忘れられたアジアの片隅 50年間の日本とビルマの関係 (A Forgotten Corner of Asia: Fifty Years of Burma‐Japan Relations)

Donald M.Seekins(ドナルド M.シーキンス) 琉球大学助教授

 一九八九年以来、公式にミャンマーとして知られるビルマは、一九八八年の政治的危機の折、一時的に国際的なマスコミの注目を浴びた以外は世界の国々から大方忘れられてきました。第二次世界大戦後のビルマの独立運動のリーダーであったアウン・サンの娘、勇敢なアウン・サン・スー・チー女史は一九八八年の民主化運動のリーダーであり、今なお世界の国々の注目を集めています。女史は一九八八年九月一八日に権力を握った軍事政権である国家法秩序回復評議会(略してSLORC)によって、二年以上も自宅監禁されている状態です。しかし、都市化と工業化によってもたらされる、例えば急速な経済成長、政治上の自由主義化、文化面の国際化及び社会の変化といった、アジアの他の国々を変容させている傾向は、ビルマを大方それていったのです。まさにアジアの忘れられた片隅といえましょう。世界の目がビルマに向けられない理由は、領土的に狭いとか、歴史的に重要性が無いとか、あるいは経済的可能性に欠けるとかいうものではありません。実際はまったくその逆で、ビルマという国は天然資源や人的資源の豊かな国なのです。又、長い歴史と洗練された文化を持った国でもあります。第二次大戦前や、一九四八年の独立後もそうであったように、ビルマは東南アジアの最も経済的に繁栄する国の一つでもありうるといえます。しかし、一九六二年以来の軍のリーダー達は世界の国々からビルマを疎遠にする道を選びました。東南アジアの他の国々の冷戦を避け、さらに重要なのは、他からの挑発を受けずに経済や社会を支配する保証を得る為であったのです。経済と社会のいずれもの統計が示すように、この軍のコントロールは一般民衆にとって息苦しいものであったのです。一方では、タイ、マレーシア、シンガポール、台湾、韓国といった近隣の国々で繁栄の市民社会が発展していたのですが、ビルマは次の三つの階級からなる、経済的に逆行し、又構造的に単純な社会にとどまり、あるいは後戻りしたわけです。その二つの階級ないしグループとは・軍のエリートである支配者階級・大多数をしめるバ―マン族(BURMANS)といくつかの少数民族からなる被支配者階級・反乱を起こす、国境付近の少数民族と一九八八年以後は学生をも含む非服従者のグループです。一九八八年におきたSLORCのクーデター以来、経済的又多分に政治的影響も着実に増大している中国を例外としても、過去半世紀の間ビルマにとって日本ほど重要な国はありませんでした。第二次世界大戦開始以来ビルマの歴史の種々な時点で、日本は現在のビルマの政治体制及び社会へと展開する上で重要な役割を演じました。これは必ずしも日本政府の意図した結果ではなかったのですが、実際にはそうであったのです。ビルマと日本がいかに係わりあってきたのか、その歴史をたどってみるのがこの講演の狙いです。

 日本とビルマの関係において、歴史的に顕著な時期が三つあると思われます。(1)一九四○年から四五年の第二次大戦の時期―この時、日本はビルマの民族主義者を反植民地主義の軍に組織化し、バ・モー博士の下に独立ビルマの設立を後援しました。(2)一九五四年に日本、ビルマ両政府によって戦後賠償協定が調印された時から、一九八八年にネ・ウィンが政界から引退し、若手の軍幹部が実権を握り、SLORCを設立した時まで、―日本のこの時期の存在というものは主に経済面にあり、日本のODA(政府開発援助)はネ・ウィン政権が経済政策において不成功であったにもかかわらず、この体制の支援に大きな役割を演じました。(3)一九八八年九月のSLORCによるクーデターから現在までの期間―ここで両国の関係は膠着状態もしくは危機にも至ったわけです。次に、以上の三つの時期について詳細に述べてみたいと思います。そして最後に、日本のビルマとの関係が特に八八年以後ですが、日本のアジアや世界の他の国々との関係についてのもっと一般的な問いに、如何に反映するかを考えてみたいと思います。別の言葉でいいますと、一九八八年前と後の関係は、日本のいわゆる国際化にとって分岐点となるものであるからです。

第二次世界大戦の残したもの

