中国詩歌における日本人のイメージ(The Image of the Japanese in Chinese Poetry)

王 曉平(Wang Xiao Ping) 天津師範大学助教授

一、序

 『中国詩歌における日本人のイメージ』というタイトルでお話をするのですが、より正確にいえば『中国古典詩における日本人のイメージ』というべきです。ご存知のように中国の古典詩は日本では『漢詩』といいますが、中国文学の中でもとても人気があるジャンルであると言ってもよい。二十世紀以来ヨーロッパ文学の影響をうけて現代話す言葉で作った自由体の新体詩が盛んになりましたが、古代書き言葉で作った古典詩はあいかわらず広くもてはやされています。一般にいえば中国の古典詩の伝統の束縛がとても強いので、外国のことや、外国人を表現しにくいといえますが、詩人たちは往々にして長い間に形づくられた芸術の経験を利用し、中国の歴史と文物を表現する手法を借用して異国の風景を歌っていました。全部の古典詩の中では日本と日本人にかかわりをもっているものは、おびただしいとはいえません。ですけれども、注目されるべき作品があるのみならず、文学史の中での有名な詩人、たとえば古代の李白とか王維とか近代の黄遵憲とか魯迅とかは日本についての詩をつくったことがありました。これらの詩は最近になって歴史と文学の専門家の興味をひきおこしてきました。しかし、結局のところ詩は歴史書、哲学書などとはひとしくはありません。中国では『詩無達詁』という言い方がありました。つまり中国の詩にはどんな場合、どんな時にでも同じように解釈するというようなきまりき った規則はありません。従って同じ詩に対してさまざまな考え方、捉え方がつぎつぎに出されたのは自然なことだと思います。批判の尺度が違うから結論も違います。深く味わえば味わうほど面白さが充分に感じられます。梅原猛先生がおっしゃったように、解釈というのは一つしかないなんていう考え方はおかしい。これが正しくてあとのは間違っているというようなものではなくて、いくつも意味が重なるように、すでに作者は作っているのではないかという感じがするのです。これこそ『詩無達詁』という言葉に対して真の意味の解釈であるのではないかと思います。今日これらの詩を読んで一番たのしいことはみなさんの解釈を聞きながら意見を交わし合い、自分の見解を修正することではないかと思います。そうした古典詩は私の知っているかぎりでも、千首や二千首を下回るような事は決してありませんが、大まかに分ければ三種類あると思います。第一種類は贈答詩であります。つまり日本人の友達に詩をつくっておくるものであります。例えば西暦七五三年第十一次遣唐使が日本に帰る前に、唐の玄宗皇帝李隆基はわざわざ五言律詩をつくって贈りました。この詩は一番早い日本にかかわりがある詩であります。また、日本の五山の僧絶海中津が中国にいった時、一三七六年明の太祖皇帝は宮殿の英武樓に彼を招待して彼に日本のことを尋ね、それからふたりでそれぞれ詩をつくりました。