正月の風俗−中国と日本− (Customs of the New Year:China and Japan)

馬 興国(Ma Xing-guo ) 遼寧大学日本研究所副所長

(一)中国の正月行事のはじまり

 中国の旧暦のお正月は「年」と言います。中華民族の多彩な祭日の中で、もっとも重大な、もっとも民族的特 色を持つ祭日がこの「年」です。最初に「年」を記録した書籍は漢の時の辞書『爾雅』で、「夏日歳、商日祀、周日年、唐■日載」と書いてあります。なぜ、周の時に「年」と称するようになったかというと、周の時代はとても農業を大事にした時代で、「年」という時間概念が農作物の生長の周期よって、次第に認識されるようになりました。公元百年にできた 『説文解字』でも、「年」について「穀熟也」と説明し、『穀梁伝』では「五穀皆熟為有年、五穀皆大熟為大年」と解釈しています。つまり、「年」は「稔」であり、稲穂が実り熟すことを祈りつつ念ずる意味です。
西周の初期ごろ、「年」は農業の豊作を祝う行事であったことが伺えます。勿論、祝うと同時に、豊作をもたらしてくれた先祖に感謝し、来年の豊作を祈願しなければならないので、「年」の時には新米を炊いた御飯と新穀で作った酒を先祖にお供えしました。厳格に言えば、周代の「年」の行事は祭日とは言えず、ただ新年と旧年の交代の時にやる行事で、固定された日ではありませんでした。しかし、これが以後の「年」の祭日の初まりでした。中国の祭日と年中行事は、ほとんど漢の時代に定着しました。漢王朝はその初期に「休養生息」の政策を取り、 社会安定と経済繁栄を求めることによって、祭日の風習を形成する歴史的条件を整えました。
 また、暦は年中行事形成の重要な素因ですが、古代中国では北斗七星の斗の幹の回転によって暦を決めていました。しかし、年の時間概念は王朝が変わることによっても変わりました。というのは、新しい王朝が出来た時、必ず月の順序を変更したからです。代が変わった第一の月を「正月」と称しましたので、よく混乱が生じました。しかし、漢武帝の時に『太初暦』が作られ、夏暦の正月を一年の始まりとし、二十四節気を暦に編入しました。確かにそれ以後の人も暦を幾回も改訂しましたけれど、基本的にはこの『太初暦』を基としましたので、暦は定着し、年中行事も固定されました。第三の理由は、秦と漢の時代には「陰陽五行」説と同時に方術も流行しましたので、本来の正月風習が鬼遣いの方術と複台する結果になったことなども、正月行事の定着化に大きく影響したと考えられます。

(二)中国と日本の正月行事の類似点

 中国の「年」、つまり旧暦の正月は大晦日と元旦の意味ですが、主な行事は大晦日、すわち除夕に行います。本来、除夕の最も重要な行事は「逐儺」でした。『呂氏春秋』には「前歳一日、撃鼓驅疫癘之鬼、謂之逐除、亦日儺」とありますが、この「儺」は原始社会の巫舞を元した踊りで、西周から春秋戦国にかけて民間で盛んに行われました。それが漢の時代に宮廷でも行われるようになり、さらに盛大な鬼遣いの行事に発展したのです。『後漢書・禮儀志』によりますと、東漢の宮廷で行われた追儺の様子は次のようなものです。十歳から十二歳までの小僧を一二○人選び、頭に赤頭巾を被らせ、黒の衣裳を着させて、太鼓を打ち鳴らして応援の役をさせながら、一人の大男が方相氏(悪疫を払う術者)に扮して、黄金の四つの目の面具をつけ、熊の皮を身につけて盾と矛を持ち、十二人の猛獣に扮したお供を連れて踊ります。赤頭巾の百官は宮殿の門の前に立ち、踊りの後、火把で端門から悪鬼を追い出します。そして端門の外の七千人の衛兵が、この火把を引受けて城を出ます。さらに城門の外の千名の騎兵は、その火把を受取って、洛水の川の中にそれを投げ入れます。この一連の行為は、悪鬼を永遠に水の底に沈ませることを意味します。魏晋南北朝から隋唐五代にかけて、漢と同じように追儺を行いましたが、隋の南朝の人数は漢の倍にふえました。