   ビルマは一九世紀に英国によって植民地化され、英領インド帝国の一地方となりました。これは一八八六年に英国が最後のビルマ国王を退位させ、国の北半分に制約されていた王国を占拠した時に完了したのですが、ビルマ人は英国の支配に決して甘んじませんでした。二○世紀の初期に民族主義運動が台頭し、第二次大戦直前の数年がその最たるものでした。他のアジア人のように、ビルマ人は一九○五年に日本がロシアに勝ったことに印象づけられ、これをヨーロッパ白人支配の神話に対する挑戦と解釈したのです。しかしながら一九三○年代後半のビルマにおける日本の存在は主に商業面にあり、大きな貿易会社がラングーンに事務所を持っていました。そして、現在の日本ミャンマー協会である日本ビルマ協会が、貿易や文化交流を推進する為に一九三三年に設立されました。しかしながら一九三○年代の後半に戦争の兆しが見えてくるにつれ、日本の情報将校達はビルマの民族主義者達と接触を持つようになりました。歴史的に最も重要な民族主義者のグループは、ビルマ語で“主人”という意味のタキンで、彼等の多くは独立への苦闘に対しての日本の援助には懐疑的でした。タキン・アウン・サンが一九四○年八月に中国沿岸のアモイに行ったのは、英国に対する中国の援助を求めてであったようです。しかし、彼はアモイで日本の情報将校に接触を持たれ、四一年初頭に南機関を設立した日本の鈴木敬司大佐に会いに東京へ行くよう説得されるのです。この地下組織は、四○年の仏領インドシナの占領に伴ってその使命を既に一部果たした日本の戦略の一つで、天然資源豊かな東南アジアのヨーロッパの植民地に南進する為のものでした。日本軍とビルマ民族主義者との協力は、 いずれの側にとっても便宜上のものだったのです。一九四一年に、アウン・サンやネ・ウィンを含む“三十人の志士”を組織した南機関は、中国の海南島で彼等に軍事訓練を施し、ビルマ独立義勇軍の中核を作り上げました。数千に及ぶこの軍が、一九四二年一月から四月にかけて、日本が英国を国外に追い出す助けとなりました。アウン・サン、ネ・ウィンそしてその同志は、一九四三年にバ・モーの下で日本によって設立された独立政府の中で、重要な軍のポストをしめました。多くの若いビルマ人が、軍のアカデミーで訓練される為に日本へ送られました。歴史的にアジアで最も戦争好きな民族の一つと言われるバーマン族を武装させる日本の政策は、英国のそれと比べ極めて対照的でした。英国はもっと信頼のおけた少数民族のカレン族やカチン族を軍に入れ、バーマン族は除く政策をとったからです。ですから、この日本の政策のバーマン族への心理的効果は絶大であったわけです。ボー・モ・ギョ(雷将軍)としてビルマの同志に知られる鈴木大佐は、大変興味深い人物であったようです。彼は、政治学者、丸山真男の日本のファシズムについての分析中、描写されている“無法者”タイプの例として表すのが一番ふさわしいでしょう。非常に個人主義的で型にはまらない人間、かつ無限の勇気とエネルギーを授けられた人物であり、日本の軍組織を命令した官僚タイプとはうまくやっていけなかったようです。彼は厳しい指揮官であり又、教師であったのですが、同時にアウン・サンや三十人の志士の他のメンバーも献身的に従っていました。彼は真摯にビルマの独立への苦闘に専念したようです。日本は本当にビルマの独立を許そうとしているのかと三十人の志士の同志に聞かれた時、ボー・モ・ギョは、もし日本と戦うことを意味しても自分達で独立を勝ちとらねばならないと答えています。こういった態度は、なぜ彼が日本軍のリーダーに大変不人気だったかを説明するのに十分でしょう。なぜなら、リーダー達の関心は戦争目的の為にビルマを活用することにあったからです。[図Aは一チャットと五チャットのビルマ紙幣二枚です。貨幣の人物はどちらも軍服をまとったアウン・サンです。このように人々はビルマの戦時の同盟を日々思い出さされていますが、不幸にも現在では、チャット紙幣の価値は無いにも等しい状態です。]
 日本のビルマ占領は寛容なものではなく、多くの軍隊を支える必要上、一般民衆には多大な辛苦を負わせました。多くは労働大部隊に従事することをも強いられました。恐れられた憲兵隊は、ビルマ共産党や民族主義者をタ―ゲットにして恐怖政治を行いました。しかし、ネ・ウィンを含む一九四八年後のビルマの文官や武官のリーダーの多くは、日本の保護下で最初の支配経験をもち、戦後日本との絆を維持したのです。例えば、南機関の退役軍人と、ネ・ウィンはつい最近まで接触していましたし、ビルマヘ赴任した日本大使は、ネ・ウィンが一九八八年に引退するまで、彼と接触を保っていたようです。これは他の国の代表には無かった特典だったのです。更に、日本統治の好ましからぬ記憶にもかかわらず、ネ・ウィンに率いられる軍事政権は、日本に圧力をかけ譲歩させる手段として戦時の事を持ち出すことを、他のアジアの国々ほどしたがらなかったのです。