これらの詩は当時の中国の皇帝が日本の事情に対して深い興味をもった事を物語っているのですが、直接日本人のイメージにあまり触れていなかったのではないかという感じがあります。これらに対して、もっと面白いのはやはり中国の詩人が日本の学者、僧侶のためにつくった詩であると思います。第二種類は風俗詩であります。中国古典詩の中では竹枝詞という民族風なスタイルがありました。これは男女の情事、または土地の風俗などを歌うのであります。竹枝詞は短くて、内容にしても形式にしても比較的に自由なのであります。ですから古代の中国詩人たちは日本の風土を歌っている時に大体絶句と竹枝詞というスタイルでつくりました。これは十四世紀の明代にまでさかのぼれます。明代の有名な文学者である宋濂の『日東曲』十首はそれでありました。以後、十八世紀後半、清代の詩人沙起雲には『日本雑詩』十六首があります。明治維新以後、来日した中国詩人がますます増えてきました。彼らはそれぞれ日本の変化に対して賛成か反対か考え方はいろいろなのですが、多くは明治期の日本を詩人特有の筆で雄弁に描写していました。何如璋の『使東雑詩』、張斯桂の『使東詩録』、黄遵憲の 『日本雑事詩』、四明浮槎客の『東洋神戸竹枝詞』、陳道華の 『日京竹枝詞』、姚鵬図の『扶桑百八咏』などは風俗史の意味からしても面白いものがあります。たとえば黄遵憲の『櫻花歌』は櫻花を日本民族精神のシンボルとして明治維新を歌うのでありました。『都踊歌』は京都のお盆の風景を材料とするものでありました。明治三十五年、江蘇省の姚鵬図という方は東京へ日本博覧会に 見物に行きました。彼は途中、日本の船で髪の毛がばさばさしている女性労働者が休んでいる時に新聞を読んでいるところを見つけました。彼はびっくりしました。『この国の教育がかなり普及されましたね』と感嘆の声を放ち、たちまちつぎのような詩をつくりました。『普遍教育化東漸、五十音図衆妙兼、何必文章文章似金石、居然刻画到無塩』、普遍な教育に恵まれて日本はすっかり変わりました。五十音図はすべての音がまとまっており、文章もわかりやすくなり、ですから女中さんさえ新聞をよめましたね、と歌いました。第三種類は叙事詩であります。日本の人物や、物語を素材としてつくられた詩であります。明治十一年、王韜という文人が東京の新富座で市川団十郎が上演する歌舞伎を見て、深い感銘を受けました。そして、『阿伝曲』という長篇の七言古詩をつくって 『阿伝曲』という日本女性の悲しい愛情ドラマを歌いました。黄遵憲の『赤穂四十七義士歌』は赤穂義士を主人公とした物語風の長篇の詩でありました。このような三種類、つまり贈答詩、風俗詩、叙事詩に表現された日本人はどのようなイメージがあるのでしょうか。詩の中では昔の中国人は日本人に対してどのような印象をもったのでしょうか。どのようにしてこれらの詩を読みとるべきなのでしょうか。こうした問題は中国の詩の特徴につながっているのではないかと思います。さっそく代表的な作品を読んでみましょう。