北魏の追儺は閲兵の型で行われ、南に歩兵を、北に騎兵を配置し双方を戦わせる形をとりました。勿論、結果はいつも北の騎兵の勝ちになります。それは北魏が南魏を倒すことを意味するからです。宋代以後、追儺の内容が次第に変わり、特に明・清の時代には「かまど踊り一、「鍾馗踊り」と言うようになりました。「かまど踊り」は、人々が顔を真黒にして町中を踊りめぐります。それに対して、観衆はお金やお米を与えました。こうした面白く、また迷信をも織りこんだ追儺の踊りを見ていますと、昔の鬼やらいの追儺風習が、すでに娯楽的な風習に変わって来たことが伺えます。これは祭日風習の進歩だと思います。追儺は単純の迷信ではなく、当時の人々の自然災害を征服しようとする民族心理の表れです。当時はまだ科学技術が遅れていて、人々は疫病の本質を完全に認識できない段階でした。だから、神と方術の力を借りて、疫病と悪鬼をやらったのです。追儺の日本伝来は、文武天皇の頃だそうです。『日本書紀』によりますと、慶雲三(七○六)年「是年天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とあり、大舎人の一人が仮面をかぶって方相氏の役をつとめ、内裏の四門をめぐって悪鬼を追いたて、殿上人も桃の弓、葦の矢で鬼を射立てたとあります。これはその後、宮中だけでなく、神社や寺院、また上流階級にひろがりましたが、鎌倉時代以降はすたれました。しかし、追儺の行事は、やがて室町中期に中国から伝釆した「豆まき」の風習と合流し、二月の節分に行われるようになりました。正月と節分は時間的に接近しており、時には重複することもありましたので追儺が節分の行事へと移行したのは、合理的だと思います。漢の人は悪鬼を畏れ、特に大晦日に、悪鬼が侵入するのを心配しましたので、桃の木を削って、それに神奈・鬱壘という二神の絵を書いて門にかけました。これが、中国の門神の起源です。『山海経』と漢の『風俗通義』にはつぎのような故事が書いてあります。

 東海中有度朔山、上有大桃樹、蟠屈三千里、其卑枝門日東北鬼門、萬鬼出入也。上有二神人一日神茶、一 日鬱壘、主閲領衆鬼之悪、害人者執以葦索、而用食虎。於是黄帝法而象之。因立桃梗於門戸上、書鬱 壘持葦索以御凶鬼、書虎於門、當食鬼也。(「山海経」)

 おそらく二神の絵を書くのが面倒だったからでしょう、魏晋南北朝からは桃の板に二神の名前だけを書くようになりました。これを「桃符」と称します。北宋の桃符は長さ二、三尺、幅四、五寸の薄い木版に、上部に浚貌・白沢などの神獣をえがき、下部には左に鬱壘、右に神茶と書きました。春詞を写し、祝詞を書いたものもあります。宋の王安石の詩に「爆竹声中一歳除、春風送暖入屠蘇、千門萬戸■■日、総把新桃換旧符」というのがあり、ここで「新桃」と「旧符」というのは、疫病と悪鬼をやらう桃符を指します。唐の末から、門神は二神から鍾馗に変りました。『唐逸史』と『補筆談』によりますと、唐の玄宗皇帝がある 時激しい熱病にかかって苦しんでいた時、不思議な夢を見ました。それは満面ひげだらけの、容貌魁偉な大男が、小鬼を追いかけている夢でした。その男は小鬼をつかまえると、生きたまま呑み込んでしまったので、玄宗が 「お前は何者だ」とたずねたところ、男は「私は武官登用試験に落第して自殺した鍾馗と申す者、死にはしましたが、陛下のおん為に、天下の妖怪を平らげんとの誓いを立て、このように鬼を退治いたしております。」と答 えたと言うのです。その後、玄宗の熱病はすっかりなおっていましたので、玄宗は夢の中の男の姿を画家呉道子に描かせて、「鍾馗、鬼を捕えるの図」と題して宮中に掛けました。それ以来、人々は大晦日に鍾馗の絵を家の 門に掲げて魔除けにするようになったのです。宋の末になると、門神は鍾馗から唐初の有名な武将である秦叔宝と尉遅敬徳に変りました。