文部省が近世史に関して教科書のガイドラインを修正した際、ネ・ウィン政権は中国や韓国と異なり、それを大きな問題にしませんでした。しかし、八八年のネ・ウィンの引退に続いて、ソー・マウン大将に率いられるより若い世代の軍幹部達は、反日感情をより露わにするようです。例えば、九○年十一月に上智大学の緒方貞子氏が国連の後援の下にビルマを人権侵害の調査の為訪問した際、ソー・マウン大将は戦時中の日本の残虐行為について言及し、気不味い雰囲気でした。労働者の日刊新聞という軍政権の宮報の漫画は外国人の描写にかけては決して穏やかではなく、軍服を着て小さな刀をもて遊んでいる人物によって日本を風刺しています。SLORCの世代の軍幹部には五〜六○代のソー・マウン大将とかキン・ニューン少将がいますが、彼等より上の世代の人々に比べると、日本に対してそれほど愛着がないのは明らかです。[図Bは政府所有及び管轄の労働者の日刊新聞の漫画です。九○年十月に発行されたもので、SLORC政権を象徴する、厳しい調子で話す兵士が登場しています。彼の右側に上院議目エドワード・ケネディ及びパトリック・モイニハン、下院議員スティーブン・ソラーズ、ディナ・ローバッカーといった米議会の顔ぶれも見えます。インドを代表する人物もいます。SLORCの人権侵害を批判した人々であるわけです。兵士の左側の人物は日本を表しているようです。軍服や刀そして神経質な表情に注目して下さい。彼は「大変よろしい、よろしい」と言っています。]
 日本の退役軍人は、ビルマと日本の戦後の関係において重要でも、十分に理解されてはいなかったようです。約三○万の日本軍が、一九四四年から四五年にかけての連合軍の侵攻直前に、ビルマに配属されました。うち約一八万五千人が一連の血なまぐさい戦いの中で、連合軍が国を奪還するにつれ戦闘で、病いで、あるいはあまたの危険にさらされて死んでいったのです。タイ国境に退却する多くの兵士達はビルマの村人から食料や薬を与え られ、生き残った人々は、倒れた戦友を弔うばかりではなく(竹山道雄の有名な小説、「ビルマの竪琴」の中に描写されているように)その地の人々を助ける義務を感じたのです。ある筋によると、日本の数多くの退役軍人の中では、ビルマに携わるグループが一番多く、最も活動的であり又、頻繁にその国へ旅行するのだということです。インドネシアを例外としても、戦時中の出会いがこれほど大きな、純粋とは言えないまでも、好意的感情 を醸し出した例は他にはありません。純粋ではなかったということは、一九四二年に日本に叛こうという計画が検討されたという事実から明白です。この国の新しい占拠者、日本が直ちに独立を認めないことが明らかになったからでした。一九四五年三月二七日連合軍と協力してアウン・サン将軍が日本に対して、ビルマ軍の反乱を導きました。これは将軍や彼の同志にとって終始一貫した政策でした。彼等は、白人であろうが黄色人種であろうが、すべての外国人による支配がなくなることを欲していたからです。

一九五四年から八八年における援助関係

 一九五四年から八八年の第二の歴史的段階におけるビルマ、日本関係は主に経済的なものでした。四五年から五四年にかけては、両国間に正式な国交がなかったのですが、五四年に平和協定並びに戦後賠償協定に調印するに至りました。日本がアジア諸国中、最初に結んだこの協定は、一○年にわたる日本の製品や人的貢献、それに合弁事業における投資に、二、五億ドル(日本円にして七二○億円)を用意することを約束させるものでした。そしてその賠償は五五年から六五年にかけて支払われましたが、その額は他のアジア諸国のそれと比較して不十分と見なされた為、新しい一連の準賠償が六五年から七二年にかけて支払われたのです。総額は一、三二億ドル(四七三億円)に上りました。ビルマは、ネ・ウィン将軍の暫定内閣(五八〜六○年)の時期を除けば、四八年の独立から六二年三月の軍のクーデターまで議会による民主主義国家でした。定期的に選挙が行われ出版は自由で、外国の会社や教会等の組織は国内で自由に活動ができ、ビルマ人の国外旅行は禁止されていませんでした。しかし六二年にネ・ウィンに設立された軍事政権は、外国所有の工場や銀行を国有化し、外国の文化や教育の影響から国を閉ざしてしまったのです。ビルマ人は旅行や勉強に外国へ行くことがほとんどできなくなってしまいました。東欧の社会主義国家に似た経済的、政治的構造が確立されたのです。中央集権的な経済コントロールや自給自足の経済計画そして、政治を与かるビルマ社会主義計画党という唯一の改革的党の存在が如実にそれを示しています。