係を持つ聖地です。だからこの聖地を守る精霊が存在するのです。
 さらに、「山」それ自体が信仰の対象にもなっています。日本において、高い山とか美しい山などおよそ名山と呼ばれている山は神格化させており、地元の人々には神山と呼ばれています。次に他界観ですが、日本では一般に仏教の立場から極楽浄土や地獄について語られていますが、釈尊はもともと、来世のことなんかいっていません。釈尊の立場からすると、諸行無常であるからこそ、必然的に諸法無我であって、現に人間として存在している私たちは、無数の因と縁とによって仮に存在しているにすぎず、それがこわれたときに肉体の死がおとずれるわけですから、死後の世界にまでも、永遠に存在し続けるような個としての実体(我)などありません。しかし、来世での幸福を求める我々にとっては、これではかないません。そこで、インドで生まれたのが浄土思想です。あの西方十万億土彼方の浄土です。それが中央アジアー中国と回って日本にやってきました。そして、この浄士教は日本において、世界に例を見ないほど隆盛しています。
 しかし、ここでおもしろいのは、極楽とか地獄を日本人が本当に信じているかということです。勿論、知識として地獄の観念はあるでしょうが、日本人は死ぬと全て同じ「あの世」に行くと考えています。これは、葬式の来賓が常に述べる「あの世で待っていてください。私も後から行きますから。」ということからもおわかりいただけると思います。行き先は全て同じで、「あの世」です。そして、日本は昔から「心中の美」というものがありますが、これもそうです。死んだ後の行き先が同じだから「この世で駄目なら、あの世で添い遂げよう」と言えるのであって、もし、行き先がバラバラでは話になりません。死後の世界が一律化しているのです。日本神話においてもそうです。黄泉国から逃れてきて、黄泉比良坂にて千引石をおいてのイザナギとイザナミの激しい言い争いに、死と生の激しい区別意識が見られますが、死後の世界の区別は見られません。ここでも、死後の世界は一律化しているのです。確かに、仏教では極楽浄土と地獄のことを説きますが、しかし死者は全て成仏したとして、一律に浄土に送っています。仏教でもやはり死後の行き先は同じです。少なくとも、一般の人々にとっては同じです。
 ならば、日本人が死んで、いくのは一体どこなのでしょうか。仏教が言うように、日本人全員があの極楽浄土に行けるのでしょうか。浄土宗のお坊さんなら、「そうだ。」と答えられるかもしれませんが、全くの選民思想です。他の国の人達が極楽浄士に行くために大変苦労しているのに、こんな虫のいい話はありません。
 それでは、日本人の言う「あの世」とは、日本仏教で言う浄土とは、どこを意味するのでしょう。これは、先に申し上げました山岳信仰と密接な関係があります。国際日本文化研究センターの梅原猛所長は、「日本文化の基層である縄文時代には、死ぬと山に行くとされ、山は死者の昇る霊地であった」と言っておられます。また、「万葉集」に死者を悼む歌である挽歌が多く残されていますが、例えば、

こもりくの 泊漱の山に 霞立ちたなびく雲は 妹にかもあらむ(巻第7)
(こもりくの泊漱の山に霞となって たなびいている雲は妻なのであろうか)

 これは記紀神話において、黄泉国と同じく死者の地と考えられている根国が「山」と考えられることからも理解できます。つまり、天と地が交錯する天の神が降り立つ聖地である山が、死者の行く霊地と考えられ、そこで死者は神の懐に抱かれることになります。この霊山が浄土と考えられたと思うのが一番自然です。浄土教が日本に入り、それが山岳信仰と融合し、山岳浄土に変化したと言えるでしょう。
 だから、一年に一度死者が戻ってくる日本の「お盆」が成立するといえます。浄土が、西方十万億土彼方という、とてつもなく遠い所であれば、誰でも皆がそう易々と戻ってこれないでしょう。最後に遺骨信仰でありますが。日本人ほど遺骨に対して執着する民族もありません。今でも、南方で戦死した日本軍の遺骨収集に出かけています。
 これは元来日本になかったもので、10〜11世紀にかけて、天皇・貴族の遺骨を寺院に奉安して祀ることが始められ、やがて遺骨を寺に納める習慣がまたたく間に一般に広がっていきました。そして、この納骨習慣が近世にいたって、すでにお話いたしましたように寺壇関係に組み入れられ、寺と墓所の緊密な関係を作り上げていったと言えます。
 ならば、この遺骨信仰がどうして日本人にこのような大きな位置を占めたかと申しますと、これは次にお話いたします「日本人の祖先崇拝」思想と大きな関係をもっています。