『三教捜神大全』には、それについて鍾馗と同じような内容の伝説を載せてあります。戸神、唐秦叔宝胡敬徳二将軍也。按伝、唐太宗不豫、寝門外鬼魅呼号。太宗以問群臣、秦叔宝奏云「一願同 胡敬徳戎装立門外以伺。」太宗可其奏、夜果無事、因命画工絵二人之像懸宮門、邪崇以息。後世沿襲、遂 永為門神。門神の風習の影響、さらに印刷技術の発展によって、唐末と宋初の時代に年画と春聯の風習が生まれました。春聯は対聯、門対、門貼とも言います。木版刷りで目出度い言葉や祝詞を記すようになるに従って、桃符本来の鬼遣いの意味が薄くなって来ました。文献によりますと、五代の後蜀の太子は、宮殿の桃符に「天垂餘慶、地接長春」の八字を書きました。これが 中国の最初の春聯だそうですが、最初の春聯は「新年納餘慶、嘉節号長春」であるという説もあります。どちらにしても、春聯は五代の後蜀の時代から始まることを立証しています。宋以後、大晦日に春聯を貼る風習は盛んになります。『宋史・五行志』には「命翰林内詞題桃符、正點、置寝 門左右」とあり、『夢梁録』にも除夕「釘桃符、換春牌」と書いてあります。明の太祖の始皇帝は対聯が大好きな帝王でした。彼は家ごとに春聯をつけるよう命じ、さらに町に春聯を視察 に出かけています。ある日、彼が忍んで町の除夕の様子を見に出かけた時、ある家の門に春聯が貼ってないのを見付けました。聞けば、その家の主人は猪の宰丸を取る仕事だというので、彼はその場で「雙手劈開生死路、一 刀割断是非根」という春聯を書いて与えたということです。清の乾隆帝もよく春聯を書きました。彼が南方を視察した時、「通州」という町を通った際に、河北省にも 「通州」という町があることを思い出して、「南通州、北通州、南北通州通南北」という上聯を書いて、随行の人に下聯を作らせました。はじめ、隨行の人がいくら案を出しても、乾隆帝はなかなか満足しなかったのですが、 ある家来が町の東西に質屋があるのに目をつけて、すぐ「東営舗、西営舗、東西営舗営東西」という下聯を作りました。質屋を中国では「富舗」といい、ものを「東西一と祢しますので、乾隆帝は大変喜んで、この人を嘉賞 するばかりでなく、出世までさせました。ただいま、申しあげました正月の門飾りで、日本の皆様が親しく感じられるのは鍾馗でしょう。鍾馗を五月人 形と一緒に端午の節句に飾るのは、江戸時代以降のことですが、唐にならって正月のしめ飾り、門松の風習を採り入れたのは、平安時代からでした。平安朝の年中行事は、その由来から見て、唐から入った行事が日本の宮廷 に採用され、宮廷行事となったものが多いようです。しかしそれとは別に、日本の民間で古くから行われていた風習が宮廷に採用され、年中行事となったものも少なくありません。そして中国から輸入された行事も、日本の 民間の風習とうまく結合し、宮廷の年中行事となったものもたくさんあります。正月の行事でもっとも大事とされたのは、「守夜」です。除夕の夜は二年にまたがっており、神様を迎える夜、 家族団欒の夜なのです。中国の歴史で、牢屋に入れた罪人を一時釈放して、家族と除夜をすごさせた例もたくさんあります。例えば、晋の県令曹某が大晦日に死刑囚に「お正月は人情の篤い祭日だから、家族に会いたくないか」と聞いたところ、囚人は「会わせて下されば、死んでも侮しくありません」と答えたので、牢屋を出してやりました。囚人たちは自宅に帰って家族とお正月を過ごした後、全員時間どおりに牢屋にもどって来たというこ とです。守夜には、火を燃すのが普通です。隋唐の時、帝王は宮廷での守歳に際して、白檀の木を燃やし、盛大な宴会 を催しました。隋煬帝の時、二百台の馬車で運んで来た沈香と白檀の木を一晩で焼きはらいました。その香りを五キロ以上先でも嗅いだということです。宋代になると、守歳のほかに、「饋歳」「別歳」「辞年」などの言い方も出て来ました。そして、かまど神を 迎え、床の神を祭り、お年玉を与えるといった内容が加わりました。