二、贈答詩における日本の学者 

こうした詩の作者はほぼ学者であります。従来中国の文人には交友の道を尊んで、『詩をもって友と会う』という伝統があります。お互いに自分でつくった詩を交換することは、じつは詩を通じて自分の相手に対しての関心と友好の情感を伝えたいということばかりでなく、相手の学問とか性格とかを理解するためだったのです。ですから、これらの詩にはお互いの関係と了解の程度が明らかにみられます。唐詩を読むと日本の遣唐使の留学生や僧侶の学習ぶり、また生活ぶりを垣間見ることができます。これらの留学生や僧侶は勤勉で、一生懸命に学ぶことによって彼らの多くは優れた業績を示し、出世しました。唐の玄宗皇帝のころ、日本の阿倍仲麻呂(中国の名は朝衡、晁衡でした) は長安に渡り、その他に五十三年も滞在しました。仲麻呂は、李白、王維、儲光羲らの有名な詩人と親交がありました。儲光羲の『洛中貽朝校書衡』はふたりの友情をこのように歌いました。

万国朝天中  東隅道最長。吾生美無度  高駕仕春坊。出入蓬山里  逍遥伊水旁
伯鸞遊大学  中夜一相望。落日懸高殿  秋風入洞房。屡言相去遠  不覚生朝光。

 この詩の大意は次のようであります。「唐まで来るのは万国の中で日本が一番遠い。私の若い友人朝衡は賢く、美男子であります。彼は学識があふれているので春坊の重要な官職につきました。朝衡は書室に働いており、暇があれば伊水という川の附近にぶらぶらと歩いています。」 冒頭からここまで朝衡のすぐれた才能を賛美し、彼の仕事と生活ぶりを描写しています。つぎに朝衡との友情を述べました。伯鸞は漢代の有名な学者であります。「伯鸞のような優秀な生徒であった 朝衡は大学に勉強した時から親友になりました。夕日は高い殿を照らし、秋風が奥深い屋に吹い込んできました。ふたりはいろいろなことを話し合って、時間も忘れました。朝衡はしきりに自国がとても遠いといい、話に熱中しているうちに、いつの間にか、朝のひかりがさしてきました。」 ここでは詩がおわりましたが、朝衡には母 国日本が恋しいという情感はあいかわらずしみじみと人々の心を打っているような感じがあります。日本の遠さを強調し、海の風景を描くことはこれらの贈答詩の共通な特徴の一つだと認めてもよいでしょう。どうしてそんなに日本の遠さを強調するのでしょうか。贈答詩に見られる日本人のイメージはなぜこのように海に固執するのでしょうか。総体的な観点からすればそれについておよそ三つの原因が考えられますが、その第一は遠方より 来た友達の友情を褒めたたえるということでしょう。『論語』の第一篇『学而』にははじめて『子曰く学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや、朋あり遠方より来る、亦楽しからずや』 とあります。遠方からわざわざ友人が共に学ぼうと訪ねて来て、自分の学ぶ道に理解者があることは、なんとも楽しいことであります。友達 は遠ければ遠いほど困難が大きくなりますが、また来るのは自分に対して友情の深さを示しているのではないでしょうか。次に第二の原因として考えられるものは日本の友人の寂しい気持を慰めたいということでしょうか。遠いところに行って環境に適応したら友達付き合いできるはずですが、昔なじみは少なくないでしょう。王維の『君に勧む更に盡す一杯の酒、西陽関を出づれば故人無からん』という詩句はこういう気持ちをよく表しているものといえます。唐の詩人は故郷を懐しむ気持に対して非常に敏感で、それに故人、昔なじみの友情をとても大切にしたらしい。とくに送別詩の場合はなおさらそうでした。彼らはいつも心をこめて海の様子を描写しています。日本の友人の望郷の心を慰めたいのではないでしょうか。第三にあげるべきは海を描くのがひとつの試みだったということでしょう。これらの中国の詩人には航海の体 験がなかったのではないか。唐以前の詩にはこういう体験はあまり歌われなかったのではないかというように感じられます。中国の詩人が日本の留学生や僧侶から新しい知識をもらったに違いありません。例えば方干の『送僧帰日本』を見てみましょう。

四極雖云共二儀  晦明前後即難知。西方尚在星辰下  東域己過寅卯時。大海浪中分国界  扶桑樹底是天涯。蒲帆若有帰風便  到岸犹須隔歳期。

 

この詩には、日本と中国の時差や季節風と航海の関係及び当時の航海の困難などが歌われています。海を渡ることがいかに危険なものだったかは中国の詩人にとって想像を絶するものでしょう。おそらく日本の僧侶はその 様子を中国の詩人に教えていたのでしょう。唐の詩人たちはいつも新しい詩材を追い求めています。海の冒険は フレッシュな材料で、少なくとも彼らが日頃あまり歌わなかったものです。とにかく、贈答詩の作者は友情を褒 めたたえたいし、友人の望郷の気持ちを慰めたいし、海の描冩を試みたい。ですから、その中の日本人のイメージはいつも大海と密接に結びついているのであり、それにその大海は神秘のかげりを帯びているのであると考え られます。唐詩に日本の僧侶を送るためにつくられた詩はざっと数えただけでも二十首をこえます。作者の多くは有名な 詩人であります。これらの詩は日本の僧侶の学力と人徳を賛美しました。劉禹錫は唐のなかごろの名詩人です。白居易に『詩豪』といわれました。劉禹錫の『贈日本僧智蔵』をご覧下さい。