マスコミや教育は国の厳しいコントロール下におかれました。六二年以後のビルマにおける日本の経済的存在は、次の三つの理由で注目に値します。(一)前述のように、ビルマは社会主義でありながら、資本主義国日本がODAを通して主要な経済的役割を演じ続けました。七○年にビルマが社会主義を修正したことが、日本や他の援助国のODA大幅増加を促しました。(二)この時期の日本の対ビルマODAは、両国問の多くの民間での貿易や日本の海外投資は伴っていませんでした。このことは、タイ、マレーシア、インドネシアといった日本の経済的存在が、過去にあり又現在も非常に多様な近隣諸国の場合とはまったく違っていました。(三)ビルマ経済の規模や特徴からみて、日本の援助額は大きく、特に七八年から八八年の間がそうでした。援助は、社会主義体制のビルマ経済がダイナミックに発展する見込みが無いに等しいことが明らかになっても、寛容に行われました。日本は賠償期間中、そしてその後もビルマへの最大の援助国でした。七三年(準賠償終了後の翌年)から八八年にかけての日本の補助金とローンの総額は一八、七億ドルにも上り、全二国間ODA支払い額の三分の二以上を占めたのです。年間の支払い額を見ると、七七年は二○六○万ドル位であったのが、七八年には五○○%の増加で一、○四億ドル、八六年は二、四四億ドル、そして八八年にはこれまでの最高の二、五九億ドルを記録しました。八○年代半ばの増加は日本円が他の通貨に対して強くなったせいもあります。円でみると、ODA貸与機関である日本の海外経済協力基金のローンの約束額は、八○年代はずっと高いレベルを維持していました。年間の平均は、八一年から八八年まで二九一億円で、一番高かったのが八四年の八九二億円でした。八○年から八八年にかけての九年間は、日本からの援助を受けている国の中で、ビルマは常に十位の中にはいっていました。八○年には四位、八一年から八八年は五位ないし、八位でした。日本からの両国間援助の総額の割合から見るとビルマは、七九年の九・一%から八七年の三・三%の間にあり、八八年は四・○%でした。八七年から八八年にかけて少ないのは、日本のODAの総額が七九年の一九、七億ドルから八八年の六四、二億ドルへと急速に増加した為で、ODAをパイに例えるなら、その一切れを意味するからです。ビルマのような国への日本のODAの額の大きさは、むしろ驚きに値するものです。九○年代の初め、約四千万人の中規模の国でありながら、ビルマは東アジア、東南アジアの中で経済的には最も小規模で工業化されていない国の一つです。IMFの統計によると、八八年の国民総生産は一一○億ドルに匹敵し、モンゴル、ラオス、カンボジアそして油田に営むブルネイより多い程度でした。八七年一二月に国連がビルマを後発開発途上国と認定したことは、四分の一世紀にわたる経営のまずかった社会主義政策の失敗を立証したものでした。しかし、八八年の政治的危機まで日本のODA資金は寛容に流出し続けたのです。日本のビルマに対しての援助の寛容さ及至は規模の大きさには、二つの理由があげられるでしょう。一つは長期的展望にあります。日本政府や経済界から見ると、今は貧しくとも、天然資源に富み経済的にも大きな可能性を持つ国への援助は投資にも等しいと言えます。第二次世界大戦前のビルマは米の最大の輸出国で、農業に対する投資の欠如と農業経済の管理のまずさが無ければ、今日では農産物の主要な輸出国でありえたでしょう。一九八七年の秋、危機の直前に農業自由化に向けての大幅な歩み寄りが見られ、政府は米や他の穀物の自由な取引を認めたのです。日本国内の米市場は自由化されていなくとも、ビルマの将来十分に可能性のある超過米は、中国等の近隣のアジアの国の人々を食べさせ、アジア地域の政治的安定に寄与することができます。これは、日本の安全の為に不可欠の要因であるわけです。ビルマには油田もあります。陸であれ海であれ、新しい油田の発見の可能性は高く、外国の石油会社一○社が一九八九年以来、石油踏査の為にSLORC政権と契約を結んでいます。日本はオイル供給元の多様化を長く模索してきたわけですが、湾岸戦争においてそれが正しかったことが明らかになったのです。ビルマには他にも宝石、熱帯の材木のティーク等価値ある資源があります。ビルマの人々は読み書きができ、良い機会が与えられれば他のアジアの人々のように勤勉で、しかもより安い労働に従事するでしょう。経済学者デイビッド・I・スタインバーグは、日本政府の援助政策について、無駄や管理のまずさはあったにせよ成功したと援助の投資面を強調しています。なぜなら、本質的に日本はビルマにおける顕著な地位を築き上げる目的を達成したからです。