「年玉」とは、年神から与えられる魂のことです。すなわち、年の魂であり、今年を精一杯生きる活力を生みだす手形です。清の呉曼雲の詩「圧歳銭」に は、「百十銭穿彩線長、分来再枕自収蔵。商量爆竹談簫價、添得嬌児一夜忙」と詠まれています。饋歳とは相互に食物を送ることです。贈物の値段と多少には関係ありません。その気情が重要なのです。日本 のお歳暮と変わりはありません。心のこもった贈物は、社会生活の一つの潤滑油とも言えましょう。別歳とは互いにご馳走することですが、饋歳と別歳は除夕に限られたものではありませんが、守歳は必ず除夕 の夜に行います。『日本歳時記』にも、次のように書いてあります。

 今夜を除夜といふ、又除夕ともいふ、一年のおはる夜なれば、つつしみて心をしづかにし、礼服を著、酒 食を先祖の霊前にそなへ、みづからも酒食を食し、家人奴婢にもあたへ、一とせを事なくてへぬる事を互に歓娯し、坐して以て旦をまち、旧を送り新を迎べし。

 日本でも大晦日には朝早くから歳徳神をまつり、門松、注連縄、鏡餅を飾り、雑煮膳、屠蘇などの用意をして、 お正月の準備をします。夜になれば、一家揃って新しい衣服を着、酒や餅などを先祖に供えて歳徳神を拝み、初春を祝いながら食事につきます。除夜は一晩中起きているのが建前とされ、この夜眠ると白髪になるとか、顔に しわができるといった俗信があります。現在でも、一晩中眠らずに元旦を迎える風習を持つ地方があるそうです。『年中行事儀礼事典』によりますと、青森県の一部では、一家が炉端に集まり、眠くなると隣の人の膝で横にな るそうです。これは横になるだけで、寝るのではないという言訳から生れた風習だと思います。中国の除夕の夜には、爆竹を鳴らさなければなりません。本来の爆竹は、焚火に竹をくべて爆ぜさせますが、 これは漢代からの風習です。漢の東方朔の『神異経』に、「西方深山中有人、長尺餘、犯人則病寒熱、名日山■。人以竹著火中、悍琳有声、而山■驚憚」とありますように、爆竹を鳴らすのは、悪鬼と疫病を駆逐するためなの です。魏晋の時、煉丹師は硝石と硫黄と炭を交ぜると、燃焼と爆発が起こりやすいことを発見しました。これが火薬 の発明につながりました。また火薬を竹の筒の中に入れて爆発させると、もっと激しい音がします。これが今の爆竹の起源です。明・清になると、「花火」が出現し、爆竹にも一声のもの、双声のもの、三声のものなどが出 てきました。この双声の爆竹は近代のロケットの祖先でしょう。爆竹が悪鬼山■のやらいから、神迎え、さらに娯楽に変わって来たことは、中国人の早期自然を征服する巫術思想が鬼神を祭る迷信思想へ転換したことを意味 します。除夕の食事をいいますと、一番大事なことは酒を飲むことです。『荊楚歳時記』に「正月一日、長幼悉正衣冠、 以次拝賀、進淑柏酒、飲桃場、進屠蘇酒、惨牙賜、下五辛盤」とあります。淑柏酒は山淑と柏葉をひたした酒です。また漢の『四民月令』には「淑是玉衡星精、服之令人身軽能走、柏是仙薬」とあり、晋の『抱朴子』には次 のような伝説もあります。漢の成帝の時、ある猟師が終南山の山の中で、全身に黒い毛が生え、飛ぶように走る人を見ました。捕えて見 ると、一人の婦人で、自からいうには、自分は秦の時の宮人で、秦の落城を逃れて、山の中に入り、食べものがなく飢えていると、一人の老人が、松柏の葉実を食べるがよい、と教えてくれた。はじめは苦くて渋かったが、 そのうち慣れて食べていると、飢えることもなく、冬の寒さも夏の暑さも感じなくなったと言うのです。その齢を計算して見ると、二百歳を越えていることになります。明の李時珍の『本草綱目』でも、「柏は凋落することなく、久しきに耐え、天禀の堅凝の性質をもち、すなわ ち多寿の木である。ゆえに服餌に入れられる。道家がこれを湯に点じて常飲し、人々が元旦にこれを酒にひたして邪を辞けるのも、みなこの意味を取ったものだ」と言っています。