浮盃万里過滄溟  遍礼名山適旧 。深夜降龍潭水黒  新秋放鶴野田青。身無彼我那懐土  心会真如不読経。為問中華学道者  幾人雄猛得寧馨。

 智蔵は浮かぶ杯のような舟を乗って万里の海を渡って中国に来ました。すべての名山に参拝し、名勝古跡に見物しました。『深夜で降龍して潭水が黒く、新秋で鶴を放って野田が青い』というのは象徴的な画面で智蔵の 中国における生活を描写しているのであります。むかし周處には池に飛びこんで蛟を搏ち殺したという物語もあれば仏教に如来には禅室で毒龍を降伏させて鉢に入れたという話もあります。劉禹錫はこの二つ典故を合わせて 智蔵の学問をほめました。秋のはじめは功徳を積むために智蔵は鶴を放ちます。中国の詩の中では鶴は高潔な鳥 といわれており、ここで智蔵の心の高潔を象徴しています。智蔵は毎日中国で自分の故郷のように栄達を望まず清潔な生活を過ごしています。この詩の最後に『中国の仏教学者をお尋ねしたい、このような雄猛で立派なことができる人がどれだけいるかと聞きたいのですが、多分少ないのではないか』と、智蔵に対して自分の感服 する気持ちを明らかにしました。智蔵については歴史の書に全くその記事を見せませんが、劉禹錫の思想に合致していますし、智蔵はきっとずばぬけてえらい学者だったことでしょう。

三、風俗詩における日本市民

 昔、中国の知識人は幼い時から詩をつくる訓練をしなければなりませんでした。日本に行った中国の文人は目 新しいこと、面白いことに会えば、詩の中に自分の観察や感触や評価を書き込んできました。これらの詩の材料 は詩人たちの日本における見聞で、ちょっとした感想をもとに気が向くと一句をひねりました。その中では昔の 中国人が日本人とふれあう時の独特の心理が反映されました。詩人たちは日本人と異なった分化背景をもっており、日本人の生活を観察するときにはいつも自国の事情を忘れない。ですから日本人にとっては何度も目にして珍しくないことも、中国の詩人の目を通して見ると一風変わった面白さが感じられるでしょう。一八七七年張斯桂という方が日本に来ました。彼は四十首の『使東詩録』を書きました。当時の東京市民 の日常生活について目に見えるように描写していました。そのなかでは『東京男子』というのはきわめてユーモラスであります。男は月代を剃ってちょんまげを結っていました。また下駄を履き、小さい煙管を持ち、手を叩いて子供や召使いを呼び、お客へのあいさつに腰を曲げておじきをすると歌いました。一八七一(明治四) 年に『散髪令』 が出されたはずでありますが、張斯桂が日本に来た一八七七 (明治一〇) 年になっても、東京に散髪しない男子の方が多かったらしいですけれども、この詩は張斯桂が日本の古い風俗に対して何かに強い関心 を寄せたということを物語っているのではないかと思います。『東京男子』という詩は日本人が風雅を尊び、風流を好むということを描写しているのです。『男子が化粧して頭は蓬の草の如し』、男たちは自分が上品な人間であることを表すために、外観に気をつけ、身なりをきちんとし、紙油と香水で化粧しました。この様子は多分清国から来た張斯桂をおどろかせたでしょう。『男の客に 下げる頭は弓の如く曲げ』という句からおじぎの時間の長さとか体をかがめる程度のていねいさとかがわかります。従来、中国の文人はうつむかず、腰をかがめずということを不撓不屈の精神のあらわれと見なしました。張斯桂も例外ではないでしょう。彼は日本人の初対面の挨拶の様子をはじめて見た時、まさに珍しい感じがあっ たかもしれません。とにかく、これらの時は日本人の礼儀正しさを好む気持ちを描きました。今、私はこれらの 詩を読むと当時の日本人のイメージが非常に強烈な印象で浮かびあがってきます。明治初年は新髪旧髪大混戦時代であったと言ってもよいでしょう。東京ではわれこそ開化のバスにのりおくれまじと人々は争ってザンギリにしたので、チョンマゲ頭は急速に少なくなっていました。明治画家、五姓田芳柳が描いた『散髪屋の風景』のなかでは、ランプのもとで、チョンマゲにおさらばをつげました。大きなギヤマンの前で、かわりはてた己の頭をそっとさわってみます。張斯桂の『髪鋏處』は同じ画面をあらわしています。