 日本人は昔から全ての物に精霊が宿っていると考えています。ですから、山の神・森の神・家の神・台所の神とありとあらゆる神が、日本には存在しています。そして、仏教もこれを取り入れています。去年の秋、ある方から東福寺の紅葉が美しいと勧められ、家族を連れていったのですが、人人人、人の多さには驚いてしまいました。嵐山のように、全山紅葉というスケールの大きさはありませんでしたが、確かにキメの細かい美しさには見とれるものがありました。しかし、これよりもっと私の目を引くものがありました。その時、あの満員の中をかきわけるように進む行列です。私は紅葉祭りの催しものぐらいにおもったのですが、良く見ると、筆供養のための行列です。筆と言えば、過去においては一本一本丹精を込めて作られたのかも知れませんが。今ではほとんどが大量生産の工業製品です。それに対する供養です。この光景は、馬鹿馬鹿しさを通り越し、私には何かジョークのようにも感じられました。しかし、それを行っている人達は真剣そのもので、「筆に感謝し、筆の死を悼み、筆の成仏を願う」姿そのものでした。また、たまたまそこに居合わせた私のような紅葉客も、それ程真摯な態度ではありませんでしたが、一つの仏教儀式として認識した態度でそれを見守っていました。これだけでなく、針供養・櫛供養・何々供養何々供養と数えられないほどあります。
 このように、日本人達は、霊の存在を信じています。その中でも祖先の霊を一番身近に感じ、自分たちを守ってくれるものと信じていたと言えるでしょう。
 すでに述べましたように、人の霊は死ぬと山に上りますが、全部が山に上っていくのではなく、この世にも死 者の霊は残っているのです。ならば、当然この霊が宿るところが必要です。いつまでもフワフワ浮いているわけにはいけませんから。死んだ人の形見というものがありますが、欧米の人は、形見というものは単に死んだ人を偲ぶものという認識しかありませんが、日本人は死者の霊がそこに宿っていると考え非常に大事にするのです。そして、霊が一番多く宿っているのは、何と言っても死体です。死体の中でも、肉体は火葬にすればなくなってしまい、残るのは骨だけです。土葬にしましても、肉体は何年かで腐って終います。そして、今でも骨洗いと言って、骨から腐った肉を落とす習慣が残っている地域も存在します。死体の中でも肉体は重要でなく、重要なのは骨だけです。骨はそれこそ、何千年でも何万年でも残っています。つまり、「祖先崇拝」思想がつよい日本人の思いが、祖先の霊が宿る遺骨に対する強い思いへと発展させたと言えるでしょう。
 もう一つ、原始宗教に死霊を恐れる信仰があります。これが日本にもあり、鎮魂祭として残っています。それらを、うまく仏教が取り入れ、遺骨信仰を日本に根付かせたと言ってもいいでしょう。
 ならば、「日本人の祖先崇拝」思想ですが、私はこれを聞きましたとき、非常に奇異に感じました。「祖先崇拝」と言えば、私ども韓国人の専売特許のように考えていたからです。
 これについて考えて行きますと、日本人にとって「祖先崇拝」は、韓国人に劣らずむしろそれ以上かもしれないことが分かりました。そして、外来宗教として仏教は、祖先崇拝を受け入れることによって土着化に成功したと言えるでしょう。仏教は、日本人のこの祖先崇拝思想をうまく受け入れ、すでにお話致しましたように「祖先祭祀」を一手に引き受け、日本人の宗教生活に深く浸透していったのです。
 日本の場合、祖先崇拝が単に個人とか家の血縁的祖先に留まらず、集団の根本となった者が崇拝の対象となっています。仏教などはその宗派の教祖が信仰の対象となっています。例えば、浄士宗の本山であります。知恩院にいけば、山門を上っていきますと正面に御影堂があります。そこに教祖法然上人が祀られており、ここは本殿の役割をしています。浄土教の信仰の対象である阿弥陀仏は向かって左側の阿弥陀堂つまり脇殿に祀られています。主従関係が逆転しています。特に日本仏教といわれている鎌倉仏教の宗派の本山に行けば、本殿に教祖を祀っているのが普通のようです。参拝にくる人も、仏に対して拝んでいるのか、教祖に対して拝んでいるのか訳が分かりません。これは、咋今の日本に興った新興宗教においても著しいところです。
 また、怪傑した人物がでれば、偉人として人々から尊敬されるだけに終わらず、死後その人物の縁係のある地域では、その地域の祖先神として信仰の対象にまでなり、神社まで建てられて、守護神として祀られています。
 本来、日本の太陽神天照大神が天皇の祖先つまり皇祖神であるように、元々の日本神道でいうところの神は、氏神の始祖を祀ったのが始まりであり、その始祖が氏神であることから見て、日本神道は祖先を崇拝する宗教的基盤の上に立っているといえるでしょう。
 山折先生が「日本人の新興において《祖先》という存在が持っている権威と役割は、ちょうど欧米社会における《神》の存在に極めて類似していると思う。」と、おっしゃっているように、祖先崇拝は祖先信仰と言っていいほど、日本人の信仰の中に取り入れられています。
 このように、日本人は地域集団・血縁集団の関係なく、自己の所属する集団の根本となるものを祖先神として崇めることによって、共同体意識を培い、自分自身のアイデンティティーを保持し、集団の一員である自分の死後は皆と同じところにいくと信じ、死後の世界を一律化し、身近な山にその聖地を求めるという信仰形態が日本人を取り囲み、さらに仏教がこれを受け入れることによって、より強固な信仰へと発展させてきたと言えます。