後漢からの淑柏酒を飲む風習は、魏晋から南北朝時代へと受けつがれましたが、隋・唐時代になると、その酒 は屠蘇酒へと変わりました。梁の潘約の『俗説』に「屠蘇、草庵之名、昔有人居草庵之中毎歳除夜遺閭里薬一剤、令井中浸之、至元日取水置於酒尊、合家飲之、不病瘟疫。今人有得方者、亦不知其人姓名、但名屠蘇而已。」と あります。また『千金要方』によりますと、屠蘇酒の処方は、大黄、濁淑・桔梗・桂心・防風・白木・虎杖・烏頭などの薬八品を合わせて剤となしたものです。飲み方は、「これを咬咀いて、絳い嚢にいれ、除日の薄暮に井 戸の底に吊し、正旦にこれをとり出し、嚢ごと酒の中にしばらくひたしておき、それから杯を棒げて『一人これを飲めば一家族疾なく、一家これを飲めば一里病なし』と呪し、年の若いものから順に、東に向いて進め飲む」 と書いてあります。この屠蘇酒の風習は、明代になると衰運に向いました。日本で正月の三ヶ日、雑煮に先立って屠蘇を飲むようになりましたのは、平安時代からで、宮中から始まったそうです。『公事根源』によりますと、「弘仁年中(八一○〜八二三)に起こるという。一人これを飲めば一家に、一家これを飲めば一村に病いなしというめでたい効能があるため、年の初めにこれを用いるのである」と書 いてあります。正月の食事について申しますと、三国の呉から晋にかけての揚子江下流域では、元日の朝、生の鶏卵を呑み、 辛味のある五種の菜を食べる習慣がありました。五辛菜とは、大蒜、小蒜、韮菜、雲台、胡菜の五菜です。こうした辛味のある菜は、五臓のはたらきを活発にすると考えられます。唐代には、元日の食品としてワンタンがあらわれました。末代には長寿面というそばを食べるようになりました。これは日本の年越しそばと同じです。明・清時代には、「年■」もしくは「春■」と称する、小麦以外の穀類を原料とし作られた食べ物を食しました。■ は中国語では「高」と同じ発音ですので、年の豊かなことと向上に通ずる意味から食されたと言います。明代から、中国の北方地域では「餃子」が用いられました。餃子の美味しさは言うまでもありませんが、あんをいっぱ い入れると、財産が多くなり、生活が豊かになるという俗信もあります。日本はどうでしょう。『日本歳時記』には次のように書いてあります。「礼終て春盤をなむ、和国の風俗にて、盤上に松竹、鶴亀などを作つてすゑ、栗、榧、海藻、海蝦、みかん、 かうじ、たちばな、米、柿などつみかさねて、これをなむ、歳初に来る賀客にも是をすすむ、是を蓬莱といふ、蓬莱は仙嶋なれば、その名とするならし、もろこしにも春生菜などを盤上に盛り、春盤と名付て、なむる事ある よし、四時宝鏡に見えたり、さればこそ杜子義が詩にも、春盤細生菜とつくれり、また周処が風土記に、正旦楚人五辛盤を上る事を志るせり、かうやうの遺意にや侍らん。」
 一言付加えておきますと、ここでの「蓬莱」とは、本来『史記』に出てくる東海の中にあるとされた三神山の 蓬莱、方丈、偏州の一つです。その蓬莱山の形を台の上に作った飾り物は、平安時代には貴族の祝儀や酒宴の装飾甲に甲いられましたが、室町時代から正月の祝儀用となったそうです。除夕の夜半十二時に、寺から百八つの除夜の鐘の音が聞こえます。これは中国の宋の時に起こった風習です。百八つの由来についてはいろいろな異説がありますが、普通は百八つの煩悩という仏教思想に基づいたことだと考えられています。日本では鎌倉期以降、まず禅寺で行なうようになりました。当初は中国の寺院と同じく、毎 朝毎夕二回、百八つずつ撞いたのですが、室町ごろから、除夜だけのものとなりました。元旦になると、民家では、早朝に天地、祖先、諸神への礼拝をします。この漢代からの祖先祭りの風習は、中 華民族の人倫道徳を重じる観念の表われであり、封建宗法思想の民族心理の反映でもあります。祖先・諸神への礼拝をすませ、一家次序をもって家長に挨拶をします。これを「拝年」といいます。