照鏡鬚眉喜気添 到門休笑髪。  手持燕尾州剪 剪取鳥絲寸寸纖。

 詩の冒頭はこのように言います。散髪屋に来るときはまだチョンマゲをしていますが、君はあざけらないでください。当時の俗諺に『半髪頭をたたいてみれば因循姑息の音がする』、『総髪頭をたたいてみれば王政復古 の音がする』、『ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする』 といわれました。散髪屋さんは手で燕の尾のような州の剪を持って(州で生産した剪は中国で一番鋭い剪であります、ここで剪のよさを形容している のです)、黒い絲のような髪を剪み取ってしまいました。やっぱりチョンマゲに別れを惜しんでいるのです。やっと、おわった。ギヤマンの前でかわりはてた己の頭を見て本当によろこんでいるのです。よかった、これであ ざけられないようになったはずだ。張斯桂の詩は散髪屋の風景を書きとったばかりでなく、その時中国文人の目 から見た吹きすさぶ文明開化の嵐のなかでの人々の独特な気持ちを書きだしました。張斯桂の詩と五姓田芳柳の絵とは同工異曲といえるようであります。中国の文人は西洋の生活文化に対しての反応がとても遅いのです。ここには彼らの好奇心もこめられていました。

四、叙事詩における日本の英雄

 張斯桂などの筆によってふつうの東京市民の姿が歌われていたとすれば、黄遵憲の詩は日本の武士とか義士とか志士とかという英雄を中国人に紹介してくれました。明治十年の暮れから明治十五年のはじめまで満四年間、黄遵憲は日本で生活を送りました。彼は当時の名士との交わりがかなり広範囲に及んだようであります。彼の『赤穂四十七義士歌』と『西郷星歌』と『近世愛国志士歌』の三つの叙事詩は中国の詩の歴史でははじめて外国の英雄を主人公とした優秀な作品であると思います。まず『赤穂四十七義士歌』を読んでみましょう。作品の前での序文は千三百字の長文を用いて赤穂四十七義士の物語を紹介したのであります。日本には歌舞伎『忠臣庫』とか読本『忠臣水滸伝』などの多くの四十七義士をたたえる文芸がありましたが、黄遵憲の詩材は江戸時代の漢学者室鳩巣の書かれた『赤穂義士録』であるのではないかと思います。赤穂義士は一七〇三年三月埋葬されましたが、その年の十月、つまり八ヵ月後、室鳩巣はすでに『赤穂義士録』を発表しました。原文は約一万五千字ぐらい、黄遵憲の序文はこれを粉本として改修したのではないかと思います。随分短縮され、原文の十分の一になりました。『赤穂四十七義士歌』の構成も宝鳩巣の『赤穂義士録』の示唆を受けているようであります。宝鳩巣は有名な漢学者でありました。『赤穂義士録』には義士の復仇後の祭文を長く引用しました。これは中国の史伝の書き方の影響だと認められます。宝鳩巣は本当にその時の祭文をみたかどうかは知りませんが、このような書き方は直接に義士たちが士を前にする時の心持を表現するには素晴らしい手法であります。祭文では復仇の起因、決意と経過はつぶさに回顧されました。黄遵憲の『赤穂四十七義士歌』の序文はこの祭文の大部分がそのまま引用されました。それに詩の%は祭文の形式で書かれました。その冒頭は、