 最後に、韓国における「祖先崇拝」とキリスト教についてお話申し上げます。

七、韓国人の祖先崇拝

 韓国においても、他国の例に漏れずキリスト教の布教にあたり多く障害があったことは否めません。その一番の障害は、やはり儒教です。
 キリスト教伝来時の李朝末期には、形式主義に陥った儒教はすでに韓国民衆を指導し希望を与える力を失ってはいましたが、過去李朝峙代(1392〜1910)の五百年以上にわたって国教であったことを無視できません。その倫理感・道徳感は現在においても韓国民衆の行動様式を左右していることは確かです。そして、形式化した儒教儀礼は今も民衆の生活の一部となっています。特に、キリスト教が衝突した儒教儀礼とは、祖先祭祀であり、今もなおそうです。
 早くから明国で伝道していたイエズス会(Jesuites)会の宣教師たちは中国の祖先祭祀を保ち、上帝と天主を同一視することによって東洋風俗を受け入れ、キリスト教の伝播に成功を収めました。しかし、1715年と1742年の二度にわたっての祖先祭祀に反対する口一マ法王の論告によって、中国のキリスト教は大打撃を受けて衰退していきました。これが北京の主教を通じて韓国にも訓令され、ついには韓国天主教の受難を招くこととなりました。韓国の祖先祭祀は、古代から一貫してきた風俗です。古代においてはシャーマニズムと結びついて死者の霊を慰めるための祭祀を捧げ、新羅・高麗時代の仏教がこれを受け継いで、死者の冥福を祈るものとなり、そして、李朝になって、それが孝道思想と結び付き、現在伝えられているような4代祖まで祀る儒教式祖先祭祀が完成しました。
 このように祖先祭祀は、韓国人の骨の髄まで浸み込んだ風習と言えます。これを悪習と見做して、異端罪悪視し排撃した時、そこに生じる結果がどういうものであったかは、充分推測できるものです。天主教の信仰に熱烈であった尹持忠と権尚然が北京主教の訓令に従って、祖先祭祀を廃止し位牌を灰燼に帰すと、彼等は官係に逮捕され、拷問の末、死刑に処せられました。これが韓国殉教史の始まりです。
 その後、辛酉年の教難(1801)と己亥年の教難(1839)が続きました。ともに陰に李朝時代の党派闘争がありましたが、その発端はやはり祭祀倫理の問題でした。辛酉教難において300人の殉教者を出し、その中には韓国に来た最初の神父である中国人周文謨も含まれています。そして、己亥教難の時には、数千名が投獄され。殉教者数は130名に至りました。韓国人最初の神父である金大建も。その後1846年に殉教しています。
 これら2つの教難を得た後も、キリスト教は発展し続け、キリスト教に対して比較的寛大でありました哲宗(在位1849〜1863)の末年には、宣教師12名信徒数2万3000名にまで達しました。しかしこの後、韓国教会史上最大の悲劇である丙寅年の教難(1866)が起こるのです。
 哲宗逝去の後に幼い高宗(1863〜1907)が即位すると、その実権は父君であります興宣大院君の手中に移りました。大院君はもともと天主教には好意的でありましたが、最後までキリスト教の祭祀に対する態度を理解できなかったと伝えられています。1866年以後の三年間の殉教者は約8000人にも及んでいます。この時、フランス人神父9名も含まれていました。その後、3万人 近くいた天主教信徒は、弾圧のためにほとんどが宗籍を隠すに至り、1896年の西教禁圧令解除までキリスト教の発展は見られませんでした。
 以上のように、天主教を弾圧した最も直接的な要因は、祖先祭祀をとりまく儒教伝統との衝突でした。ここにその宣教的立場から見た適応問題または土着化の問題があります。キリスト教の本質が、土着の世俗文化に対してどのような立場をとるかという宣教神学の問題が提起されています。
 地域共同体意識の強い日本人と比べ、韓国人は親族共同体意識を強く持っています。そして、この意識を培うものが、親族全員が集まる祖先祭祀です。このため、これらを拒否するキリスト教者と他の家族との争いは絶えません。特に、葬式において、棺を前にして儀式方法に関して言い争っている光景は、現代の悲劇以外の何物でもありません。
 最近、韓国では「子供たちの宗教を統一しておかなければ、静かに死ぬこともできない。」という話が囁かれています。
 ついに、1939年教皇庁は、「韓国における祖先祭祀は、祖先に対して孝誠を表示するに過ぎない民間儀式である」とこれを許容する教示を出すに至りました。また、改新教でも派によっては祭祀を許容しています。方法またそれに対する考え方の違いから、この問題はそう簡単に解決するものではありませんが、ともかくこれを解決する方向に動いていることは確かです。
 もし、これが解決されれば、将来韓国がキリスト教国家となる可能性も生じてくるでしょう。