後漢の崖是の『四民月令』 では、「君、師、故将、宗人、父兄、父友、友親、郷党の耆老に謁賀する」ことを書いてあります。拝年は親族および地域社会との結びつきを確認する重要な行為で、誰も欠かすことはありません。しかし、自分でいちいち 回るのは大変なので、「投刺」の風習が出て来ました。刺は名刺です。西漢時代、「名刺」を「謁」と言い、東漢時代に「刺」を祢しました。すなわち自分の名前を刻んだ竹の板です。「投刺」とは、他の人に年賀の名刺を 届けさせることです。宋の周輝の『清波雑志』には次のような記載があります。「至正交賀、多不親往。有一士人令人持馬銜、毎至一門憾数声、而留刺字以表到。有知其評者、出視之、僕云 『適巳脱篭矣』。」脱篭為京都虐詐閃賺之諺語。」
 さらに、こんな笑い話も出てきます。「沈公子遣僕送刺、至英四丈家、取視之、類皆親故、因酔僕以酒、陰以己帖易之、其僕不知、至各家偏投之、 而主人之帖竟不達。」(宋・周密著『発辛雑識』)。

(三)中国と日本の正月行事の相違点

以上、中国と日本の正月風習の似ているところを紹介いたしましたが、次に相違点について見てみたいと思い ます。まず、中国の旧正月の行事の大部分が、日本に伝来し、宮廷から民間にまで広がりましたが、なぜか門神は日 本へ伝わりませんでした。神茶二神も、秦叔宝の二人もそうでした。さらに、爆竹も伝わりませんでした。もし当時火薬が珍しかったのなら、なぜ明や清の時代にも輸入しませんでした?。また、もし火事のことを心配した とすれば、なぜ花火を輸入しました?。考えて見ると、追儺・桃符・門神・爆竹などの役目は、すべて鬼やらいです。中国には次のような昔話があります。むかしむかし、ある凶暴な「年」という野獣がいました。「年」はよく年末に町に現われ、人や家畜を食います。ある年の瀬、例年のように「年」が現われ、ある村に入ろうとしました。その時、たまたま村の牧童が鞭で、パンパンと音をさせて遊んでいました。その音を聞いた「年」は、驚いて逃げました。また別の村に入ろうとす ると、ちょうど千してあった紅い衣裳が、ヒラヒラと風にひるがえっていました。これを見た「年」は、また驚いて逃げました。日暮れになり、さらに別の村に入ろうとすると、人家から燈火の光が漏れていました。「年」 はその光にも驚き、とうとう逃げ去りました。そこで人々は、「年」が音響と紅色と光とを畏れることを知り、「年」の害を避けるために、門に紅紙(春聯)を貼り、室内に燈燭をともし、門前で鞭咆を鳴らすようになりま した。この昔話のとおり中国の正月は一時は確かに鬼やらいの行事でした。ところで、日本人の鬼・妖怪・神の観念はどうだったでしょうか。当センターの中西進教授は、「『万葉集』 では霊魂を意味する「息」という字を「もの」に当てています。今日われわれは「鬼」に「おに」を当てますが、「おに」とは漢字の「隠」を日本語ふうに発言した言葉ですから、これは隠れていてふしぎな働きをするものの ことを鬼と考えたのだと思われます。したがって、「鬼」のような隠れた霊魂の働き、こういうものを「もの」と古代人が呼んだということがわかります。」(『古典と日本人』)と言っておられます。また河合隼雄教授も、 「鬼は人間を食ったりもする存在であるが、西洋における悪鬼とは異なって、もっと多義的、多面的な存在である。」(『昔話と日本人の心』)と書いておられます。私はまったく同感です。例えば、日本人のなじんだ妖怪 山姥は、対立する二つの性格を持っています。一つは人間を捕えて食べてしまうという恐ろしい属性で、もう一つは、時と場合によって、人々に「富」を授与したり、危険を救ったりするという属性です。有名な金太郎も、 伝説によれば足柄山の山姥によって育てられたとされています。日本で、最初に文献に幽霊が登場するのは、平安時代の弘仁年間(八一○〜八二四)に成立した仏教説話集『日本霊異記』でした。そこに登場する幽霊の性格 は、本来哀れむべきなもので、場合によって恐ろしい存在ではあっても、人間に危害を加えるものではないようです。