四十七士人同仇  四十七士心同謀。一盤中供仇人頭  哀哀燕雀鳴 啾。泥首泣訴囲松楸。

 

四十七義士は墓前に至って墓を囲んで跪坐して、故の内匠公の霊に告ぐのであります。『赤穂義士伝』の影響は明らかに存在しているといえます。ところが、『赤穂四十七義士歌』は『赤穂義士録』と対照すれば随分違うところもあるようです。まず集 団英雄を強調すること。タイトルから四十七という数字を強調しました。この詩は全部五百十六字だけでありますが、四十七という数字は八回現れました。四十七義士がみな心をあわせて、共同の敵に憤り立ち向いて妻子を棄て親戚を離れ、やっと敵を殺して、それから一緒に自殺しました。このことは黄遵憲の心をゆさぶっていたに 違いありません。中国の歴史の中では英雄輩出だったといえますが、このような大勢の人々が集団的な復仇することはめったにありません。それに四十七士の死生観を強調すること。黄遵憲の 『日本雑事詩』の中では武士の暴力沙汰に対して肩をすくめましたが、ここには四十七士の復仇のために一身をささげたことを高く買いました。

臣等事畢無所求、願従先君地下游。国家明刑有皐、定知四十七士同作檻事、不願四十七士戴頭如贅疣、唯願四十七士駢死同首丘。

 

宝鳩巣の原文の中で『他日いやしくも徒らに恥を抱きて死せば、また何の面目ありて、以てわが公に見えんや』という簡単な言葉の意味しかありませんが、この点は必ず黄遵憲に感動をさせていたポイントだったから義士の死に臨み泰然たることを表現しようとしました。なお、義士復仇の正義性を強調すること。『赤穂義士伝』の中で義士復仇の動機は武士の忠誠と絡み合っているといえます。すなわち祭文で『臣らすでに君の禄を食みたればよろしく君の事に死すべし』といわれます。黄遵憲の士の中では主人の士には幕府の官員が仇をえこひいきしていたという原因もありました。従って四十 七義士の復仇は主従関係より正気を伸ばそうとするのだと考えられます。一般にいえば日本のそれより中国人の主従観念は薄いと認められます。『主従は三世』 という意識はない。それに対して人民のために害を除く英雄 に敬服する気持ちをもっているのではないかと思います。ですから黄遵憲は四十七義士が一般の大衆に愛されているということを鋪陳しました。宝鳩巣の『赤穂義士伝』は義士の死後のことをこのように書いていました。部下の人これを聞き、往きて弔祭する者、日ごとに群れを成し、以て数月に至るも己まずみな流涕歔欷し、これを久しうして及ち去る。ところが『赤穂四十七義士歌』はこの部分にあたるところをかなりふくらませたように感じられます。

四七士性命同日休
一時驚嘆争歌謳。觀者拝者弔者賀者万花繞塚毎日香烟浮。一裙一屐一甲一胄一刀一矛一杖一歌一画手沢珍宝如天球。自従天孫開国首重天瓊鉾、和魂一傳千千秋、況復五百年来武門尚武国多育
到今赤穂義士某某某四十七人一一名字留。内足光輝大八洲、外亦聲明五大洲。