日本との関係はビルマにとって最も重要であり、又その支援はビルマ経済にとって不可欠で日本との接触は格別です。ビルマが繁栄すれば、日本も共に利益を得るであろうと氏は結んでいます。日本の対ビルマ援助の寛容さについての二番目の重要なポイントは、報酬にあります。つまり、政治的に力のある経済界に報いる為、ODAは日本国内の経済の一部として設立されました。日本の援助の商業的性質は長く批判の対象であり、評論家は次のように指摘しています。 ということ。以上のように、ODAの商業化は報酬という閉ざされた円を作る傾向がありました。日本政府がプロジェクトに資金を割り当て、それがビルマの地でプロジェクトを完成するのに必要な商品や人的貢献を得る為に、日本企業に渡されるわけです。契約から利益を得る以外にも、うまくいっている会社はビルマのような国で、比較的危険も伴わずに経営していくことができるのです。ビルマが繁栄する時、あるいはもし将来そうなれば、 こういった会社は利益を得るには最も良い立場にあるわけです。ビルマの場合は、経済界への報酬としての援助が重要だという無視できない証拠があります。詳細は明らかではないのですが、ビルマで戦った日本の退役軍人有志が、日本とビルマの政界のり―ダー同志の非公式ネットワークを作り上げ、これが特に六二年の軍の乗っ取り以後、重要なものになってきたわけです。六二年以後、外国と貿易をする為に外国の会社を国有化しビルマの国営企業を創設したにもかかわらず、日本の貿易会社つまり総合商社が、そのままラングーンで経営することを許されていたのは興味深い事実です。日本側には、ビルマロビーの重要な政治家、岸信介、安部晋太郎そして渡辺美智雄といった顔ぶれがありました。前に述べた日本ビルマ協会は山口淑子参議院議員が議長を勤めています。一九八八年の政治暴動の結果として、日本政府は他の先進国と同様、ビルマヘの援助の支給を止めた時、日本 ビルマ協会は八九年一月二五日にSLORC政権の承認と援助の再会を要求して、日本政府に嘆願書を提出しました。その理由として次の事が挙げられています。一、現在進行中のプロジェクトの資金が無期限に凍結されれば、日本企業に多大の損失を与えると思われる点二、日本がすべての援助をストップすれば、新しいSLORC政権が社会主義を捨て経済を自由化した時に、韓国、シンガポール、マレーシア等のアジアの諸国がビルマ市場で有力な地位を得ると思われる点。一九八八年後半に日本ビルマ協会は、総合貿易商社や建設会社を含む一四の日本最大の会社の社長と会長を加え、彼等は協会の理事を勤めました。更に三六の他の会社も協会に加えました。一九八九年二月一七日にSLORC政権を承認し、新しい援助資金は割り当てずに、すでに約束された援助の再開を宣言した日本政府の決定に関して、協会からの嘆願書がどのようなインパクトを持っていたのか明かではありません。複数の情報によると、ODAの政策過程でたいへん重要な関係者である通産省が、政府のこの決定に大きな役割を果たしたようです。SLORCの承認は、通産省や国会のメンバー数人、及び旧プロジェクトに 対する援助の再開のみでなく、新しいプロジェクトへの資金をも望んでいた経済界と、SLORCに自制を望ん でいた大蔵省及び外務省といった政治的関係者との妥協を表していたのかもしれません。自制を望んだ理由というのは、(1)新しい軍政権は日本に未払いの借金を返済することを断っている、(2)一九八八年の軍の乗っ取り以来、おそるべき人権侵害を犯しているというものです。一九五四年から八八年における(特に六二年以後)ビルマへの日本の援助の効果は評価し難いものです。いわゆる四工業プロジェクト(重車両、軽車両、電気製品、及び農業機械類)は賠償期間中、日本が開始したものですが、その無駄と非能率故にかなり批判されました。例えば、トラックや乗用車の部品は日本から輸入されなければならず、ビルマの工場の生産高は低かったのです。その上、日系の四大会社は、競争入札すること無く、長くプロジェクトの契約を保ち続けました。ですが、肥料や農業といった日本の援助は一九七○年代後半及び八○年代前半の米の収穫に多大な増加をもたらす役割を演じたのです。日本の資金による、バルーチャン水力発電プロジェクトも賠償期間中にスタートしたもので、ラングーンの電力の大半を供給しています。医療器具や病院の設備といった援助(特に新しいラングーン総合病院)も重要なものでした。日本や他の国のODAがビルマで果たした最も重要な役割は、ネ・ウィン政権を経済的に支えたことでしょう。