日本人の幽霊に対する感情は、中国人のそれと違って、そんなに恐くなく、いやらしくもありません。江戸時代の『牡丹燈篭』は中国の『牡丹燈記』の翻案ですけれど、浅井了意が省略したところは、道士が幽鬼 退治に活躍する部分です。道士に責めさいなまれ、地獄へ追放される罪人としての幽鬼は、日本人にはまったく馴みのないものなのです。『牡丹燈篭』を通じて、両国の幽霊観と他界観の相違点がかなりよくわかります。また、中国の妖怪はつねに妖怪であり、決して神となることはなく、神は常に妖怪に対立した存在です。しかし、日本人の神観念では、「神」とされていたものが「妖怪」化したり、「妖怪」であったものが「神」になっ たりします。大変可変性に富んだ性格を示しています。柳田国男の言った通り、妖怪とは正に「信仰が失なわれ、零落した神々のすがた」なのです。もう一つ例を申し上げますと、中国で記念写真を撮る際、三人の場合、普通は立場の上の方を真中にします。しかし日本では真中に立つことがいやがられます。それは寿命を縮めるからだそうです。おそらく写真を撮られることが、魂を奪われてしまうという考え方によるのでしょう。そしてさらに三人が並ぶと、ちょうど仏像の三 尊を連想するからだと思われます。つまり三尊の真中は如来で、如来はホトケであり、死者に通ずると解釈されるからです。ホトケ様でさえ、神と死者の二重の役を果たしていますから、日本の神々の複雑多様な姿も推して 知るべしです。以上のように、神妖鬼怪に対する複雑な感情を持つ日本人は、お正月に中国人のように一生懸命鬼を彿う意味 がなかったのでしょう。この感覚は、中国の門飾の影響を受けた門松にも反映されていると思います。日本の門飾は中国のように恐ろしい鬼を彿うものがないばかりでなく、めでたく情々しい海産物と果物がたくさん飾って あります。以上のことから考えて、日本の正月の行事は祖先と神仏礼拝を中心とする行事だといえるのではないでしょうか。次に、正月に祭られる神様について見てみましょう。中国では外から来る神も祭りますけれど、主に竃の神を 祭ります。寵神の性質について、おおむね三つの見方があります。一つは、「炎帝は火を於す、死して竃と為る」(『准南子』)、「帝は炎帝、神は祝融、祀は竃」(『呂氏春秋』)などによる「火神」説です。二つ目は、竃 は日常生活にもっとも関係の深いところから、『礼記』に「夫れ奥は老婦の祭なり」とある老婦が竃神本来の姿であるとする「家族神」説です。『礼記』の「奥」は、「竃」と解しています。三つ目は両者を折表した説です。十二月二十三、二十四日には(梁の時には十二月八日でした)、竃神は天に昇り、天帝にその一家の過失を報告することになっています。だからこの日には、家族全員で豚酒をもって送り出します。すなわち竃神祭です。食 物はいろいろありますが、一番大事なもすが、一番大事なものは、かたみずあめの供薦です。歯にかたく粘りつくあめのことで、「其の(竃神の)口に膠して、言うを得ざらしむ」(『清嘉録』)といい、「竃神の歯を粘ら せて、人の間の是非を説わしむる勿れと謂う(『遂寧県志』))とあります。すなわち一家の悪口を言わせないように願う気持が込められているのです。しかし「歯を粘らせて」しまっては、悪口が言えないと同時に、称讃 の言葉も言えなくなってしまうでしょう。竃神は大晦日の晩に返って来ますので、除夕の夜に竃神を迎えます。と言うことは、この神は一年にこの一週 間だけ家にいないことがわかります。言い換えれば、竃神はそこの家に永住しており、その恩恵によって家族生活が成り立っていると言うことですから、家族の安全と繁栄をもたらす守護神的属性をもっていると言えます。日本の竃神に関する行事は、竃祓と元日の初竃があげられます。しかし、中国のように盛んではなく、また正 月に祭られる対象でもありません。