 最後『赤穂義士の名は内には光がきらきら大八洲に輝いており、外には五大洲に伝えわたっている』と締めくくります。つぎに黄遵憲の『西郷星歌』はいかなる作品であるかを考えてみましょう。明治十年の暮れ、すなわち一八 七七年、黄遵憲が来日した時、西南戦争がおわったばかりでした。西郷隆盛についてのいろいろなうわさを聞いたのではないかと思うのです。民間に広く伝わった西郷星の伝説はその一つでしょう。その直前の新聞を読むとその伝説の内容は想像に難くない。明治八年八月八日の読売新聞に次のような記事が掲げられました。『大阪日報に、この節毎晩辰巳の方に赤赤色の星が顕れ、それを望遠鏡で見ると、西郷隆盛が陸軍大将の官服を着ている体に見えること、物干しで夜を明かす人もあると出てあります。』当時の伝説によると、『鹿児島で大敵を引受けた西郷様が、討死なすったから、その魂が天上へ昇って、一つのお星さまになりました。このお星さまを拝んだならばきっといいことがある』といわれました。西郷という人はどんな人物なのか、どうして西郷その人に対しての尊敬がそれほど深かったのか、この伝説は文学者である黄遵憲に強烈な印象をあたえたに違いありません。『西郷星歌』 の著しい特色は西郷を神話的な人物として歌っている点であります。冒頭に西郷星のあらわれは天の意だと書かれています。つまり西郷の自殺は人間の迫害の結果でありますが、天は西郷のことをよく理解しているからその名を永遠に世界に輝かせているのであります。詩には次のような序文があります。

 

西郷隆盛が滅ぼされてからすぐ彗星があって日本の西南の方にあらわれた。国の人々はただちにこれを西郷星と呼んだ。

 

明治維新以前、西郷は幕府ににらまれて薩摩にのがれ、僧月照とともに入水しました。月照だけが死亡しました。このことに関して黄遵憲は西郷を神龍とたとえています。詩では次のようにいいます。

神龍はもともと西海からやってきた 神龍本自西海来、海の中に飛びこんで死なずに魂は招き返されてきた踏海死招魂回。

 どうして黄遵憲は西郷を神龍にたとえているのか。まず、中国の古代神話によれば神龍は天に登られます。西郷が入水しても無事に生きているのは彼には神龍のような不思議な力があるからでしょう。しかも中国の古代神話の中では神龍は皇帝の権力の象徴であります。西郷が尊皇攘夷と明治維新に大きな役割を果たしました。明治 維新の中で西郷の活動について、黄遵憲は多くの賛辞をつらねて高く評価しました。ですから、西郷を神龍にたとえているわけです。
 西郷は西南戦争を起こしましたが、敗れて自殺しました。『西郷星歌』が西郷の自殺を描冩したのは中国古代の英雄項羽のような悲しさであります。項羽という人は武装蜂起し、秦の王朝を滅ぼし、劉邦と覇権を争いましたが、垓下の戦いに敗れ、自ら首を刎ねて死んでしまいましたが、その時、敵はその死体を奪い合い、最後に 五人はおのおの項羽の死体の一部を手にいれました。中国のある詩人は 『将軍の身は五つに分けられた、将軍の頭は千里を走った。という詩句をつくりました。黄遵憲は西郷を日本の項羽とみなしていました。詩の中で 直接に西郷を項羽にみたてて次のように描冩しています。

十二萬の軍は同日に死んだ十二萬軍同日死、ああ大きな星はすぐに地におちた嗚呼大星遂殞地。将軍の頭は千里を走った、将軍之頭走千里、将軍の身はいつつに分けられた、将軍之身分五体。骨は集まって山になり血は川になり、聚骨成山血成川、嘆きの息は風になり涙は雨のごとし ■■為風涙如泪。