ODAを通じて、ネ・ウィンは経済と社会の排他的コントロールを放棄すること無く、経済成長を促進することができたわけです。七○年代の社会主義経済政策と社会的不安に直面して、軍政権は、外国からの多額の援助を受け取ることに対して、政治的見地からみて損失は無いという結論に至ったわけです。さもなければ、韓国、台湾、タイそしてインドネシアといった軍政権下の政策、つまり主要な役割を持った外国のビジネスとの国際的にオープンな経済しかなかったのです。経済的に見た結果は印象的なものであったものの、これらの国々の軍政権は力を失い、国内の民間経済や都市の中流階級、インテリ、宗教グループ、マスコミそして議会の政治家が政治的に力をつけています。インドネシアは部分的に例外といえましょう。権力の分散した市民社会は、例えその代償がアジアの他の国々が栄え、ビルマのみがそのまま貧困であり続けることであったとしても、ネ・ウィンが避けたかったものに他ならなかったのです。

一九八八年以降における対日関係の危機

 一九八八年の夏、全国的な民主化運動が四分の一世紀以上にも及ぶ軍の支配に見事な終止符を打つように見えました。主要な都市の大通りは、民主的選挙による文官の政治を要求するデモ隊であふれていました。ネ・ウィンは既に政界を退いていて、社会主義体制は解体し、軍は麻痺状態となり為す術を知らない状態でした。アウン・サン・スー・チー女史が危篤状態の母の看護の為ビルマに帰国した事が、幸運にもこの運動に指導者を与える結果となったのです。彼女が知られるようになったのは、もとは父親の威光によるものでしたが、まもなく彼女自身、勇気と政治的才能の持ち主であることを示しました。しかし八八年九月一八日、ソー・マウン将軍に率いられた軍幹部はネ・ウィンの支援のもとにクーデターを断行して国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立したのです。何千人ものデモ隊がこの時殺され、この後間もなくこの新政権は、自由な、複数政党による選挙を行うことを公約したのです。一九九○年五月二七日総選挙が行われた時、アウン・サン・スー・チーの率いる反対党の国民民主連盟(NLD)が、彼女自身は自宅に監禁されていながら、八○%の議席を獲得し圧倒的勝利を勝ち取りました。SLORCは、しかしながら、この選ばれた代表達に政権を渡すことを拒否し、NLDの党員を逮捕したり、死刑に処するなどの暴挙を敢えてしたのです。この政権のとった行為は、世界最悪の人権蹂躙の一つに数えられるでしょう。ビルマの、この政治的危機に対する日本の対応は、当初全く明快なものでした。クーデターの数日前、政治的不安定という理由で援助は停止され、クーデターの直後、外務省は声明を発表し、悪化する事態に対する懸念を表明して、この危機の平和的解決を希望する旨を述べたのです。ラングーン駐在大鷹弘日本大使は、選挙が行われ新しい政府が成立して初めて政権を認めるという日本の姿勢は変わっていないと明言しました。八九年一月四日のSLORCの国民の日祝典をボイコットする為、大鷹大使はアメリカ、イギリス、西ドイツその他の国々の外交宮達と共にビルマから引き揚げました。八九年一月一三日、日本は正式にビルマ援助を中止したのです。先に述べた通り、経済界は政府にSLORC政権を承認し援助を再開するよう圧力をかけました。クーデターのような非合法的手段によって、他国の政府が新しく誕生した場合、この新しい政権を承認するか否かを決定するのに、政府がイニシアティブをとらねばならぬという従来日本が守ってきた原則の為に、日本の外交官は困難に直面しました。このことは、アメリカ合衆国などほとんどの国々で行われている慣行と異なっています。即ち、例えばアメリカ等では、政権の非合法的更迭があっても母国の政府による干渉はなく、従来通り、あるいは殆ど従来と異なることなく関係は持続することが出来るわけです。八九年二月一七日外務省は、SLORCがビルマの大部分に亘って効果的な支配力を持っていること、国際条約を遵守してきたこと、又その承認が必ずしも新政権の支持を意味するものではない、という理由でSLORCの承認決定をしたのです。外務省はまた経済の民主化と自由化を促進する為にSLORCとの対話を継続するという目的の為にも承認は必要であると主張しました。しかし、日本は資金援助を再開する唯一の先進国であったのです。SLORCがアウン・サン・スー・チーを監禁したり、九○年五月の選挙結果に忠実でなかった為、彼女の監禁解除と選ばれた代表達に権力を委ねることを促す、日本政府からの慎重に言葉を選んだ声明が急いで出される結果となりました。