ところで、日本の年神はどこから来るのでしょうか。日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、 さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられます。宝歴三年の『■■輪』には次のように書いてあります。「この神、陰陽家の説は頗利才女なり、すなわち牛頭天王の妃なりと云云、頗利才 女の社は高辻通り室町の西にあり、神書にこれ稲田姫を祭る神宮なりといへり、洛東紙園牛頭天王は素盞鳴尊にして、稲田姫はすなわちその妃なり、しかれば陰陽家の説と神書の説、そのいふところは異にして、意は一致な り。」
 注意すべき点は、日本の年神は元旦に「恵方」から来るということです。伝承によりますと、日本の神は常在 はしません。もし長期にわたって一ケ所に止まる時には、その神は福神から票神に変わります。滞在は一定の期間だけで、この期間は客神としてできるだけの接待をします。神迎えと神送りはきわめて短い期間内に執り行わ れますが、その重要な理由は、幸せをもたらす神がたちまち不幸をもたらす神へと変化することを恐れるからです。年がら年中家族と一緒に暮らす中国の竃神と違って、日本の歳徳神は人間の世界に来訪する神だと言えるで しょう。続いて、正月の門飾りについて見てみましょう。両国の共通点としては、共に松や柏の枝、あるいは松竹梅を 飾ります。また、蜜柑(桔)や柿を飾る点も一緒です。その理由は、中国語で「柏」と「百」、「柿」と「事」,「桔」と「古」の発音がそれぞれ似ており、「百事吉」という意味になるからです。また日本の橙飾りは、「橙」 の音が「代代」と、「柿」の音が萬物を掻き取る意味の「嘉来」の音に通じ、縁起の良いものと見なされている からです。相違点と言えば、日本の門飾りには昆布や海老などの海産物を飾ることです。海老、特伊勢海老の姿態はいか にも長寿を保つ翁のようですし、「伊勢」と「威勢」との発音も合致していて喜ばれます。また結昆布も睦月(むつき)の悦(よろこぶ)と通じています。よく見ると、海老や昆布だけでなく、注連縄や幸木にも魚類や海 藻がたくさん飾られており、さらに喰積の料理はほとんど海産物です。にしんの腹子である数の子は、多産で子孫繁栄を意味し、熨斗飽は長生不死の意味があるそうですが、これらすべては、「海幸」「山幸」に恵まれてい る島国日本濁特の自然風土の反映と考えられます。話はまた屠蘇酒に戻りますが、中村喬教授の『中国の年中行事』によりますと、屠蘇酒の渡来した当初は、中国の処方のまま行なわれていたようです。ただ烏頭は除外されました。と言うのも、烏頭が猛毒で、その処方が困難だったからです。『安斎随筆』に、江戸の天明三年正月、少し医薬の心得のあった加藤佐渡守の料理人が、 古書に従って屠蘇をつくり、同役と飲んだところ、両人とも悶死したとあります。その処方書を見ると、烏頭の名があります。しかし民間ではしだいに変化し、昨今の屠蘇は山淑・桔梗・防風・白朮までは古来のままですが、 これに丁字・陳皮・薗香を加えているそうです。考えて見ると、除外された大黄はお腹をこわしやすいもので、加えられた陳皮や薗香はともに胃腸によい薬草です。こうしたところにも、日本文化はよく外来文化を吸収し、 自国の自然、気候、風習などと合わせて、改造や加工をするといわれる特徴が表われていると言えるでしょう。日本の正月に爆竹は受け入れられませんでしたが、一月十四日の左義長という行事があります。左義長は本来三本の竹または木を結び、三脚にして立てて焼きます。この行事の行われる日と竹の爆発する音などを考えますと、左義長は日本の爆竹行事だと見ることもできるでしょう。どこの国の文化も土着性を無視できませんし、風土的条件によって大きく規定されざるを得ません。中日両国 の正月風習の相違を見る際には、この日本の風土条件を考慮しなければなりません。