詩の結末に黄遵憲は西郷隆盛を当代に並ぶものがない英雄としてほめたたえています。

永遠な星よ 君に酒一杯をすすめる 長星勧汝酒一杯、あなたは 世にも稀なる英雄である 一世之雄曠世才。

 言うまでもなく、西郷は自殺したので項羽のようなことがなかったのですが、黄遵憲は項羽を描写する詩句を蹈襲しました。あきらかにこれは意図な引用であると思われます。作者は西郷を項羽になぞらえ、西郷の罪は許されるべきものであると主張しています。中西進先生の言葉を借りて言うならばこれは引喩としての典故であります。黄遵憲は明治維新以後の日本の進歩の早さが世界でも未曽有であったといい、中国が日本の明治維新に学ばなければならないと認めました。ですから、黄遵憲の考え方によると、西郷は悪事を働いたものですが、やはり明 治維新の功臣です。人間は彼の罪を許さなくても天の神がそれを許します。彼は世間の罰を逃れることができなくても神様は彼に寛容です。本当に神様を信じていたはずはありませんでしたが、黄遵憲の本心は西郷の改革の精神が中国の社会には必要だといいたかったのではないかと思います。黄遵憲の評価が正しいかどうかは別として『西郷星歌』に作者の明治維新をほめたたえるという態度がふくみ込まれているのであります。『西郷星歌』の傾向からその真意を簡単にいえば西郷の物語を通じて明治維新の成功とか日本社会の進歩とか日本の改革をほめたたえることに重点がおかれ、中国の改革に導きたいという点にありました。

四、結

 まとめていえば、中国の古典詩に早くあらわれた日本人のイメージは日本の僧侶と学者のイメージでありました。時代は八世紀の唐でした。勤勉で一才能にすぐれた日本の僧侶と学者は熱心に中国の学者とつきあって、中 国の文人に喜ばれ、中国の学者と仲のよい友達になりました。贈答詩の特徴は友達に対するこころからの関心と 理解を表現した点であります。風俗詩の内容は土地に特有な風景、風俗などであります。日本にかかわりがある風俗詩は、十四世紀にもあり ましたが、その中で一部分は現実より資料のほうによって作られたのです。明治維新以後、日本に行く中国の文人と留学生がますますふえてきました。従って日本人の服装、習わし、物腰、きれい好きなこと、礼儀が正しいこと、風雅を好むこと、なまものをたべること、などが詩に歌われていました。中国詩人は日本人と異なる文化背景をもっています。詩は彼らの目から見た日本の文化を示してくれますので、中日比較文化研究には参考になる資料ではないかと思います。同時に日本の維新志士の姿も中国の詩にあらわれてきました。黄遵憲の 『近世愛国志士歌』の中では江戸時代の十三人のことが歌われています。

山県昌貞(柳荘、一七二五〜一七六八)敬義学者 高山正之(彦九郎一七四七〜一七九二) 勤王家、寛政三奇人の一人 蒲生君平(秀実一七六八〜一八一三) 江戸時代の先覚者 林 子平(一七三八〜一七九三) 幕末の海防論者、経世家 深川星岩 (一七八九〜一八五八) 詩人 渡辺華山 (一七九三〜一八四一) 南画家 佐久間象山 (一八一一〜一八六四) 幕末の学者、開国論者 吉田松陰 (一八三〇〜一八五九) 幕末の志士、教育家 月 照 (一八一三〜一八五八) 京都清水寺成就院の住職 浮田一恵 (一七九五〜一八五九) 江戸中期の画家、志士 黒川登幾 (一八〇六〜一八九〇) 江戸末期の女流歌人 佐倉宗五郎 (一六〇五〜一六五三) 江戸前期の百姓一揆の指導者

 つまり、とりわけて幕末の勤王者、経世家、先覚者、開国論者がいるのみならず、僧侶、画家、漢詩人、歌人 などもいました。黄遵憲は、このような多くの維新志士がいなければ日本の維新は不可能であっただろうと思い ました。その詩をつくる目的は、ただ中国人の改革への志向と勇気を引き起こそうとするためでしょう。日本の古代文学は中国文学の影響を受けながら日本の独自の文学を形成しました。この分野の研究はいろいろと進んできました。一方、千年以上の歴史の中には中国人が日本人に学ぶところもありました。文化交流というものが両国の発展を促進することができるということは疑いのないことでしょう。とくに中国の近代文学と文化の発展を検討すれば、日本文学の影響が非常によくわかります。中国が日本に学ぶ〜これは近代の中日文化交流史における大きな特徴であり、また、中国の近代文化の発展の推進に見逃すことのできない役割を果たしました。最近、この問題は真面目に取り扱われてきました。これもさし当たっての課題になるでしょう。