又、このビルマとの経験が、八九年六月の天安門事件後の中国とのそれと共に、日本の対外援助政策を全面的に再評価する必要を促す契機となりました。九○年のODAに関する年報で、外務省は援助計画と、援助受け取り国内の民主化傾向の奨励とを一本化したのです。しかし、日本がビルマにおいて新しいODA計画を朱だ実施していないことは、最も重要な点だといえましょう。SLORC政権が続けば、ビルマにおける日本の影響力は非常に弱くなるかもしれないと思われる理由があります。これは新しい援助計画がないからというだけでなく、この政権が急速に近隣諸国―特にタイ、シンガポール、マレーシア、中国等にその貿易と投資の大部分を依存しつつあるからです。ビルマの北部のこの国第二の大 都市であるマンダレーは、中国雲南省との貿易とこの地域における中国商人の活動の為、明らかに中国の経済的影響下にある観があります。タイの商社はビルマのチーク林や沖合漁業を乱開発していて多くの場合、いわゆる生態学的災害をひきおこしています。このようにして、ビルマは八八年の民主化運動において、世界に向けて自国を開放し、アジアの他の国々と繁栄を分かち合う間際まで来ていながら、いまだにアジアの一角の忘れられた存在なのです。日本、アメリカ、ECその他の先進民主国は、権力の維持や己の繁栄に専ら関心を持っているような政権には殆ど影響力がありません。日本の政府と経済界は、ビルマを素通りして、ビルマより一層経済の真の改革を進め世界に向けて自国を開放しようとしているように見える、社会主義国家ベトナムに注目しているように思われます。

結論 ビルマ、日本関係の将来

 先に述べた三つの歴史的時期における、日本のビルマとの関係はどのような意味においてユニークなのでしょうか。又、どのような意味において、日本とその他のアジア諸国との関係と共通な特徴を示しているのでしょうか。このユニーク、ないし明確な特徴に関して最も重要なのは、第二次世界大戦中及び戦後におけるビルマのエリートと日本との異常に密接な関係でしょう。ビルマ独立の年である四八年から、八八年にかけてビルマを統治した人達は、戦時中の日本寄りの政権の中で、文官あるいは武官として最初の支配経験をもちました。日本は、英国の植民地政策をその根底から打ち破り、ビルマの大多数の人々に英国の支配により奪われていた戦闘能力と、制限付きながら政治的独立を取り戻させたのです。建前として、特別友好関係という聞こえのよい言葉がビルマ、日本の政界のエリートや退役軍人、又ビルマの一般庶民に至るまで終戦以来使われてきました。しかし、四○年から四五年、又五四年から八八年に至る時期においての日本ビルマ関係は主として経済的動機に基づくもので、この点においては、日本の他のアジア諸国との関係と大して異なるものではありません。戦時中、日本は連合諸国と戦うため、ビルマの資源を必要としました。日本のODAがビルマ経済において主要な役割をはたしていた五四年から八八年の間、経済安定への関心には二つの面がありました。一つは、ビルマが大きな経済的可能性を持つという仮定に基づいたODAの投資の面であり、第二には、ODAの報酬の面、即ち日本国内の政治的に強力な経済界に報いるために、ビルマにおけるプロジェクトに対して、ODA援助資金を用いることでした。ネ・ウィン指揮下のビルマ軍のエリートは、この援助によって資金供給されても、経済と社会に対する軍の支配に脅威を受けなかったので、援助関係によって利益を得たのです。ビルマは、援助を受ける国であり、同時に閉鎖された国家でありえたのです。ビルマ、日本の関係は、ふたつの大いに異なった政権が提携することによって、相互に利益を得た一種の共生の関係であったのです。八八年のSLORCの誕生は、議論の余地はあっても、一つの転換期と言えるでしょう。一つには、日本への借財の返済が出来ないというビルマのひどい経済情勢のためと、又SLORC政権の残忍な性格のために、日本はもはや新しい資金援助の手を差し伸べる事はできません。皮肉な見方をすれば、日本政府がSLORCとより密接な関係を持つことを抑制させるのは、特にアメリカやECからの国際的批判であるとも言えるかもしれません。しかし八○年代の後期以来、日本はもっと責任ある世界的な役割を演じるべきであると強調する国内の批評家達によって、日本の対外政策、特に援助政策の再評価が見られてきました。これは日本が世界的に人権の向上に対してもっと積極的な役割を演じるべきであるという原則を含んでいます。ビルマ、日本関係の将来はどのようなものでありましょうか。私は次の三つのシナリオが可能だろうと思います。第一のシナリオは、これは最も楽観的ですが、平和的或いは他の手段によって、国民に人気のある政府がSLORC政権にとって代わるということです。この政権は日本経済の存在を歓迎するでしょうが、開放された民主的ビルマにおいては、日本は独裁主義ネ・ウィン政権下におけるよりも更に多くの批判を、新聞、インテリ、そして政治家から受けることになるかもしれません。又、民主化されたビルマは、カレン、シャン、カチンのような少数民族に政治力を与えるでしょう。これらの民族は、大多数を占めるバーマン族のような日本に対する歴史的親近感は持ち合わせていません。ビルマは、対日感情が複雑なフィリピンやタイのような東南アジアの国々に似たものになろうと思われます。第二のシナリオとして、SLORC政権下における漸進的自由主義化が考えられます。即ち、軍が権力を持続はするが、ある程度政治的反対派に対して寛大な態度をとり、ほとんど外見上、民間人による政治体制を作るというインドネシア型のものです。これは日本の多くの政策決定者達が画いた未来図であるように思われます。もし真の経済改革が行われるとしたら、日本の援助、又多分外国の投資も再びビルマに帰ってくるでしょう。インドネシアの場合が、悲しいかな、その先例です。スハルト政権は、インドネシアの左派や回教徒の反乱民衆、又東ティモア人など何千人どころか何十万という人々の人権を踏みにじった政権です。にもかかわらずスハルト政権は、日本のみならず西洋諸国と友好的関係を享受しています。第三のシナリオは、引き続きSLORC政権の下でのビルマの孤立の状態です。これは最も悲観的なシナリオです。なぜなら、インドネシアのような国の制限された開放すら得られていないからです。ビルマは依然として国際的に除け者のままにとどまるでしょう。ビルマ政権は、その収入源として天然資源をタイや中国のような近隣諸国(そして間接的には日本)への販売に求めるでしょうが、経済的発展は望めません。何十万という教育のあるビルマ人が母国を離れる結果になるでしょうが、多くは恐らく日本に止まる事になるでしょう。中国の国土の広さを考慮に入れれば、ビルマはその経済的そして政治的衛星国にさえなる可能性があります。日本の少数の冒険的ビジネスマンは滞在しても、日本の影響力は減少すると思われます。このような事態を防止する為に、日本はどのようなことが出来るでしょうか。ほとんど何も出来ないように思われます。SLORC政権との間で、民主化や経済改革の問題について、“静かなる対話”を続けるのはおそらくよい政策でしょう。経済的また政治的情勢がよくならない限り、新しい援助は与えられるべきではありません。しかし、ビルマにおける日本の影響力は減少しつつあるのです。それは一つには、SLORCが経済的支援を日本以外の国々に求めつつあるということ、もう一つは若い世代の軍幹部にはネ・ウィン世代ほどの日本との結びつきがないからなのです。日本は又、SLORCが自国民に及ぼした戦争犠牲者に対して、援助をもっと寛容にすべきだと思うのです。日本にしばしば非合法的に、居住し働いているビルマ人に対して特別の「政治的亡命者」としての身分の保証を与えることに、日本は一層積極的であるべきだと思います。これらのビルマ人は教育があるので日本の大学で学ぶために公的、あるいは私的な奨学資金を受けることによって恩恵を受けることでしょう。また日本は、ビルマの隣国、特にタイの国境地域に住んでいる、少数民族を含めた、ビルマの避難民に援助の手を差し伸べるべきだと思います。(タイ、ビルマの国境沿いには五万人以上の避難民がいます。)SLORCは、避難民救助は国内政策への干渉だと非難するでしょう。しかし日本はそのような援助は、本質的に人道的性格のものであると主張すべきです。最後に、第三者ながら私は、日本の基本的態度に或る種の変更も必要ではないかと思うのです。その一つは、ビルマ人や他のアジアの国々を「我々日本人」と本質的に異なった異国の型にはまった人間として見る傾向です。こういった面の「国際化」は「内」と「外」を含めた、非常に基本的な態度の変更を含むものですから、その実現には時間を要すると思われます。しかし学者達やマスコミが、アジア諸国に対する関心を喚起させることによって、また相手の感情を害するようなイメージの使用を控えることによって、この方面に大いに役だつことができるでしょう。加えて、日本人と他のアジア諸国民の相違を強調する一般ないし学問的研究における「日本人論ジャンル」の最も基本的な再評価がなされるべきでしょう。そして、この国際日本文化研究センターは、これらの問題に対して大きな貢献をすることのできる一つの場でありうるでしょう。

 (訳 井川与/シーキンス麗子)